フィオナ――王女にして聖女 1
雪が降っていた。びゅうびゅうと海から来る風が強く、辺りは身を切るような寒さだった。
風をしのぐ壁も、地に敷く藁も、ここにはない。指先は凍り、もはや痛みすら感じなかった。じきに、からだのすべてがそうなるだろう。
――私は、雪が薄く積もって氷となった固い石畳みに倒れていた。お腹からは血を流し、ドレスにまでにじんでいる。ぼやける視界の向こう側には、灰色の空が見えていた。
「フィオナ……」
がしゃん、と甲冑の動く音がして、からん、と剣が落ちる。膝から力が抜けたように崩れたその人を、私はゆっくりと顔を動かし、見た。
兜に隠れてはいるけれど、豊かに波打つ赤色の髪。見開かれた蒼天の瞳。落ちた剣は、血にまみれていた。
「エ……リザ、ベス……」
喉から絞り出された私の声は、ひどく弱弱しかった。当然だ。私はもうすぐ、死ぬのだから。
何度も、何度も、何度も――――夢で見てきた。私が、彼女のせいで死ぬ未来。抗おうとしたけれど、迎えた現実は残酷なまでに夢の通りだった。
私は、最後の力を振り絞ってエリザベスの――姉の手をつかむ様に握った。
「あなたなんて、だいきらいよ――――」
「あなたなんて大嫌いよ、エリザベス」
そう言うと、エリザベスはいつも困ったように眉尻を下げて笑った。
その笑みがとにかく気に入らなくて、私はいつもたくさんの暴言を彼女へ投げた。
「本当に嫌な人だわ」
「そうかしら」
「いっつも馬鹿の一つ覚えみたいにへらへら笑って、気味が悪い」
「ああ、もうこれは癖みたいなものだから仕方がないのよ。気にしないで」
「癖くらい、自制しなさい。そんなのだから、王女失格だなんて言われるのよ」
「うん。王女なんて、確かに私には荷が重いわ」
「……呆れるわ。少しは言い返してみたらどう? そんなことも出来ないの?」
「フィオナは賢いから、何を言ったって私が負けてしまうと思うな」
手ごたえなんてまるでない。思いつく限りの暴言を吐いても、エリザベスは笑うだけ。私の言葉に、彼女が傷つくことは決してなかった。
その事実が、私を余計にイラつかせる。
エリザベスが私に向けるのは、幼児を見守る目そのものだ。だから何を言われても怒らないし、穏やかに笑っていられる。
彼女は、私を見下していた。けれども本来そうするべきは私の方だ。
私たちは姉妹だけれど、生まれには雲泥の差がある。母親が違うのだ。
エリザベスの母は身分が低く、結婚前の父の愛人だった。
故に父王からは目も向けられず、私の母である王妃には疎まれ、これといった後ろ盾もない。
王宮でのエリザベスは、ただそこに存在を許されてるだけの、忘れられた王女だった。
一方で私は王と王妃の間に生まれた血筋正しき王女であり、「神の愛娘」でもあった。
己の未来を夢で見る神の愛娘は、全くの偶然で生まれてくる。
歴史を紐解いても、王女と愛娘の位を同時に持った人はいない。私だけが唯一で、無二の存在だ。
私は、世界中の祝福と羨望の中心にいて、何もかもを生まれながら手に入れている。
けれども、エリザベスは何も持っていない。
それなのに彼女は、ただ年が上なだけで姉ぶる。私を気遣う言葉をかけ、時に虫酸が走るほど慈愛に満ちた笑みを浮かべる。それが腹立たしくてならない。
私はエリザベスを睨みつけて、吐き捨てるように言った。
「……本気で顔も見たくないと、いつも言っているわ。これ以上話したくもない。ここから出て行って。もう二度と私の前に姿を見せないで」
「うん、あなたが言うならそうする。またね、フィオナ」
にっこり――穏やかに笑う。
どんなに怨嗟を込めてみても、この調子だ。本当に腹が立って仕方がない。
私は唇を噛みしめ、私の庭を去っていく、小さな背中をにらみつけた。
名ばかり王女のエリザベスにとって、王宮は窮屈なものだ。実際に口にしたことはないけれど、彼女がそこを好いてないことくらいわかる。
だからエリザベスは、私が住むこの離宮を訪れるのだ。
物心つく頃にはすでにここへ閉じ込められた憐れな妹に会うことで、己の自尊心を保っている。
――ああ、なんてかわいそうなフィオナ。限られた世界しか知らない妹。
そんな風に思って、私を見下しているのだ。
私は王女であり、神の愛娘。私以上に世界に愛され、敬われる人は誰もいない。
誰よりも恵まれた、特別な存在なのに。
なぜ、エリザベスなんかに同情されなければならないのか。
むしろ、彼女の方が私を妬むべきだ。何も持たない彼女こそが。
そうすれば私は、いくらでもエリザベスのことなんか無視できるのに。
目の前が真っ赤に染まる。たまらずテーブルの上のティーカップを投げつけた。
カップは植木のレンガにあたり、耳障りな音をたてて粉々に砕け散った。
侍女が何人か、慌てたように始末に向かう。
「フィオナ様、これ以上風にあたるのはお身体に毒です。さあ、中に入りましょう」
一番の年かさが、恐る恐るそう言った。
その後ろではさりげなく、ティーポットとお菓子を乗せたワゴンが引き下げられていく。
私は、眉間に皺を寄せたまま踵を返して、与えられた離宮に帰った。
――エリザベスなんて嫌いだ。大嫌いだ!
「あなたなんて、だいきらいよ――」
それは、私が死ぬ間際の、最後の言葉だった。
神の愛娘は、自分の未来を夢で知ることができる。外れたことは一度もない。
具体的にどういうご加護なのかはわからないけれど、未来の私が持つ印象強い思い出を、この目で共有しているような感覚に近い。
それゆえに、色濃く残る死の記憶は、度々夢に出て来ては私を苦しめた。その夢を見ると、いつも恐怖で頭がおかしくなってしまいそうで、起きた後は冬でも大量の寝汗をかく。
今日もそうだった。真夜中、息を荒げて目覚めた私は、涙をこらえて掛布を握りしめる。
寒い、寒い雪の日。私は、伏して曇天の雪を見上げていた。大量の出血。もうろうとする意識――。
そこからの印象が強烈すぎるのか、実際に私が何をしていたのか、何を感じていたのか、どうして倒れているのか……詳しいことは分からない。
ただ、私は腹を貫かれた状態で、傍にいるエリザベスの剣は血に染まっている。
私の最後の言葉は、エリザベスへの嫌悪だ。
それが意味することは、ただ一つ。
だから、現実の私はいつも怯えていた。
あと二年。
たったの二年で、私は死ぬ。
ぜんぶ、エリザベスのせいで。