婚約破棄? できるわけないでしょうが。でも興味深いので、一応理由は聞きましょう。
「アデリーナ、おまえとの婚約を破棄させてもらう」
「は?」
王太子ルートヴィヒ・ローゼンベルクの突然の宣告に、公爵令嬢アデリーナ・ヴァルテンシュタインは思わず変な声を出してしまった。
「できるわけがないではないですか。何を寝ぼけたことを仰っているのですか?」
アデリーナは呆れたように、ルートヴィヒに言った。
「寝ぼけたことだと? 公爵令嬢ごときが王太子に向かって……。どうしても婚約破棄を受け入れないというのか?」
「人の話を聞いています? そんなことはできないと申しているではないですか。ですが……一応理由を聞きましょうか。興味がございます」
「わからんのか?」
「はい。私が殿下に不満があっても、殿下が私に不満を持つなんて想像もしていませんでしたので」
「なんて婚約者なのだ、おまえは。不満などいくつもあるわ。例えば、おまえはいつも俺の政務の邪魔をするではないか! 未来の王妃ともなる者が王太子の邪魔をするなどありえんではないか」
アデリーナは思わず吹き出してしまった。
「政務? ルートヴィヒ殿下が? プププッ。殿下に一番似合わない単語ですわね。一応お伺いしますけれど、政務とは何のことを仰っているのですか?」
「国庫の財源が乏しいから税率を調整しろと財務卿に指示したら、おまえが後から俺の指示を取り消したらしいではないか」
「ああ。宝剣が欲しいからって財務卿にお小遣いをせびった件ね。そんなことに王宮のお金を使えるわけがないでしょうが。王国の税金を何だと思っているのよ」
まるで母親が子どもを叱っているみたいだわ、とアデリーナは思った。
「税金は王家のものだ。おまえのものではない!」
「私のものではないし、王家のものでもあなたのものでもないわ。王国のもので、王国のために使うものなの。宝剣が殿下の自己満足以外の何に役立つって言うの?」
「俺の威厳が高まり、国民の士気が上がる」
「国民にとっては士気よりも住むところや食べ物のほうが大事なの」
「いちいち知ったようなことを……」
「殿下よりはものを知っていますからね」
「それから……俺の侍従をこき使っているだろう。俺が必要なときに侍従に用事を言いつけることもできないではないか」
「王宮の侍従も殿下より私に従ったほうが良いとわかっているのよ。殿下はその程度の存在なのだと認識したらいいわ」
「おまえは俺に敬意というものを持たんのか!」
「この私に向かってずいぶん大きな態度ですのね、殿下。いつからそんなに偉くなったのかしら」
「いつからだと……? おまえは貴族で、俺は王太子だぞ。生まれたときから俺はおまえよりも偉いのだ」
「そんな偉い方に、なぜ侍従すら敬意を払わないのか、自分の普段の行動を省みてよく考えることね」
「侍従には痛い目をみせて躾けてやる……」
「そんなことをしたら私がその十倍痛い目に合わせるわよ」
アデリーナの顔が、一瞬悪魔のような形相に見え、ルートヴィヒは怯んだ。
やはり私は婚約者なんていう柄ではなく、ダメ息子を持った母親だわ、とアデリーナは思っていた。
「それから……おまえは男爵令嬢のリリアという女をいじめているだろう? おまえは性悪な女なのだ。王太子妃にはふさわしくない!」
「リリアって誰よ? 誰もいじめた覚えはないですし、私は殿下よりよっぽど社交界では評判がよいですわ。私がつらく当たるのは殿下に対してだけです」
「リリアがおまえに夜会で葡萄酒をかけられて罵倒されたと言っていたぞ。あの可愛らしいリリアが哀れでならん」
「私がそんな子どもみたいなことするわけがないでしょう。殿下、その女に騙されているわよ。あと殿下もその女を騙したでしょう? 王宮の金は使い放題とでも大風呂敷を広げたのではないの?」
「うっ……」
「うっ……じゃないわよ。そもそも私という存在がいながら、何を他の女にちょっかい出しているのよ。どうでもいいけど」
「おまえが俺をないがしろにするからだろう……」
「そのリリアという女は後で調べさせます。殿下みたいな男に騙されるとは不憫だけれど、話を聞いてしまったからには放っておくわけにもいかないわね」
「うぅ……リリア……。愛していたのに……」
ルートヴィヒはうっすらと目に涙を浮かべた。
「何なの? まさかそれが婚約破棄なんて言い出した本当の理由なの?」
「そもそも公爵家が気に食わんのだ。公爵令嬢のおまえが王太子の俺に大きな態度を取るだけではなく、おまえの父の公爵も国王陛下に意見をするではないか」
涙目になりながら、ルートヴィヒはなおも口撃を試みる。アデリーナを攻めても敵わないと判断し、標的を家に定めたのだ。
「王国のためによいと思えば、意見するのは貴族の務めですわ。相手が国王陛下であろうと大司教だろうと関係ないわ」
「貴族ごときが国王に意見していいわけがあるか! 国王は絶対だ!」
大声で喚くルートヴィヒに、アデリーナは深くため息をついた。
「まったく……なぜ私はこんなのの面倒を見ることにしてしまったのでしょう」
「聞こえてるぞ!」
「殿下……あなたは私がどれだけあなたに尽くしてきたか……知るわけないわね」
「何を言っているのだ。おまえが今まで、俺に何を尽くした? さんざんバカにしおって」
「わかりました。では、もう公爵家とも、私とも縁を切る覚悟がおありと、そういうことですね?」
「ああ、そうだ。俺はリリアと一緒になる」
「リリアもすぐ逃げると思いますけれど……。まあ、いいですわ」
「いいのか……?」
「あーあ、お父様に怒られるわ。殿下はもっと酷い目に遭うでしょうけれど、自業自得よね」
「ふん。おまえと別れられるのであれば、父上の小言くらいなんてことはないわ」
ルートヴィヒが胸を張って言うので、またププっと吹き出してしまった。
「何がおかしい?」
「小言くらいで済むと思っているのがおかしいだけよ。もうお会いすることもないでしょうから、せいぜいお元気でね、殿下」
アデリーナは一瞬、少しだけ寂しそうな表情をみせたが、その表情もすぐに消えた。
※
「父上、ご報告がございます」
ルートヴィヒは国王フリードリヒ・ローゼンベルクの前で跪いていた。
「何だ、ルートヴィヒ。改まって。その様子だと、珍しく良い報告なのだろうな?」
ルートヴィヒは満面の笑みだった。
「はい。もちろんです。王家にとって、これ以上の朗報はないかと思います」
「ほう。それは楽しみだな。いったい何があった?」
国王フリードリヒも笑みを浮かべた。
「我が王家は、あの小うるさいヴァルテンシュタイン公爵家とのしがらみをついに断ち切りました。アデリーナ・ヴァルテンシュタインとも婚約を解消いたしました。我々は自由です、父上」
ルートヴィヒは意気揚々とその成果を報告した。
フリードリヒはその報告を受け、笑みを浮かべたままだった。
「父上……?」
フリードリヒは笑みのまま、顔が固まって、ぴくりとも動かなかった。
「父上、あのうっとうしい公爵から解放されたのですよ……。嬉しすぎて笑顔が顔に貼り付いてしまいましたか?」
「終わった……」
国王の口から出た言葉はあまりに弱々しかった。
「終わった? そうです。公爵家との関係は終わりです、父上」
「違うわ! 王家が終わりだと言っておるのだ! 愚か者め!」
「えっ? えっ? どういうことです、父上?」
ルートヴィヒにはフリードリヒの言うことが何ひとつわからず狼狽えた。
「おまえはアデリーナ嬢に何を言ったのだ?」
「婚約を破棄すると……」
「他には?」
「公爵家との縁も切ると……」
再びフリードリヒが固まった。
「父上……」
「やはり終わった……」
「ですから何が終わりなのです?」
「おまえは王家の財産がどれだけ残っているかわかっているのか? いや、知るわけがないか。私が教えていないのだから」
「どういうことです? 国民から税を取っているのですから、十分な財産があるはずでは……」
「税はもう王家の国庫には入っておらん」
「……どういうことですか?」
「もっと言えば、この王宮もすでに王家のものではない」
「父上……仰ることがよくわからないのですが……」
「おまえは、二年前のことを忘れてはおるまいな」
「はい、ヴァルテンシュタインとの悪縁が始まったときですね」
「そうだ。おまえがよりによって、貴族の中でも強大な経済力を持つヴァルテンシュタインの配下の農地、商会、鉱山に極端な税率をかけたのだ。失業や経済の停滞を招いて、それが王国中に波及したな。公爵家が経済の中心となっていたのだから当然だ」
「税率を上げたのに、税が減るという奇妙なことが起きましたね。あのときは運が悪かったです」
ルートヴィヒは悪びれる様子も見せなかった。
「……おまえがここまで愚かだと見抜けずに政務を任せたのが、そもそもの間違いだったのだ。よりによって税率を決める権限まで与えてしまったのだからな。親が子を見る目はここまで曇るのかと、私は驚くほどだった」
「褒めて……いらっしゃらないですよね?」
「それくらいはわかるのか。あのときは、ただ税が入らなかっただけではない。王国を強くするためと無理な徴兵や軍備強化に王宮の増築やら調度品の購入やら散財までしたせいで、国庫は空になるどころか、莫大な借金を負うことになったのだ。一瞬で王家の信用は失墜し、王国そのものの存続が危うくなって、私はようやくおまえを政務から遠ざけたが、時すでに遅しだ」
「もう少しで、最強の王国になったはずなのに……。運が悪かったです」
「運のせいではないわ! おまえのせいだ! 何が最強の王国だ……」
「……えっ!?」
「いや、すまん。おまえに謝るのはひどく癪だが、私のせいでもある。愚か者に政務を任せたのだから」
「愚か者というのは……」
ルートヴィヒが不思議そうな顔をフリードリヒに向けた。
「それすらわからんほどの愚か者だとしたら驚愕するが……」
「その件はもういいです。……国庫も空になりましたけれど、公爵家も大きな損害を受けましたよね。俺は公爵家が力を持ちすぎているのが気になっていて、あの重税をかけたのです。その狙いだけは成功しましたよね。それで公爵は王家に助けを求めて、アデリーナと俺との婚約を強引に進めてきたのでしょう?」
フリードリヒは口をあんぐりと開けて一瞬固まり、やがてため息をついた。
「公爵家はな、おまえと違って賢いのだ。一時的な不況が起こることくらいは想定して莫大な財産を蓄えておった上に、おまえの無茶苦茶な税率を撤廃した後はすぐに復興したわ。信用も失わず、人もすぐに戻った」
「何ですと……。ではもう一度叩きますか? こうなれば武力で……」
「今すぐおまえを処刑したいところだ」
その国王の言葉にさすがのルートヴィヒも怯んだ。
「な……何を仰っているのですか、父上」
「安心しろ。私に処刑を決める権限などとっくにない。おまえが兵をどうこうする権限もない」
「何を言っているのです? 王家に権限がなくなれば、王国は立ち行かなくなるではないですか?」
「立ち行かないどころか、王国はますます栄えておる。王家が権力を失ってからな」
「王家が権力を持たなければ王国ではないではないですか」
「ようやくそれらしいことを言いおった。そうだ。王国が存続ができるかどうかの最後の綱渡りをしておったのに、おまえが簡単にぷつりと綱を切りおったのだ」
「……? 綱渡りは私はやったことがないのですが……」
「くっ……。遠回しな言葉は一切通じないようだな。はっきり言おう。王家はすでに権力など何ひとつ持っておらん。二年前からな」
「また……わけのわからない話になってきましたね……」
「まだわからんのか? 我が息子ながら信じられんほどの理解力の低さだ……。もっとはっきりと言ってやろう。二年前のおまえの大失敗で、王家は王国の支配者として失格となったのだ!」
「……? まあ、一部わかったような気はしますが、論理的におかしくないですか? 王家が失格とか言われたら、王国がなぜ今もきちんと統治されて、栄えてすらいるのですか?」
「おまえに『論理的』などと言われると腹が立つわ。それもこれもヴァルテンシュタイン公爵家のおかげなのだ。公爵家と貴族院が、王国を実質的に統治してくれているのだ」
そのとき、初めてルートヴィヒに驚愕と焦りの表情が現れた。
「いや……公爵家は王家の臣下であって、王家を支援して王国統治の手伝いをしているということですよね?」
「王国の統治権は、貴族院の承認を得て、公爵家に譲渡したのだ! ついでに王宮も売った! それで莫大な債務の肩代わりをしてもらった。執事も侍従も給仕も衛兵も全員公爵家に転属になった。そうでもしなければ、二年前に私もおまえも路頭に迷って借金取りに追われておったのだ」
「権力を売った、ということですか?」
「そうだ。それでも、何も生み出さない私もおまえも、今日まで王宮に住まわせてくれて、公爵家の金で生活させてもらっていたのだ。アデリーナ嬢のご厚意によって」
「アデリーナの……?」
「ヴァルテンシュタイン公爵には、特におまえは迷惑しかかけず邪魔だから王宮から追い出すよう言われていたのだ。それを、アデリーナ嬢が哀れんでくださり、王国の歴史を考えると、王家の威光を失うのは損失だと、公爵を説得してくださったのだ」
「えっと……。簡単に言うと、アデリーナが俺たちを生かしてくれていたと、そういうことですか」
「そうだ。しかも何を思ったのか、ルートヴィヒに見込みがあれば、婚約してもいいと」
「……つまり、俺に見込みがあったから、アデリーナは婚約したということですか?」
「……おまえ、アデリーナ嬢に婚約破棄を突きつけた、と言ったか?」
「はい。そんなことは受け入れられないと最初は拒否されましたが」
「婚約もしていないのに、婚約破棄を受け入れられるわけがないだろうな」
「また謎かけですか?」
「いや、ただ事実を伝えているだけだ。アデリーナ嬢は婚約者のように振る舞っていただけだ。公爵家の令嬢が婚約者だと思われれば、かろうじて王家の威光も保たれるだろうと。そもそも公爵がおまえのような者との婚約を許すわけがなかろう。アデリーナ嬢は、おまえが改心してまともな人間になるようであれば、公爵にも認めさせて、いずれは王妃となり、王家再興の道を残そうとしてくださったのだ。おまえも政務はからっきしだったが、人となりだけなら何とかなると思っていたのだが……私の親バカぶりの酷さも露呈する結果となったようだ」
「えっと。では俺はそもそも誰とも婚約していなくて、もともと自由に恋愛ができる身だったということですね?」
「この状況でわずかに残った良い面だけを見ようとする前向きさはある意味大したものだな……。ともかくおまえが見限られて、公爵家との縁を切ると宣言した以上、もう王家は王宮から放逐されるだろう。おまえもどこへでも好きなところに行くがいい」
「リリアは……?」
「リリア? 誰だ? まあ、もうどうでもいい。好きにせよ」
ルートヴィヒは笑みを見せた。
「はい。ありがとうございます、父上!」
※
ルートヴィヒは意気揚々と王宮を出て、侍従に声をかけた。
「今からリリアのところへ行く。フェルナー男爵家まで馬車を出せ」
声をかけられた侍従は、ルートヴィヒに冷ややかな視線を浴びせた。
「先ほど、アデリーナ様から、もう王家の方の面倒は見るなと言われました。どうぞご自身の足で行かれてください」
「何だと? 俺は王太子だぞ!」
ルートヴィヒが怒鳴るが、侍従は表情も変えなかった。
「もうこの国に王太子はいない、とのことでした」
「侍従の分際で……貴様……」
ルートヴィヒは侍従に向けて拳を振り上げた。
そこに、衛兵がやってきてルートヴィヒの腕を掴んだ。
「狼藉者は出て行っていただこう」
「な、貴様! 衛兵の分際で……汚い手で俺の腕を掴むな!」
腕を掴んだまま衛兵はルートヴィヒを引きずった。
「何をするのだ。衛兵は王太子を守るものだろうが!」
「衛兵の役目は狼藉者からこの宮殿を守ることです」
そう言って、衛兵は城門の外にルートヴィヒを放り出した。
「侵入を試みるなら阻止します。あまりにもひどければ、投獄します」
屈強な衛兵に睨まれ、ルートヴィヒは怯んだ。
「……覚えておれ!」
それだけ言い捨てて、ルートヴィヒは駆け出した。
王都の町では、辻馬車にも乗せてもらえなかった。
ルートヴィヒは一銭も持っていなかった。
仕方なく、徒歩で貴族街に行き、フェルナー男爵家を目指した。
けれど、フェルナーという家名の男爵家の屋敷など、貴族街のどこにもなかった。
※
一年後、ひとりの貴族令嬢が、侍女を連れて公都の町を歩いていた。
貴族令嬢は婚約者の侯爵令息ユリウス・レーヴェンハイトとの昼食に向かう途中で、立ち寄った仕立て屋で見た新しいドレスが想像以上にすてきで、とてもご機嫌だった。
ところが、そこに、ひとりの汚い身なりの男が声をかけてきた。
「アデリーナ……」
その男の髪も髭も伸び放題で、垢がこびりついた。その貴族令嬢——アデリーナには、男がまるで亡霊のように見えた。
「え? どなた? 怖っ」
「俺だ。ルートヴィヒだ。おまえを探していたのだ」
「ごめんなさい。あなたみたいな人知らないです」
怖くなったアデリーナが足早に去ろうとすると、男が手を伸ばして追いかけようとした。が、侍女がすかさず間に入り、男を遮った。
「アデリーナ様! お逃げください!」
侍女がアデリーナに向かって叫ぶ。
「アデリーナ! 俺が悪かった! やり直そう!」
男は走り去って行くアデリーナに向かって叫んだ。
「やり直すも何も、あなたのような人がアデリーナ様と何かあったわけがないでしょうが!」
侍女がそう言って男を突き飛ばすと、男は力なく地面に転がった。
男は公都の路上で倒れたまま、その目から涙を流し続けていた。
「アデリーナ様、大丈夫でしたか?」
「ええ。何ともないわ。公都にあんな人がいるとは……。でも今日はせっかくユリウスとお会いできる日だから、今のことは忘れて楽しむわ。ユリウス様って本当に頭も良くって、気品もあって、すてきよね。私のことも可愛らしくて、でも頼りになるって仰ってくれるのよ」
「アデリーナ様ったら、ユリウス様のことになると本当に嬉しそうですよね」
侍女に笑顔を向けるアデリーナの顔は、曇りのない幸せそのものだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
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