二四歳の処女
「咲ちゃん、遊ぼ?」
「うん、遊ぼ。──くん」
私は、彼がくれたお花の形の髪留めを付けて、嬉しそうに、彼に走り寄る。だけど、近付くと、彼の顔はブラックホールみたいな真っ黒の渦になっていて、怖くて怖くて、私は走って逃げるの。彼は追いかけては来ない。遠く遠く離れても、何度も何度も私は振り返る。
私は電車の揺れで目を覚ました。安心と後悔とが混ざった様な、胸に穴が空いた様な感覚に襲われた。
マスクには涎の跡が残ってた。
寝惚けた顔から垂れる涎を見られる方がマシだと思い、身悶えた。
スーツ姿のまま、コンビニに寄り、酒とつまみを買って帰宅した。
「ただいま」誰も居ない部屋に、強姦対策の為だけに大きな声ではっきり言う。
湯沸かしポットの隣を通り、キッチンで一分以上かけて、手を洗った。
社会人になるまでは、珈琲は好きで酒は嫌いだった。けれど、今は違う。珈琲は煙草と同じで、味が欲しい時と頭を働かせたい時に使う道具に過ぎないし、酒も道具だ。嘘の自分を崩せる理由を作れる便利な道具。使えば、人前で寝ても良し、無愛想でも良し。副産物で、絶望的に死にたい夜を、その時間ごとぶっ飛ばしてくれることまである。最高の道具でしかなく、それ以上でも以下でもない。
パチンと酒缶を開け、うおぉ、と汚く鳴いた。テレビのリモコンを握った時、スマホの通知音を聞いた。
「ふざけんなよ、残業はやりましたよおお……ん?」
ダレていた声を出すのは止めていて、パチクリ瞬きをしていた。久しぶりに見る名前だった。
通話は直ぐに終わった。母からだった。
私は不快感に頭を掻き、缶の中をゴクゴクと一気に飲み干した。
母のことは嫌いではないし、どちらかと言えば好きな方だ。けれど、今度の話は不快感を覚えさせるには、五分で十二分過ぎた。
「お見合いとかいらねぇよ‼︎」テレビの音さえイラつきの対象になり、消した。
「分かれよ‼︎」歌手の様に、俯き、両手を広げて叫ぶ。
「解かるだろ‼︎」
そう言って、ソファに投げたスマホを睨んだ。少し経って、静かに握った。
「……あんまり二四の処女舐めんなよ…………なよっ」
幼稚園児の頃、幼馴染の謙也と、結婚しようね、と言って約束した事を思い出し、恥ずかしくなって、ソファ上のスマホに視線を逸らす。
母に冷たくした事を後悔し始めて、その罪悪感が胸の中で大きくなり始めた。ごめん、と打っては送らず消した。
後悔しなかったことを後悔するのは嫌だ。やらなくて本当にいいのか、やった方がいいんじゃないのか、そう考えるだけでもストレスだ。その上、その後悔は考えた時間の分だけ、大きくなるのだから、救いがない。
優柔不断さは敵だ、と自分に言い聞かせて、送信の決断した。
別に本当にこれまでもモテてこなかったわけじゃないし、謙也との約束を信じてきたというわけでもない。ただ、あの日、謙也が取られた日から、人間不信なだけなのだと思う。正確には、私のものでもなかったけど。私は謙也が取られたというよりも、それも嫌だったんだけど、それよりも、その時親友だと思っていた真由が、謙也に近づく為だけに私を利用していた事が許せなかったんだと思う。それで、もう誰も信用しない、と馬鹿みたいに固いガードを作って、男を振って、二四歳を迎えて、後二週間で、まあ一人でコンビニのショートケーキを食べる。ここまでくれば、三〇までこの壁を守って、ピュアを売りにして、愛なんて捨てて、玉の輿を狙ってやろうか、と思う度に死にたくなる。
もう一缶、パチンと開けた。
「ぐわぁ〜」
「死にたい理由を聞かれることがあるけれど、そんなものが具体的にある人の方が少ないと私は思うのですよ、分かりますか? ねぇ、わかりまーすーかー? パードューン?」
無口な友人から返答は殆どない。恐らく話を聞いて貰っていた。
聞いてくれる相手がいるだけで、酒は進むし、記憶が飛ぶ確率も上がる。その上、全ての負の感情は半分になる様な気がするし、逆にダンスを踊れもする。馬鹿な奴らは、ネットの先にしか友達いないでしょ、なんていうのだけど、ネットで深く繋がることもあって、しかし、やっぱりどこか軽薄で、ハサミで簡単に切れる様な関係だからこそ、軽弾みな行動が取れて、酒が進む。
美人だ、なんて言われている現実を忘れて、ゲップを恥ずかしげもなく、音声に乗せた時、スマホに一件の通知が来て、タップした。
「てか聞いてよ、うち、お見合いの話されてんだけどさ──」
母から送られて来た写真を見て、ブッと口の中のスルメを噴き出した。
相手の写真、いや、謙也の写真だった。
「ざまぁくらいやがれ、元親友が‼︎ ──あ、いや、違う。なんでもない……こっちの話」
顔を熱くしながら、どうしようか考え、ガッツポーズを静かに下ろす。毎日丁寧に整えている髪を耳に掛けた。