13.非時(ときじく)の彼岸、禍火の本宮、初夏の別離
樹乃は犠牲になるために生まれて来たんじゃない。
紫庵はそう言いたかった。
けれど、誰に言えばいいのか。ここにいる誰もが命にかかわる傷を負っていて、誰を責められるのだろう。
命の灯が消えんとする今も、樹乃は微笑みを絶やさない。
紫庵は樹乃の手を握ってその顔を見つめながら、解決のしようもない疑問に煩悶していた。
傍らでは、イザナミ封印の最後の準備のために、眞魚が印を結んで瞑目している。
ウミトは楚良を、久道は琴葉を手当てしていた。
紫庵は樹乃の苦痛を和らげることしかできない。可能な限り止血し、大麻と当帰を磨り潰した粉薬を樹乃に飲ませて安静にさせておくしかなかった。
紫庵の口から我知らず疑問が漏れ出た。
「オクヤマツミは何のためにあったんだ……」
準備が終わったのか、眞魚がゆっくりと眼を開いた。
「紫庵よ、オクヤマツミを作ったのは儂だ。恨んでくれてよい」
紫庵はのろのろと振り返る。
眞魚は半開きの眼のまま話し始めた。
「神代の時代から、イザナミを封印する儀式は繰り返されてきた。緋羽大社での封印はここ千年というところであろうかの……先代の眞魚というお人が天才的な方術士で、今のような仕組みを作った。それまでは音韻の能力のある女性を百年かけて探していたと聞く。だが、そのようなやり方では『火之夜儀』に耐えうる女性が見つけられるとも限らん。それで、今のような形になった」
「……蠱毒を仕掛けたわけか」
「……そうだ。禍火が吹き込む場所を見つけ、落人伝説をもとにして隔絶した里を作り新たな伝説を付け加え……そうやってオクヤマツミを人為的に作った」
「なんだ、やっぱりあんたが元凶なのか」
「そうだ」
紫庵の胸の裡に静かな怒りが湧いてきたが――すぐに止んだ。なぜなのかは、紫庵にはわからなかった。里を皆殺しにした憎い奴なのに。
「儂は数え切れない人間をこの手で殺めてきた。生贄にした神女も数知れぬ。環なぞかわいいものよ。儂の所業には閻魔様も眼をむくであろうな」
眞魚は山頂を振り仰いだ。
「……お前は儂によく似ておる。儂がこうなったのも救いたい人がいたためであったことを久方ぶりに思い出したわ」
紫庵は眞魚の言っていることがよくわからず眉根に皺を寄せた。
「あんた……?」
「それでも、あの神を野放しにするわけにはいかなんだ。人が生きていくために、どうしてもあれを好きにさせるわけにはいかなんだ」
眞魚は唄うように言って、立ちあがった。
「紫庵よ、不運を嘆くな。安寧に生きる者を恨むな。苦しくなったら、儂を責めろ」
樹乃が声を上げた。
「大丈夫です、大僧正……紫庵は必ずやってくれます」
眞魚が相好を崩し、なぜか泣き笑いのような笑顔になった。
「樹乃よ、お前の献身は見事であった。千年を超える化生の生で、樹乃と楚良が最も好ましい神女であったわ」
眞魚が錫杖を打ち鳴らした。
「樹乃……」
紫庵のおずおずとした呼びかけに樹乃は破顔した。
「なんて辛気臭い顔してんの。私は犠牲になりにいくんじゃないよ。私は……紫庵を護るために行くの」
紫庵は拳が白くなるほど握りしめて言葉を振り絞ったが、何も出てこなかった。
「樹乃……!」
錫杖が透明な音を響かせる。
「紫庵、おぬしは鬼に打ち克ち、不死の業を背負った。では、何をなすべきか――それはな、語り部よ」
眞魚が笑顔で言い放ち、すうっと宙に浮いた。
「――全てを見届け、語り継ぐのだ。お前の知ったこと全てをな」
いよいよ笑顔を大きくして、眞魚が曼荼羅に向かって飛んでいく。
眞魚を見送って、樹乃が紫庵の胸元を力なく引いた。
「紫庵、私を……火口へ連れて行って……」
無言で見つめる紫庵に、樹乃は首を振った。
「……みんな、いつか死ぬんだよ。みんな、誰かのために生きて、死んでいくの。だから紫庵、私が最期に見る顔は紫庵がいいな」
にっこりと笑った樹乃に、紫庵は奥歯を噛みしめた。抑えていないと嗚咽がこぼれそうだ。紫庵は息を大きく吸い込み、口角を上げて笑ってみせた。
「……ああ」
紫庵は立ち上がった。
樹乃を背負おうとすると、ウミトが手を貸してくれた。
久道は、樹乃の傷に障らないように、離れないように、紫庵の背中にしっかり固定してくれた。
ふたりとも、黙々と、無言で助けてくれた。
紫庵は振り返って小さな声で言う。
「……ありがと」
ウミトと久道は何も言わなかった。ただ、唇を噛みしめていた。紫庵と樹乃を見つめていた。
紫庵はいつもと違うふたりに少し笑い、それから歩き出した。
ウミトと久道は、ふたりが遠くなるまで硬い表情をして見送ると、ウミトが上ずった声で呟いた。
「……礼を言うのはこっちのほうだぜ」
久道が首を落とすように頷いた。
ごつごつとした岩肌が露出している。轟雷と黄泉津いくさのせいで、御山は荒廃していた。そこここに刀が突き立っている。環が呼び出した刀だ。
樹乃が背中で小さく笑った。
「何だよ……?」
「おんぶしてもらったことなかったなあ、て思って」
「そうだっけ? いや、あるだろそんくらい」
「ないよ。絶対初めて」
細い息で絶え絶えに言う樹乃に、紫庵は楽しそうに応えた。
「しようがないだろ、神女様には近寄れないからな」
「……どうしよ、なんかすごい恥ずかしい」
樹乃の蒼ざめた顔にうっすらと赤みが差す。
火口の上空に曼荼羅を見下ろして眞魚は停止した。飛行術は得意ではない。片腕がないのにも慣れておらず、ともするとふらついてしまう。
眼下にイザナミを見下ろす。イザナミは火口の中ほどで未だ軒昂として暴れていた。
眞魚は小さく重く摩利支天真言を唱え始めた。
応じるように、先ほど散失した青白い禍火が曼荼羅の周辺から集まってくる。
眞魚は印を結びながら、まるで指し示すように禍火を火口に円周状に撃ち込んでいく。見る間に火口を囲んで六本の青白い炎の柱が立ったかと思うと、イザナミを囲んで六角の錘を形作った。
眞魚はそれを確認して頷き、ふと気づいたように自分の腹を撫でて口を尖らせた。
「腑がずいぶんなくなったしもうたわ。老いた身には沿わぬ仕事よの」
そして、気合を乗せてイザナミの身体に新たな一本を打ち込んだ。炎は闇と対消滅を繰り返しながら、その身体にめり込んでいく。
イザナミの一層甲高い叫び声が上がった。
火口に青白い炎の柱が立った。山頂を見上げていると、何か遠い世界の出来事のようで、もしかしたらこれは夢で、朝になって目覚める頃なのかもしれない、と紫庵は思った。そうであったらどんなにいいことだろう。
「ねえ、紫庵……生きててくれて、ありがとうね」
「何言ってんだ、俺の技を以てすればお前……」
思わず軽口で返した紫庵だったが、樹乃の言葉の重さに思い当った。
「……そうか……おまえは知ってたんだものな」
壊滅したオクヤマツミの光景が脳裏によみがえった。
「ごめんね。でも、それは掟で変えられないことだったから……父さんの覚悟まで汚せなかったから……」
「いいんだ。謝る必要なんかない」
「……ごめん。それも言い訳だね。本当は……本当はさ……独りだけ死ぬのがすごく怖かったんだよ。里の皆も死んでくれるなら、それでいいやって。それなら独りじゃないから大丈夫って」
紫庵は黙って聞いていた。
樹乃が誰にも言えなかったもの。
自分が何もできなかったもの。
少女は初めからたった独りで世界を背負わされ、そうでも思わなければ生きていけなかった。
「最低だな、私……皆に恨まれても仕方ないよね……」
紫庵はあくまで明るく返した。最期までほがらかに応えようと思う。
「何言ってんだお前」
「え……?」
「誰もお前を恨んじゃいねえよ」
「……でも」
「お前、俺が何で助かったと思ってんだ?」
「……なんで?」
「芳乃がな、姉様を助けてくださいって言ったんだ。あいつも薄々わかってたんだろな。そんでひと足先にお待ちしております、てさ」
「芳乃……」
背中の樹乃の声が震えた。
「大体みんな、だらしねえんだよ。あの糞坊主に一撃とかさ。何が忍びの心得だよほんと……忍びは力が足りなけりゃ死ぬんだ。しょうがない。それはみんなわかってんだ……樹乃、死ぬのはその人だけのものだよ。お前がみんなに責任を感じるなんて、調子にのんなよ?」
紫庵の空元気の物言いに、樹乃は涙声で笑った。
錫杖を媒介にして、眞魚は最後の一本、青白い巨大な矛を造成していた。矛は他の柱と炎でつながって、歪な天蓋を作り上げている。
眞魚はイザナミの首の根元と思しき位置を狙い定めた。
わずかの間に頬がごっそりとこけて面変わりした眞魚は、こんな時だというのに悪戯っぽく笑った。
「……大したこともないが、儂の命もひとつ、くれてやろう」
言うなり、矛をイザナミに向けて投擲した。矛は、あやまたず首の根元を貫く。
イザナミの哀しそうな断末魔が響いた。
同時に、雷鳴が御玄岳全域に轟く。
青白い炎の六本の柱が直線的に交差して錘になり、ひときわ長い二本の柱が突き出た「檻」の中、イザナミの漆黒の翼が黒い霧に還元された。その身体を構成している闇がゆっくりとほどけていく。「檻」は支えを失ったように ゆっくりと火口の中ほどまで落ち、その中にいるイザナミは、かろうじて鳥の形を保った闇のようなものとなっていた。
眞魚は晴れ晴れとした顔で言った。
「すまんな。後は任せたぞ、紫庵、樹乃」
そして、眼をつぶって、誰にも、自分にさえ聞こえないような声で、
「有里、待たせたな。今、参る――と言っても儂は極楽には行けんだろうがの」
と小さく笑った。
紫庵は火口の縁で立ち止まった。青白い炎の錘が火口の中ほどに見えた。
樹乃を下ろすと、ふらつきながらも紫庵の手を借りずに樹乃はひとりで立った。口からは血が滴り落ち、胸からは血を流し――それでも樹乃は微笑んでいた。横顔が青白い炎に照らされ、荘厳な美しさだった。
樹乃は紫庵の脇をよろめきながら通り過ぎ、ゆっくりと火口の縁に足をかけた。
「樹乃、俺も……」
樹乃は立ち止まって緩慢に向き直る。笑っていた。
「そうでなくっちゃね……そのくらい言わないと」
紫庵はよくわからなくて首を傾げる。
樹乃は眉根に皺を寄せて、おどけた風に言った。
「大事な幼馴染の旅立ちなんだから、そのくらい言わないとね」
「……いや、大事じゃないし」
笑って言いながら、紫庵はとうとうこらえきれず、歔欷の声を漏らした。
樹乃は優しく頷いた。
「……紫庵、お願い。紫庵は生きてね――紫庵が生きて、憶えててくれれば、私も、里の皆も消えないから」
紫庵は手を伸ばした。樹乃に触れたかった。いつも握りたかった、いつも握れなかった手。ふたり、いつまでも握り合っていたかった。
ひんやりとした手が触れた。樹乃の手はもう、命ある者の手ではなかった。
「……そうしたらきっとね、きっと、紫庵も寂しくないよ」
樹乃は微笑んでいた。
何も言えず、泣くことも笑うこともできず、紫庵はただ樹乃の手を握った。
最後に眞魚が打ちこんだ錘に刺さっている柱から、禍火がゆっくりとほどけるように伸び出す。残りの柱からも禍火が追うように、合わさってひとつの線になった。
それはまるで怯えているようにゆらめきながら行先を探し、ついに目指すところを見つけたように、樹乃の背にたどり着いた。
樹乃が青白い炎に包まれる。
同時に、彼女の全身に浮き上がった「やまと文字」が、息づくように光を放った。
音もなく、樹乃の身体が実在を失っていく。
「火之夜儀」を完遂する者には、亡骸も残らない。
樹乃は火口の中を振り返った。
「檻」の中のイザナミが彼女を見つめていた。不思議なことに、その視線には怒りも恐怖もなく、ただ静かな歓びだけが感じられた。
やがて、永い葛藤と逡巡の果てに、樹乃が手を離した。
樹乃は、紫庵にひと際明るく微笑むと、火口に背を向けたまま倒れていった。
「樹乃!」
落ちていく樹乃とあらゆるものがゆるやかに動いていた。
その中で、紫庵を見つめながら樹乃が呟いた。
「紫庵……好きだよ」
樹乃の長い髪が風になびく。いつもまとめている髪が大きく広がった。
身に着けた白い小袖がはためく。彼女の随一の舞を奉納する時のようだ。
懐から瑠璃宝玉が落ちる。青白い光と対照的に、深い未明の空のような蒼さがきらめく。
その身体は、禍火の錘の頂点に溶け込むように消える。
樹乃は――樹乃は、最後まで笑顔だった。
むしろ、紫庵の旅立ちを祝福するように。
すん、と御玄岳が凍ったようだった。
一瞬にして全域が氷点下、いやどれほど下がったのか、残った木々には一面に霜が降り、水は凍りかけ、大気を霧が覆った。
前も見えないような霧の中で、紫庵は寒さも意識せず火口を見つめていた。
霧の中に瑠璃宝玉の蒼が見え、自分でもよくわからないがそれを見届けようと思った。樹乃と自分をつなぐ唯一のものだから。
イザナミの叫び声が遠く聞こえた。
すぐに途切れ、聞こえなくなった。
紫庵はかすかに見える瑠璃宝玉を追い、それは輝きを増して――そして消えた。
☆
まもなく夜になろうとしている。
日没に星影がまばらに浮かんでいた。
一瞬で氷点下まで下がった気温は、訪れた時と同じく急激に元に戻り、今は初夏らしく肌寒いいつもの夕暮れだった。
とぼとぼと、紫庵が山頂から歩いて来る。
「よお」
ぎこちなく紫庵が顔を向けた。眼に力がない。
ウミトが腰に手を当てて立っていた。やはりぎこちなく笑っている。
潔斎堂の中央には久道、楚良そして眞魚が座っていた。琴葉は久道が支えている。
「……ご苦労だった」
眞魚の労いの言葉に、紫庵は頷くでもなく、崩れ落ちるように座り込んだ。
楚良は紫庵を痛ましそうに見ていたが、おもむろに座り直し、眞魚に向かって鋭い声で言った。
「……死を以て、この償いといたすべく……」
最後まで言えなかった。後ろからウミトが頭をぽかっと殴ったのだ。緊張感のない間延びした音。楚良が頭を押さえて振り返る。
「いたっ! な、何を……」
ウミトがしかめ面をしている。
「下らないこと言ってんじゃねーよ」
「し、しかし……」
「そやつの言う通り、下らぬ下らぬ」
眞魚は愉快そうに笑って、顔の前で手を振った。
「それに、まだ終わったわけではないぞ?」
皆、一様に訝しそうに眞魚を見た。
まだ、終わってない?
「封印は不完全じゃ。深度は浅く、力も弱く……まあ、創造神を封じるなど、我が身に余る畏れ多き所業じゃからな。イザナミの伴侶であるイザナギほどの力があればいざ知らず、儂ごときの封印では一年というところであろ」
眞魚が全員の顔を見渡す。
皆一様に顔を曇らせているのに、眞魚だけが悪戯っぽく笑っていた。
「……ならば、一年ごとに封印を行うことはできませんか?」
沈黙を破って、久道が口を開いた。
「お前、そんな……」
ウミトが迷うように言う。楚良が頷いた。
「しかし、それでは、今まで我らがやってきたことと何も変わらぬ」
久道が虚ろな眼をしている琴葉を見やった。
「……楚良殿。琴葉様も貴女も、安寧を求める心に変わりはなかったと私は思う。立場は違っても、民を思う心は同じであったのではないだろうか……私は琴葉様の志を継ぎます。人の世の安寧を、人の力で護ることに、生涯をかけましょう。どうか楚良殿におかれては……」
わずかに琴葉が身じろぎして、久道は言葉を切って琴葉を覗き込んだ。
楚良は少しの間考え込んでいたが、眞魚に顔を向けた。
「オオヤシマは八百万の神々のおわす国……」
眞魚は面白そうに楚良を見つめている。
「八百万の神々より神力を賜り、以て封印の力となす……決して不可能ではないかと思いますが、いかに」
「ふむ……」
眞魚は考え込むふりをした。
「そのためには諸国を廻り、神々にご助力を嘆願せねばならん。生半な覚悟でできるものではない。神々の前ではお前の命など羽毛よりも軽い。いつでも消し飛ぶ脆弱なものであろうよ」
「もとより、一度は捨てた命なれば……」
「しかも、お主も遠からず妖しとなる身。妖しを徒に山河に解き放つわけにはいかんよ」
「心得てございます。ですが、人の世の為、人であるうちは力を尽くしたいと考えます」
ウミトが軽口でも叩くような調子で口をはさんだ。
「そっちは大丈夫だ。俺が一緒に行くからな」
「……ウミト」
「心配すんな。楚良が妖しになる時がきたら、人であるうちに俺が殺してやるから」
「……ありがとう」
眞魚がこらえきれなくなったように、大声で笑い始めた。面白くてたまらない様子だ。
「ふはははっははっ!」
一同はきょとんとしている。
「いやいや、すまんすまん。それがいい。実にいいな。全くもっていい。いずれこの地は、一年に一度、神々が集まる神域になろうて。まこと良い考えじゃ」
眞魚は笑顔のまま、一同を見渡した。
「死を恐れても、死に臆するな。さすれば安寧の未来は必ずや訪れようぞ」
そして、紫庵に向かって片眼をつぶってみせる。
「紫庵よ、後は頼むぞ。儂にかわって全てを語り継いでくれ」
「な、なに?」
「餞別に儂のねぐらをくれてやろう。熊野から西、山々を超えたところに“八葉の峰”がある。高野という場所だ。好きに使え」
「なんで俺が」
「男なら黙って頷かぬか」
言葉と同時に、眞魚の身体がほぐれるように灰になっていく。風に流されてそろそろと崩壊を始めた。
「ま、眞魚殿っ!?」
楚良が驚きの声を上げる。
「あれほどの神を封じたのじゃ。術者とてただではすまぬよ」
眞魚はにやりと笑う。
「世はなべてこともなし、と。さて、地獄めぐりと行こうか。うまくやれよ、皆、紫庵。ははっ。はははははっ!」
心に何もわだかまりのない笑い声だった。聞いていると思わず頬がゆるむような。
眞魚がもう一度皆を見渡し、そして笑い声は唐突に途切れた。
ぽそっという音と共に、後には手ですくえるほどの灰が残るばかりだった。
一同は声もなく――それでもどこか納得したように、ため息をついた。
遠くでざわつきが聞こえた。松明をいくつもかかげた集団がふもとから登ってくるのが、木々の隙間から見える。
先頭が潔斎堂の石庭の入口に現われた。義五郎と久世の家臣たち、そして国部衆と緋羽の配下たちが続く。
久道が琴葉を抱き上げて立ち上がった。
ウミトと楚良も立ち上がる。
まだ座り込んだままの紫庵に、ウミトがおずおずと訊いた。
「……紫庵、これからお前、どうするんだ?」
「……どうするも何も」
「お前さえよければ、その、なんだ、一緒に」
紫庵は手を上げてウミトの言葉を制止した。眼をつぶって樹乃の笑顔を思い浮かべる。
生きて、と言った樹乃の笑顔を。
「……どうするも何も、生きていくだけだ」
「ん?」
「生き残った以上、生きるしかないんだ」
紫庵は拳をぎゅっと握りしめた。
「……そうか。そうだな」
ウミトは振り返った。探しに来た集団の中に緋羽配下たちを認め、楚良を促した。
「行くか」
楚良が軽く頷く。右腕を失い、身体中に傷を負ってもなお、凛として美しい。
「……ああ」
ふたりは歩き始めた。
心なしかウミトが楚良の歩調に合わせるようにゆっくりと、楚良が立っていられなくなればすぐに支えることができるようにわずかに近く――もしウミトの亡くした左腕と楚良の亡くした右腕があれば、手をつないでいるような、わずかに近く。
久道が紫庵に声をかけた。
「紫庵」
「うん?」
「何でもいい、困ったことがあったら遠慮なく久世を訪ねてくれ」
「……ああ」
久道は気遣わしげに紫庵を見ていたが、思い切るように踵を返した。琴葉がわずかに言葉を発した。
「……くど……う……」
久道は驚いて立ち止ったが、相変わらず琴葉の眼に生気はない。しかし、久道は柔和な微笑を浮かべた。
「帰りましょう、琴葉様」
紫庵の胸の裡は千々に乱れたままだった。何の整理もつかず、ゆっくりと独りで考えたかった。
とりあえず、確かなことがひとつだけあった。
――樹乃が落ちていく時に言ってくれた言葉。
自分は答えられなかった。
余りに多くの想いが錯綜して、大事なひと言さえ言えなかった。
言わなければいけない時に、いつも言えない。
紫庵は自分の間の悪さに歯噛みした。
やがてこの場所が、神々が一年に一度集まる神域となれば、もしかしたら樹乃に逢える時が来るかもしれない。もう一度、笑いあう時が来るのかもしれない。
その時、必ず言うのだ。
何年も言えなかった言葉を必ず樹乃に伝えよう。
紫庵は立ち上がった。
御山の稜線が残光の一筋に浮かびあがり、未明の空と微妙に違う瑠璃色に染まっていた。
美しい風景だった。
紫庵は両手を上げて掌を見つめた。全てを失った虚空が右手に、誰でもない自由が左手に、まるで眼に見えるようだった。
紫庵はゆっくりと歩き始めた。その日まで、と思った。
樹乃に逢えるその日まで、自分の想いを伝えられるその日まで、生きていようと思った。




