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10.御玄岳、ヒラニア=ガルバ、かくも短き生

 青白い炎となったまがつを全て放出し切って、六人目の神女が倒れた。確かめなくてもその姿を見れば事切れていることがわかる。

 彼女から命ごと放出された炎は中空に巻き上がり、もはや炎の天蓋はなく、樹乃との頭上に天をくほど巨大なひとつの炎があるのみだ。

 樹乃も終わりが近かった。

 圧力と痛みはとうに耐えられる限界を超えて、全身が今にもぜそうに思えた。自分が立っているのかも真言を唱えているのかさえもわからず――次が自分の番だということに、樹乃はむしろ安堵さえ覚えていた。



     ☆



 紫庵と思しき姿の鬼が、甲高い叫びと共にウミトと久道に向かっていく。

 重力を無視し時に異常な速度で四足で疾走する鬼を捕えるのは至難の業だった。

 さすがと言うべきか、鬼人との戦いを知るウミトと久道は致命傷を避けていたが、両者共既にぼろぼろだ。

 「あああああぁぁぁァァァッッ!」

 雄叫びとも悲鳴ともつかぬ声を上げ、紫庵は右に身体を躱したウミトの首を掴んだ。反射的に刀を振り出すウミトの腕より早く、その身体を投げ飛ばす。ウミトは回転して受け身を取ろうとしたが、勢いを殺しきれず膝をついた。

 追う紫庵に後ろから久道が斬りつける。

 が、紫庵は久道の刀を握る手を横ざまに蹴りつけ、体勢を崩した久道を逆から殴りつける。久道はかろうじて避けたが拳が右の肩をかすめた。

 「ぐっ!」

 「おらあっ!」

 今度はウミトが連続して蹴りを放った。

 後ろ腰、脇腹、回りながら鳩尾みぞおち、正中、急所を捕えた見事な連続技に紫庵が吹き飛ぶ。久道とウミトの息の合った連係技だった。


 戦いの場所は、鬼門を突き破って正殿の裏手に出てきていた。

 門が落ちた後、久世の兵と緋羽大社は、今は回廊のふもと辺りで競っていた。すぐ近くで戦場の声が聞こえるが、裏手側には兵たちは来ない。互いに力押しをしている最中で回り込む余裕がないのだろう。

 「ほう。紫庵は鬼になったか」

 心玄だ。

 八陣衆のカタリと刀合わせをしながら、この男は周囲を調べる余裕もあるようだ。カタリが剣技で劣っているというのではなく、どうやら心玄が例の呼吸を読むさばきでうまく躱しながら、戦場を横切っていたようだった。

 「一歩前進だが、残念だな。その先は断崖だ。惜しい」

 「! どこを、見ている!」

 業を煮やしたか、カタリが気合を乗せて刀を突き出したが、心玄はまたもやひと呼吸先に避けている。そのままのらりくらりと避けるのかと思いきや、心玄は心底哀しそうに刀を返して、逆袈裟に斬り上げた。カタリの両手が手首のところから飛ぶ。

 「意思なき力はさもしいな……」

 そして同情に満ち溢れた眼でカタリを一瞬見つめると、そのまま袈裟懸けに斬り落とした。

 「きさっ……」

 言葉を全て言い終えないうちに、カタリはほとんど身ふたつになって地面に落ちた。

 カタリの眼は憤怒に見開かれていたが、それは負けることにではなく、同情で見られたことに対するものだったろう。


 心玄は刀を持ったまま合掌する。

 「鬼人というのは大した力だが、しょせんは紛い物」

 つまらなそうに呟いて、心玄はその感情ごと払い捨てるように刀を振った。

 「こんなもんじゃあ届かんよ……あの坊主か、それとも神か。あちらに上がるしかないか」

 心玄は口を尖らして、胎蔵界曼荼羅が光っている御玄みぐろだけの頂上を見上げた。



     ☆



 緋羽大社のふもとには、武装した国部衆が集まっていた。

 老頭目の沈痛な説明は、しばしば促さねば止まりかねないものだったが、国部衆が向かうのは緋羽大社でも久世でもなく、環という女を目指しているということだけは確かだった。

 義五郎は叱責を受ける覚悟で国部衆と久世の兵をまとめて、緋羽大社に急行したのだった。

 義五郎の号令を受けて、兵たちはしゃにむに緋羽大社の石段を駆け上がった。

 この半年、環のことになると、いつも頭に忍び込んでいたような霧が一気に晴れて、義五郎にとって、今や環こそが久世の敵という認識にたどり着いていた。


 久世が緋羽大社への噛ませ犬だとすれば、多くの不可解なことが氷解する。

 突如始まった隣国の侵攻、天剋流ら傭兵集団の流入。急速な治安の悪化。

 琴葉は一気の解決を望んだ。治国には粘り強さが必要なことを知っていたのに。

 そして、大神を使役するという身の丈を知らない久世の思い込み。

 何も不思議なことなどなく、当然そうあるべきだと思っていた――義五郎は歯噛みした。

 老頭目の言うには、天眼てんげん天耳てんにとは、言葉を使わずとも頭の中に直接考えを植え付けることができる外法げほうだ、と。

 それら全てが緋羽大社の大神封印を妨げるものだったとしたら。

 久世の利益であるはずがない。

 環にとって、久世などどうでもいいのだ。

 単に緋羽大社が位置する領国の大名だから使ったに過ぎない。大事なのは、大神の封印を解くことなのだろう。こんなところで戦うべきではない双方が戦っていていいはずがない。


 正門を通り過ぎて楼門まで一気に辿りつくと、義五郎は戦場の大音量を圧する声で腹の底から叫んだ。

 「戦をやめろ!」

 しかし、その叫び声に応える者はいなかった。

 双方ともに甚大な被害を出して頭に血が上っている。むしろ援軍が来たと理解したらしく、久世の兵たちの意気が揚がり、楼門の守護兵たちを一気に押し上げた。

 「やめろといってるんだ! 聞け!」

 義五郎は当たるを幸い、手近な兵の頭を殴りつけ始めた。

 「戦をやめろ! 戦うな! 我らは騙されているのだ!」



     ☆



 御玄岳の火口を中心にして、黒々とした雲が渦巻いていた。時折雲の切れ間から稲光が閃く。

 「」の終盤に差し掛かってから、眞魚は錫杖を地面に強く突き続けていた。鈍い音と金属のすれ合う音が交互に響く。

 足元の石畳がひび割れるほど、眞魚は力を込めて打ち続ける。錫杖を握った手には血がにじんでいた。

 ひときわ大きく打ちつけると錫杖が石畳に刺さった。そのまま眞魚は自由になった両手で正確な印を結び始める。

 定印じょういんからてん根本印こんぽんいん外獅子印げじしいん外縛印げばくいん、そして分類されない印を両手で形作っていった。眞魚にしかわからないが、全て神仏の加護を受けた、外敵を打ち滅ぼす印で構成されている。徐々に速度を上げながら、続けざまに五回ほど繰り返すと、発光する曼荼羅が降下を速める。

 眞魚のすぐそばに、大音響と共に雷が落ちた。潔斎堂にも山腹の木々にも立て続けに落ちる。焦げ臭いような刺激臭が立ち込めた。雷が落ちた眞魚のそばの地面は黒く焦げ、見えるほどに陥没しているのがその威力を物語っている。

 「暴れるでない……」

 眞魚は真言を唱えるのをやめて呟いた。

 見上げると、火口の上空ではなく、火口からも黒い雲のような塊が徐々にみ出ているのが見えた。

 眞魚の最後の仕上げにかかる。眼が吊り上って、凄愴せいそうの気がみなぎった。歯を食いしばり、祝詞でも真言でもなく、呪言じゅげんを唱え始めた。

 「地の底深く、黄泉の深淵へ還れ」

 最後の印である触地印しょくちいんを結ぼうとした刹那。

 眞魚の口から呪言ではなく、血がほとばしり出た。

 「ぐっ……」

 眞魚の左胸から、白刃が突き出ていた。

 その刃には忌み言葉がびっしりと彫り込まれている。

 「おいとまを乞いなさい、大僧正」

 環は嫣然と微笑んで、刀を返した。


 樹乃は最期の時を迎えていた。

 しかし、突然全ての圧力が消えて、ほとんど爪先立ちをしていた樹乃は倒れ伏した。

 「なに……?」

 全身がおこりにかかったように痙攣していた。ほとんど眼も見えない。痛みのせいでまだ生きていることはわかったが、再びあの痛みをやり直すかと思うと、倦怠感だけが覆った。

 「眞魚殿っ!?」

 楚良の叫び声が遠くに聞こえる。

 「大人しくしていただこう、楚良殿」

 気後れしたような小さな声がそれに応える。

 見ると、素っ気ない帷子かたびらのせいで却って気品が感じられる女性が、楚良に刀を突きつけていた。

 「琴葉殿……愚かな……」

 楚良が柳眉りゅうびを逆立てる。


 眞魚は胸を押さえながら、怒りの形相で振り返った。

 「お主……」

 環は変わらず微笑みながら、切っ先を眞魚に向けた。それに応えるように眞魚が刀を握ると、手からは白い蒸気が漏れ出た。

 眞魚は顔をしかめる。

 「呪禁じゅごんか……我が身に返るのも承知か」

 「もちろんです。人はしょせんに過ぎません。私も、あなたも」

 環はあくまで明るく、美しかった。

 「誰もができそこないです。であれば、正道など望むべくもない。むしろ、異端とされる左道さどうこそが、人が辿るべき道だとは思いませんか?」

 涼しげにそう言った環の口元はしかし、こらえきれない悦びにわずかに吊り上がり――青白い光の中でその姿は例えようもなく凄惨な、何かうそ寒い生き物に見えた。

 眞魚は眉根に皺を寄せて瞑目し、膝をついた。

 それに応じるように、潔斎堂の頭上の青白い巨大な火柱が吹き上がったかと思うと、散り散りに黒雲に巻きついた。火口を周回する渦を加速して曼荼羅を覆い隠さんばかりになる。

 そして、天と地の隙間をふさぐように、火口から雷の塊がひり出され、大音響と共に四方に禍々しい枝を伸ばした。


 稲光が周天に走った瞬間、その枝のひとつが紫庵を直撃した。

 地面に叩きつけられた紫庵は跳ね上がり、五体を硬直させたまま突っ伏した。

 攻撃を仕掛けていたウミトと久道が思わず止まる。

 「紫庵!?」


 山頂からの雷の凄まじさに、緋羽大社も久世の兵も、国部衆も全てが手を止めて見上げた。一様に驚愕、困惑、恐怖をにじませて口々に囁く。

 「……まさか大神が?」

 ただひとり、回廊を上っていた心玄だけが、舌なめずりしそうなほど嬉しそうな顔で呟いた。

 「ははっ、これは凄まじい」



     ☆



 「それ」は、まるで産みの苦しみを感じさせるような蠕動ぜんどうに押されながら、火口からせり上がってきた。

 「それ」がわずかに身動きするたびに、雷が応じて炸裂する。

 それほど長くもない時間だったはずだが、琴葉は身動きもできず、痴呆のように見入っていた。あまりに大きく、説明の要さえない「神」の顕現けんげんだった。


 火口からほとんど出てきた「それ」は、「卵」の形をしていた。

 闇がこごった「卵」だった。

 琴葉の内心の奥深くで、誰かが不快な金切り声を上げていた。

 「これが……大神」



 ――卵から、原初げんしょの神はかえる。

 全てを含む閉じた球の中で、彼女は揺蕩たゆたいながら夢を見ている。

 全き静止の時間と、完全な熱量死の空間の夢を。

 彼女はだから、生まれ出でた瞬間に物理と比較の概念から逃れられない、言わば不完全な存在となる。欠けているものを補おうとする。

 それゆえに、世界は確実な順を追って、時間と空間の最後の地平まで駒を進めることになる。

 すなわち――神は夢を見るべきもの。

 その顕現はいずれどこかでの人の滅びを約束するのみ。



 琴葉は頭を強く振って、環に声をかけた。大神を制御するのは環と決まっていたのだ。

 「環っ!」

 環は立ち尽くしたまま琴葉の呼びかけに応えず、見たこともない幸せそうな笑顔で「卵」を見つめていた。

 「環っ! 環っ!?」


 眞魚は血相を変えて呼びかける琴葉を見やって、環を睨みつけた。

 「呼んでおるぞ」

 「捨ておきなさい。大神を制御しようなどと、不相応な振る舞いに及んだ者です」

 「ずいぶんと勝手な口をきく」

 環は聞いてないようだった。

 「闇の卵」が全容を見せた火口に向かって両手を広げた。


 「遥かな神代かみよの時代、天御柱あめのみはしら

 こつこつと音が聞こえて卵にひびが入る。

 「北辰ほくしんを巡りて、オオヤシマの全てを産み落とし」

 乾いた音が次々に響く。

 「劫火に焼かれ、呪いを抱いて」

 見る間にひび割れは卵全体に広がる。

 「黄泉へと堕ちた原初の大神……」

 破裂するような音と共に卵が割れた。

 一瞬、空全体に闇が広がり、すぐに収縮して形をとった。

 漆黒の翼を二度はためかせ、黒い羽が舞う。


 ――――それは、鳳凰ほうおうだった。

 首と三本の足には鎌首をもたげる八匹の蛇がうごめく、およそ祝福とは縁遠い瑞鳥ずいちょうの姿をしていた。

 「ご照覧あれ。あれなるがイザナミノミコトです」



 眞魚は環を見据えながら静かに言葉を継いだ。

 「あれを解き放つということは、現世と黄泉を繋ぐということだ。この世に生きるものであれば考えもせぬが、いかに」

 「左道こそが人の生きる道、と申したではありませんか。現世と黄泉の両方で生きられる者こそが生きる価値のある身。安寧を求める惰弱だじゃくねばいいのですよ」

 にっと笑った環の口元に、牙とも言うべき異様に長い犬歯が見えた。

 「貴様……妖しならばここの結界には入れぬはず」

 「いえ、人間ですよ……ただ少しだけ、人でも妖しでもないでしょう。ものごころついた時から、暗部どもにいじられた身ですから」

 「……つち御門みかどわれた覗き屋のすえか。暗部は六十年も前に滅したと思っておったがの」

 「いつの世にも毒虫は湧くものでしょう? 大神が欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて欲しくてしようがないんですよ、人というものは」

 環は嘲笑混じりに琴葉を見やった。

 「……なるほど。儂としたことが見落としておったわ」

 「ふふ、御懸念には及びません。暗部どもは全て始末しておきましたから」

 環は眞魚に笑顔を振り向けると、もう一度刀を振って眞魚の左腕を斬り落とした。



     ☆



 イザナミに取りつく八匹の蛇は、黄泉の雷をその身にまとう八種の雷神の化身である。それらが身震いすると、緋羽大社全域に次々と巨大な雷が落ちた。それに応じるように、火口から闇色をした霧が溢れだしてくる。

 折しも戦は一時休戦の様相を呈していた。

 義五郎たちの制止が効いたのもあるが、何より山頂の異常な様子が、緋羽大社側と久世側の戦意をいちじるしくいでいたのだ。

 双方が傷ついた兵たちを後方へ下げようとしていた矢先、何本もの柱が並び立つように巨大な雷が落ちた。木々だけでなく、建物でも平地でもおかまいなし、ひとつひとつが地面をえぐるほどの恐るべき破壊力だった。

 兵たちが次々に吹き飛ぶ。

 先ほどまでの勇ましい戦場の叫び声は悲鳴に変わった。が、悲鳴は連なる雷の音でかき消され、さらに轟音を切り裂くような幾つもの悲鳴が上がり、そして唐突に途中で止まる。声を上げる人間がいなくなったせいだ。

 もはや戦場とも言えぬ、禍々しい意志が見出した屠殺とさつに過ぎなかった。


 義五郎たち国部衆は、傷ついた兵を回収にかかった。

 緋羽大社の領内にいる限り、雷を避ける術はないように思えたのだ。

 義五郎は声を励ましながら国部衆に指示を投げ、久世と緋羽大社の区別なく、まだ動ける兵は誘導し、動けない兵を担ぎ上げた。

 眼の前の戦場を片付けて、傷ついた兵をふたり両肩に担ぎながら、義五郎は山頂を見上げた。鳥の形をした黒い闇が、人の耳には届かない叫び声を上げてのたうっているのが見えた。

 義五郎は我知らず心細くなったが、自身に鞭打つようにそれを睨みつけた。

 「必ずや琴葉様が成敗してくれよう。大神ごときにおめおめ負ける久世ではないわ!」

 それが負け惜しみだと知ってもなお、挑むように言い放つ。



     ☆



 潔斎堂の石庭にも雷は降り注いでいた。

 そのひとつが楚良の近くに落ちて、琴葉もろともに吹き飛ばされる。全身の力を使い果たしている楚良は、荒い息をつきながらぐったりと起き上がれぬままだが、琴葉はすぐに起き上がって辺りを見回した。

 山頂では雷の柱が林立していた。続けざまに耳をろうする落雷の音が御玄岳全域に轟く。

 緋羽大社だけではない、久世の城や町にまで巨大な雷は思う様に枝を伸ばし、大地ごと焦がす領域を急速に広げていた。

 「ばかな……環っ! 環っ!」

 恐るべき事態の進行に、ほとんど琴葉は取り乱していた。

 「全てが終わるか……」

 琴葉が振り向くと、楚良が上半身を起こして山頂を見上げていた。

 「何を……大神を制御せねばならん! さあ、うやってみせよ!」

 楚良があわれみをたたえた眼で静かに琴葉を見つめた。

 「……比良ひらさかの深奥、黄泉の国に封じられた大神が目覚めたのだ。大いなる死が振りかれるだろう」

 「神……神だと? これが、これが、神だと……?」

 「神が人を助けたことなど、今まであったか?」

 静かだが、怒りとそれに数倍する哀しみがめられた言葉に、琴葉は気圧された。

 「神が今までそなたの人生を助けたことがあったか?」

 「それは……」

 「……あら御魂みたまこそが神の本質――神とは摂理よ。生も邪もない、人にとって冷徹な摂理に過ぎぬ」

 「口上はもうよい! あれを、あれを何とかせねば……」

 琴葉は駄々をこねるように言い募ったが、楚良は静かに言い継いだ。

 「……しかし、摂理のない世界は成り立たぬ――あれは死。人が、命が、逃れようのない、絶対の摂理の姿だ。我らなどその前ではちりあくたも同然」


 楚良の顔には深い疲れがにじんでいた。

 ――あの日から、誰かと話すことを諦めて、誰かと笑いあうことを諦めて、誰かを愛しく想うことを諦めて、誰かに抱かれることを諦めて、全てを諦めて遮断してつぶして。

 我が身を犠牲にすることを決意して、年端もいかない多くの少女を巻き込むことを決意して、湧き上がる昏い感情を全て火口に投げ込んできて。

 そうして、たったひとつのことに賭けてきたけれど、届かなかった。

 ――――人は一体、何のために生きるのだろうか?

 楚良は肩を落とし、力なくかすれた声で呟いた。

 「……そう、塵芥も同然だね、ウミト」


 琴葉は魅入られていた。

 イザナミの黒い身体、その中に無数の星が光っているのに見入っていたのだ。

 広大な虚数宇宙を内包し、そこに在るのに実体はなく、にもかかわらず「意思」を持ち、およそ想像できる範囲の生き物ではない、確かに神としか言いようのないものだった。

 その身体に内蔵する深淵の果てしない深さは、琴葉をして畏怖いふせしめるに十分な昏さを持っていた。

 と、イザナミが「火之夜儀」の儀式場を見定めたのか、頭部と思しき部分がめくれあがりながら陥没するように無機質な眼を形造った。ぎょろりと琴葉を見つめて、その虹彩がきゅうっと引き絞られる。

 琴葉の全身が総毛だった。

 「いやぁぁぁっっっアアアァァァっっっっっ!」

 琴葉がたまる絶叫を上げた。全身を痙攣させたように卒倒する。

 イザナミが小さく羽根を打ち振うと、身体から発せられている黒い神気が一直線に琴葉に飛んでくる。

 楚良は痛みをこらえて立ち上がり、琴葉をかばうようにその前に膝立ちになった。

 「くっ」

 口の中で祝詞を唱えてかざした右手で神気を防ぐ。

 だがもはや、防ぐ力は楚良に残っていなかった。一瞬だけ神気を止めたように見えたが、すぐに右手は火傷のようにただれ、肉が落ちる。楚良は歯を食いしばり、神気を量りながらゆっくりと左手で懐剣を取り出し、右ひじの内側に当てた。

 「律っ!」

 掛け声と共に右腕を斬り落とした。軽い破裂音と共に右腕と神気とが中和される。

 楚良は荒い息をつきながら琴葉を見やった。

 琴葉は眼を見開いたまま、言葉にならない何かを呟きながら、身体を抱えて丸まっている。

 ほっとした自分に、こんな時だというのに楚良は苦笑した。

 なぜ助けたのかもわからなかった。

 斎宮とは因果なものだ。それとも、自分が因果な生き物なのか。

 楚良の足元には血だまりができていた。

 まだ終わるわけにはいかない。まだ何かできるはず。まだ役割が残っている。そう自分に言い聞かせながら、止血のために水干の袖を裂いたが、そこまでだった。

 楚良はほとんど意識を失い、ゆらりと崩れ落ちた。



     ☆



 ウミトと久道、紫庵の戦場もひどい有様だった。

 雷はすこし間遠になったが、その傷跡はあまりに大きかった。戦で死ななかった兵たちが、雷で黒焦げになってそこここで死んでいる。

 国部衆が傷ついた兵を抱え、呆然としている兵を促して、山を下りようとしているのを見つけ、吹き飛ばされた久道も立ち上がった。今のうちに逃げられる奴は逃がさなければならない。

 ウミトがそれに続く。打ち合わせたわけでもないが一時休戦だ。

 「なんだ、ありゃあ……?」

 「ん?」

 ウミトが山頂を見上げて訝しげな声を上げた。久道も立ち止り見上げる。

 山頂の火口から黒い霧が溢れ、山肌に沿って降り始めていた。

 「あれは……?」

 先ほどまで霧だったものが次第に人の形を取った。軍の形もなさず、思い思いに突出した勢いを以て降りてくるそれは、正確には人でなかった。

 「あれは鬼だ」

 ウミトが眼を細めて見て取った。

 確かに鬼の軍勢、武装した餓鬼の集団だった――であれば、楚良は儀式に失敗したのだろう。ふたりの生きる理由で、死ぬ理由だった儀式が。


 ウミトと久道は知らないが、「いくさ」と呼ばれる雷神の最も卑しい眷属けんぞくとされ、生者と死者を諸共に狩りだす先鋒だ。鈍色にびいろの額当てが稲光を反射して、常世の軍勢はいっそ怖ろしく見えた。


 「ふむ。容易ならざる敵というわけだ」

 最先端が急坂を飛ぶように降りてきて、緋羽の八陣衆配下、ある者は空中に巻き上げられ、ある者は地面に叩きつけられた。後に続く黄泉津いくさどもは、逃げ遅れた者達の首筋に次々に喰らいついた。

 山田久道は踵を返し、山の登り口に向かう。ウミトも続いた。ふたりとも、どこか散歩に向かうような軽い足取りだ。

 ただ、散歩と違うのは、ふたり共に闘気が噴き上がっているところだった。

 久道が口を開いた。

 「時にウミト殿。卒爾そつじながらお願いしたい儀があるのだが」

 「奇遇だな山田久道。俺からも頼みたいことがある」

 「私の攻撃によって、ウミト殿もずいぶんと傷んでいることだろうが」

 「ふん。それは俺の言いたいことだが」

 「いや、やはりここは私の言うことだと思う」

 「……で? 言ってくれ」

 「まあ、言うほどのことではないのだが」

 ウミトはくっくと首を振って笑った。この男には珍しく屈託のない笑いだった。

 「続きは面倒が終わったあとでどうだ?」

 「有り難い」

 「まあ、生き延びられるほど元気でもないがな」

 久道も笑った。

 約束は違えないのが久道の信条だ。“野火”は燃えるところを選ぶ。今がその時だ。


 黄泉津いくさが殺到してきた。

 ふたりはすでに構えに入っている。

 ウミトは餓鬼どもを弛緩して見つめながら、儀式が失敗したことを知った時に浮かんだ感情を思った。悔恨を味わうつもりだったが、不思議なことに、浮かんできたのは初めての感情だった。

 自由。

 儀式が失敗したのなら、もう何も自分たちを縛るものはない。それを確かなものにするために、自分は生き延びて楚良に会わねばならない。救わねばならない。

 そして、我らふたりは、大神によって終わりが決まった世だとしても、最後の時までもう一度最初からやり直せるはずだ。



     ☆



 暗い。

 空に六角形はない。

 ひたすら塗りつぶしたような闇の中に、経典かそれとも祝詞を読み上げるような声が低く響いている。

 紫庵はその中に没し、声を聞いていた。

 眠り込みそうに穏やかな心持だった。どこからが闇で、どこからが自分だったのか、既に紫庵には判然としなかった。涅槃ねはん、という言葉が脈絡もなく浮かぶ。


 ――このまま沈んでしまおうか。

 切れ切れに憶えている。

 樹乃に辿り着けず、眞魚より劣る八陣衆にさえ届かず、大神出現を契機にした雷に打たれて、自分は退場したのだ。

 ――もう、いいのかもしれない。

 紫庵は敗北感に打ちのめされたまま、ぼんやりと見上げていて、ふと気づいた。

 未明の空のように、空全体にわずかな光が差していた。同時に、意味をなさない声がゆるりと言葉になっていく。

 「数多あまたの意思ある者たちが産む意思の塊、想念の塊。

 神を思う故に神は在る。

 虚空に全ての原質は偏在し、混沌は万物を生成する。

 故に空は空たり得ず、無は無足り得ず。

 無量大数と涅槃ねはん寂静じゃくじょうの無限分割時空平面に森羅万象は生成せいせい流転るてんする」


 紫庵は変わらない声の正しさに眼をつぶった。だが、先ほどのように逆上することはない。

 自分達が驚くほど小さいものだとはわかった。

 それらは何の意味もないように密集し離散し、そして消えていく。

 自分もそのひとつにすぎない。

 「有と無は相互補完する二律背反なる平衡へいこう事象じしょう

 故に神は在って無き者。

 無き故にある者。

 無いが故に想い、思うが故にある者。

 故に、神に意思はなく、ただ理があるのみ」


 ――であれば、俺が存在する意味は何か。

 樹乃が存在する意味は何か。

 調和に至らずに跳ね回るこの生きもの、自分達が存在することに、一体何の意味があるのか。

 それは一体何に連絡するのか。

 紫庵は眼を開けた。

 答えてもらわなければならない問いがあった。

 「……なら、人はなんだ……」

 闇は言いよどむかのように、少し間を空けた。

 「人とは意思を持つ者。神を産み、神に従う者。

 神を産んだ者たちに従う者。

 以て、円環をつなぐ者」


 紫庵の脳裏に鮮やかに樹乃の笑顔がよぎった。

 生きる意味くらい自分で決める、とすいが教えてくれた。

 樹乃は、生きる意味を教えてもらった、と奥歯を噛みしめながら言った。

 自分を最期まで支えるたったひとつのこと、誰かに教えてもらうことではないそれさえ、樹乃の小さな手の中にはない……せめて、せめて生きる意味くらい自分で決めさせてやる。

 我知らず頷いて闇から立ち上がると、今度は身体が「あった」。


 ――――この身は「空たり得ない混沌」だ。

 相反する事象をふたつながら抱え、生きる身だ。

 それには、真理にさえ手を出させない。

 決してだ。



     ☆



 ウミトと久道の連携が完璧だったおかげで、降りてきた黄泉津いくさが正門側に抜け出ることはなかった。

 回廊があるこちら側に降りた数もずいぶんと減ったが、依然、多勢に無勢だ。

 傷ついた兵全てを逃がすまで、と決めたものの、ふたりの体力が間もなく消耗し尽くしてしまうのは目に見えていた。

 一匹、はぐれた黄泉津いくさが突っ伏している紫庵に近づくのを、久道が目ざとく見つけた。

 「紫庵!?」

 久道は同時に何匹も相手していて、紫庵に気を配る余裕はなかった。場所も遠い。牽制さえできそうになかった。

 ウミトが久道の声に応じて、眼の前の黄泉津いくさを押し返して紫庵へ走ったが、間に合いそうにない。

 黄泉津いくさが卑しい笑いを浮かべて、無抵抗な紫庵に牙を突き立てようとする。


 だが、勢いよく起き上がった紫庵の後頭部が、喰らいつこうとした黄泉津いくさの顎を強烈に跳ね上げた。甲高い叫び声が上がる。

 紫庵は眼の前の餓鬼を朦朧もうろうと見つめていたが、口を大きく開けたままの餓鬼の頭を力強く掴み、正面から頭突きを喰らわせた。もう一度。さらにもう一度。

 そして黄泉津いくさの甲高い悲鳴をかき消す大きな雄叫びを上げた。

 「がああぁぁっっ!」

 餓鬼がもんどりうって仰のけに動きを止める。

 紫庵は額から大量に血を流しながら、大きく息を吐いた。皮袋が破裂したような奇妙な音がする。

 久道は失笑した。

 「紫庵!!」

 「小僧!」

 ウミトと久道の呼びかけに、長い前髪を両手でかきあげ、血を拭いながら紫庵が振り向いた。

 瞳孔の中心に真紅が収まり薄く青みがかった虹彩、腹が据わったような落ち着きのある表情、変わらず猛々しいが、それまでの紫庵とは明らかに違っていた。

 紫庵が軽く手を挙げた。どういうわけか、正気に戻っているようだ。

 ウミトが手を貸して紫庵を立たせる。嬉しそうに笑った。

 「ははっ、戻りやがったかよ」



 義五郎が、一度下山した久世の兵と国部衆の使い手たちから無事な者を率いて、黄泉津いくさを叩き潰しながら再び登ってきた。

 「久道殿、ここは我らが!」

 義五郎が久道の前を遮って、常世の軍勢と対峙する。次々に国部衆と久世の兵が人垣を作った。

 「義五郎殿!」

 「久道殿、琴葉様をお願い申す! この度の迷走は全て環が元凶! あの女を退治てくだされ! 鬼どもを退治てくだされ!」

 剣戟けんげきの音を響かせながら、義五郎が声を励まして久道に言った。

 「……承知。義五郎殿、御無事で」



 紫庵は山頂を見上げていた。稲妻の光にイザナミの黒い影が閃いている。

 「上に、行くのかよ?」

 ウミトの声に、紫庵はゆっくりと不思議そうに振り返った。

 「助けに行くんだ。そのために来たんだから」

 「命はないぜ?」

 久道が戦いを義五郎たちに任せて下がってきた。

 紫庵はウミトと久道を交互に見て、にやっと笑った。

 「樹乃を助けに行くんだ。そのために来たんだからな」

 久道が片眉を上げて笑う。

 「なるほど? 惚れた女を助けにいくというわけだ。それならば致し方ない」

 そう言って久道は紫庵の横に立った。

 ウミトは呆れたように首を振る。

 「……回りくどいなお前ら。こんなになってから女を取りに行くのか。もっと早くにやれただろ?」

 「じゃああんたはやったのか?」

 紫庵が怪訝けげんそうに問うた。

 ウミトは自分の存在しない左腕に一瞬視線を走らせて、肩をすくめた。

 「……なんだ、失敗したんじゃないか」

 「簡単にはできぬものです」

 紫庵と久道はにべもない。

 「ふん。今度はうまくやるぜ」

 「俺は一度でたくさんだ」

 「私も一度で」

 三人は顔を見合わせて不敵に笑い、紫庵がすっと歩き出した。











蛇足です。

御存じの方も多いでしょうが、「ヒラニア=ガルバ」てのは「黄金の卵」という意味です。

インド神話で梵天は卵から生まれるんですが、それを「ヒラニア=ガルバ」と呼びます。

あちらさんでは卵のイメージは結構あって、正殿のコアゾーンを「ガルバ=グラハ」、直訳で「卵の部屋」……まあ「卵を安置する場所」て意味合いでしょうか。

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