天使が溶解するとき
16、天使が溶解するとき
「課長、後は行ってください」
「どうした」
暗闇の中でマーシャルが足を押さえてうずくまっている。
「もしかしてお前コンクリンから出るとき噛まれたのか」
「ええ、痛いのと度重なるショックで腰が抜けてもう動けません。早く何とかして、私を助けてくださいね、課長」
「待っとけ、何とかしてやる」
リードは5階に通じる非常階段を下りていった。
薄暗い彼の自室。
そおっ、とドアを開けると窓際の天使の像の眼がキラリと輝いた。
「頼みがある」
「何、お、と、う、さ、ま」
石の天使がゆっくりと変化して、何処にでもいる人間の少女に姿を変えた。
「この匂いを再現できるか?」
リードは少女に手に持った瓶の蓋を開けて嗅がせる。
「ええ、今、分泌細胞に分化させて産生を始めたわ」
「このドームをホワイトデストロイヤーというネズミが襲っている。奴らをこの匂いでひきつけて忌み口から全て出したいんだ、そうすれば奴らは凍死する。ただ、奴らの牙は頑丈だ、砕かれないように身体の硬度は上げていけ。奴らをおびき寄せて早からず、遅からず、頼むぞ」
少女はゆっくり頷いて、リードの手を取った。
「おとうさまのためなら」
そう言うと、少女は足元から徐々に溶けていった。
すっかり溶け切った後には一塊のゲルの塊が横たわっている。それはずるずると階下に通じる階段に絡みつくようにして下りていった。
「気をつけていけ」
無用の気遣いだと思いながら、少女の姿をしていたゲルをリードは見送った。
高感度バイザーで階下を眺めると、少女が降りた場所にホワイトデストロイヤーが海坊主のように盛り上がって集まっている。その隆起が徐々に忌み口の方向に近づいていく。
時々無事な姿をリードに見せるかのようにその隆起の頂点に少女の形をした物が浮かび上がる。それはまるで、少女がホワイトデストロイヤーを導くかのよう。しかし、その姿はまたすぐにネズミ達の大群に埋め尽くされ……。
ただ、大群が徐々に移動していく事実は、少女が健在でいる証しであった。
「もう限界です、最終防衛ライン突破されました」
ベイリーたちは押し寄せる大群相手に、ブルドーザー型の重機で応戦しているが、撃退しても撃退してもホワイトデストロイヤーは重機を乗り越えて押し寄せる。このままでは重機がネズミの海の中に飲み込まれてしまいそうだ。
アルフレッドも最前線に立って火炎放射器でホワイトデストロイヤーを撃退していた。
「ああああーっ」
横で叫び声が聞こえる。
「すぐ、助けに行く。私が奴らをひきつける。死ぬのは私が先だ」
アルフレッドが火炎放射器を振りかざして、群の中に突入しようとした、その時。
「前方をご覧ください、司政官」
メインコントロール室でフェスが信じられないといった面持ちで、ディスプレイを指差していた。
「ネズミの大群が、引いています」
まるで、何処かに吸い込まれるように、彼らは急に向きを変えると市街地の外に走り出した。
「な、何が起こったんだ」
それはものの4~5分。まるで、潮が引くように動くことのできるホワイトデストロイヤーは一匹残らず姿を消してしまった。
暫くしてあちこちで万歳の声が上がり、ついには人々の歓喜の叫びがドームにこだまし始めた。
「もしかして、リードか?」
アルフレッドは信じられないといった顔で、呆然と立ち尽くした。
ホワイトデストロイヤーが消えた暗黒のドーム。
衛生局で、リードは慣れない手つきでマーシャルの噛み傷を洗浄していた。
「あ、そこはもっと丁寧にいたたたたっ」
マーシャルの目が不安そうにリードの手元を追っている。
「そういえば、君に礼を言わなきゃならない」
リードがマーシャルを見つめて言った。
「ビブロス博士に僕のことを伝えてくれたのは君だって手紙に書いてあった」
「ああ、あれですか」
ちょっと浮かない顔で部下は答える。
「あなたが、なにか奥歯にものの挟まった言い方をしていたので、あなたはどんな人かなって裏のルートで検索したんです。髪の毛一本貰ってDNAを抽出してね」
「裏のルート?」
「ええ、実は僕はアースマフィアの総帥の次男なんです。暗黒街のエリートになるべく育てられてきましたがそういう世界が嫌で飛び出したんです。でも、ま、死ぬかも知れないと思った時に一つくらい何か役に立てることがあればと思って、久しぶりに自分の素性を利用させてもらいました……」
マーシャルの言葉が急に途切れ、その茶色の目が真ん丸になって固まった。
視線の先には薄い衣をまとった少女が淡く輝きながら立っていた。
「おとうさま、かたづけてきました」
マーシャルが素っ頓狂な声を上げる。
「かっ、課長。あなたいつの間にこんな可愛らしいお嬢さんが……」
「僕は未婚で、かつ隠し子もいない」
「で、では、パトロンとか……、課長、もしかして女性に興味ない風に装っておきながらロリコンだったんですか」
「おい、目を開けてよく見ろ」
食い入るように少女を見た彼はつぎの瞬間にまた叫び声を上げた。
「って、こ、こ、これは……」
「そう、彼女はこの窓際にいた石の天使像だ」
胸を触ろうとした前科のあるマーシャルは腰を抜かさんばかり。
「正確に言えば、石に感染してすぐさま有機細胞に変える知性を持つウィルスだ。もちろん、その細胞を石に変えることもできる。学会では知性を持つ新生物を作ることは禁じられている。偶然にこれを作ってしまったばかりに、僕は学会を追われ、すべての仕事を封じられた。そしてこのドームに転勤という名の軟禁をされたんだ」
「お、おとうさん、って」
「こいつらは高い知性を持っている。だが、こいつらを作った僕のいうことは無条件ですべて聞くんだ。僕は彼らに100年以上の継体を禁じ、彼らが生きるための場所は提供するが、決して人に害を及ぼすなと命じた」
「おとうさま、石に戻る前に一つご報告があるの」
少女は赤い唇を開いた。
「私が外に出た出口の近くに異常に高エネルギーの鉱床が横たわっているわ。感染して調べてみたけどかなりの量よ。エネルギーも少し貰っちゃった。お父様これがあればセレクターを買えるでしょう」
「お前、なんて父親思いの娘なんだっ」
そう叫ぶと、リードの代わりに抱きつこうとするマーシャル。
その襟首をつかんで後ろに引きずり倒すとリードは少女に尋ねた。
「その場所を教えてくれ。このドームにはこれからまた金が要るんだ。司政官に報告する」
「おとうさま、いつも金があればって、この部屋でぼやいてたじゃない。自分のために使わないの?」
「セレクターが買えればそれでいいんだ。僕はお金に興味がないんだよ」
リードは少女にそう言うと、愛おしそうにそっと頭をなでた。
「こりゃ、女に興味がないのも頷ける」
マーシャルはため息をついてそんな二人の姿を眺めていた。
「僕見たんだ、ハネの生えた天使がね、まるでネズミの波をサーフィンするみたいに、先頭を走りながら、ネズミを連れて行ったの」
ドーム1779ニュースのインタビューに答えて、犬のぬいぐるみを取りに家に戻って一人取り残された少年が丸い目を輝かせて答えている。
「天使が葬式のときの出口に立つと、自然と扉が開いて。そしたらネズミが洪水のように、出て行ったんだよ」
キースは首を振ってカメラの前に立つ。
「彼が見たのは、幻影でしょうか。それとも、本当に奇跡が起こったのでしょうか。ホワイトデストロイヤーがレミングのように死の行進をするという報告はありません、しかし何らかのきっかけが彼らに同様の行動を起こさせた可能性はあります。今後の閉鎖空間都市におけるホワイトデストロイヤーの対策に今回の事例は一つの可能性を提示したといえましょう」
「奇跡の宝石箱から、エンジェルドームに愛称が変わるのも時間の問題だな」
アルフレッドが傍らのフェスに話しかける。
「この災害で、死者が一人というのは奇跡的です。でももう一つの奇跡が明らかになったら本気でそういう名前になってしまうかもしれませんね」
「そうか、観光都市として有名になるのもいい収入源だ」
早くも司政官は経済の専門家として、頭の中で計算が始まったようである。
「全住民の避難が済めば、3か月かけてドーム全体の洗浄が行われる。住民はほとんど戻ってくるようだし、また、忙しくなるぞフェス」
「はい」
控えめな微笑みを見つめ、アルフレッドは心が温まる気がした。
優秀で真面目なフェス。本人は知らないところで、男を誘うフェロモンを多量に分泌してしまうけど。多分、それが彼ほどの人間をここに潜ませている原因なのだろうが。
しかし、その強力な誘惑フェロモンに打ち勝てれば、彼ほど心強い部下、そして親友はいない。
「これからも、よろしく頼む」
「私のほうこそ、プライス中尉の下で今後も働けるのは光栄です」
二人はがっちり握手をした。
一瞬だが、ぎゅっ、とその身体を抱擁したいと思ってしまった司政官は、ちょっとドギマギして深呼吸した。
「さ、ドームの再興計画が始動する前に私はしなくてはいけないことがある」
彼は、タイタン行の宇宙船のパスを手に取った。
「借りは、大きな利子をつけて返す主義なんでね」
星空の彼方、高笑いしているであろう金髪の青年の冷たい瞳を思い出してアルフレッドは虚空を睨み付けた。