桃色のレクイエム
88の鍵盤の上で、まるで自分のものではなくなったように滑らかに踊る私の指。
ー今度こそ、成功する。
しかしそう思ったのも束の間、私の左手の指が白鍵を叩いた。
いけない。また同じ場所。また同じミス。
「桃子ちゃん!またそのフラット落としたの!もーう、発表会は来週なんだからね‼︎」
もう何度同じことを言われただろうか。先生は、壁に掛かった花柄のカレンダーを見ながら長い溜息をついた。
ーカレンダーの、ちょうど一週間後の日付。そこには、期待が見え見えの大きな赤い文字で『発表会!』と書かれていた。
「やっぱ私、この曲弾きたくなかったなぁ…」
薄暗い帰り道。街灯の下で、私は楽譜を見つめて溜息を吐いていた。目線の先には、『レクイエム ニ短調』の文字。私が発表会で演奏することになった曲だ。
正直言って、この曲はあまり好きではない。第一、悲し過ぎる。レクイエムとは、鎮魂歌のことだ。最近葬式があった訳でもないのに、何故に鎮魂歌なのか。悲しい曲が嫌いな私にとって、それは苦痛でしかなかった。
そして最大の理由が、私の大好きな桃色のドレスに似合わないということだ。はたから見れば大変小さなことに思えるだろう。しかし、私にとっては大問題なのだ。
中学二年生の私は、受験のため今年一杯でピアノをやめることになっている。つまり、今年の発表会が最後の発表会になるのだ。その為、普段は曲に合わせて母が選んでいるドレスも特別に自分で選ばせてもらった。
ー自分の名前と一緒の、桃色のドレス。しかし、それが届くという三日前に、発表会の曲が決まってしまったのだ。
明るい色のドレスと、暗く悲しい音楽。そのミスマッチたるや、音楽音痴の親友ですら笑ってしまう程のものだった。
今すぐ、この楽譜を破り捨ててやりたい。
そう思ったその時、私の背後に何かの気配がした。
振り向くと、そこには私と同い年ぐらいの少女が立っていた。
「この曲、弾くの?」
少女が尋ねた。鈴のような声だった。
私はただただあっけにとられ、少女を見つめ返した。
とその時、私は気付いてはいけないことに気付いてしまった。目の前に立っている彼女は至って普通の装いだが、うっすらと透けている。
ーこの子、幽霊⁈
私は怖くなって後ずさった。そして、彼女が目を伏せた隙に全速力で逃げ出した。
「…あ…待って…」
少女の悲痛な叫びも聞かず、私はただひたすらに家を目指して走った。
その夜。私は、夢を見た。
知らない部屋。その真ん中でピアノを弾く少女がいた。弾いている曲は、私がこの一ヶ月半で嫌という程聴いてきたあの鎮魂歌。
…ん…………⁉︎
驚いたことに、そのレクイエムを弾いていたのは夕べの彼女だったのだ。
ーあの子、私の夢の中にまで…!
夢の中の幽霊は、私とは違って楽しそうにレクイエムを弾いていた。レクイエムを弾くことが楽しいというよりは、ピアノそのものを楽しんでいるように見えた。
…うらやましい。
…あんなに楽しそうに、ピアノが弾けるなんて。
しかしそう思ったのも束の間、彼女はいきなり左胸を押さえて苦しみ出した。それに驚いた父親らしき人物が少女に駆け寄り叫んだ。
「救急車を‼︎」
そして彼女は、やって来た救急車に乗って運ばれていった。
何なの、このリアルな夢…。
場面が変わった。私は、ありふれた病室の風景を見ていた。
ベッドには、弱々しい笑顔の彼女が横たわっていた。
「…お父さん、私…もうピアノ弾けないの?」
「桃子……」
桃子。私と、同じ名前。
ガラガラ…
病室の扉が開いて、若い医者が入って来た。
「すみません、少しお時間よろしいでしょうか?」
その瞬間、私の心臓が早鐘を打ち始めた。
これって、もしかして…
また場面が切り替わった。部屋には、さっきの父親と若い医者が向かい合って座っていた。
ードラマとかで何度も見た光景だ。確か、余命宣告…?
「…覚悟は、よろしいですか?」
もう、やめて…
結末は察しが付いた。彼女、死んじゃうんだ。それで、私が夕べに出会ったのは彼女の幽霊だったんだ。
「…彼女、七瀬桃子さんですが、もう長くはありません」
「…余命は?」
「……大変申し上げにくいですが、持って二週間といったところでしょう…」
「桃子は!桃子は、助からないんですか‼︎」
「今の段階の医療では限界が…」
やめて。もう、やめて…。
『やめて‼︎』
「はっ!」
私はがばっとベッドから飛び起きた。辺りを見渡すと、そこは見慣れた私の部屋だった。
ーよかった、夢か…
そう思った瞬間、私の頬を何か熱いものが伝った。
そっと手で触れると、濡れていた。
…あの子は…。
どうしても眠れなくて、下の階にあるリビングに降りた。
コップに水を一杯注ぎ、飲もうとしたその時だった。
「ねぇ」
後ろから鈴のような声が聞こえて、私はびくっとして振り返った。
ーそこには夕べの彼女が立っていた。
「…夢を、見たの」
言おうともしていない言葉が口から飛び出た。
「…そう」
彼女は悲しげに目を伏せた。
「あの夢は、あなたの過去なの?」
「ええ」
あの時は気づかなかったが、彼女は自分と同い年とは思えない程華奢で、どこか病弱な雰囲気を醸し出していた。
「…私もあなたと一緒で、発表会でレクイエムを弾くことになったの」
「…。」
「でも、本番の二週間前に病気で倒れて、そのまま…」
死んじゃったんだ。
「だからね、同じ曲を奏でる同じ名前の貴方が、うらやましかったの」
「…うらやましかったのは、こっちだよ…」
彼女は何も言わず、ただただ哀愁漂う微笑みを私に向けた。
「…ごめんなさい」
涙が、止まらない。
「どうして?」
「何も知らずに、逃げちゃって…ピアノが弾けなくなってしまったあなたのこと、知らないままで…。」
「桃子ちゃん」
ーえ?
私、のこと?
「…お願い。あなたのレクイエムを、私に捧げて。」
「え?」
「あなたの弾く鎮魂歌。それを、私の為に弾いて欲しいの。そうすれば、私も天国へ行ける」
「でも…」
「本当は、自らの手でレクイエムを仕上げたかった。でも、それはもう叶わないって知ったから」
「…だから…」
『あなたのレクイエムを、私の手に』
本番の日になった。
あれから、私は同じところでミスをすることが少なくなった。先生も驚いて、感動の涙を流すほどだった。
桃色のドレスを身に纏った私。『レクイエム ニ短調』の楽譜を手に、舞台へと歩いていく。
「ありがとう、よろしくね」
あの少女の声が聞こえた。
少女の姿が、光り輝いて見えた気がした。
《あとがき》
初めまして。きるすてぃん。と申します。
これが私の初投稿になります。いかがでしたか?
「王道の泣ける物語」を意識して書いたのですが…やはりベタになってしまいましたね笑。
もし宜しければ、感想などよろしくお願いします!
柚子胡椒はこれからも不定期で小説を書いていこうと思います。どうか末長くよろしくお願い申し上げます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。