恋をしていても勉強は大事です!
スタッフルームから出てきた彼は、まるで新人さんの頃のように遠慮がちに出てきた。
その後ろでは「ふふん♪」と満足げに鼻を鳴らす晴彦兄さんが後ろ手でスタッフルームの扉を閉めている。
「トッキーも必死ね。わざわざ服を貸してあげたの?」
ほぼいつも通りの彼の仕事着を見て、菜穂さんは穏やかに口を開いた。
確かに、さっき入店した時は黒のスキニーパンツにVネックのニットセーターだった。下はさすがに着替えてないようだが、上は水色のカッターシャツで、お馴染みの深緑のエプロンを身につけていた。
清潔感のある制服に変わった印象を抱かせる。しかし、肩幅が少し余っているように見えるのは菜穂さんの言う通り、晴彦兄さんの服だからだろう。彼の後ろでドヤ顔をしている晴彦兄さんが何よりの証拠だと思った。
背格好はそれほど違いはないけれど、実は彼の方が少し華奢なのかもしれない。それは意外な発見でもあった。
「だって菜穂さん、有言実行する人やし。オレにはもうクッドゥーしか考えられへん…!」
「徳山さん、誤解生む発言やめてくれませんか」
最後に芝居がかったように力説する晴彦兄さんには残念だがちっとも共感できない。
他のお客さんたちも同じ事を思ったのか、違うことを思ったのか、真実はわからないが確かにその瞬間、カフェ店内がざわついた。
女子率が多いこのカフェ店。彼らから目が離せないのかひそひそと身を寄せあってお喋りをする声がそこかしこで聞こえてくる。
「それより、徳山さん、説明を───…」
「おっし、働くぞー。クッドゥー、これさっきの注文な。オレ、サンドイッチ作るから珈琲よろしく!」
「え、説明は…?」
「注文さばいてからな!」
言い置いて、颯爽とカウンターのキッチンにやってきた晴彦兄さんを思わず白い目で見てしまう。
状況についてきていない彼はそれでも何かしら納得したのか晴彦兄さんの後に続いてカウンターキッチンへ入ってきた。
(えっ、ちょっ───?!)
「ごめんねー、クッドゥー。後で出勤扱いにしとくからね」
「あ、助かります、菜穂さん」
少しぎこちなく微笑む彼がすぐそこにいる。
菜穂さんに向けている微笑み。それが、予期せぬ距離で見られるなんて。ドキドキと忙しなく鳴る鼓動が聞こえやしないだろうか。
こっちに気付くかな。いや、気付いてほしくない。
あわあわしてる自分がまた情けなくてとてもじゃないが彼のことを見ていられない。菜穂さんに向き直ると、肩肘をついたままこちらを見やる彼女はにこやかに言った。
「ところで凪ちゃん。さっき何か言いかけてたわね」
「え!? あ、いえ、なんでも…」
「あら、ようやく話してくれると思ったのに。結構強情ね」
そんなこと言われても…。
好きな人がいる前でその人の話をするなんて度胸は私にはない。
困ってしまって、思わず視線を泳がせたのが悪かった。真正面で作業をしている彼とばっちり目があった。
どくん、と一際鼓動が跳ねるのを感じた。
すぐに目をそらすも、さっきの彼の驚いた表情が目に焼き付いていた。
もしかして、変な顔してたかも…?
そう思うと余計に恥ずかしさがこみあげてくる。
「クッドゥー、手が止まってる。ちなみにソレ、食前に出してほしいって言われてたわよ」
「え!? 徳山さん、それ早く言ってくださいよ!」
彼の驚いた声が耳に届く。彼が晴彦兄さんに向き直った気配がして、恐る恐る姿勢を戻すと同時に晴彦兄さんの呆れた声が応えた。
「だから『よろしく』言うたやん」
「それ言葉足らずって言うんですよ」
「菜穂さんの言うとおり、『食前』や!」
「今更言い直してもダメです」
「いや、それにしても菜穂さんの地獄耳凄すぎてオレ鳥肌───…」
「さりげなく話そらそうとしてもダメですからね」
素直に謝れないのだろうか、晴彦兄さんは。
私からの白い視線にも気付いているだろうに、晴彦兄さんは悪びれずにニカッと白い歯を見せて一言。
「いや、だって…お前も満更とちゃうやろ?」
「ッ!?───何の話ですかッ!」
晴彦兄さんは何を言っているのだろう。そんなに彼は珈琲を淹れるのが好きなのだろうか。
よく豆を挽くのが好きだと言う人もいるが、彼ももしやその一人なのだろうか?
じゃあ、毎回紅茶を頼んでる私って───。
いやでも、私は薫りはイケる方だから珈琲も絶対無理ってわけじゃないし…。あぁでもあんまり飲めないってことは淹れてもらっても味わえないってことで───…。
う~、珈琲飲めるように頑張ろう…!
とりあえず、こっそり家でちょっとずつ飲んでいって、慣れてきたらココでも飲んでみよう。
───飲めるようになるかしら。
などと葛藤している中で、目の前の彼とまた視線がぶつかった。
「───ッ、」
「!?」
なんてことだろう! 勢いよく顔を背けられてしまった!
斜め下を向いて唇を噛み締めるような苦い表情に意味もなく罪悪感を抱いてしまう。
彼はてきぱきと珈琲を淹れるといつもよりスピーディーにお客さんのもとへと行った。
あぁ、残念…。とちょっと思ったが、すぐに彼がこちらに戻ってくる可能性が高いことに気付き、慌てた。
ほら、一礼してすぐに彼が戻ってきた。
目が合わないように、やや菜穂さんよりに身体を向けて、話しかけようとする。
すると、菜穂さんとばっちり目が合った。それはいい。それはいいのだが……。
「ふぅん、なるほどね…」
なんてイイ笑顔で言うものだから、頭が一気に沸騰した。
その笑顔は晴彦兄さんの意味深な微笑みとかぶって見えて、イヤな予感が頭を過った。
「あ、あの、菜穂さん…?」
「いいわ。この話はこれで終わり。またいない時に詳しいことを教えてもらおうかしら」
その瞬間、やはりか、と悟った。
バレた。何もかもバレた。
さすが菜穂さん。大人の女性ってやっぱり凄い。
これでもう私が彼に恋していることを彼女に知られてしまったわけだが、恥ずかしさよりも逆にホッとした気持ちが出てきた。
もともと隠し事は性に合わない。むしろこれで心の味方が増えたのだから諸手を挙げて喜ぶべきだ。恥ずかしいのには変わらないけれど。
「凪ちゃん、勉強教えてあげましょうか」
「え? でも、菜穂さん今日は…」
「あら、ここで私の興味あることについて話してくれるのかしら。勇気あるわね」
それはもしかしなくても私の恋についての話題ってことでしょうか。
「そ、それ以外にないですか?」
「ん~、近況報告も聞いときたいけど、それじゃあ凪ちゃんが不利になっちゃうからね。今日は我慢してあげる」
「?」
何に対して不利になるのかはわからないが、とりあえず、菜穂さんの微笑みが美しいことに胸を打たれる。
「さぁ、そうと決まれば宿題、宿題! 今日は何かしら」
「あ、はい。英語です。ちょっと待ってくださいね。今出しますから勝手に鞄を開けないで…!」
一体いつの間に私の鞄を持っていたのか、彼女の手にはすでに英語の教科書が握られていた。
「あら、珍しい。凪ちゃん電子辞書じゃないのね。重たかったでしょうに」
大きな顔で居座っている英語辞典が見えたようで菜穂さんは目を見開いて驚嘆の声を上げた。
その様子に思わず私も苦笑いする。
「英語の先生が本派なんです。電子辞書は調べて終わりだけど、本ならほかの単語もすぐに見られるし、ポイントも書き込めるから知識が増えるんだって言って。まぁ、私の場合は母からもらったものがあったので電子辞書買わなかっただけですけど」
「ホント、ちゃんと線も引いてるし、小っちゃな字でちゃんとメモもしてるわね。いやぁね、コレ見たら学生時代を思い出すわ」
「凪の場合はポイント書き込み過ぎて何がポイントかわかってなさそうやけどな」
「晴彦兄さん!」
「ハハッ!」
もう、ホントに茶々を入れるのが好きなんだから。
サンドイッチの乗ったお皿を持っていくついでにわざとからかうように言うのだから本当に意地悪な性格をしていると思う。
「まぁ、トッキーのことは放っておいて。今は知識を身に着ける段階だもの。そう背伸びする必要はないでしょう。気楽にやっていきましょうか」
「うぅ、頑張ります。よろしくお願いします、菜穂先生」
「あら、今の響きいいわね。任せて、英語は大の得意なの」
そこから本当に菜穂さんとの勉強会が始まった。
菜穂さんは優し気で魅惑的な声の持ち主だが、英語の発音も素晴らしく思わず聞き惚れてしまう。
得意と自信満々に言っていた通り、本当に英語の教師さながらだった。文法だけでなく英単語一つ一つの性質も教えてもらえた。『これぞ、菜穂ペディア』と注文をさばく合間を見て晴彦兄さんが何かと口を挟んでいくのもわりと無視できるようになった。
「わ、終わった。菜穂さん、終わっちゃいました」
宿題の範囲が全て字で埋め尽くされ、達成感が胸に大きく広がる。
「それはよかったわ。凪ちゃんの集中力もなかなかね。教え甲斐があって楽しかったわ」
「いえ、菜穂さんが教え方上手なんですよ。ちょっと苦手意識あったのに、だんだん面白くなってきました。ぜひ、また教えてほしいです!」
「ふふ、喜んで。あら、もうこんな時間。凪ちゃんといると時間もあっという間に過ぎぎゃうわね」
柔らかい色彩の壁紙に掛けられたアンティークな時計を見て驚く。
「あっ、もう七時半過ぎてる。一時間以上ここにいちゃってたんですね。お客さん、大丈夫でした?」
「えぇ、待ってもらうお客さんもいなかったし、回りもよかったみたいね。二人とも、よくやってくれたわ」
私から見たら極上の笑みを送る菜穂さんにつられて前を向くとばっちりと彼と目が合い、その存在を身近に感じ慌てる。
そうだった。完全に勉強モードだったから忘れていたけれど、目の前に彼がいたんだった。
ずっとそこにいたわけではないのだろうけれど、少なくとも自分の英語の珍回答を聞いていた可能性は高い。
あぁ、頭悪いヤツだと思われたらどうしよう…! 事実だけど。
「いやー、さすがオレらコンビやわー。ピークって感じせぇへんかったわ」
「そうですか? オレは結構必死でしたけど」
「そうか? ちゃんと愛想ふりまけとったで!」
「徳山さん、その言い方はちょっと…」
晴彦兄さんらしい励ましの言葉に少々疲れたように息をつく目の前の彼が色っぽく見えて直視を避けた。
でも、こんな長い時間カフェにいられたのに彼のスマイルをあまり見ていないことに思い至る。さっき改めて近くにいることに気付いたから仕方ないのだが。
たとえ営業スマイルでも彼は本当に綺麗に笑うから勉強をしている間見られなかったことを残念に思う。
「凪ちゃんもお疲れ様。どうせだから一休みしていきなさいな。紅茶、冷めちゃってるでしょ。クッドゥー、新しいの淹れてあげて。それと、苺タルトも出してあげて。お勉強頑張った凪ちゃんへ、私からのサービスよ」
「え、そんな…悪いです。教えてもらったの私ですし」
しかも、オーナー直々のサービスなんて恐れ多い。
「いいのよ、遠慮しないで」
と言いながらさりげなく冷めた紅茶をカウンターにいる彼に手渡す菜穂さん。反射的に受け取った彼はサッと晴彦兄さんに手渡し、新しい紅茶を入れるために準備に取り掛かる。なんて無駄のない動きと連携だろう。
あぁ、ごめん、晴彦兄さん。まだ一口しか飲んでなかったのに。
引き留めようとした手は行き場を失い、そのまま下ろすしかなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」
「凪ちゃん、いつも紅茶だけなんだもの。たまには贅沢しないとね」
そこには深刻なお財布事情もあるのだが、この雰囲気では言い出せるわけもなく、あいまいに微笑むに留まった。
「また注文させてもらいますね。クッキーもおいしかったですし、ここは種類もいっぱいあって迷っちゃいそうですけど」
「あら凪ちゃん、ココのクッキー食べたことあったかしら」
「あ、はい。一度だけ。この前、お店のサービスで頂いて…あの時もありがとうございました。お陰で数学の宿題もなんとか乗り越えられました」
改めてお礼を言って顔を上げるとほんの少し首を傾げてこちらを見つめる菜穂さんが目に入った。
そこは不敵に笑って「どういたしまして」と返ってくると思っていたのでその反応は意外だった。
「ふ~ん、なるほどね」
ふと視線をさ迷わせて、菜穂さんは納得したように呟いた。
何が“なるほど”なんだろう。
「菜穂さん?」
「いいえ、どういたしまして。気に入ってくれて嬉しいわ。今後ともどうぞご贔屓に、ね」
予想していた通りに上品に微笑みを向けてくれる菜穂さんに、さっきのは見間違いかと思い直し、私も「はい!」と微笑みを返した。
「なんや、オモロイことしてんなぁ」
晴彦兄さんがポツリと落とした呟きが耳に入ってきたがそちらに気を引かれる前にカチャリ、と食器が触れ合う音に押し殺していた緊張がじわりと胸に広がったのを感じた。