15.メイドは微笑む
気が付いたのは噴水のそばに備え付けられたベンチの上だった。
「……なんだったんだ……一体……」
未だに朦朧としながら、先ほどの邂逅を志澄は思い出す。
見知らぬ女子生徒に額を触られた直後にめまいがして倒れてしまった。それ以上でもそれ以下でもない。
超常的な何か。危険な物質。物理的な技巧。
志澄は多くのことを逡巡したが余計に取り乱しただけだった。彼にとって卒倒して意識を失うことはこれが初めてであったことも混乱に拍車をかける。
「事実として俺はここに……いや、ここに座ってはいない……」
意識がなくなった時との違いに考えを巡らす。
数メートルほどしか離れてはいないものの、記憶の差異は少なからずともあったことを認識する。
「精霊……カギ……?」
突如として話しかけられた支離滅裂な妄言と認識していた緑髪の彼女の言葉が何を意味していたのか。
霧のように広がり乱された意識が徐々にまとまり、不可解な現象が徐々に恐怖へと変わっていたことを理解し始めていた。
「……何をされたんだ」
ブー!ブー!
志澄は突如として鳴り響く振動音に体を軽くびくつかせた。
その正体は携帯端末。端末のディスプレイを覗き込むとそこには先ほどまで恐れていた人物からの架電だった。
彼は自然とその着信に出る。
「坊ちゃま……」
北條家の使用人であり専属のメイド、朱音からだった。
「聞こえてますか?」
「ああ……」
「現在の時刻はお分かりでしょうか?」
「……今何時だ?」
志澄は肝心なことを確認していないことをここで思い出した。
「……からかっておいでですか?」
「……俺が朱音をからかったことがあったかな……」
とぼけているのか大真面目に尋ねているのかわからない口調を朱音に向けた。
「……午後8時55分です。今からお迎えに参りますので現在地をおっしゃってください」
その声を聞いた途端、緊張の糸が切れたのか、不満を含ませた雰囲気を作りつつもやや砕け声色でメイドは返答した。
「いや、もうすぐ帰る」
「いけません。それに何か様子が芳しくありません。今いる場所をおっしゃってください」
志澄が幼いころから従事する朱音はすでに志澄の異変に気が付いていた。帰宅する時間が遅れたことも相まって、声色が一段と鬼気迫っている。いつも通りの丁寧な言葉使いながらも志澄の安否に敏感となっていた。
「怒らないで聞いてくれ」
「すでに至る所まで至っていますので」
「……学校なんだ」
「……」
ようやく焦りをうっすらと浮かべた彼の声から発せられたその言葉を聞き、怒気を失い呆れたという感情がその間隙に詰っていた。
「……今から㐂開学園にお迎えに参ります。正門前でお待ちください。お戻りになりましたら……覚悟ください」
言葉につまり、帰宅したらお小言の雨あられが降り注ぐことを事前に伝えた朱音だった。
先ほどの不可思議な出来事を幾度も反芻しながらも正門で彼が車をまっているとしばらくして見慣れたセダンが止まった。
スーツ姿の朱音が運転席からゆっくりと出てくる。
志澄はあまり見たくはなかったが彼女の顔色を窺うと怒りを通りこし、その表情には何もなく修飾が難しい、無の境地へと到達していた。
(入学して以来、いや人生でワーストかもしれない)
現状を生来の最悪の瞬間であると心の中で囁いた。
やや踵の高い靴を履いているため普段より一層、彼女の凄味が演出される。
「ご気分は?」
「たぶん大丈夫だ」
「それは結構。ですが、顔色があまりよくありません。お車へ」
後部座席へと押し込まれるように誘導され、もたれこむように志澄は座った。
ささっと運転席に朱音が座るといつもよりもゆっくりと車は発進した。この時ばかりは彼女に志澄自身への労わりを感じる。
気まずい無言の時間がしばらく過ぎると気持ちに整理がついたのか朱音から言葉を発した。
「一体、何があったのですか?」
「……まだ整理がついていないんだ」
「……香帆様からおしかりを受けたいですか?」
ふざけていると思われたのか、朱音はある人物の名前を出す。
「やめてくれ……頼むから……」
朱音が口にした北條香帆という人物は志澄の母親であり、朱音にとっても多くの時間をともにしてきた雇い主であるがそれ以上に親のような存在である。
普段は温厚な香帆だが、志澄は過去にこの上なく怒らせたことがありトラウマとなっていた。そんな彼女の名前を出され、すぐさま告げ口をしないよう懇願する。
「幽霊かなにかかはわからないが女性に触れられて、そこから意識がなくなったんだ」
バックミラー越しに志澄の顔色を窺う。
「放課後の活動はそういった趣向なのですか?」
「違う。事実だ」
「その人物がどのような容姿かお覚えですか?」
「学園の制服を着ていてやや小柄だったような気がする」
「それだけですか?」
「取り調べか?」
常日頃から冷静沈着なメイドを是としていた彼女はいつも以上に抑揚のない坦々とした口調で質問をした。そのことが琴線に触れたのか、志澄は冷静さを保ちながら身を軽く乗り出し声を張る。
「理解されているかと存じますが坊ちゃまが北條家の人間であると考えるとこれはよろしくありません。そのまま連れ去られるということも多分に考えられます」
「あの時間に学校にいたのであれば、彼女が誰であるかすぐにわかるだろう」
「宿舎もありますので夜分に生徒が校内にいても然程、おかしな話ではありません。それにその人物が制服を着た外部の人間の可能性もあります。なににせよこれは事件、事故の類です」
「大事にはしたくない。今日は見逃してくれ。交通機関に遅延があったとかで」
「では放課後、何をされているのか詳しくお聞かせください。このようなことが再度あれば私もカバーしきれません。私が香帆様からおしかりをいただくことになります」
志澄はこれまでのことを素直に話した。
「ランドクラフトに生徒会……ずいぶん活動的になられましたね」
「いろいろあったんだ」
「ご学友との交流などは好ましいことだと思いますが学外のことを考えると少しお控えになった方が……」
「俺はこのまま形式的に高校に通い、卒業後は然るところに所属することを考えると無機質だと感じたんだ」
「僭越ながら私も幼少のころから北條家に仕えて、人生の大半を坊ちゃまと過ごしてきました。私の生き方もまた軌条のように捉えられるかもしれません。ですが無機質だとは感じません。坊ちゃまは私をただ従うだけの使用人に見ておられますか?」
「そんなことは……」
「それにあまり異性と多く交流を持つのも些かよろしくありません」
半目を作りながら、ミラー越しに志澄を眺める。
「なぜだ?」
「スキャンダルの種になるからです」
「そういうつもりはないのだが……」
「坊ちゃまはまだまだ、その手の分野に明るくないことは……」
メイドはすべてを言い切る前に年ごろの男子にいうべき言葉ではないと察しながらもいたずら心がわずかに働いたようだった。
「……朱音はよく知っているようだな」
「他の女中もいますため、その手の話は尽きないのです。今すぐ交流を断てとは言いませんが危機管理上、心得てください」
志澄は言い返そうとしたものの、その些細な反攻は弱々しく、サラっと受け流されてしまった。
「俺は皆にそういう評価をされていたのか」
その言葉を聞いた朱音は街灯の光が差し込む暗い車内で人知れず微笑を浮かべた。