マイマイマイマイ
夜、水道が流れる音を聞き私は目が覚めた。
時計を見ると深夜3時。カーテンを開け、窓の外を見る。マンションの5階から見る景色はどんよりとし、パラパラと雨が降っている。
…はぁ、雨か。これじゃあ、髪の手入れが大変。ただでくせっ毛なのに…
ついでに隣のベッドも見る。
妹の美夜の姿がない。
美夜ちゃん?あ、喉渇いたから水飲んでるのかな。それで水道の音がしたのか。でも、あの子がこんな遅くに起きるなんて珍しいなぁ…
とか思った。いや、待て。それ以上に何かが頭に引っ掛かる。
そうだ。あのケチで几帳面な性格の美夜が、水道を流しっ放しにしている事だ。
前に私が洗い物をしている時に、「お姉ちゃん、食器を洗う時は水道止めときなよ。水道代勿体ないじゃん」とか言ってたあの子が、そんな事をするのはあまり考えられない。それにコップ2〜3杯ぐらい飲めば喉の渇きは潤うはずだ。
私は気になったので、部屋を出て台所に向かう。廊下の電気は付いていない。私は恐がりなので電気を付ける。
リビングの扉を開けるとこちらも真っ暗。すぐさま電気を付ける。
明るくなり視界に入ったのは、台所にいる美夜…なのだが、私は目を疑う。
美夜はコップを使わず、蛇口から流れる水をそのまま口に入れ、がぶ飲みしている。
…嘘。あの美夜に限ってこんな大雑把な行動する訳ない。美夜の性格上、ありえない。本当に…この子美夜なの?
不安に感じた私は美夜に近付く。…こんな近くにいるのに、私を無視して水を飲む事だけに集中している。
私は目の前にいるのが美夜なのか確認するべく声をかける。
「美夜ちゃん?」
美夜はその問い掛けに反応せず、水を飲む。
「ねぇ、美夜ちゃんだよね?ねぇ、なんで無視するの?」
美夜は答えない。私は姉の権限を活かし、今度は強めに言ってみる。
「ちょっと、こんな夜遅くにジャージャー水流してたら五月蝿くって寝れないじゃない」
それでも答えない。美夜は水を飲む。
「もう…そんなに飲んだらお腹壊すよ!」
私は水音に負けないよう、大きな声で注意をする。が、それでも美夜は私に構わず水を飲む。
…水を飲む?あれ?さっきから水飲んでばっかで、息してなくね?
まさか…自殺しようとしてる?
私はその考えが浮かぶやいなや、すぐさま美夜に駆け寄り、水を飲むのを止めさせようとする。
「ちょっと、美夜!駄目!やめなさい!アンタこのままだと溺死しちゃう…」
と強引に蛇口から美夜を放そうとし腕を引っ張る…
冷たい。
そう思った瞬間、私は凄い勢いで美夜に吹っ飛ばされ、冷蔵庫に激突した。
バキ!
っと鈍い音がし、私は床に倒れ込む。
突然の出来事に混乱し、慌てて美夜を確認する。よく見ると、美夜は全身がびしょびしょだった。パジャマまで染みきっていて、下着が透けて見える。その姿は…陸に上がった土左衛門のよう。さっき冷たいと感じたのは、濡れた美夜を触ったからだ。
私は吹っ飛ばされた時に足を捻ってしまい、痛くてその場でうなだれる。その間も美夜は水を飲み続けていた。
しばらくすると、私達の喧しいやり取りで目覚めたのか、母が台所にやって来る。
「ちょっとアンタ達、こんな夜中に何してんのよ…お隣りさんにも迷惑じゃない」っと呆れた声で母はリビングに入ってくる。
ドアを開けたすぐ側に私が倒れていたので、母は慌てて私に駆け寄って来た。
「夕美!一体何があったのの!?大丈夫!?」
「…痛い。足、捻った…」
「待っててね!今、救急箱持ってくるから!」
ここで母は怪我をしている私を無視し水をがぶ飲みしている美夜に気付く。その態度が気に食わないのか、彼女に注意しようとする。
「ちょっと美夜!何やってんの!?アンタ、夕美がこんな怪我してんのに…!」
「駄目!ママ!美夜に近付いちゃ駄目!」
動くと足が傷んだが、私は必死で母が私の二の舞にならないよう、身体を引きずりながら止める。そして、私は言う。
「ママ…あれは…美夜じゃない」
「え?」
「あれは…美夜の形をした別の物…」
母は事態の深刻さを察したのか、父を叩き起こした。父はリビングにやって来ると、水をがぶ飲みする美夜を見て驚き、ドアの所で立ち尽くしていた。
私が両親の寝室で母に足を手当てしてもらっている最中も、美夜は水を飲む事をやめなかった。
捻挫の処置を終えると、再びにリビング戻る。
「夕美、一体何があったんだ?」
「…解らない。水道の音で目が覚めたら、美夜があんな状態になってて、止めようとしたら吹っ飛ばされて…」
「さっき美夜じゃないって言ったのは?」
「…………」
母の質問に私は黙ってしまう。確かに、目の前にいるこの美夜が美夜じゃなかったら一体何なんだという話だ。でも、上手く言えないが…これは…美夜ではない。根拠はないが、そう思うのだ。
「い、いやぁ!」
急に母が悲鳴を上げる。「どうしたの?」っと聞こうとしたが、すぐにその原因が解る。
美夜が溶けた。
母につられて、私も悲鳴を上げた。
目の前の光景を疑う。
美夜は液状の身体になり、台所にへばり付き、蛇口にすっぽり口を嵌め水を飲んでいる。
…蛞蝓。
そう思わせるような姿だった。
父は美夜…らしきモノに恐る恐る歩み寄る。
「パパ、気をつけて…」
父はそっと頷き、美夜らしきモノに声を掛ける。
「美夜…なのか?」
やはり反応しない。
「美夜、水を飲むのをやめるんだ」
無視。
「やめなさいっと言ってるだろう!」
父は怒鳴り、美夜の肩(だった部分)を掴む。私は「パパも吹っ飛ばされちゃう!」と思ったが…
まだ…吹っ飛ばされた方がマシだと思った。
美夜はやっと蛇口から口を放す…すると振り向き
「マイマイマイマイマイマイマイマイマイマイマイ!」
と奇声を発する。その場にいた私達はキョトンとしたが、そうしていられたのはほんの一瞬だった。
美夜は父に寄り掛かり…口づけした。いや、正しくは父の口に自分の口をべっとりくっ付けた。
私も母も唖然とする。もちろん、父も目を大きく開き、驚いてる。父は自身から離そうと美夜の両肩を押す…が離れない。父と美夜は接着剤でくっ付いてるかの如く、一体化していた。
「ん…んー!んー!」
父は何か言おうとするが、美夜が口を放さないので上手く喋れない。
「んー!んんー!」
傍観していた私と母はさらに驚愕する。
これはただの口づけではない…父の水分を吸い取っている!現に、父はみるみる身体が絞んでいき、仕舞いにはミイラのようになってしまった。
「ギャァァァーー!」
母はまた叫ぶ。
父の身体の水分を吸い終えた美夜はノソノソっと私達に近付いてきた。美夜から解放された父は白目を剥き、倒れたたまま動かなくなる。
信じられない出来事を目の当たりにし、私は震え上がっていた。
母は捻挫して上手く歩けない私を背負い、玄関まで逃げる。
「マイマイマイマイ!」
その奇声で振り向き、元美夜だったモノを見る。
眼球は昆虫の触角のように完全に飛び出しており、全身はびしょびしょ…というよりネチョネチョ。背中には…渦巻きのような物がある。
あれは蛞蝓じゃない。
蝸牛。人間蝸牛だ。。
悲しいことに、もう美夜の原型がほとんどない。アレは最早ただの化物だ。
母は外に出て、エレベーターまで一気に走り、乗り込む。母は私を背負うのに疲れたのか一旦私を下ろし、その場に座り込んでしまう。
「何?何なの?アレは何なの!?…なんで、こんな事になったの?あぁぁぁ…」
母は泣きながら頭を掻き毟る。明らかに動揺していた。…無理もない。あんな化物を見てしまったら、誰でも気が狂う。私だって、今すぐにでも発狂したい…でも、駄目だ。
「ママ…大丈夫…?」
「夕美…」
私は泣きじゃくる母を優しく抱きしめる。背中を摩りながら、母に呟く。
「落ち着こう…このまま泣いていても、事態は解決しないよ。だから…とりあえず今は…」
ぽちゃん。
私の手の甲に、一滴の雫が落ちる。母の涙かと思った…
違った。
天井には…美夜と同じ姿をしたモノ…人間蝸牛が張り付いて、私達を尖った触角で見詰めていた。
「マイマイマイマイ!」
ソイツは美夜と同じ奇声を発すると、母の背中にボトンっと落ちてきた。
「いやぁぁぁぁ!」
母はソイツを振り払おうとするが、ネッチョりとした液状の身体が母の身体を覆い、放れない。
「あ…あ…あ…」
母越しに、ソレは私を飲み込もうとする。母はソイツの行動を読んだのか、私から放れ、壁に激突しソイツに攻撃する。
「夕美、逃げてー!」
それが母の最期の言葉だった。
ソイツは美夜のように口を母の口にくっつけ、吸水を始める。と同時に、エレベーターは一階に着く。
私はなんとか立ち上がり、よろめきながらも歩き出す。母はソイツに水分を吸い取られガリガリになっていく。
「ママ…ごめん…」
助ける事も出来ない私は母をエレベーターに残し、マンションを出た。
外に出ると、さっきの小雨は大雨になっていた。私はびしょびしょになりながら、辺りを見回す。
私は絶望した。
人間蝸牛だらけだ。道路もマンションの壁もマンションの前を流れる下水道も…そこら中にいる。
私は崩れ落ちる。
「マイマイマイマイ!」
奇声が後ろから聞こえた。そこには元美夜だったモノがいた。
私は逃げる事を既に諦めていた。私は叫ぶ。
「なんなのよ!なんで…なんでこんな事になっちゃたのよ!?アンタなんなのよ!?」
「マイマイ…それはだね…マイマイ…お姉ちゃん…マイマイマイ…」
しゃ、喋った。
「マイマイ…お姉ちゃん…マイマイ…お姉ちゃんは人間見て気持ち悪いって…マイマイマイ…思った事ない?」
なに?なんなの?この展開は?
「な、ないわよ!アンタの方が…よっぽど気持ち悪いわよ!」
「マハハハハハハハハハハハ」
笑った。
「マイマイ…私達からすると…マイマイ…人間の方が…マイマイ…気持ち悪い」
そう言うと元美夜だったモノは私にネッチョりくっついてくる。
「ひ!いやっ!」
「マイマイ…大丈夫…マイマイ…お姉ちゃんを…マイマイマイ…気持ち悪くさせないから…一人にさせないから」
「いや!やめて!離して!」
元美夜だったモノは、さらに私に口をくっつける。ネッチョりした感触が、口全体に広がる。
「ん…ん…」
「マイマイマイ…」
喉奥までネッチョりした感触がくると、
ズズズーーー!
っと一気に私の身体の水分が吸い取られる。私は悲鳴すら上げる事が出来ず、すぐに目の前が暗くなった。
カラカラになった私は元美夜だったモノの前で干からびていた。
「マイマイ…ほら…マイマイ…お姉ちゃんも…マイマイマイ…」
喉が渇く。嘘、こんな状態で、私、生きてる。
私はカラカラになった状態で、目の前にある水溜まりまでなんとか辿り着く。その水をゴクゴクと飲む。
「…足りない」
水溜まりを探す…見つける…飲む…また水溜まりを探す…見つける…飲む…また水溜まりを探す…見つける…飲む…また水溜まりを探す…見つける…飲む…また水溜まりを探す…飲む…また水溜まりを探す…飲む…また水溜まりを探す…飲む…また水溜まりを探…マイマイマイマイマイマイマイマイマイマイマイマイ
我々は思う。我々の事を、人間は気持ち悪いと言う。我々だけでない。団子虫、ゴキブリ、蜘蛛、蛾、百足、蛙…と犠牲者はたくさんだ。
許すまじ、人間。
我々からしたら、『気持ち悪いから』という理由で我々を殺す貴様達の方がよっぽど下手物だ!
粛清せねばならん。
思い知れ、人類よ。我々の苦しみを味わえ。…マイマイマイマイマイマイマイマイマイマイマイマイ。