第1話(陽菜の最後のスケッチ)
※事故や死の描写が含まれます。閲覧注意です。
午後の陽光が、街路樹の葉を透かして柔らかな影をアスファルトに落としていた。藤原陽菜は、いつものようにスケッチブックを手に持つことなく、肩に掛けたトートバッグに無造作に突っ込んでいた。今日は特別な気分だった。彼女のイラストが、ある小さな絵本の挿絵として採用され、その打ち合わせを終えたばかりだったのだ。
「やっと…やっとだよ…」陽菜は小さく呟き、頬を緩めた。笑顔がチャームポイントだとよく言われるが、今の彼女の笑顔は格別に輝いていた。20代前半にして、自分の描いた絵が本になる——それは彼女にとって、夢の第一歩だった。
歩道を歩きながら、陽菜はスマートフォンを取り出し、母親にメッセージを送ろうとした。「お母さん、決まったよ!私の絵が本になるの!」と打ち込み、送信ボタンを押す直前——ふと、視界の端に何か光るものが見えた。
「ん…?」顔を上げると、そこには小さな女の子がいた。ピンク色のリュックを背負った女の子は、信号待ちの歩道で母親の手を離してしまったのか、無邪気に車道へと駆け出していた。そして、その先に迫っていたのは、けたたましいクラクションを鳴らすトラックだった。
「危ないっ!」陽菜は考えるより先に体が動いていた。スケッチブックの入ったトートバッグが地面に落ち、スマートフォンがアスファルトに転がる音が響いた。彼女は全力で走り出し、女の子を腕に抱き寄せるようにして車道の反対側へ飛び込んだ。
次の瞬間、陽菜の視界は真っ暗になった。耳をつんざくブレーキ音と、誰かの悲鳴が遠くに聞こえた気がしたが、それもすぐに消えた。体が地面に叩きつけられる感覚も、痛みも、何も感じなかった。ただ、静寂だけが彼女を包み込んだ。
陽菜の意識が再び浮上したとき、自分の体がどこにあるのか分からなかった。視界はぼやけ、耳鳴りが響いていた。目の前には、トラックのタイヤと散乱したスケッチブックのページが見えた。彼女が最後に描いた絵——カフェの窓辺に咲く小さな花のスケッチ——が、鮮血に染まっていく。
「…あぁ、そうか。私…」陽菜は静かに呟いた。声は出ない。体も動かない。心の中で、彼女は自分の運命を悟っていた。
「死んじゃったんだ…」
陽菜の意識はそこで途切れた。最後の記憶に残ったのは、血に濡れたスケッチブックのページと、遠くで泣き叫ぶ女の子の声だった。