3 その後の魔王城①
魔属の者達を庇護し等しく慈しむ魔王の大結界と、彼らの敵に牙を向き屠る意志持つ黒森に守られた、魔王の国の首都。
平穏な活気で満ち溢れた城下町を見守るように、魔王の城は都の最奥で建国以来変わらない荘厳な姿を国民に見せながらそびえ立っている。
「――宰相閣下」
「バラスか」
その奥向き――後宮と王宮を繋ぐ巨大な回廊で、腰の曲がったドワーフの大臣バラスが、王宮より歩いて来る長身の堕天魔族に恭しく頭を垂れる。
人間の年頃なら三十代前半~後半といったところか。上等だが決して華美ではない宮廷服を隙無く着込み、やや金色が強いハニーブロンドをきっちりと後ろでまとめている端正だが厳しい表情の偉丈夫は、老人に軽く頷き立ち止まる。
魔族領域を統治する魔王の国の宰相、ローゼルフォートだ。
「バラス老、魔王陛下は未だ後宮か?」
「……いえ、既に王宮にお戻りあそばされました。その足で今は、王宮の魔王后陛下のお部屋に」
魔王の正室である魔王后は勿論後宮に住んでいるが、表向きの仕事も多いため王宮にも部屋を持っていた。
そんなバラスの言葉を聞いたローゼルフォートは、眉間に深い皺を刻んでいぶかしげに問う。
「何故執務室に戻られない? 休憩を挟んで執務には戻ると、陛下は後宮に渡られる前におっしゃられたのだが」
「お許し下され宰相閣下。儂の口からは申し上げられませぬ」
バラスはシワだらけで表情が読みにくい顔を隠すようにもう一度一礼し、ローゼルフォートに返した。――その小さな肩は、何故か小さく震えている。
「……? 判った。とにかく魔王后陛下の公室だな。執務に戻っていただかねば」
「では儂がお迎えに参ります。……そろそろ落ち着かれたでしょう」
「落ち着く? いや、私が直接行こう。時間が惜しい」
「……左様にございますか」
バラスは一瞬迷うように沈黙したが、もう一度深くローゼルフォートに一礼しその場から去って行った。
古臣の様子に多少奇妙なものを感じたローゼルフォートだったが、すぐに王の採決を仰がなければならない書類の山を思い出し、すれ違う者達の一礼に相応しい威厳を保ちながらもできるだけ早足で回廊を進み、王の元へと急ぐ。
「……ん?」
すると辿り着いた魔王后の部屋の前に、魔王后付きである侍女達が困った様子で待機しているのが目に入った。
「お前達は何をしている?」
「! ……宰相閣下。その……魔王陛下のお渡りでございます」
「何を馬鹿な。もう執務再開のお時間だというのに」
宰相の押し殺した声に、侍女達は竦み上がって頭を下げた。
別に侍女達を責めるつもりはなかったので、顔を上げろと命じた後ローゼルフォートは自ら扉をノックし、中の反応を窺う。
「……誰か?」
中から直接応じた柔らかな女の声は、部屋の主である魔王后セレスティンのものだった。
本当に部屋の中には魔王と魔王后しかいないのだと察したローゼルフォートは、ため息を押さえ呼びかけに答える。
「ローゼルフォートにございます魔王后陛下。魔王陛下をお迎えにあがりました」
「……入れ」
失礼しますと端的に返し、ローゼルフォートは魔王后の部屋に入った。
一礼して顔を上げると、年代を感じさせるが手入れの行き届いた調度で品良くまとめられた魔王后の部屋のソファには、森を思わせる深緑のドレスと小さな王冠を身に付けたたおやかな女堕天魔族、そしてその膝に顔を埋めてシクシクと泣いている魔王の姿があった。
「く……クローディに……クローディに汚物を見るような目で見られちまった……違うんだクローディ……父上は断じて娘の魔話術に全裸で映りたがる変態親父じゃないんだ……わざわざ後宮に入って準備万端って時にタイミング良くかかってきた魔話だったから……絶対口うるさい石頭頑固ジジィ宰相のローゼルフォートか誰かだと思ったんだ……だからちょっと父上のモテっぷりを見せつけてやるおちゃめのつもりで魔が差したんだ……もうだめだ……おしまいだ……そのうち父上の下着は汚いから一緒に洗わないでとか言われるようになるんだ……小さい頃は父上のお嫁さんになるって言ってくれたのに……クローディ……クーちゃん……どうしようセレス……頼むから母親として取りなしてくれよぉ……」
「……」
夜着用の長衣を一枚ひっかけて帯で結んだだけの魔王(半裸)は、部屋に入ってきたローゼルフォートに気付かず、延々と正妻の膝で愚痴っていた。
「…………」
ローゼルフォートはそんな君主をしばらく冷徹な眼差しで見下ろしていたが、やがてその場に最敬礼の形で跪き、魔王后に言う。
「……魔王后陛下」
「……なんじゃ、宰相?」
「お願いしたき議がございます」
「……申せ」
「――そこの馬鹿をぶん殴ってもいいかセレス? ――【剛力の祝福】!!」
「――どうぞ、兄上」
「へ? ――ってローゼルフォーぁぼぉおおおおおおおおおおおおお?!!!!」
感じた殺気にようやく気付いた魔王が顔を上げるが一瞬遅く。
ドゴン!! という轟音を響き渡らせながら、魔王后セレスティンの実兄、そして魔王の義兄である宰相ローゼルフォートは、渾身の支援魔法で強化した拳の一発で、魔王を妹の膝から吹き飛ばした。
「あー……やっぱり陛下のお姿を目にされた宰相閣下は……キレなさったか……ぶははっ」
そしてその地響きを遠くに聞きながら老臣バラス老は――堪えていたものを溢れさせるようにして吹き出し、肩を震わせ笑い続けた。
「いってぇええなこの腐れ宰相ゴラァアアア!!! てめぇこれ不敬じゃね?!! 謀反じゃね?!! 王命で成敗すっぞこの眉間に永久シワ親父がぁあああ!!!」
「うっせぇえええこの馬鹿ガキマジで謀反すっぞこらぁああ!!! 決済書類溜まってるって言ったよな俺は言ったよなぁああ!!! このクソ忙しい時に婿取り前の娘の前で全裸とかお前なにやってんだこの変態魔王がぁあ!!!」
「誤解招くような言い方すんじゃねぇえ!!! 事故だってんだろうがぁああ!!!」
「……」
夫と兄の見苦しい罵り合いをしばらくソファで見守っていた魔王后セレスティンは、やがて騒ぎを聞きつけた城の者達が集まってくるタイミングを見計らい、大声ではないが不思議と響く凛とした声で、外に向かって声をかけた。
「……構うな。いつもの通り、莫逆の友である宰相と魔王陛下の戯れじゃ」
魔王后の言葉を聞いた者達は大人しく引き下がり、魔王后付きの侍女以外は全て立ち去る。魔王が戦に出ている間、その代理として宰相、そして娘である王女と共に留守を守っていた魔王后は、それだけ国民と城の臣下達に信用されていた。
「……陛下も兄上も、大概になされませ。……お二人が強大な魔力を使い暴れると……都の結界が震え皆が怯えまする」
やがてやはりタイミングを見計らって、魔王后から魔王と宰相に声がかかり。殴り合い罵り疲れるまでやりあった二人は、しばらくお互いを睨み付けた後舌打ちとともにそっぽを向き、一応争いをやめる。殺し合い一歩手前での休戦は、長い付き合いの二人にとってはいつもの事だ。
「全く……こんなチンピラ王に嫁がせて苦労させるなセレス」
「はぁ~? どのツラ下げてぬかすかこの腐れヤクザ宰相。こんな兄貴で大変だよなセレス~?」
「……」
魔王后はただ手にしていた扇で口元を押さえると、小さくため息をついた。
冷静な妹に自分の大人げなさを自覚したローゼルフォートは、誤魔化すように咳払いし、話題を変える。
「……ご無礼致しました魔王后陛下。魔属の者達の規範となるべき魔王陛下のあまりの見苦しさに、我を忘れてしまいました」
「おいてめぇ!! 絶対詫び入れる気ねぇだろ?!!」
「とりあえず仮にも当代魔王が王宮を半裸で彷徨くなきちんと服着ろ見苦しい諡に裸王と刻むぞこのバカ。……ところで魔王陛下、先程おっしゃっていた件なのですが」
「あ?」
「……魔話術という事は、やはりもう……クローディ王女殿下は人族の領域へと発たれたのですね」
ローゼルフォートの言葉には、臣下としても親戚としても友人としても、それを許した魔王への明らかな不満があった。
魔王はもう一度妻の隣に腰掛けると、頷きローゼルフォートに返す。
「ああ、行かせた。前々から言っていた事だし許可も取ったはずだぞローゼルフォート」
「……陛下、是非もう一度お考え直し下さい。――現状クローディ王女殿下は陛下と魔王后陛下の間にお生まれになったただ一人の御子、魔王家アーデルベルヒム唯一の跡継ぎにして、王位継承権第一位にあらせられる尊きお方です」
「そして魔王后とした妹に続く、お前の権力安定基盤か?」
「否定はしません。……ようやく良い形で終戦を迎える事ができたこの大切な時期に、愚かな横槍を入れようとしてくる有力貴族や軍部に付け入らせるわけにはまいりませんから」
「ああ……人間を殲滅するまで延々戦争すべきだって、バカな主張してるヤツがまだいるんだもんなぁ……確かにお前の言う通り、今魔王家が揺れるワケにはいかねぇわ。……戦争で逝っちまった連中に報いるためにも」
「……でしたら陛下、今王女殿下を外遊に出す事がいかに危険な事かをご理解下さい」
「判ってるさ。……魔族だろうが人族だろうが、戦争再開したい連中にとって、あいつの殺害は絶好の機会となりえる」
「! 判っておられるなら――」
声を荒げたローゼルフォートの言葉は、魔王の視線に遮られる。
「――それでも、危険だからと城の奥底で大切に姫君として育てられるばかりでは、あいつに次期魔王としての成長は無い」
「……陛下」
魔王の静かな言葉には、諸々の激情を押さえ込んだ者の断固とした強さがあった。
「……あいつは、クローディは『今』の魔族と人族をその目で見なきゃならない。……憎しみと殺意を向け合うばかりの戦時下でも、それらを押し隠し次の機会を窺っている偽りの平穏でもない。納めきれない二種族の憎しみや殺意が本音となってあちこちで吹き出している今を見て、あいつは学んでいかなきゃならないんだ」
次代の舵取りをする者が、何も知らないままでは困る。
そう呟いた王は、何かを思い出すように目を伏せ小さくため息をついた。
そんな魔王を複雑な表情で睨んでいた宰相に、静かな魔王后の声がかかる。
「……ご心配めされますな、兄上。あの子には私の秘兵を影供として付けております。滅多なことはありますまい」
「護衛……あーそうだ!! 聞いてくれセレス!! クローディが!! クローディがどこの馬の骨ともしれない人族の野郎を雇って護衛兼案内にして!!」
再び騒ぎ出した魔王を態度で流しながら、魔王后はそれに、と続け、秀麗な顔貌に優美な微笑みを浮かべ、断言した。
「……大丈夫、あの子は強い娘です。……四年前毒に倒れ全ての記憶を失い……『自分が別人になってしまったという妄想』に一時陥ってしまっても、ちゃんと立ち直る事ができたのですから」
ふらぐ。