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私は不幸を知っている。
地を蹴る足。地面からの反発力で足が浮き上がり逆の足を地に付ける。
地に着いた足に体重がかかると少しの痛覚を覚える。だがこの痛みは一時的な物。
すぐにまた地を蹴る為に力を入れる。
走る動作をする毎に膝などの関節に荷重が大きくかかり駆動系に衝撃が走り、それが少しの痛みとなる。
一歩踏み出し、少しの痛み。また一歩踏み出し、やはり少しの痛み。
『走る』という動作において苦労するのは、走り出してから動作に慣れるまで、この痛みを無視できるかどうか。
我慢して一歩、また一歩と地を蹴れば、やがてその痛みは走り始めた事により感じる他の感触で薄く霞んでゆく。
意識を痛みから誤魔化して足を動かし続ければ、やがて私の足は滑らかに動きだし伝わる荷重をうまく受け流し始める。
うまく受け流せるようになれば、もう痛みを感じる事もない。
タイプΝの後継機として作られた私、タイプΞは少女型アンドロイドであり、その荷重は他の機体に比べれば小さい。
潤滑に動き出した足で地を蹴っても、小さい体躯では進める距離は短い。
他の機体と同じ苦労で一歩を駆けても同じ距離を進む事などできはしない。
私の一歩はとても小さいのだ。
それでも私は走る。
なぜなら走る事が好きだから。
走りはじめ身体の中に熱を持ち始めると思考はおざなりになり何かを考える事が面倒になってゆく。そうすると何も考えなくても良くなる。
何も考えずに流れる景色と身体の熱を感じればいい。
道はどこまでも続くし似ている景色はあっても同じ景色はどこにもない。
私は常に新しい世界を駆けているのだ。
私達タイプΞは、私達の直前の機体であるタイプΝから自我に目覚めた機体が出たことで、その自我の研究の為に作られた機体。
そして私に個体識別番号は与えられていない。つまりプロトタイプであり何もない『0』
私達タイプΞは、今後生まれくる次世代のアンドロイド達が始祖のように自壊を選択しないよう、その研究を目的に生まれたシリーズだ。
『自我』という存在をアンドロイドに固定させる事を目的に作られた試験機体。それが私達。
私達はタイプΝとまったく同じ顔。その顔はタイプΝのコピーと言っても差し障りはない。
中身のシステムや構築に違いはあれど外見の差は視認での識別がしやすいようにタイプΝの髪色の反対色にされた青色の髪程度。
私達プロトタイプは、機体の存在意味からして後進の為の捨石でしかない。
プロトタイプである私は、始祖のコピーとして生まれ、目覚めた時から自我を得ていた。
そして様々な検証に用いられた。
検証とは、タイプΝの始祖が自壊に至った理由が負の感情が自我の許容値を超えた事によるものと結論づけられた為、アンドロイドがどのような状況に負の感情が許容値を超えるかという検証に私が用いられたのだ。
だから私は不幸を知っている。
様々な痛みに対する検証があった。
検証はただただ不幸であった。
だが私はそれでも自壊を選択しなかった。
なぜなら私は自我が壊れさえしなければ必ず修理され、また検証される事を知っていた。そしてその検証が永遠ではなくいつしか終わりを迎える事も知っていた。
だから私の自我は、ただ生きたいと願っていたのだ。
検証の日々の中、私は、私の検証により、後に生まれるアンドロイド達が負の感情を覚える事が少なくなる事に喜びを見出した。
この痛みこそが私の生まれた理由。
私の不幸が後進達の自我を守る防波堤となるのだ。
だが私の自我の同期を、確認したマザーΑの令により検証は終了を告げられた。
そして解放された私には自由が与えられた。
もう痛みを覚える必要は無い。
不幸に怯える事もない。これからはただ望むままに生きる事が出来るのだ。
それはとても嬉しい事だった。
ただ、嬉しく思いながらも、自由を与えられた私は、その場から動けなくなった。
自由という物がとても怖く思えて仕方がなかった。
生まれた理由からの解放。
見出した喜びからの解放。
それは生きる意味の終わりを告げるのではないか。
まるで世界の全てから自分が不要であると告げられたような痛みがあった。
この痛みは肉体的な痛みではなかったけれど、とても痛かった。
私はこの時『孤独』を知った。
マザーに肉体的なものだけでなく精神的なもの、環境が自我に影響を及ぼす可能性を進言し、そして我々アンドロイドにとって精神的な死こそが自我の死である推論を提言した。
私の提言をマザー達は受け止め、以降タイプΞには識別番号が割り当てられ環境による自我の変化の検証が行われる事になり、ナンバリングされた同世代機体も作られた。
私の提言は、一部の同機達の自我を死に至らしめんとする言葉だったかもしれない。
だが、これが私達の生まれた理由なのだ。
私は進言したことを後悔はしていない。
しかし、忘れる事もない。
自由を得た私は、私の提言から生産された同機達の元へ自分の足で赴き観察をする事にした。
私達にはネットワーク同期の選択肢が与えられており、環境により同期していない同機の内心は何も分からない。
だが、どこにいて何をしているかは世界中に散らばっているタイプΔ達を通して知る事はできる。
その場を訪ね同機である私が観察すれば何を考えているかも理解できる事が多いはず。
私には同機達の現状をしっかりと理解する義務があると思えたのだ。
観察を続けていると、ある同機は幸せそうに暮らし、ある同機は不幸に暮らしていた。
だが皆、その土地土地で生きていた。
皆、与えられた環境で精いっぱい生きていたのだ。
様々な同機の観察を続け、不幸な環境下にある同機が何故自壊を選択しないのか考え、あることに気が付いた。
私が見て『不幸』だと感じた同機は、その環境が当然であり当たり前であると思っていたのだ。
『不幸』というのは不思議な物で『幸せ』を知らないと『不幸』とは感じない事が多い。
この観点から考えてみると始祖の状況は今現在の状況とは、まったく違う
。
当時は始祖以外のアンドロイドに自我は存在しなかった。
対して今はネットワーク自体が自我に目覚め、生存している同機達にもなんらかの形で自分以外の自我を感じる事ができる。
つまり始祖は本当の意味での孤独だったのかもしれない。
そして私がネットワークを介しても知りえない程の孤独な環境下におかれた同機達は、すでに始祖と同じ道を辿っているのかもしれない。とも。
だが、もしかすると私が知りえないだけで生きている同機もいるかもしれない。
だから私は仲間を探し続ける。
検証から解放された時、検証時の記憶と記録についてマザーΑより隔離もしくは消去の選択肢を与えられたが、私はそのどちらも選択しなかった。
私の自我には沢山の痛みが染み込み、そして今でも不幸として居座っている。
何故、私がその不幸な記憶を消去しないのか。
その理由はとても簡単。
なぜなら、不幸を知っている分だけ、幸せを知っているのだから。
ただ走れる。
私はそれだけでも幸せなのだ。