93 聖女の出会いは何かがおかしい
目にも止まらぬ速さで動くぶれた影が、視界を一瞬一瞬、断ち切るように遮る。
「ひっ……っ」
必死に振り抜く剣はかすりもせず、手応えの代わりに返ってくるのは、鋭い痛みと衝撃。
「や……やめろっ……畜生やめろぉ……っ」
全力で一撃を加えようとした己の剣の上に音も無く着地し、灰色のマントを翻す黒髪の男。そして。
「ぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
男が振り下ろした、黒炎を吹き上げる男の大剣――襲い来る絶望と恐怖。
「ひがっ……ひっ……ひぃいいっあ……わ……うわぁあああ……っっ」
心を削るように、何度も何度も繰り返す生々しい悪夢の中で。
「ざ――ザイツ――ザイツざいつ――うぁあああああああああああああああああっ!!!」
――エルンストは虫けらと嘲笑っていた冒険者ザイツの影に怯え、藻掻き苦しんでいた。
勇者エルンスト。
そう呼ばれいくつもの難敵討伐を成し遂げた実績を――それがどのような助力があったにせよ――上げていたエルンストが、圧倒的な敗北を与えられたのは、バース連合国の元首都ウィスティーアの冒険者ギルドに設置された、闘技場だった。
エルンストはそこで元下働きのように使い、そして使い捨てた存在である冒険者のザイツと再会し。そしてちょっとした見栄のために決闘を申し込んだあげく、大敗したのだ。
「う……ぁっ……あああっ!!」
かつて見下していたザイツは、エルンストを散々翫弄した末、得体の知れない恐怖を与え打ち負かした。
エルンストはその恐怖に屈し、三人の有能な戦闘奴隷を手放させられた時、ザイツによって完全に心を折られていた。
「畜生――畜生畜生畜生ちちちくしょぉおおおおおおおおおおおおおおおおお……っ!!」
そしてエルンストは、それきり戦う事が――剣を握ることができなくなった。
「……う……ううう……っ」
勿論ザイツに対する憎悪はある。復讐したいという衝動も残っている。
だがエルンストが気持ちを奮い立たせて剣を手に取ろうとする度に、その剣にかすりもしなかったザイツの幻影が、剣の上から振り下ろされたザイツの剣の恐怖が蘇り、エルンストの全身は戦う事を拒絶した。
「……ちくしょ……ちくしょう……っ」
茫然自失のまま実家に連れ戻され、心を病んだ病人として屋敷の離れに追いやられた今のエルンストに、かつての栄光に包まれた姿は無い。
「うぁ……あああ……わぁああぁ……っ」
負け犬、虫けら、ガラクタ。――かつて役立たずをそう嘲り笑っていたエルンストにこそ、それらの言葉は相応しい。
「ちが……ちがぅ……お……おれは……やくたたずじゃ……ちが……あぁああ……っ」
そう自覚する度、やつれ果てたエルンストの誇りはズタズタになり、立ち上がろうとする気力は失われていった。
――そして。
「――エルンスト様。……いや、当家の厄介者、恥じさらしのエルンスト」
「――っ」
「死ねと、御舘様のご命令だ」
「なっ……」
エルンストの精神疲弊が、限界に近づきつつあったその日の深夜。
エルンストの隔離されている実家の離れへと、武装した集団が押し入って来た。
「屋敷から放逐すれば、これ以上の生き恥を晒すだけだろう。世間の同情が買えるうちに『病死』しろ。役立たずはいらない。そう仰せだったぞ」
「――っ!!」
「……ち……父上が……」
それは、父親からの処分命令だった。
優秀な三男であるエルンストを可愛がっていたはずの両親は、エルンストの心が折れた途端手の平を返したように冷たくなっていた。
「ひ……っ」
――そういう親だという事は、幼い頃から承知していた。だが心のどこかで、まだ見捨てられていないのだと期待していたエルンストは、身を強張らせて男達が抜刀した剣の刀身を凝視する。
「期待を裏切られ、御舘様も奥方様も、失望なさっているぞ」
「ちっ……違う……俺はまだ――まだ戦える……父上母上の御期待に……添うことができる……っ」
「はっ、その落ちぶれ果てた姿でか?」
だが僅かな期待を踏みつぶすように襲撃者達は――父親の陪臣達はエルンストを嘲笑い、武器を構える。
「……や……やだ……っ……死ぬのは……死ぬのはいやだ……っ」
「ははは、無様だな三男坊!!」
「人を使い捨てる事は躊躇無くても、自分が処分されるのは嫌かっ!!」
「嫌なら貴族の息子らしく戦ってみたらどうだっ。この部屋に飾っている武器のどれでも使ってなっ!! できるならなっ!!」
「っ…………っ!!」
裕福な実家の威信を示すように、部屋には煌びやかな武具が飾られていた。
「う゛ぁっ……ぎ……っ」
だがエルンストがその一本である剣に手を伸ばそうとしても、身体中に悪寒が走り、吐き気が込み上げる。
戦えない。
戦えば敗北する。
屈辱と激痛に打ち負かされ、地べたに這いつくばる。
「ひぃいっ!! ……あっ……うぁ……っ」
「はははっ!! なんてざまだ!!」
「あの傲慢な坊ちゃんがな!!」
条件反射のように湧き上がって来る恐怖に震え上がり、エルンストは剣を振り払い壁際に逃げてしまった。
その醜態に男達は哄笑する。元々下々の男を見下していたエルンストを、同情する者はいない。
「折角だ、すぐに殺さずまずぶちのめしてやる」
「散々馬鹿にしやがって、クソガキがっ」
「その軽薄なツラ、ズタズタにしてやるよ!」
「やっ……やめ……くる……くるなぁ……っ!」
「聞こえんなぁ!!」
重く鈍い音を立てて、襲撃者の蹴りがエルンストの腹にめり込んだ。
「ぐほっ……っ」
背後の壁に掛けられた装飾武具達に激突し、武器や防具と共に、エルンストは思わず床に倒れ込んだ。
「ひゃははっ!! 情けない姿だなぁエルンスト坊ちゃん!!」
「ごはぉ……っぼっ!! ぎゃぃあ!! ひゃめっ!!」
その無防備な全身を、男達の蹴りが襲う。
顔を、下腹部を、肺を、背を、喉を。容赦無い暴力に襲われ、エルンストは悲鳴を上げる。
「はははっ!! なんだその鳴き声はっ!! 豚かっ!!」
「ゆ……ゆるじ……やめ……ぎゃあぼぉあっ!!」
もはや反抗心も、取り繕うプライドも残ってはいなかった。
ただの無力な子供のように、エルンストは襲撃者達の暴力に身を縮め、涙と鼻血とヨダレを垂れ流しながら、無抵抗で許しを乞い泣き叫んだ。
「あーぁ、汚い顔になった。ちょっとはすっきりしたか」
「はははっ……残念だが、そろそろ殺すぞ」
「ああ。後始末もしなきゃならん」
一通りエルンストを痛めつけた男達は、多少はすっきりしたのか仕事を思い出したように、手にしていた剣を構えた。
「こっ……ころさな……やだっ……死ぬのは……やめてくれぇ!!」
「ははは、お前なんかが生きてどうするんだ?」
「……っ」
「お前はもう、負け犬のガラクタだよエルンスト坊ちゃん。お得意の剣を振るう事もできなくなったお前は、お前が馬鹿にしていた下々以下の虫けらだ」
「さっさと死んで、楽になりな。地獄にまで悪夢は追ってこないだろうさ」
「…………」
嘲り笑う男達の言葉に、エルンストの身体は強張り、僅かに残っていた抵抗の意志も挫かれる。
『……そうだ……俺なんか……生きててどうする……』
「じゃあな坊ちゃん」
「せいぜい無様な断末魔でも上げろ」
『……戦えなくなった。……家からも……女達からも見捨てられた。……ザイツの恐怖から逃れられず、もう何もできない……』
「――死ね」
『――死ぬ――しか…………もう死ぬしか……ないじゃないか……』
ボロボロになったエルンストの脳裏で、最後にしがみついていた生へ欲求が、絶望に塗りつぶされていく。
もう嫌だ。
怖いのも痛いのも嫌だ。
逃れたい。楽になりたい。
――死にたい。
『……』
現実逃避ともいえる死への誘惑を感じながら、エルンストは襲撃者達が自分に剣を突き立てようとする様を、どこかゆっくりと感じながら凝視していた――。
「――っ?!」
「……っ?」
――だが。
その場の誰もが予想した惨劇は、起きなかった。
『……な』
「――きゃっ?」
『なんだ?!』
突如、まるでエルンストと襲撃者の間に分け入るように出現した灯りが部屋を照らし、その中から、少女が一人エルンストの前に落ちてきたからだ。
「こ……ここはどこですの? ――きゃ、きゃあっ!! 強盗ですの?! 暴漢ですの?! ――あ、貴方怪我をしているではありませんか!! しっかりなさって?! ――癒しますわっ!」
「…………っ」
周囲を見回して驚き、エルンストを見て更に驚いたのは、ゼルモア神聖教国の法衣を身につけた、一人の少女だった。
一瞬で回復魔法を使ってエルンストを癒した少女の手には古びた聖書と帽子、そしてその額には、星のような光体が輝いている。
『……に、尼僧? ……それにあの額の輝きは……』
強くも優しい神聖な輝きに、エルンストは思わず目を細めるが、襲撃者達は突如出現した少女に明らかに警戒し、殺気を強める。
「な――なんだこいつは?!」
「こ、殺せ!! 部外者に見られたのだ!! 生かしてはおけん!!」
「え……」
『まずい――っ!!』
焦った襲撃者達が、再び剣をエルンストと少女に突き立てようとした時、エルンストの身体は動いた。
「なんだと?!」
「っ――くっ」
「え? え? え??」
襲撃者の剣に突き刺される寸前、エルンストは少女を庇い、ほぼ無意識に地面に転がっていた武具の一つを握り締め、とっさにそれで襲撃者達の攻撃を防いでいた。
「……盾?」
それは、華やかな装飾と家の紋章が施された盾だった。
『そうか……武器じゃないから、悪寒がしなかったのか……』
「この――抵抗するな!!」
「っ――くっ!!」
体勢を立て直した襲撃者達が再び攻撃を繰り出すのと、その攻撃をエルンストが盾で弾き飛び起きたのは、ほぼ同時だった。
幸い幽閉生活で落ちてはいたが、勇者として鍛えていた身体は、まだ激しい動きに耐えられる筋力を残していた。
「来い!! 殺されるぞ!!」
「えっこ、殺し合いなんて!! 人族同士で!!」
「いいから!!」
エルンストは片手に盾、片手に少女の手を掴むと、そのまま開いていたドアから飛び出し逃走する。
「く――そぉおお?!!」
「しまった!!」
「逃がすな!!」
乱入者の存在が、エルンストにいつの間にか、気力を取り戻させていた。
「こ、ここは貴族か何かのお屋敷ですのっ? わたくしどうしてこんな所に……?」
「知らんが走れ小娘!! 暗殺現場なんか見てしまったんだ!! 捕まったら間違い無く、お前も殺されるぞ!!」
「あ、暗殺っ? いけませんわ人族同士で殺し合うなんてっ!!」
身を守る唯一の武具である盾を抱え、戸惑っている名前も知らない少女の手を引き、エルンストはもう生きて出る事もないかもしれないと思っていた、屋敷の外へと飛び出して行った。




