今日もノルマ達成です!
本日、金曜日。晴天なり。待ちに待った週末。
そんな今日もカフェ勉に勤しもうと深緑の扉をくぐる。
「いらっしゃいませ」
今日も爽やかなスマイルで出迎えられ、咄嗟に会釈する。空いているテーブル席にすかさず移動することも忘れない。
このコソコソ感がいつも居たたまれないが、まだまだ彼を直視するためには度胸が足りない。
前回は思わぬ幸運に恵まれて、憧れの彼の名前を知ることが出来たのに。
(ネームプレートを盗み見しただけだけど)
約半年前から出会っているというのに、今さら知るなんて情けない話である。
その方法がなんであれ、名前を知ることは大きな進歩だった。
昨夜は勉強も落ち着いたところでウキウキとする気持ちが収まらず、ベッドの上で悶えた。誰にも見られてはいないが恥ずかしい思いが今さらになって沸き上がる。
たった一度、彼の名前を口にしただけ。それだけなのに、あの気恥ずかしさは一体どこから来るのだろう。私は変態か。
そこからは不用意に口に出さないよう気を付けている。頭の中にポン、と名前が浮かんでも必死に押し込んでいる状況が続いているのは、きっと誰にもわからないだろう。
いそいそと鞄を下ろし、筆記用具を取り出そうとした時にある違和感を抱く。
(あれ? 晴彦兄さんは?)
いつもならこのタイミングでもう傍にいてくれるのに。
視線をさ迷わせようとした時だ。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「え…あ、紅茶、で…」
彼だった。
え、なんで。
「ストレートでよろしかったでしょうか?」
「お、お願いします」
思わず深々と頭を下げながら声を出す。
どもってしまったことがひたすら恥ずかしい。
少しは冷静になろうと努める。
しかし、そんな器用なことが出来るはずもなく、面を上げてしまい、彼の笑顔を直視してしまった。
「かしこまりました」
なんて綺麗な笑顔なんだろう。
笑うと子どもみたい、と彼氏持ちの子たちは言うけれど、この人は上品に笑う。いや、営業スマイルなんだろうけど。
もともとの顔立ちも綺麗だから、より一層目が惹き付けられる。
慌てて顔を伏せると、彼は気にした様子もなく、いつもの流れるような足取りでカウンターに移動していった。
(び、──っくりした)
先日のことといい。不意打ちが続いているような気がする。頬が熱を帯びている。
(バレてないよね。赤面症だとか思ってくれてたらいいんだけど)
至近距離で見つめるだけで恋心が溢れ出しそうだ。
秘密にしなきゃ。バレちゃったらもうここに来れない気がする。
(晴彦兄さん、いないのか…)
辺りをさりげなく見渡して、違和感の正体を知る。
それはとても珍しいことだった。晴彦兄さんは私が毎週金曜日だけに来ることを知っている。それにあわせて、あえて金曜日にシフトを入れてくれているのだと教えてくれたのは晴彦兄さん本人だ。
大学での提出物に苦戦しているのだろうか。あんな軽い調子の人だが、根は真面目だから割りと課題は颯爽と済ませてしまうのに、本当に珍しいことだ。
「おー、クッドゥー。励んどるー?」
噂をすればなんとやら。
いろいろ考えている間に当の本人が来た。スタッフルームから出て来たところを見ると休憩だったようだ。
提出物云々とか勝手に考えてごめんなさい。
それにしても、晴彦兄さんは派手だ。金色の髪というのもあるが、静かな店内ではそれなりに彼の声は響く。
自然と店内に鮮やかな色が広がるように明るくなるのだから、彼の才能はさすがとしか言いようがない。ほら、あそこにいる大学生ぐらいの人も喜色満面になった。
尊敬を通り越して唖然である。
凄いな、と思っていたら、それに応える声があった。
「徳山さん、休憩長すぎです」
「いや、適度やったって」
「どこがですか」
「いや、どう見てもクッドゥー一人で回せてたやん?」
「オレの精一杯でも限界があるんです。オーナーに言いつけて休憩時間減らしてもらいますよ」
「えっ、それはあかん。オレの課題終わらへんやん」
「公私混同やめてくれませんか」
カフェの従業員が何を言っているのだろう。真面目なのか不真面目なのかよくわからないこと言ってる。やっぱり課題してたのか。私の謝罪返して。
それにしても、“クッドゥー”って、もしかして彼のことだろうか。ネームプレートはローマ字だったから、正しい読み方がわからなくなってしまった。
でもきっと、晴彦兄さんが呼びやすいようにアレンジしたものだろう。だって、この前「板東さん」のこと、“バンドゥー”って呼んでたもの。間違いない。
もう、気にしないでおこう。
「おっ、凪、もう来たん?」
心を決めて勉強モードに入ろうとしたところで運悪く晴彦兄さんに声を掛けられる。
ちょっと、困るんですけど。
「晴彦兄さんが遅かっただけ。いつもの時間に来てたよ」
「え、凪までクッドゥーとおんなじこと言うとる」
全然同じことなんて言ってないけど。
「ま、でも今から入るから挽回できるわー。凪、カフェラテにするか?」
「あ、注文ならさっき…」
「お客様は紅茶だそうですよ、徳山さん」
他愛ない会話の最中にテキパキと準備をしていたのだろう。いつの間にか傍に来た彼はお盆に乗せた紅茶をスマートにテーブルに並べていく。
「え、いつの間に?」
「だからさっき」
唐突な天然発言は控えてほしい。あなたがいなかったから私は赤面症に…───それは違うか。
なんにせよ、日頃からふざけている人だから気にはしないけれど、そこまで驚かなくてもいいと思う。
「へぇ~、成長したなぁ」
意味ありげに呟かれた言葉に内心ギクリとする。
(今の、私に言われた…?)
恐る恐る見上げるとばっちりと晴彦兄さんと目があった。
確信した。この人、私の気持ち知ってる…!
「半年も経てばオレも成長しますよ。お客様、申し訳ありません。私語が過ぎました」
「い、いえ。こちらこそ、申し訳ありません」
「ははっ、なんで凪が謝っとんねん」
あなたの代わりに謝っています。とそこまで直球には言えなかったけれど、視線できっと彼は気付いたはず。
「あの~、注文いいですか~?」
「はーい、今行きまーす」
大学生っぽい人が手を挙げて声を掛けたのを聞き、すぐさま晴彦兄さんは行動に移した。そういうところはちゃんとしてる。
(逃げたな)
と憎らしげに思う気持ちはこの際、胸の奥に押し込むことにする。
爽やかな晴彦兄さんはさっき頬を染めていた大学生さんのところに行き、にこやかに対応する。
本当に挽回しようとしているようだ。
その調子で、相方である彼に迷惑がかからないように努めていただきたいものだ。
ひとつ息をついて視線をテーブルに移すと、見なれないものがそこにあった。
紅茶のポットとカップと───クッキー?
カップの乗っているソーサーとは別にクッキーが乗っているお皿があり、目を見張る。
あれ? と首を傾げ、すぐに思い至った。
もしや、注文間違い? これは大変だ。
「あの───」
「お気づきになられました?」
「え?」
「いつも当店のご利用ありがとうございます。それは当店からのサービスです。どうぞ、お召し上がりください」
「は、はい…!」
柔らかく微笑む彼から目が離せず、羞恥と歓喜で頬が熱くなるのも止められなかった。
───なんて不意打ち!
イタズラが成功したような茶目っ気のある顔なんて初めてだ。
声が裏返らなくてよかった。ホントに。
そして、満足そうに微笑んで、彼は一礼してカウンターに戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、先程のことを頭のなかで反復する。
今のやりとりは幻じゃないだろうか。
(夢じゃ、ない───?)
どうしよう。心臓がバクバクしてる。
目の前の紅茶とクッキーを見つめる。同時に彼の不敵な笑顔を思い出してしまって───。
(食べるの、もったいない…!)
無意識にそこまで思考が回ってしまった。きっと、晴彦兄さんが同じ事をしたら躊躇いもなく食べるはずなのに、彼に出されたら崇高な物に感じてしまうから不思議だ。
───嬉しい。嬉しすぎて、もうどうにかなりそうだ。
しばらくそのままクッキーとにらめっこし、紅茶を一口。
覚悟を決め───きれず、勉強に移る。
少しだけ問題を解いて、またクッキーを見て。
あぁ、どうやったって意識してしまう。
(せっかく出してくれたのに、後で食べたら失礼だよね)
ようやく心を定めて、クッキーを一つ手に取る。
ほのかに温かい。そんな些細なことでも胸が高鳴る。
はくっ、と食べてみれば、ほろほろと優しく口のなかで甘さが広がって頬がゆるむ。
(おいしい)
ゆっくり味わって、また一口。
特別な日が格別な日になったなぁ、と満足する。
苦手な数学今なら頑張れそうだ、と思った瞬間だった。