Υ00517-001
私は本が好きだ。
本来私達には本という物質は必要ない。
文字情報だけであればダウンロードできるし、3分もあればダウンロードした内容を把握し理解できる。
私達にとって読書は圧倒的非効率な作業であるけれど、それでも私は読書、本のページを捲り文字を目で追うのが好きなのだ。
今、私が手にしている本は『老人と海』
過去の人間達が残した文学。
文字は少なく、私が好む非効率な読書であっても3時間もあれば読み切ってしまえる本だけれど、その本を私はもう一週間は読み続けている。
もちろん繰り返し読んでいるのだ。
私が繰り返し読む理由は幾つかある。
まず現在において『本』自体の数が非常に少ない。
地上に人間が存在せず、アンドロイドしかいないのだから当然といえば当然。
過去に知識として『本』の存在に興味を持ったアンドロイドが、実物を読んでみたいと本を作らなければ、私も本を好きになる事は無かっただろう。
彼、彼女達の努力があって、今ではタイプΔにお願いすれば、簡単に私も本という宝物を手にすることができる。
簡単……と言っても、それはお願いをするだけでいい私にとっての簡単であり、本を作るタイプΔは、いつも完成までにそれなりの時間がかかっているから大変だろうと思う。
あるアンドロイドは、私の読書を「無駄」と笑う。
それもそうだろう。
私自身、本を作る手間、手に入れてから少しずつ読むという作業の無駄の多さは理解している。
時間や労力がかかるのに、読み終えた結果は私の満足しか得られない。
それを理解した上で、それでも好きなのだから、それで良いのだ。
私は、本を支える指にかかる紙のしっかりとした質感を感じながら、紙の表面を撫でるように滑らせ指紋にページをひっかけて捲る。
新しく開かれたページの右の端から文字を追い、一語、一文に潜む登場人物たちの感情や背景を考え、想像し、物語を紐解いてゆく。
読書はいい。
私の世界に色を与えてくれる。
そして、その色が私を満たしてくれるのだ。
あの時々やってくるアンドロイド、タイプΣが、いつも突飛な事をするのは私にとっての読書と同じ意味を求めているのかもしれない。
セミロングの黒と茶の間のような髪の色に、髪の色により際立つ肌の白さ。
私よりも年上を想定して作られた女らしい体躯は、なぜだか少しだけ羨ましく感じてしまう。
私達アンドロイドは、紛れもなくアンドロイドであり人のようには成長しない。
タイプΡ以降、生体皮膚機能が付与され、より一層アンドロイドは人へと近づいた。だけれど私の体躯は、これから先もずっと少女のそれだ。
私に備わった自我や自意識は、私の心が永遠に子供に縛り付けられたのではないだろうかと悲しく思ってしまう。
そんな不安から、私はコア・ネットワークへの同期を行う。
識別番号00517が指すように、私にも同タイプの仲間がいる。
コア・ネットワークで同期を行うことで、他のアンドロイドや、同期した『私』を知る事が出来るのだ。
ある私は、タイプΞと姉妹のように生活し、
ある私は、他のアンドロイド達に持て囃されようと愛想を振りまき、
ある私は、生体に近づこうとして挫折し、
ある私は、タイプΤと共に旅をしている。
様々な私。
どれも私。
同期で様々な私と繋がる事で私は安心する。
同時に『私』は『私』なのか不安にもなるけれど、これが『私』なのだ。
私が本を繰り返し読む幾つかの理由の一つは、その『私』達の視点で物語を読む為もある。
どの私も本を読むと、必ず何かを感じる。
それは感動であったり、
それは喪失であったり、
それは愉快であったり、
それは無聊であったり、
必ず何かを感じる。
それがとても楽しい。
――いよいよ老人が尊敬する敵と再び相まみえんとするシーンに心躍る気持ちを感じた私は、一度、本に指を挟んで膝の上へと置き、ベンチの脇に用意したサイドテーブルの上にある茶色の液体が入ったグラスへ目を向ける。
なぜだか船上の老人のように喉の渇きを覚えた気がしたのだ。
同期を行っている事で、様々な知識を容易に手にする事のできる私を頼り、お茶を作りたいと言ったタイプΣの作ったドクダミ茶。
ついさっき、わざわざ煮出してお茶にした物を持ってきてくれたのだ。
私達アンドロイドは食料や水を必要としない。
だけれども、タイプΡ以降は機械らしい機能を制限することで飲食が可能になった。
栄養を吸収するわけでもなく、ただの『人』の真似事でしか無いけれど、苦みを、酸味を、塩味を、甘味を感じる事ができる。
グラスを手に取り、お茶を口に含む。
「苦い……」
お世辞にも、とても美味しいとは思えない味に私はグラスを置く。
お茶を持ってきたタイプΣが、特段の用事もないだろうに、謝りながら慌ただしく帰っていったのは、この味のせいなのだろう。
きっと彼女も、この味を美味しいとは感じなかったに違いない。
私に教えてもらった材料や水をうまく使えなかったかもしれないという負い目から去りたくなったのだろう。
本来であれば私の姉のような立ち位置にいる彼女の行動が、私よりもずっと幼く思え、つい小さな笑いが漏れる。
再度グラスを取り、口に含む。
「やっぱり苦い……
だけれど、悪い味ではないわね。」
一つだけ頷き、指で留めて置いた物語を再開するのだった。