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11.潔斎堂、樹乃、人の縁という果

 ようやく呼吸が戻ってきた。

 樹乃はそろそろと頭を上げて山頂を見た。

 大神は飛び立とうとして果たせないようだ。何度も羽ばたいてはその度大気を掴めず、いたずらに風を起こしては、苛立たしそうに可聴かちょうおんを超える声でく。

 既に見上げるだけで今の樹乃にはひと苦労だった。荒い息をついて肩を落とすと、その拍子に自分の腕が眼に入る。そこここに火傷をしているようで、黒い傷跡のようなものが自分の手の甲から小袖に包まれている二の腕まで、びっしりと現れていた。右手の甲の黒い筋を震える左手でおっかなびっくり触ってみる。

 痛くなかった。

 ……火傷ではなかった。

 黒い筋をなぞる左手の指先から、まがつがほろりと零れ落ちるように、小さな火を立てながら微細な青白い結晶に変わっていく。

 「これ……?」

 左手で小袖の袖をめくってみた。

 黒い筋ではない。

 ある種の法則性を持った、恐らく文字であろう、腕に文章のようなものが整然と書きつけられたように並んでいた。その一文字一文字がわずかに発光しながら、ゆっくりと脈打っている。動揺を抑えながら、自分の胸元を触ってみると、眼の前に塵のような青白い結晶が舞った。手触りからすると、まだ全身ではないらしいが、いずれそうなるのだろう。


 儀式の中断により、斎宮に渡されるべき禍火が樹乃の中に残ってしまったせいでもあろうか、樹乃は蝕まれていく自らを見続ける、最も残酷な死をたまわったようだった。

 「……私、妖しになるのかな……」

 樹乃の視界から、ゆっくりと色が失われていった。先ほどまでの風景からも色が落ち、比例するように文字の光が強まっていく。かすかに唇を噛んだ。

 「いやだな……こんなの」

 懐から割れた瑠璃の宝玉が落ちた。樹乃は宝玉を力ない眼で見つめていたが、おもむろに唇を引き結び身体を起こそうとして――その力さえもなく再び倒れた。

 それでも、樹乃はもう一度立ち上がろうとする。



     ☆



 眼を覚まして、自分の流した血の多さに少し驚いた。

 血だまりというより、石畳に血の池が出来ていた。失血のために眩暈めまいがする。環の姿は楚良には幻のように見えた。

 「楚良様、琴葉様、ご機嫌麗しゅう」

 「……愚弄ぐろうするか、我らを……」

 環はこともなげに無視し、丸まった琴葉を見やった。

 「琴葉様は、死を直視されたものと見えますね」

 環は困ったように笑った。

 「久世の姫御前の評判は少し割り引いて考えなければならぬほど、勇猛果敢、才色兼備と言い習わされていたのですが、やはり耐えきれないものでしょうね――それでも、喜んでいただけたことでしょう。イザナミノミコトから直接死の快楽を賜るなど、凡百の輩には望むべくもありませんものね」

 「……貴様……」

 楚良は左手で身体を支えて、ようやく座り込む形になった。間断ない刺すような痛みのせいで、ともするとふっと意識を失いかける。

 「……貴様は大神の封印を解いて、何を望む?」

 「何も」

 いらえは簡単だった。

 「斎宮でありながら、まさか大神に何かを望めると思ってるのですか?」

 おかしそうに言い放った環の言葉は、楚良に対して直截ちょくさいな侮辱だった。楚良こそが、大神に求められるものは絶滅のみだと知っているはずだ。

 「私の望みはと言えば、全ての者が死を意識するのが望みです。自分の死が眼前にあれば逃げられないと知ることができますし、それで初めて生きる資格があるというものでしょう? 私のようにね」

 刀をゆっくりと構えながらにっこりと笑った環もまた、死そのものに見えた。

 楚良はようやく絶望した。

 この人間には、なにもない。

 およそ美徳とされるものもなければ、悪徳とされるものもない。ただ、全てが等価であるだけだ。死の前に全てが等価であることを望む無機質な存在だった。環の眼はまるでガラス玉だった。

 「この環、心より感謝いたします。どうか安らかに……」

 琴葉に向かって刀を振り上げた環を、楚良はかすんだ眼で見ていた。なす術もなく気力もなく、ただ弱々しい声を上げることしかできなかった。

 「やめろ……やめろ……」

 刀は鋭く振り下ろされ、楚良には琴葉の首が飛んだ、とほとんど見えていた。


 が、鋭い金属音と共に、ひと振りの刀が環の凶刃を止めた。

 「……ほう、間に合いましたか、これは重畳……」

 環が笑顔のまま刀の主を見やる。

 「わが主に狼藉ろうぜきを働くとは」

 久道だった。

 憎しみを込めた眼で環を睨んでいる。

 久道が刀を振り払うと、何ら抵抗なく環は飛び退った。

 その着地を目がけてウミトの連続の蹴りが見舞う。環は最小限の動きで受け流し、さらに跳ねて距離を取った。

 ウミトは環に眼を配りながら後ずさりして、楚良を一瞥した。眉根に驚きが走る。

 「大丈夫か……楚良」

 「ウミト……」

 ウミトは環を見据えたまま忍び刀を抜いて、久道に囁いた。

 「悪い、頼む」

 「心得た」

 久道はウミトに背を向け、楚良と琴葉の怪我を調べ始めた。

 間髪を入れず、環がウミトに斬りかかった。その速さに合わせるように、刀ではなくウミトは右足の足甲を跳ね上げて受ける。それを支点にして左足を空中で一回転、首を狩る「来迎らいごう」だ。ウミトしかできない八陣衆の奥義。

 しかし、既に環の身体はそこになく、踏み込んだところまで戻っている。

 「あんた、変な術使うらしいな。俺に暗示は効かないぜ?」

 言葉は軽いが、ウミトの眼は据わっている。

 「いえ、使うまでもありません。八陣衆などしょせん紛い物ですから」

 応えた環の言葉にも、好意のかけらもない。


 久道は、琴葉に外傷がなく、血だまりは楚良のものであることを見て取ると、すぐに彼女を抱き起して止血を始めた。自分の着込んでいる白布を切り裂いて右腕を強めに縛る。楚良は痛みに意識がはっきりしたのか、のけぞったまま山頂のイザナミを見て言った。

 「……無駄なことをするな。琴葉殿を連れて逃げろ」

 久道は応えない。代わりに、手は動かしながら琴葉を見やって訊いた。

 「琴葉様は、神に触れたのか」

 「……そうだ。すまぬが、止める間もなかった」

 久道は頷いた。わずかな間に止血は終わっていた。楚良を横たえると、右腕を胸の上に置かせる。

 すぐに琴葉の具合を見ようとしたが、肩に触った途端、激しい痙攣を起こしたのを見て手を引っ込めた。痙攣が収まるまで待って口に白布の一部を噛ませると、久道は立ち上がった。

 山頂には、イザナミが羽ばたきを繰り返している。久道はきつい眼をして、それを睨んだ。


 樹乃は、眼の前のものが信じられなかった。

 結界の中ふたりの女性が眞魚と楚良を襲い、今はさらに三人の男が風を巻いて潔斎堂の石庭に飛び込んできた。ふたりの男は楚良と琴葉の下に向かい、そして最後のひとりは、真っ直ぐに自分のところに駆けてきた。

 「紫庵……」

 「樹乃っ!」

 「……紫庵!」

 大声で呼んだつもりだったが、かすれ声しか出なかった。それでも全身が痛い。

 「どうして……?」

 紫庵が肩に手をかけた。青白い空気が立つ。

 「立てるか?」

 「紫庵……」

 力なく呟く樹乃の姿を見て、紫庵は樹乃を抱き起した。

 「ちょっ、紫庵」

 少し抵抗するが、力が入らない樹乃は諦めて紫庵の肩に身体を預けた。

 「お前、ちょっと見ない間に重……」

 「……こんな時に言う?」

 わずかに紫庵は笑って、潔斎堂に向かって歩き出した。

 樹乃は満足していた。最後の最後で紫庵に逢えることができたから。


 永い永い間、傍らにあった寂しさは消えていた。

 自分は里が消されることを知っていて、誰にも言わないで呑みこんでいた。押し付けられた自分は死ぬのだから、皆が死んでも当然だと、そう思っていた。

 けれど、父が自身の口から洩れないように、自分のせいで選ばれてしまった樹乃が決して不利を被らないように、自らを始末するかのごとく危険な任務に赴いていたと知って、泣いた。

 ――ただひとりで立つのだ。

 甘えるな。立って、進むのだ。自分の道を。

 まだ幼かった樹乃は、そう思った。

 それは正しかったけれども、同時に全てを引き換えにする道でもあった。

 樹乃はひとりで暗闇の中を彷徨さまよう道を選んだのだった。

 決して誰も助けに来てくれない道を。

 「紫庵……」

 「ん……?」

 「……来てくれてありがとう、ね」

 「……ん」



 唐突な呼びかけがふたりの想いを遮った。

 「おお、童ではないか」

 眞魚だった。左腕の傷口を止血するために、布の片方を口で噛んでいるため、くぐもって聞こえた。

 紫庵が立ち止った。

 「ほお……? 鬼を抑え込んでいるか。大したものだ。どれ……」

 眞魚は口から布を放して胡坐になる。

 「ほれ、儂の首はここぞ」

 言いながら、自分の首を右手で叩いた。

 紫庵は静かに思案する気配だったが、おもむろに樹乃をおろして横たえる。

 「紫庵……?」

 紫庵は無表情だった。

 感情がないのではなく、余りに多くの感情が錯綜してどういう顔をしていいかわからないのだろう、樹乃の呼びかけにも反応しなかった。

 紫庵が静かに立ち上がる。

 「どうした? 儂は里の仇なのだろう?」

 挑発するように、眞魚が言った。

 その言葉に弾かれたように、紫庵が跳んだ。転瞬の間に抜いた小太刀を、眞魚の首に向けて突き刺す。恐るべき疾さだったが、次の瞬間、紫庵は吹き飛ばされた。

 「紫庵っ!」

 樹乃が叫ぶ。

 眞魚は首に手をやり、手についた血をしげしげと眺めやった。

 「なるほど……な。よい巡り合せだわ」

 紫庵が呻きながら身体を起こした。

 「見逃した甲斐があった」

 眞魚が立ち上がり、紫庵を見つめる。

 「後を任せられるとなれば、やれることもある」

 「……なんだと?」

 眞魚は応えず、山頂のイザナミを見上げた。紫庵は訳が分からず、なぞるように山頂を見上げた。

 「紫庵……」

 樹乃が紫庵に向かっていざりながら這ってくる。紫庵は膝立ちで進んで樹乃を抱き止めた。

 「……止めなきゃ」

 「何……?」

 「やらなきゃだめなの。誰かがやらなきゃだめなんだよ」

 「樹乃……でも、お前……」

 「私は、私のするべきことを見つけたの。それをするために生きてるの……」



 儀式場は、昼なのに暗かった。

 青白い稲光が時折閃く。

 そこは十丈四方、頂上直下の山肌を削り、石畳が敷き詰められている。

 恣意しい的な雷で潔斎堂は破壊され、篝火櫓は散乱し、えぐられた地面が見え、石畳のそこここで神女たちが事切れて横たわっている。

 久道とウミト、そして環は、ひとつしかない命をやり取りしている。

 楚良は絶望の底で横たわり、琴葉は精神を壊してその眼は何も見ていない。

 樹乃の凛とした表情、紫庵の手を支えにしてひたすらに見つめる樹乃の眼は、清冽だった。

 美しかった。

 ここが自分の還る場所なのだ。



 「――神とは摂理にして秩序」

 眞魚が、手を出して紫庵と樹乃を支えた。

 「人にとっては冷酷であろうとも、世界を構成する重要な柱なのだ。存在すること自体が人を人足らしめる。神は封じられることでしか、人との折り合いをつけられぬもの……はなはだ残念なことだがな」


 「……意外だなあ」

 眞魚が振り向いた。紫庵も遅れて振り向く。

 心玄だった。

 黄泉津いくさのものであろうか、壮絶に返り血を浴びてにこやかに笑っている姿は、何か悪い冗談のようだった。

 「お主……心玄と言ったな」

 「あんたほどの男が、神の在り様などを気にしているとは思わなんだ」

 「長く生きておれば、悟りすら煩悩と思えるほどにな」

 心玄はイザナミを一瞥した。

 「摂理、ねえ。私には神などと大層なものはわからんな。あんなもの、哀れな想念の塊だと思うがね」

 眞魚の眼が細くなる。

 「死だの恐怖だの憎しみだの、人の下らん想念の集まりだ。あれが神だというのなら、神などしょせん人の影に過ぎんというわけだな」

 心玄は、眞魚の責めるような視線を無視して、にこやかに笑ったまま軽く言い切った。

 「私は人だ。人は人のまま、どこまでも高みに行けるはずだ」

 心玄の気が爆発的に膨れ上がった。眞魚に勝るとも劣らない重さだった。

 そしてそれは、眞魚にではなく、明らかに紫庵に向けられていた。

 「そちらのぼうに用があったんだが、どうやら動けぬ様子。されば、実が熟したようで私としては嬉しい限りだが、紫庵」

 心玄がぐるりと向きを変えた。

 紫庵を見据えて刀を構える。

 「鬼に克ったと見える。鬼人などという紛い物ではない、己の中の本物の鬼に」

 「……鬼はあんただろ」

 「言ったろう。私は人のままで人を超えるのだよ。その糧になってもらいたい」

 「あんた、もう人とは言えねえよ」

 心玄は嬉しそうに笑った。

 そして、笑いを収めると、戦いを前にした人間の茫漠とした眼になる。問答無用のようだ。

 勝てるとは思えなかったが、恐怖はなかった。紫庵はゆっくりと立ち上がり、樹乃と眞魚から離れて小太刀を抜いた。

 心玄がうっすらと笑った。

 「天剋流当主、心玄、参る」

 心玄があり得ない距離を一足飛びに詰めた。

 城での眞魚との戦いでさえ、心玄が本気でなかったことを紫庵は知った。恐るべき速さの突きが紫庵の喉元に迫る。


 しかし、不思議なことに紫庵には見えていた。

 心玄が踏み切った足先、身体を空中で限界までたわめ、反動を加えて限界まで身体を伸ばし、一点に全ての力を集約する突きの形。それらが瞬きの間に行われたことも全て見えた。常人であれば認識さえ追いつかないうちに首が飛ぶだろう。

 その致命の一撃を、紫庵は右に首を傾けて皮一枚で避けた。むしろ、見えていたのにわずかの差で避けられた、というべきか。

 心玄の眼が喜悦にうち震える。

 「ふは、ふははははっ! いいぞ紫庵っ! これを避けるとはなっ!」

 心玄は避けられることを予期していた、というより、避けられることを望んでいたのだろう、刀を同じ速さで引き戻すと、刃を寝かせて左から短く薙ぐ。

 紫庵は間合いを見切って、二歩、斜め後ろに下がる。

 心玄がそれを追って、身体を倒して中段を突く。

 初めて紫庵は小太刀で受けた。歯の浮くようなきしる音がする。

 心玄は鍔迫り合いにしないで、刀を押し付けた。

 紫庵は舌打ちをする。

 「おっと、近づくなよ紫庵。お前の足狙いはわかってるよ、忍びは怖いもんだな」

 「その忍びを二人も斬り飛ばしておいて、何言ってやがる!」

 心玄が刀ごと紫庵を押し戻した。りょりょくは圧倒的に心玄が上だ。

 音立てて心玄から闘気が収縮し、硬質な殺気に変わった。八双に構える。

 顔は笑ったまま、むしろ口角が上がって子供のような笑顔になっていた。

 紫庵は油断なく小太刀を斜に構える。こんな恐ろしい子供がいるもんか。

 間をおかず、心玄が斬り込む。

 袈裟懸けに斬り下ろすとみせて、あろうことか、途中で胴薙ぎに変化した。

 紫庵が跳び退ると、さらに突きに変化する。どこまでも刃先が向かってくる、千変万化の殺人剣だ。

 紫庵が小太刀で跳ね上げると、心玄が瞬時に足を入れかえて峰で紫庵の腕を狙う。紫庵は手甲で受けようとして、その余りの速さに横ざまに回転して逃げた。

 心玄は再び八双に構える。

 「……ふふ、惜しいな。腕の一本もらったと思ったんだが」

 紫庵は立ち上がった。

 今までの斬撃は全て見えた。これからは自分が攻撃する番だ。

 「紫庵よ、昏く冷たい想念に触れてなお、人であろうとした者のみが、天に挑めると思え。最も昏い想念と、一途に高みを目指す想念とを併せ持つ者のみが、天を斬れる」

 「やっぱり、あんたもう人じゃねえよ」

 「馬鹿め、それこそが人だ。人にしかできぬことよ」

 心玄が無造作に紫庵に近づいた。

 わかっていたはずなのに紫庵は虚を突かれ、気がつけば一足一刀の間合いだった。

 逃げれば斬られる。

 心玄の速さを超えられるか――逡巡しゅんじゅんしたのはわずかの間だった。

 紫庵は何も考えずに心玄の間合いの奥深くに踏み込んだ。

 その動きに反応、というよりほぼ同調して上半身をずらした心玄が、可能とは思えぬ速さで首元を突いた。

 紫庵は避けること叶わず、かろうじて小太刀を持つ右腕で防御するのみだった。

 肉に刃が潜り込むくぐもった音が聞こえ、紫庵の右手から小太刀が落ちた。

 痛みというより痺れが瞬間的に全身に走る。

 刺された場所は燃えるような熱さに変わり、それに反して腹の底や足先は急に冷たくなったかのようだった。

 刀は止まらず、肉を裂きながら速度を落として首元に届く。

 しかし、紫庵は小太刀を取り落としたのではなかった。

 心玄の刀が自分の首を刺し貫くまでのわずかの数瞬に、小太刀を左手に持ち替えたのだ。

 心玄の狼狽した顔を見ながら、紫庵は歯を食いしばって、刀を心玄の心臓に突きたてた。

 「ぐ……はぁぁぁ」

 紫庵は小太刀から手を離し、左手で右手を押さえると、ひと息に心玄の刀から腕を引き抜いた。言葉にできぬ痛み。

 小太刀を胸から突き出したまま、心玄が二、三歩よろめいた。笑ったまま、自分に言い聞かせるように呟く。

 「……どうした? 私の刀は、まだ、天に、届いておらんぞ!」

 心臓を突かれた人間と思えぬ強靭さを見せ、心玄は刀を大きく振り回した。

 「どうした! 私は、まだ、高みに登っていないぞ!」


 山頂ではイザナミが飛び立つことができずに、苛立ちを募らせていた。八つ当たりのようなものか、黒い神気を先ほどと同様、四方に吐き出している。そのひとつが、再び儀式場に飛んできた。

 最初に気づいたのは眞魚だった。樹乃をかばいながら叫ぶ。

 「いかん、かわせっ!」

 神気は岩を塵に返し草木を枯らしながら、文字通り侵食するように山肌を滑るように進んでくる。

 眞魚も樹乃も動けず、紫庵も予想もしない伏兵に動けない中、よろりと心玄がその前に立ちふさがった。


 髪を振り乱し、血を吐いた心玄には、いつものような悠々たる余裕も消えていた。悪相とも言うべき形相の心玄は荒い息をつき、響き渡るほどの大音声で叫んだ。

 「神、風情ふぜいが、邪魔をするなぁっ!」

 言うなり、裂帛の気合を乗せて刀を振るった。

 黒い洪水のような神気が、真っ二つに斬り裂かれる。

 続けざまに心玄は刀を振り回した。

 神気にまかれて黒い塊のようになりながら、刀を縦横に、あるいは斬り上げあるいは横薙ぎにしていく。黒い神気は心玄の刀に合わせるようにして次々にふたつに割れ、刻まれた神気の破片はちりぢりに霧散する。瞬く間に黒い神気が消えていく。

 その中で心玄は、胸に刀を刺されたまま、一切の無駄を省いた動きで刀を振っていた。

 直面ひためんの能役者のごとき美しさ、煩雑はんざつな感情を排し、純粋に、細心に、ただ「天に克つ」という意志そのものになって、舞っていた。

 紫庵は息をするのも忘れ、眼を見開いて見つめていた。


 やがて、全てを斬り裂くと、心玄は刀を地面に突きたてた。

 「……ここで終わりか。無念だな」

 心玄が大儀そうに紫庵を振り返った。ややあって微笑むように口元が動いたが、看取る間もなく、その身体は白骨化して、風にほろほろと崩れ散った。

 「心玄……」

 そこには、心玄の刀だけが残っていた。

 青白い光を照り返して煌めくそれは、何かの結晶のように見えた。


 ――天剋流は、天を剋するために刀をふる馬鹿どものことだ。戦を行とし、殺生を功徳とし、死を超えて悟りを得る。


 常なる悟りを得て「別の生き物」になることを拒み、心玄が人のまま人を超える一生を追い求めた結果、残ったもの。

 紫庵はそれに供する言葉を持っていなかった。



 眞魚がゆっくりと歩いてきた。紫庵の横に立つ。

 「あの神気を浴びてなお、形を失わぬとは、の。余りに歪んだ魂なれど、あの男は、確かに、神の域に達していたのやもしれんな……」

 眞魚は山頂を振り仰いだ。イザナミが羽ばたいている音が聞こえる。

 紫庵も見上げた。

 「……あれを……止められるのか……?」

 「わからんよ。だが、こうべを上げて進む者にしか、この先は訪れぬ」

 眞魚の言葉の澄んだ響きが、紫庵の錯綜とした胸の中を奔った。かくのごとき声だった。

 紫庵は俯いて、もう一度顔を上げ――それから、心玄の刀に歩み寄って、勢いよくそれを抜いた。











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