恋の瞬間
旧サイトで投稿したお話を加筆修正したものです。
伝票の山を片付けていく作業はちょっと大変だ。入力自体はパソコンに入れていけば良かったが、それをするまでに伝票を整理しないといけない。月末は間近で他にも仕事がある身にはちょっと辛い。
時計を確認すると、定時の六時は当に過ぎている。
(今日も残業かな)
時計とにらめっこして綾子は小さくため息をついた。直属の上司は忙しそうに走り回っている。でもまぁ座っている自分の方がいくらかましかな。綾子は口元に笑みを浮かべた。
すると事務所に他の部の永瀬課長が顔を出した。綾子の目の前の電話を取ると声を掛けて来た。ふわりと香るのは、男の人の香りだ。
「借りるね」
そう言って、受話器を取った。手にはまとまられた書類が握られていた。何かトラブルでもあったのだろうか。しかし、それよりも一瞬、触れた肘が気になった。こんな近くで見たのは始めただった。
誤魔化すように、伝票を見る振りをしていて、自分の仕事が終わらない。気になって仕方がない。何時の間にか電話は終わっていた。
「ありがとう」
にっこりと人好きのする笑顔を浮かべて永瀬は事務所を出て行った。他にも電話はあったが三つある電話はすべて使用中で綾子の前の電話しか空いていなかったようだ。
(ちょっと驚いた)
綾子は手近にあったお茶を一口すすって、息をゆっくりと吐き出した。そしてまた伝票の束に手を伸ばした。しかし、直ぐにまた、声を掛けられてしまった。
「綾ちゃん、志村課長いる?」
「あ、はい。さっきまでそこに…あれ?」
きょろきょろと辺りをみたが何時の間にかいない。さっきまで、そこで何か作業をしていたと思うんだけどな、どこ行ったんだろう。
「あはは、志村課長も相変わらず忙しいね。いいよ、内線使うわ」
「ごめんなさい」
自分が怒られているわけではないのだが綾子は思わず謝ってしまった。他の部署の人まで、志村課長を探しているのだが、部下の私でも行動が読めない。
(仕事がはかどらない)
心の中でそう呟いたが仕方が無い。綾子はまた伝票とにらめっこし始めた。これ、今日中に終わるのかな。
* * *
ふと時計を見ると八時を回っていた。ようやく伝票が片付きパソコンへの入力も終わった。まだ、不慣れだと言ってもこれでは、遅過ぎるだろう。
「つ、疲れた…」
「綾ちゃん、ご苦労様」
事務所の事務全般を取り仕切る林課長が労いのことばを掛けてくれた。林課長の作業もまだまだ終わりそうに無い。
「ありがとうございます」
林課長の手元を見ると彼女の方はまだまだ仕事が残っているようだ。綾子はちょっとだけ申し訳なく思う。これ、林課長に確認してもらわないと行けないので、また仕事を増やすのが申し訳ない。
「志村課長、まだ仕事が残っているようね」
「そうですね、手伝いに行ってきます」
「ええ」
綾子は立ち上がると頭を下げて、事務所を後にした。階段を下りて製品の組み立て場に向かう。視線の先では志村課長と永瀬課長が話をしている。
「志村課長」
綾子は申し訳なさそうに声を掛けた。自分の仕事が終わった事を告げるとああ、と言って返事をしてくれた。手には大量の書類を持ったままだ。
「伝票整理、終わりました」
「ああ」
手元の時計を確認して志村課長は口を開いた。どうしたものか、思案している様だ。この時間では、これ以上の仕事を振れないと思っているのだろう。
「八時か。社長。帰ったよね?」
「あ、はい」
「これさえ終われば今日の分はおしまいだな。後は俺がやって置くから永瀬、送ってくれる?」
「OK」
(永瀬課長が送ってくれる?)
予定外の申し出に綾子は戸惑っていた。何時もならバスで帰るところだが八時を過ぎてはバスはもうない。それを知っていてそう言っているのだ。ここは、かなりの田舎で、最後のバスは七時過ぎだ。
「永瀬課長、いいんですか?」
「ああ、そのまま俺も帰らせてもらう」
「なるほど」
(ここまで遅くなると何時もは志村課長が送ってくれたのだが今日は何故だろう?)
その謎はすぐに解けた。私の仕事の確認を林課長と一緒にしてくれる様だ。これから、その確認作業をするとなると何時に終わるか分からない。
「橘さん」
「はい?」
「伝票確認しとくから」
「ああ、はい」
間違いがあってはいけない。その確認も今日中にしてくれるらしい。この課長さんは、どれだけ仕事を増やすつのりなのだろうか。
「お願いします」
「じゃあ、準備終わったら声掛けて」
「はい」
送ってもらえるなら急がなくちゃ、そう言って綾子はぱたぱたとロッカールームに急いだ。束ねていた髪を解いて着替える。化粧を慌てて直したり。まるで女の子だな、と鏡を見つめて苦笑した。
短大を卒業して一年が経つ二十一歳の自分から見ればあの二人の課長は五つほど年上だった。志村課長の方は最近、結婚したばかりだが永瀬課長の方はまだ独身だ。
気にならないといえば嘘になる。肘が触れるだけでどきりとするのだ。
「綾ちゃん?」
最近、永瀬課長もみんなが呼ぶように愛称で呼んでくれる。ちょっとそれがくすぐったいけれど、嬉しかった。ロッカールームのある部屋の外で待っていてくれる永瀬課長を待たせてはいけない。
「は、はい。今行きます~」
「あ、いや。急がすつもりじゃないんだ。何処に居るか確認したかっただけだから」
永瀬課長はすごく、優しい。でも、誰にでも優しいのだ。それは、綾子だけじゃないのも知っている。志村課長も優しくはあるんだけど、厳しいところもあるから、どうしても、永瀬課長がずっと優しくは見えてしまう。
「お待たせしてすみません」
ぺこりと頭を下げる。喫煙室には煙草を吹かしていた志村課長と綾子を待っていた永瀬課長がいた。志村課長はここで一休みしてまた仕事に取り掛かるのだろう。新婚の志村課長を残していくのはちょっと申し訳なかったが綾子は帰らせてもらうことにした。
「じゃ、帰ろうか」
「はい」
すっかり、身支度を済ませて、車のキーを持ち直して永瀬課長は歩き出した。エレベーターを使って駐車場に向かう。
「綾ちゃん、毎日、ご苦労様」
「いえ、永瀬課長や志村課長の方が毎日、大変なのに」
「ははは、中間管理職って辛いね。それよりも真っ直ぐ帰る?」
「はい?」
突然、そんなことを言われて綾子は戸惑う。確かに時計は八時を回っているので、出来れば直ぐにでも部屋に戻りたいと言う気持ちもなくは無い。
「晩御飯、まだでしょ? どこかで食べていく? それとも買い物して行く?」
「ああ」
八時過ぎては晩御飯を作るのが面倒だ。コンビニ弁当も飽きたしどうしたら良いものか。迷っていると永瀬が口を開いた。
「ファミレスで良かったらご馳走するよ?」
「あ、そんなご迷惑おかけできませんよ~。ただでさえ送ってもらっているのに…」
「そんなことないよ、気にしない。後で志村におごらせるから」
最後のはちょとした冗談なのだろう、永瀬はそう言って笑ってみせた。あはは、志村課長も忙しいのに、新婚で奥さん待っているだろうに。
「じゃあ、あそこのファミレスで」
「そこでいいの? そこって安いって評判じゃないの?」
「くす、ファミレスに高いも安いもないと思いますよ~」
「あはは、そうだね」
何だかこの時間が嬉しい。永瀬課長の車の助手席に載せてもらって食事まで一緒に出来るなんて、思ってもみなかった。
(やっぱり永瀬さんにとっては私は部下でしかないのかな。といっても直属の部下じゃないんだけど)
車がゆっくりと、ファミレスの駐車場に入る。二十四時間営業という看板の眩しい明かりが綾子の目に飛び込んで来た。
「綾ちゃん?」
「ご、ごめんなさい。ぼーっとしてました」
「はは、綾ちゃんらしいね」
「私そんなにぼーっとしていませんよ」
そう抗議すると永瀬課長は柔かな笑みを浮かべた。上手な運転で、車を駐車場に止めてくれた。時間が夕飯時を過ぎているので、駐車場の空きは多かった。
「綾ちゃんと一緒に食事が出来て嬉しいよ」
それ本心ですか? 信じちゃいますよ。彼女が居ないのは知っている。会社でそういう話題が大好きなおばさんが大勢いるから。
「私もです」
永瀬課長の言葉が一瞬、途切れた。そして、言葉を選ぶ様に一瞬、考え込むと、口を開いた。背の高い永瀬課長を見つめる。
「あのね、綾ちゃん。彼氏いる? 分かってもらえないと思うからここで君に言うよ。俺は君と付き合いたい」
「え? え?」
驚いてわが耳を疑ってしまった。永瀬課長が言った言葉を信じていいのだろうか。本当に、この人は私に付き合って欲しいと言っているのだろうか。聞き間違いでは無いのだろうか。
「あの」
「あ、無理はさせないから。無理なら断ってもいいよ。でも俺は見返りを期待して君とここにいる」
真摯な告白。はっきり言ってくれた方が清清しい。だって、それは、綾子が一番知りたい事だ。
「無理じゃないです。私も嬉しかったから。永瀬課長とこうして一緒に居られるのが」
「良かった」
そうだ、綾子はこの笑顔が好きなんだ。
* * *
楽しい食事の時間はここで終わり。でももう少しだけ一緒に居られる。車で送って貰える帰路。他愛のない話だったけどちょっとづつお互いを知れたような気がする。あっという間にアパートに前についちゃったけど。
「今日はありがとうございました」
「うん、また明日」
「はい」
まるで恋人同士というか恋人同士になったばかりなんだけどね。会社でまた会える。だから。
ゆっくりと背の高い永瀬課長の顔がおでこに触れた。お休みのキス。
えへへ、ちょっとくすぐったい。
「おやすみ、いい夢を。綾ちゃん」
「はい、おやすみなさい、永瀬課長」
手を振って綾子は永瀬の車を消えるまで見送った。
新人と上司のほのぼのしたお話は好きです。




