7.203号室
「うわ、ボロ……」
二階建てのアパートは、つい口に出してしまうほど古びていた。敷地に入ると真横を走る線路を電車が通り、大きな音が響く。
「二〇三号室だから、二階だよな」
鉄板むき出しの階段を上がると、一歩ごとにギシギシと不安に軋み、雨よけのトタンはボルトの錆が流れて茶色の線ができている。二階の廊下も雑多だった。室外機や水道の配管がむき出しで、手すりにそってプランターが並ぶ。伸びたツタには立派なゴーヤが実っていた。
ただ成瀬の部屋の前は片付いていて、ほっとした。ゴミ部屋ではなさそうだ。
深呼吸をしてチャイムを鳴らす。いないとは思うが、さすがに緊張する。反応はない。扉には鍵がかかっていて、太一は扉の郵便受けの蓋を開いて中に呼びかけた。
「先生、いますかー? 風早です。いないのなら、カギを持っているので勝手に開けますよー?」
少し待ち、反応がないのを確かめて鍵穴にカギをさしこむ。回すと、わずかな抵抗と共にカギが開く。
「お邪魔します」
中は暗かった。ドアとすぐ横にある台所の小窓から差しこむ光が、小さなダイニングキッチンを照らす。奥にはもう一つ部屋があり、アコーディオンカーテンで仕切られている。
太一は部屋に上がり、突き当たりのカーテンを開いて振り返った。六畳ほどの洋室には何もなかった。ベッドすらなく、唯一残った吊り下げ式の電灯から紐がだらりと垂れている。
クローゼットを開く。元々は押入れだったのか上下に分かれており、太一は体を入れて奥まで探した。さらにキッチンの棚も、バストイレの中も探すが何もない。
どうして何もないんだ。嫌な想像が頭をよぎる。
古いアパートに、空の部屋。もしかして偽の合いギを用意するための部屋じゃないのか。偽のカギで愛の証明を偽装なんて、どこかで聞いた話だ。
成瀬はそんな奴じゃない。けれど、現実に部屋はもぬけの空だ。まさか、二人そろって成瀬に騙されていたんだろうか。あの優しい笑顔は全て嘘だったなんて信じたくない。
少しの間、呆然としていたが気を確かに持とうと努める。とにかく佳依にこのことを伝えないと。
スマホを出すと、一緒にポケットからカギが出て床に落ちる。部屋のカギと、小さなカギ。
これはどこのカギなんだろう。オートロックはない。部屋に金庫でも置いてあったのだろうか。だが、それにしても作りが適当だ。百円均一で売っているような簡素な作りだ。
「あ」
そんなカギを使う場所が一つだけある。
太一は外に出て、建物の横に向かう。そこには集合ポストがあった。金属を曲げただけの見るからに安物で、鍵も備え付けられておらず、住人が用意した、部屋ごとに色も形も違うダイヤル上や南京錠が並ぶ。そして二〇三号室のポストにも南京錠がつけられていた。
カギを差しこんで回すと、カチっと小さな音を立て南京錠が上に動く。ポストを開けると、何十枚もチラシが地面に流れ落ちた。ポストの上の壁には『チラシ投函禁止!』とマジックで書かれているのにお構いなしだ。宅配ピザ、分譲マンション、コピー機で作った近くの定食屋のチラシ、美容室の割引券まである。
その中に何も書かれていない白封筒を見つけた。封はされていない。中身取り出し、三つ折りになった紙を開く。だがそこには『新しい人生を引き寄せる十の方法』と書かれていた。心理セミナーのチラシだ。
「くそっ、ふざけんなっ」
床にたたきつける。大量のチラシをより分け、中から電気料金の通知はがきを見つけた。中を開くと、二ヶ月分の料金が記載されている。少なくとも、成瀬はここに住んでいた。
「おいアンタ、さっきからなにやっとるんだ?」
振り返ると、老人が立っていた。真っ白な髪に、古びた灰色のツナギを着ている。背が大きく曲がっているせいで、上目遣いになり変に迫力がある。
「あーあ、こんなに散らかしよって、まったく」
「す、すみません、すぐ片付けます」
地面に散らばっていたチラシを集めゴミ箱へ捨てる。
「アンタ、何者?」
ぎょろりと目を向けられ、太一は愛想笑いで誤魔化す。
「えっと、おじいさんは?」
「ワシはここの管理人だよ」
アパートをアゴで指す。ツナギの胸元は大きく開けられ、よれた肌着の白シャツが見えている。清潔感はあまりなく、そんな風には見えない。
「なんだ? ワシが嘘ついてると思っとるのか?」
「い、いえ。そうじゃなくて。あ、あの、二〇三号室に住んでいた人はどうしたんですか?」
「あそこはもう引き払ったよ。教師をやってたらしいんだが、生徒に手を出したらしくてな。ガサ入れされたすぐ後に、引っ越し業者が来て荷物を持って行っちまった」
「引っ越し? どこに行ったのか、わかりませんか?」
「んー、さあわかんねえな。こっちにも連絡なくてよ、日が沈んでから作業始めよったから夜逃げかと思ったくらいだ」
ここまで来たのに何の手がかりもないのか。太一が肩を落としていると、老人は「ああ、そうだ」と手を叩く。
「業者と一緒に男が来とったな」
「男? それ、誰かわかりますか?」
「ありゃあ、あの男の父親だろうな。目元が似とったよ」
「父親? どうして……?」
「そんなの決まっとるだろ。捕まっとる本人は自由に動けんからな。やから代理で来たんじゃろ。契約解除の委任状も持っとったし」
「あ、あの。それを見せてもらうことって……」
委任された相手の名前がわかれば手がかりになる。
「できるわけないだろ。最近は個人情報がうるさいからな」
「でも、名前だけでも教えて貰うわけには」
「しつこいな。無理なものは無理だ。教えて欲しいなら弁護士でも雇え」
せっかく手がかりが見つかったと思ったのに、とりつく島もない。
「契約は今月いっぱいだ。来週には清掃の業者を入れる。忘れ物があるなら、とっとと回収するこったな」
そう言うとおじいさんはアパートの隣の家にもどっていった。
太一はもう一度部屋に入り、部屋の真ん中であぐらをあく。
「……正直に言うしかないよな」
スマホを取り出し、佳依にメッセージを送る。
『ごめん。何もなかった』
『何も?』
『ああ。先生の親が来て、荷物を持っていったらしい。もぬけの空』
既読のマークがついて、長い間があった。佳依の気持ちを考えると心が痛んだ。期待していたのに、何一つ残っていない。あわよくば、太一も何か一つもらっていくつもりだったのに。
『部屋を撮ってきて』
『何もないんだぞ。家具もないのに』
『それでもいい。先生が住んでいた部屋を見てみたいんだ』
『ビデオ通話じゃ無くていいのか?』
『止めとく。一人じゃないと見れないから』
『わかった』
太一はスマホを手に部屋中を撮影した。部屋やキッチンだけでなく、トイレやバスタブまで。生活感があふれる場所を撮るのはためらいがあったが、佳依だけにわかる何かがあるかもしれない。わずかな取り逃しもないように容量が一杯になるまで撮った。
漏れが無いのを確認して、佳依への義務を終えた。太一は座り、スマホを床に置く。そしてもう一度部屋を見渡す。
するとフローリングにできたへこみを見つけた。家具の重みで出来たものだ。さらに痕跡をたぐると、ベッドや棚の位置がぼんやりと浮かぶ。
ベッドがあった位置に移動して寝転ぶ。沈殿した空気に、わずかに成瀬の匂いが残っていた。その懐かしい匂いに、成瀬との思い出が浮かんでくる。笑顔や声がよみがえる。
もう会えないんだ。
「先生……」
胸が詰まって声が震えた。苦しくて膝を抱える。目元が熱くなり涙がにじみ出る。
「くそっ」
流れそうになった涙を拭う。用事は済ませたんだ。早く出よう。ここにいたら泣いてしまう。
「……ん?」
ふと吊り下げ式の電灯に目がいく。その傘の端の折り返し部分に、親指の先ほどの小さな影があった。
立ち上がり手を伸ばすが届かない。ジャンプして左右に揺らすと、影はころりと転がって落ちた。両手で受け止めると、手のひらで小さく跳ねる。
「指輪? なんで?」
銀一色のシンプルな形をしていて、男物なのか、大きめに作られている。太一でもつけられそうだ。
けれど成瀬は指輪をするタイプじゃない。装飾品をつけている所を見たことすらない。しかもなんで電灯に?
指で持って角度を変えると、内側に細い文字で刻印がされていた。
『S to K』
すぐに気づいた。
『俊介から佳依へ』
そしてその反対側には四文字の英字の下部だけが刻印されている。ペアリングだ。
強くリングを握りしめる。ポケットに入れようとしたがこのままでは傷つけてしまう。何か無いかと探すと、後ろポケットからいつ入れたかわからないハンカチが出てきた。しわだらけのそれを広げ、指輪を丁寧に包む。
部屋を出た太一は、自転車に飛び乗り全力で走り出した。