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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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二分の一の両想い

作者: 福村六月

 雨の降る日はそれだけで、ほんの少しいいことがあったように思える。実際、今日一日の学校生活を振り返ってみたときに何もいいことが起こっていなくても、近い未来に――たとえば、学生寮までの帰宅途中で三毛猫に出会ったり、今日の夕飯が寮母さん特製の二日目のカレーだったり、たまたま遅い時間に利用した共同浴場で新しい石鹸を使うことができたり、談話室の片隅にある箱ティッシュの蓋を開ける権利を得られたり、些細な心の動きに関与してくれる出来事でいい――そんなふうな、何気ないいいことが起こりそうな予感がしなくても、雨が降っていればそれだけで心が満たされるような気がしてしまう。特に私は雨が降る日の放課後は、学校の図書室へ足を運び、気の済むまで放課後の時間を過ごしてしまう。周囲から見れば、特別何かをするわけでもないように見えると思う。でも、私はほんの少し、いいことを予見しているのだ。

 今日は、私の好き好みに願ったり叶ったりな、そんな素敵な空模様だった。

 風は強くない。それでいて、しっとりとした雨が降っている。

 こんな日の放課後は、学校に残って雨宿りをする生徒は少ない。部活動や委員会は平常運転だから体育館やグラウンドは賑やかだけれど廊下が騒がしくなることもない。実家から通う生徒はバスが混み合う前に我先にとバス停へ向かう。私のような寮生活をしている生徒はさっさと帰宅し、自室で過ごしたり、友人同士で寮の広間に集まって談笑したり、アナログなゲームに興じていると思う。さらに気を利かせた学生寮の食堂を切り盛りしている寮母さんがお茶と手作りお菓子用意してくれるのだから、そして、そのお茶もお菓子も思わずにやけてしまうほど美味しいときたものだから、帰宅は正しい選択だ。湿気のせいで、年季の入った木とカビとインクの匂いが濃くなった図書室に入り浸るような本の虫は、私の通う学校にはいないということを暗にほのめかしているようで、本にさほど興味を持っていない私でも残念な気分になるけれど。いや、いるのかもしれない。本の虫を満足させるほどの蔵書数がないこの小規模な図書室には用がないだけかもしれない。私の勝手な決めつけではあるけど、本来の目的で使用しにくい図書室(女子校なのだからという理由でBLとか置けばいいんじゃないの? と安直に提案したいけどしない)ということも手伝ってか、この図書室に残っている生徒は図書委員と私くらいのものだった。

 私は、読書をしない。でも、たぶん、誰よりもこの図書室を利用している。

 私はいつものようにひんやりとした扉のノブをそっと回し、押し開ける。するりと図書室へ入り込むと貸し出しカウンターの方へ目配せして、窓際の席に制服が皺にならないように慎重に腰掛け、鞄を膝の上に乗せた。それから、目をつむった。ここから動かない。万が一、想像もできないような何かが起こって、どこかへ流れていってしまっても、この場所へ戻ってこられるように――そんなふうにおまじないをかける。

 深呼吸をして、窓の外の向こうへ視線を向ける。深呼吸は一往復だけ。後は、じっと息を潜めてガラス窓に張り付いた雨粒を見つめるだけだ。雨音が窓を通り抜けて私の耳に微弱な音を届ける頃には、いつの間にか雨音に寄り添った時計の音が私の心音に重なって、不揃いだった音達が斉唱し響きはじめる。雨音と時計の音は私の生きている証を徐々に覆い隠し、優しく押し潰し、とろけるほど甘美な誘惑の中へ溶かしていくようで、この狭い部屋で私の生が殺されてゆく。ぼんやりとしてくると本の背表紙に書かれた作品名を思い出し、そのタイトルの言葉の響きを拝借する。それだけで物語が広がってゆく。


 ――面白い話があるんだよ。

 ――へえ、どんな?


 私は図書室でいつも何かをしていないわけではなかった。

 私は理想という概念を探しているのかもしれないし、作ろうとしているのかもしれないし、やっぱり、それは何もしていないことと同じなのかもしれないけど、私の身体を飛び越えて新しい何かをはじめるために、ここにこうして来ている。

 読んだこともない物語を、私の物語にして、筆を持たずに絵を描く。本を読む必要はない。物語のとっかかりと白紙の世界さえあれば十分。

 雨粒が外の景色に薄い膜を張る。向こうの世界が酷く歪んで見える。もどかしい心のようだ。そこから何か、はじまりますようにと私は強く念じる。

 空を覆い尽くす雨雲は額縁で、私という世界を切り取る箱になる。

 しっとりと地面に染みこむ雨粒は消しゴムになって、時間という絵画を壊してゆく。

 昨日までの景色は、私が思い描いた絵画の変遷。

 それが今、私の目の前でリセットされた。

 目の前を覆うこのぐちゃぐちゃの窓は私だけのキャンバスだ。次の雨の日まで、私はこの窓の外をどんなふうにも変化させることができる。私の心も素直になれるし、たぶん、きっと、あいつも私の思い描いた振る舞いをしてくれるはずだ――。

 ポケットが振動した。私の心臓が跳ね上がった。描いていた物語の輪郭が溶け出してゆく。あいつからメールが来たのだと、わかっていることなのに、この瞬間に、いつも新鮮な気持ちになるのは恋だからなのだろうか。それともただまだ知らぬ誰かを愛するための前準備なのだろうか。おままごとのような擬似恋愛なのだろうか。もしかしたら、いつかこのトンネルのような雨の日を抜ける日が来るかもしれない。そのとき、私はあいつと手を繋いでいられるのだろうか。


 ――すごく長いからね、どこから話そうかな。

 ――どのくらい長いのよ?

 ――私とあなたの人生を足して二で割った時間くらい。

 ――なにそれ、一人分ってこと?。

 ――うーん、一人分、なのかな、やっぱり。


 私は受信したメールを覗くために、震える指先で画面をスクロールした。

「寮のところまでなら」

「私の部屋、寄っていくでしょ?」

「バスの時間があるから無理よ」

「寮生活にしたらその心配はなくなるけど?」

「てか、傘忘れすぎだし走って帰れよ近いんだから」

 私は後ろを振り返って、携帯をいじる見知った図書委員を確認する。そこにいてくれて、私はここにいることを許されて、それだけで私は満足しているのだと、そう描いてきたはずなのに、たまにとても苦しくなる。

 今日もうまく物語にならなかった。

 ただ、それだけのこと。

 いつか、きっと。

 ううん、すでに。


 ――本当は気がついているくせに。

 

 静寂はたまに妄想の味方をやめてしまう。私は水底のような窓を強く睨んだ。

 どうか、一生、気がつくことがありませんように。


fin.

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