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1.オクヤマツミ、禍火の磐座、初夏の別離

挿絵(By みてみん)

画:伊藤浦乃 Urano Itoh

 ブナが生い茂る原生林に、葉を通したの光が辺りを柔らかく満たしていた。

 林床には笹原が一面に続いている。

 明け方に降った走り雨のせいで笹はまだ水滴を残して、林の中は光の加減で水蒸気がかすかに見えるようだった。どこかから静謐せいひつに遠慮したようなオオルリの鳴き声が聞こえてくる。


 人の手が入った様子はほとんどなかった。

 オクヤマツミの禁忌の森。

 入山を禁止されているのではない。ただ、入れば相応の報いが待っている森。

 その中に、獣道ではない、明らかに整えられた道がひと筋だけ通っていた。重たげな足跡が幾分ぬかるんだ道の真ん中に見える。足跡はひときわ高い丘の上に磐座いわくら、さらに奥にある洞窟に消えていた。

 生命に満ちた初夏の森にはふさわしくない、そこだけ黒々とした空気を漂わせている。入口には手製の杭が打たれ、判然としないが恐らく「まがつの宮」と墨書きされているのだろう。

 そこを訪れることができるのはたったひとりしかいない。すなわち「大社おおやしろの神女」、当代はの、いわば日課だ。


 年の頃は十四、五というところか、背中まで垂らした長い髪を無造作に束ね、白小袖に黒い袴をはいた少女――引き結んだ色の薄い唇、尖ったおとがい、まだ産毛うぶげの残る頬、切れ長の眼――少女から脱皮するこの年頃特有の雰囲気、危うく、ようようこの世界にとどまっているような可憐な彼女は、およそ似つかわしくない厳しい表情をしたまま、片膝を立てて印を結んでいた。すでに長い時間そうしていたらしく、額には汗が光っている。

 「ノウマク・サンマンダ・バサラタン・センダマカロシャタ・ソワタラヤ……」

 樹乃の眼の前の壁にはの中に六芒星の文様もんようを刻んだ祭壇があり、六つの頂点には今、炎が灯っていた――赤くない、青黒い炎。

 うずうずと燃え盛り、縮み、伸び上り、わななき、風も吹いていないのに不安定に動き続ける様は、見る者をして背筋を寒くさせる不吉な予感に満ち溢れていた。

 と、完了を意味するように無声の気合を樹乃が放った途端、炎は爆発したかのように噴き上がり、渦を巻きながら一瞬中空に止まると、樹乃の胸にゆっくりと吸い込まれた。

 彼女は荒い息を吐きながら、ゆっくりと目線を落とした。印をほどく。

 両膝を落として、丁寧に祭壇に一礼すると、樹乃は立ち上がった。

 傍らの石積みに途中の清流で拾った石を載せる。

 「……これで、ひゃくとせ

 一日にひとつ、四季が巡れば繰り上がってひとつ、そうして百に至る最後のひとつ。


 樹乃は祭壇の上、吹き抜けた頂上に見える小さな青空を見つめた。

 細く穿うがたれた縦穴は人の世のけがれを収めるためのこれ以上もなく浅ましい智慧ちえだったが、それでも樹乃は彼方に見える青空を美しいと思う。

 最期の時まで、それはきっと変わらない。



     ☆



 木々の間を少年がふたり、ましらのように枝を飛び移っていく。

 鳥が威嚇いかくするように時折シュッと歯の間から擦過さっか音を出す以外は、飛び移るこずえおとさえわずかにざわめくのみで、まだ幼さを残す彼らの恐るべき修練がうかがえる。今はどうやら逃げ手と追手に別れて、追跡戦を行っているらしい。


 ――オクヤマツミは忍びの里だ。

 やがて一人前と認められれば、里を出て戦国の大名に情報収集・攪乱かくらんの消耗品として雇われる身であるゆえに、彼らは徹底して生き残る術を叩きこまれる。それはむしろ武芸から生じるものではなく、不断の緊張と第六感の域に達する注意深さを必要とする。

 一切の存在の痕跡を残さず、いかに退路を確保するか。何を犠牲にすれば逃げられるか。生き残らなければ情報をもたらすこともできず、里の名を汚すことになる。全ての韜晦とうかいの手段を講じてなお戦わなければならない時にだけ、暗闇の中で彼らの戦闘は行われる。

 だが、少年たちにはまだ闇にひそむという意味がわかっていないようだった。鍛えた戦術を試したくて仕方がないのだろう。飛び回っている彼らには、真剣に悪ふざけをしている無邪気さが見て取れた。誰にでもそういう時期はある。


 あんは枝を渡りながら無言で愉快そうに笑った。背後につかれた瞬間に浮ついた視線を感じたからだ。どうもぜんは勝ちを意識するのが早すぎる。

 その前太が紫庵に空中で一気に距離を詰め組みつこうとした瞬間、紫庵は太い枝を支点にして軽々と一回転、枝を蹴って前太の背後を取った。自分より少し長身の前太を羽交い絞めにしてそのまま自由落下。

 「うわ!?」

 勝ちを確信した瞬間に身体を入れかえられた前太が慌てる。

 紫庵には落ちる場所を探す余裕まであった。地面に激突する手前で拘束をほどくと、前太は器用に両腕で前回りに受け身を取った。

 が、若干頭を打ったらしく、ぼす、と鈍い音がして、勢いのまま腐葉土ふようどが派手に舞った。

 「てて……」

 前太が頭を撫でながら上半身を起こす。

 少し離れた場所に降り立った紫庵が笑って立ち上がると、師匠の声が響いた。

 「そこまで! 紫庵の勝ちだ」

 参加していなかった少年たちが笑いながら出てくる。

 紫庵は大人たちに交じっても遜色そんしょくないどころか指折りの使い手だったから、もう少しまで追いつめた前太に賞賛は集まった。と言っても、頭を叩く荒っぽいやり方だったが。

 「いてぇよ、おまえら!」

 前太が憤然として立ち上がる。

 「わるいな、前太」

 紫庵は長めの後ろ髪をまとめ直しながら、からかうような笑いを浮かべた。

 太くはないが色濃い眉と黒目勝ちな瞳、鼻筋も通っていて、美形と言って差し支えない容貌だったが、どこか線の細さを感じさせる。

 紫庵とは対照的に丸顔の前太が、仏頂面で近づいてくる。

 「紫庵さあ、後ろについたの、なんでわかったん?」

 「だっておまえ、得意になるんだもの。鬼ごっこじゃないんだからさ」

 「……そっかあ。修行が足らんなあ」

 眉を八の字にした前太の大仰おおぎょうなため息に少年たちが一斉に笑う。

 前太は人気者だ。皆の期待通りにおどけることができる。面倒見もいい。実は人見知りの紫庵にとっては、別して信頼できる同輩だった。

 師匠が後ろから景気よく手を叩いた。

 「よし、今日はここまで。今日は祭りだから早じまい!」

 少年たちはにこやかな師匠を振り返り、ついで歓声を挙げながら、思い思いに里に走り出す。


 両側を峻嶮しゅんけんな山に挟まれ、オクヤマツミの里はほとんど外界と接していない。人里と言える集落までは十里ほど離れ、街道も東に山ふたつ越えたなだらかな峠が主だったから、ほとんど人が訪れない、いわゆる隠れ里だった。ここを訪れるのは忍びの雇い主だけだ。

 しかし、隠れ里にも祭りはある。奇妙なことに収穫祭はなく、オクヤマツミでは一風変わった田植え祭りが通常だった。

 当年で五歳になる男女に白装束を着せて、かき終わった広めの棚田に放ち、四方から泥の玉をぶつける。もちろん本気でやるわけではないが、子供たちは泣きながら水田を逃げ回りどの子も例外なく泥だらけになる。

 確か陰陽五行の相生そうじょう相剋そうこくのっとって豊穣ほうじょうを祈る儀式だと聞いたが――同時に適性を見る儀式でもあった。立ち向かう子供だけが忍びの道に進むことになる。


 紫庵は神社に続く道の途中、玉当ての儀式の歓声から少し離れて、松の木に寄りかかっていた。

 修練の後に川で水浴みをしたから今は短い小袖姿、脇開けして両腕を動かしやすくしてあるが、一応礼装だ。まだ濡れている前髪をかきあげて水田を見遥かすと、わずかの間に逃げている子供たちはずいぶん減っている。

 紫庵は思い出して苦笑した。

 自分はその年、よくわからないままに全力で逃げ回っていたのだが、立ちすくんでいる樹乃をなけなしの勇気を振り絞ってかばったばかりに、忍びに振り分けられた。向いてないのに、と子供心に不満を抱いたものだったが、結果今の紫庵はおとこに混ざって忍び働きができるほどに優秀だ。

 してみると、あの儀式もそうそう的外れではないのかもしれない。


 やくたいもないもの思いは前太の大声でかき消された。

 「紫庵っ! なに辛気臭い顔してんだっ!」

 「してねえよ別に」

 紫庵は軽くいなす。

 「そっか、いい男ぶってただけか」

 「……しめるぞ」

 「まあな、お前の気持ちわかるよお~。連れ添った恋人が去ってっちゃうんだもんなあ」

 「誰が恋人だ、誰が」

 前太と少年たちが一斉に訳知り顔で冷やかすように笑う。

 「お前ら……」

 軽く拳を振り上げた時、しょうの音が響いた。神楽かぐらが始まる合図だった。

 オクヤマツミでは、神事は少女たちによって執り行われることになっていて、少年たちの最大の関心事になる。

 いつもは視線を合わせられない彼女たちを、正面から見ることができるめったにない機会だから当然のこと、前太たちは紫庵をからかうのをやめ、いつも以上の身ごなしで境内けいだいに滑り込む。

 紫庵は呆れ顔で一歩遅れてついていった。

 まったく、修練の時もあれだけ真剣なら。


 神楽の舞台では既に演目が始まっていた。

 ばかま千早ちはやを着けた四人の少女が国譲りの神事を舞っていた。

 まだ前座だったが、忍びの里らしくどの少女も身体が整ってるから身ごなしが綺麗だ。里の者にはわからないが、前座でさえそのまま都で通用するほどの技量を持っている。境内には、ほうっ、と驚きの混じった歓声が上がった。次いで元気づけるような拍手。

 紫庵は前太たちと別れて、舞台の前ではなく全体で観られる後ろに止まっていた。腕を組む。

 踊る四人の中に樹乃の妹、よしがいた。さすがに樹乃の妹だけあって踊りは別して上等だ。太鼓の音に合わせて鋭角に身体の向きを逆に切り替えながら、あくまで袴はふわりと動く。

 一瞬だけ芳乃が紫庵を認めて止まった。

 紫庵がいぶかしく思うほどに強く印象的な視線だった。

 しかしそのまま何事もなかったように演舞は続けられる。四人の少女の誰が自分に手を振った振らないでもめている前太たちの言い争いを聞き流しながら、紫庵は既視感に眉をひそめた。前に一度だけこんなことがあった気がする。

 ――なんだったろう?


 香気を残して退場した少女たちを見送り、境内のざわめきが静まった。

 奉納の儀式の本番だ。楽器の数が段違いに増える。

 演目はイザナギとイザナミの国生みの神事だ。

 樹乃はひとりで舞う。

 音が鳴る前、誰も意識していない瞬間に、白い表衣ひょういの神女装束を着けた樹乃が文字通り舞台に滑り出た。一拍後れて認めた観客が息を飲む間も与えず、音が洪水のように鳴り響き始める。

 明らかに毎年の舞と違っていた。

 激しく、そしてどこか昏い。


 紫庵は目を見張って樹乃の一挙手一投足に見入っていた。少女がこれほどまでの舞の名手だとは知らなかったのだ。

 両手には薄く青を引いた扇子を持ち、かなめには樹乃の好きなやまぶきの花を器用に挟んでいる。ひたいあても髪飾りもない、簡素と言えるほどの出で立ちに、やまぶきの黄色が鮮やかだった。

 二拍子、三拍子、わずかの間を取って再び二拍子。

 神女舞いどころか、見たことのある舞いではなかったが、激しい動きを絶えず繰り出しながらなお、それは舞いとして美しく調和のとれたものだった。樹乃は何かを押さえつけるように強く舞台を踏みしめ、何かを引きちぎるように舞台全域を動き回った。

 終盤、樹乃は疲れた様子もないまま唐突に神女舞いの流れに戻り、ゆっくり、静かに舞台に着地した。

 音が消える。

 観客から一斉に拍手が沸き起こった。「いいものをみせてもらった」というような意味の言葉が口々に言い交わされている。

 紫庵も思わず拍手していた。

 いつもの一心に舞う樹乃ではなかったが、わずかに生じた違和感をかき消すほど、少女の舞いは驚きと美しさに満ちていた。



     ☆



 境内から参道までのあちこちで篝火がたかれ、その下で人々が集まって酒盛りが開かれている。

 実際の話、神楽を見たい大人は多くなく酒盛りが目的だろうと紫庵は思っている。

 一年に一度だけのことだから仕様がないのだろうが――しかし、統領やクナイ打ちの名手までもが、石段からずり落ちるほど酔い潰れているのを見るにつけ、さすがにそれはないだろう、と紫庵は思う。


 紫庵は境内にある樫の枝の又に座り込んでいた。

 酒は嫌いだ。体質は飲み比べで負けたことがないほど強いのだが、そのせいで挑戦してくる奴が多くて面倒だし、飲み続けていれば酔わないまでも体捌きが意志と微妙な“ずれ”を起こす。それが嫌だった。

 「なんて顔してんのよ」

 振り返らなくても樹乃だとわかった。樹乃は舞いの鍛錬のおかげで、木に登るくらいならろくに力も入れずにやってのける。紫庵よりもうまいかもしれない。

 「……別に」

 「なあに、私が行っちゃうのがそんなに淋しいわけ?」

 「ゼンゼンチガイマス」

 「わっかりやすいなあ」

 笑いを含んだ樹乃に棒返事をして紫庵はそっぽを向いた。

 狼狽うろたえていたのだ。樹乃から話しかけてくることなど、最近ではなかった。

 樹乃は神女装束のまま反動をつけて器用に紫庵の隣に座る。

 樹の上から見ると、月明かりに熊野の山々の稜線が浮かび上がっていた。

 ほのかに笑ってそれを眺めている樹乃を、紫庵は気付かれないように、さも関心がなさそうに、細心の注意を払って盗み見た。


 二年前に奉納神楽をひとりで舞った樹乃を見て、紫庵は諦めた。

 以来、注意深く彼女に関わらないようにしてきた。オクヤマツミの神女と契ることはできない。もし禁を犯せば、双方の一族に累が及ぶ。それほどに別扱いだ。

 「出雲かあ……どんなところかな」

 「……いいところなんじゃないのか? 神々のおわす社なんだろ?」

 「いいところだといいねえ」

 樹乃はわだかまりのない笑顔を紫庵に向ける。

 紫庵は肩をすくめた。

 「オオヤシマに八柱の神女あり、百の陽月が巡る時、出雲は緋羽ひばの大社おおやしろに馳せ参じるべし」

 「……どのくらいで帰ってくるんだ?」

 「まあ、半年もあれば、かな?」

 「……神女も大変だな」

 「そりゃあそうよ。だって、オオヤシマ広しと言えども大社に呼ばれる神女なんて八人しかいないんだから。もうなんて言うの、選ばれし者て感じ?」

 「はいはい。頑張ってくれ選ばれし者」

 樹乃は紫庵の軽口を遮るように笑顔で両手を出した。

 「で、餞別せんべつは?」

 「……はい?」

 「ちょっとお……もしもーし。まさか忘れてないよね? 大事にしていた幼馴染の旅立ちに花を添える、て約束したじゃない!」

 「大事にしてないけど」

 「ヒドイ! あなたもうおしまいだわ。神罰で亡びろ」

 「私怨かよ」

 紫庵はたもとからたまを取り出して樹乃の両手に放った。里の西際、磨崖まがいぶつほらまで出かけて取ってきたものだ。

 樹乃は予測していたように受け取る。

 「へえ、もうあの崖登れるようになったんだ紫庵は。すごいね」

 「もう簡単に」

 「簡単? なにそれ。じゃあ、もうちょっと難しいの取ってきなさいよ」

 樹乃は嬉しそうに笑った。

 瑠璃の装飾は、垂直に切り立った崖を三十丈ほども登ったところにある磨崖仏の山門にはめこまれている。大人でも気安く取りに行けるものではない。

 樹乃は口の中で祝詞のりとを唱えると懐にしまった。

 一瞬だけ、胸元の葉脈のような仄白さが闇に浮かび上がる。紫庵はハッとして眼をそらした。

 「ありがとう」

 「……」

 「ありがとうね、紫庵」

 「……どういたしまして」

 樹乃は身軽に立ち上がった。紫庵の手を取るなり、樹から飛び降りた。

 「うおっちょっとおまえ」

 紫庵は空中で身をひねり、樹乃を抱きかかえて着地した。非難するように樹乃を見ると、樹乃は悪戯っぽく笑っている。

 「……おまえ、もしかしておも……」

 「それ以上言ったら死んじゃうよ?」

 樹乃が笑いを貼りつかせたまま右手で拳を握っている。

 紫庵はため息をついて樹乃を下ろした。

 「さ、行こう」

 「あ?」

 「最後なんだから」

 「え?」

 樹乃は紫庵の手を引っ張って踊りの輪に飛び込んだ。境内ではほろ酔いのおんなが踊りの輪を作っている。男どもはその外側でへべれけになって千鳥足を踏んでいるのみだ。

 そのまま踊り始めた樹乃は、見よう見まねで手振りをするしかめ面の紫庵をおかしそうに笑った。

 ――祭りの夜は、誰にもひとしなみにささやかな興奮と楽しみを与えてくれる。そこだけ見れば何の蹉跌さてつもない、山あいの集落の一風景に過ぎない。

 うっすら肌寒い初夏の夜の風は、誰にもひとしなみに明日を約束してくれるように穏やかだった。


 朝まだき、オクヤマツミの西のくにざかい、紫庵が登った崖を仰ぎ見ながら、七人しちにんぼこらの手前で樹乃はふと立ち止まった。

 振り返ると遥けき下方に薄く霞がかった里が一望できる。

 「行ってきま……」

 言いかけて、氷塊を飲み込んだように樹乃は息をついた。胸に手を当てて瑠璃の在処ありかを確かめるように目をつぶった。深呼吸する。

 「……さよなら」

 樹乃は顔を上げてそう呟くと、今度は振り返る意志を拭い去ったように山道を辿り始めた。



     ☆



 「行かれるのですか」

 「……ふふん、ただの暇つぶしよ。オクヤマツミでは神女も出立しゅったつした頃」

 祭壇に向かったまま背中越しに問うたのは、神女装束の少女だった。

 緋羽ひばの大社おおやしろのたった一人の神女、斎宮さいぐうだ。

 当年で十八になる。

 玲瓏れいろうとした声に相応ふさわしく、透き通るような白い肌と肩口で切りそろえた髪、細くたおやかなおもしとあいって、さながら名匠が精魂込めた人形のような美しさだった――が、文字通りたまに傷と言うべきか、右の首筋から水干すいかんに隠れて見えない肩口まで、刀傷らしきれが見える。


 軽く錫杖しゃくじょうを鳴らして応えたのは、墨染めの衣に身を包んだ僧形の大男だ。というこの男は、楚良がものごころついた頃から緋羽大社の特権的な参議さんぎだった。

 常に露悪が過ぎるが、その超常の力ゆえに緋羽大社が保たれてきたことを楚良は知っている。信頼はできないが、斎宮として統制しなければならない奇妙な位置の人物だ。

 べにを引いているようにも見えないが、眞魚の唇は赤い。楚良がはすに振り返ったのを認めて、その唇が開いた。

 「生きとし生けるものの全ての命は幻なり。蜉蝣かげろうのごとく、ただ影のみか」

 「……お戯れを」

 「全てこれ暇つぶし。おっとこれは失礼」

 うつろな笑い声をあげると、眞魚は非礼を詫びるように顔の前で手を振った。

 「互いに、もっめいすべしというわけだ。ではな」

 眞魚は錫杖をもう一度軽く振って透明な音を鳴らした。見る間もなく眞魚の姿は消える。

 楚良は眉ひとつ動かすこともなく、青黒い炎が沸き立つ祭壇に向き直り、中断した祝詞を唱え始めた。



     ☆



 ――なんでもないことだ。

 言い聞かせたところで、そうではない、と身のうちで囁き返す声が聞こえるだけだったが、あんはそれにふたをした。

 どのみち、と自分は離れるしかない。子供の頃に戻ったような昨日のふざけ合いが別れの代わりで、長い付き合いだからそれくらいは分かる。樹乃は行ってしまったのだ。


 紫庵はいつにも増して修練に気を入れていた。歩けないほど鍛えれば自分の能力の限界もわかるし、それを超えられれば力が上がる。

 そうやって湧き上がる想いを何度も紫庵は力づくで打ち消してきたのだ。結果として自分の能力を上げることになったのは、少し皮肉なことだと思う。

 ほとんど忘我の域に達した樹渡りはしかし、細い声で中断された。あやうく枝をつかみそこないそうになる。紫庵は二本の枝の間にぶら下がって声の主を探した。いつの間にか夕暮れになっている。

 「紫庵様……」

 樹の上を見上げているのは小袖姿の芳乃だった。

 気づかなかった。たとえ消耗していても気配を感じられないのは失格だ。

 紫庵は芳乃に見えないように眉をしかめて、それから身軽に地面に降りたった。

 「どうした……?」

 芳乃はしばらく待っていたらしく、地面にはいたずら書きがある。

 「紫庵様……」

 芳乃は樹乃と対照的に内気だ。不思議に踊りは開放的なのだが、芳乃が自分から口を利ける少年はかろうじて紫庵だけだろう。その紫庵にさえ口ごもることが多く、今も両手をもみ絞るようにして言葉を探している。

 紫庵は元気づけるつもりで芳乃の頭を乱暴に撫でて、笑いを作った。

 「まあ、里もしばらくは静かになるな。姉様がいない間に軽く踊りで抜いてやればいいだろ?」

 芳乃はうつむいたまま無言だった。

 そこで初めて紫庵は異常に気づいた。芳乃は小刻みに震えて泣いていた。

 「……? 芳乃?」

 芳乃が顔を上げた。

 虹彩が焦点を絞り上げていた。凄愴せいそうの気を満たしたまま、一言一言区切るように言った。

 「紫庵さま……姉様は戻りません……オオヤシマの神女が緋羽大社に行くということは、すなわち……すなわち神にささげられる供犠くぎを意味します」

 紫庵はその言葉の意味するところを理解しながら、つかめなかった。

 惑乱わくらんがそのまま言葉になった。

 「……半年で戻る、と樹乃は言った……」

 芳乃はいやいやをするようにゆるやかに首を振った。

 「……ほかに、どう言えましょう……。姉様は笑っていました。人の世の苦しみを背負う責を負ったからには最後まで全うする、と……笑って……紫庵さま、姉様をどうか……」

 紫庵は考えるより早く走り出した。もう追いつけることもないと内心ではわかっていたが、一気に全身を満たした焦燥感で走り出さずにはいられなかった。

 「樹乃……!」


 芳乃は遠ざかる紫庵の背中を身じろぎもせずに見送り、しばらくそのまま身を固くして紫庵の消えた方角を見つめていた。

 やがて、忘れていた呼吸を取り戻すように大きく息をついて、おもむろにぬかづいた。

 先ほどとはうってかわって、芳乃は満足げに呟いた。

 「姉様、許されぬことと承知しております。せめて紫庵さまだけでも……おふたりにさきみたまのご加護があらんことを。芳乃はひと足先にお待ちしております。どうか、心安んじくださいますよう」



     ☆



 山犬がかまびすしい。怯えたような遠吠えがそこここで上がっている。

 ――疲れ切った身体に鞭打って、山ひとつ越える頃には既に日没だった。明け方に出立した樹乃にそもそも追いつけるわけがないことに、暗くなるまで気づかなかった。

 樹乃の痕跡はほとんど残っていなかった。

 当然だ。樹乃も忍びの里の出なのだ。

 紫庵は歯噛みしたが、夜の山の危険を考えて引き返してきたのだった。



 ほとんど這いずるようにして、オクヤマツミへの最後の峠を越えると、あかあかとオクヤマツミが燃え上がっていた。

 紫庵は眼を見開いた。

 髪が逆立つのがわかる。

 恐怖に似た感情が全身をはしった。

 紫庵ははやる心のままに、疲れも忘れて山道を全速で駆け下っていた。塗り潰したような闇の中を突っ切って、つんのめるように紫庵は里に飛び込んだ。


 見渡す限りの家がごうごうと燃えていた。

 動く者はいない。

 紫庵は衝撃に立ちすくんだ。炎が頬に熱い。

 「なに……なんだ……これ」

 通りには人が倒れ伏していた。紫庵は頭を振って、近くの人間を抱き起した。

 「しっかりし……」

 声をかける間もなくわかった。首があらぬ方向に曲がっている。

 驚いた表情のまま絶命しているのは忍びの統領だった。付近には手練れと評判の高いおとこも横たわり、ぴくりとも動かない。

 刀や矢ではない。棒で力任せに打ちすえられたか、それとも槍か。

 いずれにしても一撃。

 ――おかしい。オクヤマツミの人間を一撃で?

 紫庵は惑乱したまま、助けを求めるように顔を上げた。

 少し先に見覚えのある服がふたつ見えた。

 駆け寄る。

 前太が眼を見開いて死んでいた。芳乃をかばうように、芳乃ごと貫かれて。

 「前太……芳乃……」

 通りには累々と亡骸なきがらが続いていた。老若男女の別なく、文字通り皆殺しだった。

 「ん? まだ残りがおったか?」

 野太い声が響いた。

 放心していた紫庵の身体が勝手に反応して、声のした方向に向かって短寸のどうぬきを抜いて身構える。

 僧形の男が、右手に錫杖を持ち、左手に少年の頭を掴んで引きずっていた。

 「てめえ……」

 男は愉快そうに鼻を鳴らし、左手につかんだ少年を離す。どさりと落ちたそれは、紫庵の従弟だった。


 紫庵の視界が一瞬にして赤黒く染まった。

 喉が狭まって高い声が挙がる。

 自分が声を出したことも意識しないまま、紫庵は姿勢を低くして一足飛びに男の間合いに飛び込んだ。

 「やれやれ……」

 男が無造作に錫杖を地面に立てた。足を狩りにいった胴太貫が軽く弾かれる。身厚の刃が食い込みもしないことに、紫庵はわずかに動揺した。

 それを知ってか知らずか、たたらを踏んだ紫庵の頭を男は強引に掴んだ。勢いのまま後方に叩きつける。

 「がはっ!」

 紫庵はもがいたが、男の手は緩まない。二度三度、軽々と地面に叩きつけられた。

 朦朧もうろうとする紫庵の刀を握りしめた手に一撃。

 命綱の刀がこぼれ落ちる。

 丁寧に獲物を無力化する男だ。

 「てめえぇぇぇぇ……」

 紫庵は指の隙間から男を睨みつける。

 ほう、と気がついたように片眉を挙げた男は、動きを止めて紫庵を見つめた。

 「てめえは、何者だ」

 紫庵は両手で指を外そうとしながら問うた。指は万力まんりきのようにびくともしない。

 「よくもまあ、そんな口がきけるものだ」

 むしろあきれたようにこたえたが、男は紫庵の赤黒く染まった眼を覗き込んだ。

 「ふうむ」

 「何でこんなことしやがるっ! 答えろ!」

 「刈り取りに過ぎん――威勢だけはいいな、童」

 「んだと……」

 「鬼に堕ちかけてる割にはまだ意志があるかよ。拾いものかもしれぬな」

 「殺す。てめえだけは必ず殺す」

 不意に男が手を離した。

 拘束を失って紫庵は地面に落ちる。

 すぐさま体勢を入れかえて水平蹴りに移行したところで、錫杖の痛烈な一撃を鳩尾みぞおちに喰らって吹き飛ばされた。紫庵は痛みのあまりのたうちまわる。

 「なかなか面白い」

 殺し合いをしている状況には似つかわしくない、思慮深い声で男が言った。

 「してみると、人が生きるにはやはり穢れを貯めるが重要ということか」

 紫庵は咳き込みながら、胸を押さえて立ち上がる。

 男は顔を上げて向き直った。

 「童、お前はどう思う。人は皆いつか死ぬ。天寿を全うした年寄りも、死産となった赤子も、行きつくところに変わりはない。早いか遅いかの違いだ」

 「……殺す」

 紫庵の視界はいよいよ赤黒く染まっていた。

 見えるのはたったひとり、次元の違う強さを持った僧形の男のみ。

 紫庵は風を巻いて躍りかかった。

 が、渾身の蹴りも男の右手になんなく掴まれ、逆さ吊りにされる。

 「死を理解せねば生きることに意味はない。にもかかわらず、我が身が死ぬことを理解するだけで、人はたやすく死ぬ。死ぬよりもゆっくりとけがれるほうがよいか」

 「……てめえ、必ず殺す」

 肩をすくめた男は、軽く腕をひと振りして紫庵を投げ飛ばした。

 紫庵は前太の亡骸に落ちそうになって咄嗟とっさに身体をひねった。右足首から落ちて紫庵は激痛に顔をしかめる。

 「ぐっ……」

 「わが名は

 男は紫庵の様子を意に介さず、唐突に名乗った。

 紫庵は歯を食いしばって睨みつけた。

 「儂を殺したければ緋羽大社へ来い。手が空いていれば相手してやる」

 眞魚は紫庵を見下ろしながら、笑っているともとれる口調で言った。

 「よくよく考えてこい。お前の生きている意味をな」

 ゆっくりと眞魚はきびすを返し、火が燃え盛っている中へ消えて行った。

 紫庵は眼を見開いて動くこともできず、それから糸が切れたように突っ伏した。

 空からは涙雨というには少し強すぎる雨が降り始めていた。



     ☆



 樹乃は山中のいおりに雨を避けて夜明かししていた。

 眠れないままに、熾火おきびの前で樹乃は瑠璃を見つめていたが、ふと清澄な音と共にそれが割れた。

 身体を硬くする樹乃。

 「そっか……そうだよね」

 樹乃はゆっくりと瑠璃を握りしめ、

 「紫庵……芳乃……」

と、力なく呟いた。

 それほど遠くない先、重責と恐らくは苦痛を越えて再び会えるはずだ。その時に詫びよう。樹乃は目をつぶって自分に言い聞かせた。

 「かわいそうだね……本当にかわいそうだね……」

 諦めた者だけが持つ沈んだ声音こわねが、静寂に溶けていく。



     ☆



 地面には水たまりができていた。

 短い時間と思っていたがそうでもないようだ。燃え盛っていた集落の火は既にほとんど消えていた。

 紫庵は起き上がって口に入った泥を力なく吐き出した。

 幸いなことに骨は折れていないようだったが、総身そうしんに力が入らなかった。ともすると座っていても身体がゆらぐ。


 かたわらの前太と芳乃の亡骸もすすけていた。ぬかるみが目立つ通りの真ん中、ようやく前太と芳乃を引っくり返すとふたりとも死斑しはんが浮いていた。

 若衆の中では最も人気者だった前太と、少女の中では最も慕われていた芳乃。

 今、ふたりは泥にまみれ、蒼白な顔色で横たわっている。

 紫庵は前太の眼を閉じ、それから少し苦労しながらふたりの顔をいた。かつてのふたりのように、いたずらっぽい前太の顔と、芳乃の柔和な笑みを浮かべた顔と。


 ――オオヤシマに八柱の神女あり。百の陽月を巡る時、出雲は緋羽大社に参ずべし。

 ――儂を殺したければ緋羽大社へ来い。手が空いていれば相手してやる。


 ……ようやく思い出した。

 昨日、一瞬だけ芳乃がみせた強い眼差し。

 どこかで見たことのあるそれは、樹乃が神女に選ばれた翌日、常ならず沈んだ彼女が垣間見せた感情だった。

 樹乃は瞬きもせず鋭い眼で紫庵を見つめた後、こう言ったはずだ。

 「生きる理由を教えてもらえるなんて、私は幸せだね」


 紫庵は蕭蕭しょうしょうとけぶる霧雨の中、ふらりと立ち上がった。

 そのまま歩き出す。

 行くところはひとつしかなかった。











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