3.Sole allegro
ここで、いいんだよな。
学校の帰り、自転車で国道沿いに二十分ほど走り、小道に入った場所に指定された喫茶店があった。
外装が白の木材で統一されたおしゃれな二階建ての建物。店の前には小さなデッキがあり、丸テーブルが並ぶ。ボーダーのオーニングにはイタリック体で『Sole allegro』と書かれていた。
店の前には手書きのメニューボードがあり、パスタメニューが並ぶ。太一は自転車を押して店の前を通りながら、窓から中を覗く。お客は数組しかおらずその全てが女性だ。桐山の姿はない。
店を間違えたのだろうか。携帯を取り出してメッセージを確認しようとすると、後ろから低い声で呼ばれた。
「おおい、君」
振り返ると男性がデッキから身を乗り出して手を振っていた。
「俺ですか?」
「そうそう。さっき店の中を見てたみたいだけど、誰か探しているのかい?」
見た目は四十台半ばほど、短く刈った髪に整えられた口ヒゲ、筋肉質な体はよく日に焼け、ノリのきいた白いシャツとギャルソンエプロンといかにもな格好だ。
「は、はい。そうなんです。俺――じゃない僕、桐山という人と待ち合わせしていて」
そこまで言うと男性はパッと笑顔を見せる。
「ああ、君が佳依の友達か。こっちにおいで」
招かれるまま店内へ入ると、ドアに取りつけられたベルが涼しい音を響かせた。
店内は思ったよりも小さい。茶色をメインにした内装は隠れ家のような雰囲気があり、ほぼ正方形の店内には、かなり余裕を持って席が配置されている。二人がけの席が五席とカウンター席があるだけだ。その間には観葉植物が多く置かれ、視線が合わないように工夫されている。そのオシャレな雰囲気に、太一は自分には無縁の店だなと感じた。
「おおい、君、こっちこっち」
カウンター横の通路に入ると、個室の部屋が三つ並ぶ。ドアはないが高めのパーティションが目隠しになっている。ひょいとつま先立ちになって中をのぞくと、長ソファがテーブルとテーブルがあった。長時間利用する人用の部屋らしく、居心地が良さそうだ。
その一番奥、突き当たりの部屋に入る。
「佳依、お友達だよ」
「ありがと」
聞き覚えのある声に緊張しながら部屋に入ると、ソファに佳依が座っていた。
夏になっても雪のような肌は変わっていなかった。ニキビに悩む太一と同い年とは思えないほど、肌が綺麗で、触れれば溶けてしまいそうだ。不意に太一は、好きな大福のアイスを思い出す。鼻筋が通り、整った顔は凜々しさを感じさせる。けれどよく見ると、幼さを感じさせる大きな目に、少し丸みのある鼻を見つけて可愛さが覗く。
前よりも大人びて見えるのは髪が少し長めだからだろう。眉にかかった色素の薄い髪を手で細い指ですっと横に寄せる動きに、色気を感じてしまう。
「立ってないで座ったら?」
「あ、ああ。うん、そうだな」
ぼうっとしていた太一は慌ててソファに座る。
「二ヶ月ぶり? 夏休みを挟んだから三ヶ月ぶりだね」
佳依は微笑むが、太一は表情が上手く作れなかった。緊張で手が震えていて、机の上に出せない。
「俺のこと、覚えてたんだな」
「友達なんだから当たり前でしょ。けど、記憶と違って日焼けしてる」
「夏はずっと部活をしてたから」
「テニス部だっけ? 夏の大会どうだったの?」
「三回戦敗退。二回戦で県大会上位の奴と当たって勝ったんだけど、それで力を使い果たしちまった」
コンコンとパーティションノックされて振り向くと、先ほどの男性がお盆を手に部屋に入ってきた。
「失礼するよ」
太一の前にパンケーキが出され、アイスティーも置かれる。
「どうぞ召し上がれ。この店の人気メニューなんだ」
「え? でも」
今日はほどんどお金を持ってきていない。なけなしの小遣いも佳依への買い物で使ってしまった。
「大丈夫。お代は結構だから」
「そんな、お店なのに」
「太一、もらってあげてよ」
押し問答が始まりそうな所に佳依が割りこむ。そう言われると断れない。
「……あ、ああ、わかったよ。それじゃ、いただきます」
「いえいえ。あっ、そうそう。自己紹介していなかったね。私は五十嵐勝。佳依の親戚でこの店の店長をしてます。お店共々よろしく」
「僕は風早太一です」
「うん。よろしく。それじゃあごゆっくり」
五十嵐はそそくさと部屋から出て行く。なんだか友達の家に行った時の母親のような対応だ。
「ごめんね。友達が来るっていったら、テンション上がっちゃって」
小さなパンケーキは三角形に並べられ、たっぷりの生クリームにイチゴやバナナ、ベリーの上にパウダーシュガーが雪のように振りかけられている。甘い香りに太一のお腹が音を立て、佳依は小さく吹き出す。
「お腹が正直なトコは変わってないね」
「う、うっせえな。育ち盛りの食欲なめんなよ。佳依だって買い物を頼んで来たくせに」
太一は鞄を開くと、ファストフードのマークのついた茶色の紙袋を取り出す。紙袋を取り出しただけで、ハンバーガーの強い香りが部屋に広がった。
「うわっ、本当に買ってきてくれたの? ありがとう」
佳依は両手で受け取ると、ガサガサとハンバーガーを取り出して、かぶりつく。
「んー。美味しい」
「ただのハンバーガーだろ。大げさだな」
不味くはないが、味の感想をわざわざいう食べ物ではないと思う。
「あ、おふぁね」
かじりついたままポケットをまさぐる佳依を手で制す。
「いいよ。これと交換な」
手にしたナイフとフォークでパンケーキをさす。
「そう? ありがと」
一つ目を平らげた佳依は、続けてチーズバーガーを取り出す。このままじゃテリヤキやフィッシュまで食べてしまいそうだ。体は細いのに相変わらず大食いだなと、太一は苦笑する。
「ここの食事、美味しそうなのに、どうしてハンバーガーなんか頼むんだよ」
ふと嫌な予感がしてナイフを持つ手が止まる。もしかして、見た目は良いが味がひどいのだろうか。お客さんの入りも良くなかった。こわごわケーキを口にすると、太一は目を丸くした。
「あれ? 旨いじゃん」
パンケーキはナイフで潰れた部分がすぐに持ち上がるほどフワフワだった。味は薄めだがフルーツの味が際立ち、生クリームとの相性も抜群だ。太一には物足りなさを感じる量だが、女性にはちょうど良さそうだ。
「ここの料理は美味しいんだけど、そればっかりじゃ飽きてさ。たまにはジャンクフードも食べたくなるんだ」
「そんなもん?」
「そんなもんだよ」
佳依はチーズ、フィッシュと続いてテリヤキも平らげる。手についたテリヤキソースを舐めとり、太一に尋ねる。
「学校はどうなの?」
明日の天気を聞くような問いかけに、うっかり軽率な言葉を口にしかける。佳依が当事者であることを忘れかけていた。
「今は落ち着いている」
言葉に気をつけながら応える。初めこそ成瀬の話題で持ちきりだったが、新しい先生も来て学校生活が元のように回り出すと、急激に成瀬の話題は減った。
「そう。まあ当然か。僕のことは?」
「……いや、みんな成瀬のことばかりだよ」
「まあそうだよね。不登校だったし。僕の顔を覚えている人もいなさそう」
「そういう言い方よせよ。佐々木や香山とも仲良かったじゃん」
すっと佳依の表情が冷える。
「彼らは……太一の友達でしょ? 僕が太一の隣にいたから話をしていただけ。僕の友達は太一だけだった」
そのことは知っていた。登校すると、佳依は必ず一人で、誰かと話している所を見た記憶が無い。だからクラスメイトとの唯一のつながりだった太一が距離を取ったことで、佳依は孤立した。
「そろそろ聞かないの?」
「……え?」
「事件のこと。本当なのか聞きたくてここに来たんでしょ?」
「話したくないだろ。俺も聞きたくねえし」
そっけなく太一は答える。興味はないと言えば嘘になる。だが襲われた時の話を被害者にさせるなんて、傷口をえぐるようなものだ。
「俺はただ、お前が心配で会いたかっただけだ」
佳依は微笑む。
「嬉しいな。太一のそういう所、好きだよ」
「なっ、好きとか言うなよ」
「だからこそ聞いて欲しいんだ。……僕と俊介さんがセックスしたのは事実だから」
太一は心のどこかで、まだ成瀬のことを信じていた。それを裏切られると、ふつふつと成瀬への怒りがわき上がってくる。フォークを握る手に力が入った。
「サイテーだよな、アイツ」
学校じゃ優しそうな顔をしてたくせに、佳依にひどいことしていた。
太一はクラスで一番成瀬と仲が良かった。なのにその本性を見抜けなかった。太一と談笑したその後に、佳依に乱暴していたと思うと悔しくてたまらない。
「サイテーじゃないよ。僕がそれを望んだんだ」
「え? けど、テレビじゃ……」
一方的に体の関係を迫り、立場の弱い佳依は断り切れなかったと報道していた。
「僕たちは付きあっていたんだ」
意味が飲みこめず、数秒思考が固まる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。だって男同士だろ」
「男同士で何の問題があるの? だって僕はゲイだし」
さっきから佳依は成瀬を下の名前で呼んでいた。そこには躊躇も違和感もなく、口にした回数の多さを感じさせた。
「俊介さんは男で好きになったのは僕だけって言ってた。女の人でも興奮するから両方かも」
あっけらかんと佳依は言うが、太一はますます混乱した。どうしてそんな大事なことを自分に教えるんだ。言葉を失う太一に佳依は問いかける。
「信じられない?」
まっすぐ見つめられると、嘘はつけなかった。
「正直、信じられないけど、信じるよ。詳しい事情はわからねえし、頭の中がグシャグシャで混乱してるけど、佳依は嘘つくような奴じゃない」
「良かった。太一は昔のままだ。ちょっと安心しちゃった」
佳依は息をはくと、ソファにもたれる。今までずっと背筋を伸ばしていたことに今さら気づく。佳依も緊張していたんだ。そう思うと、太一も少し気が楽になった。