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19歳  作者: 冬枝マサト
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旅のはじまり

一九八七年八月下旬、僕は成田空港で搭乗の時を待っていた。


きっかけは、春スキーの帰りのバスで車窓から眺めた、雪解けの山だった。南半球ならこれから冬が始まる。ニュージーランドへ行けば、まだスキーができる——あの瞬間の閃きが、今の僕をここに立たせている。


高校時代、一年間のアメリカ留学から帰国したクラスメイトがいた。彼が語るエピソードは映画のワンシーンのように輝いて見えた。いつか自分も独りで海外へ飛び出したいという憧れが、心のどこかに静かに根付いていた。


失恋の痛手と、大学という場所に馴染めない息苦しさ。どん底で顔を上げたとき、視線の先に浮かんだのが「海外」という選択肢だった。日本から逃れたいという衝動と、新しい世界への希望。その両方が僕の中で静かに交差していた。


時が止まったような日々を過ごしていても、何も始まらない。自分で目標を定め、計画を練り、自らの足で動く。それが、行き詰まっていた十九歳の僕が見つけ出した唯一の答えだった。大学二年生の夏、親にも相談せず退学届を提出した。普通という平坦なレールを外れ、何が待っているか分からない原野を自ら切り開いていく——そう心に決めた。


大学にも顔を出さず、秋葉原のビジネスホテルのフロントで夜勤のアルバイトに明け暮れた。だが、旅行資金として目標にしていた百万円には届かず、四ヶ月で貯まったのは八十万円だった。時間が足りなかった。それでも、「一年間は帰らない」と心に決めていた。


空港の喫茶店で見送りに来てくれた兄たちとアイスコーヒーを飲み、旅の計画を話しながら明るく振る舞ったが、胸のうちは得体の知れない不安でいっぱいだった。出発三十分前、兄たちと別れを告げ、僕は独り出国ゲートへと向かった。


ゲートの前には、すでに百人ほどが順番を待っていた。最後尾に並び、所在なく時を待つ。やがて僕の乗る便の搭乗アナウンスが響き始めた。刻一刻と迫る時間に焦った僕は、恥も外聞もなく列の先頭まで進み、無理を承知で割り込ませてもらった。そうして機内へ滑り込むように乗り込んだのが、僕にとって初めての海外旅行の始まりだった。


向かう先は、バンコクだ。八月下旬という時期に最も安く、かつ最短でニュージーランドへ辿り着くため、何件もの旅行代理店に電話をかけて見つけた格安チケットだった。バンコクに二泊トランジットし、シドニーを経由してクライストチャーチへ向かうという、普通の人なら考えもしないようなルートだ。こうして僕が人生で初めて足を踏み入れた異国は、目的地ではなく、熱帯の湿気を孕んだタイのバンコクとなった。


バンコクの空港に着き、両替所で一万円札を二枚、タイの通貨バーツに換えた。窓口のトレーに乗せて返されてきたのは、厚みのある札束だった。急にお金持ちにでもなったような、不思議な高揚感を覚えた。


空港の外へ一歩踏み出した瞬間、日本では経験したことのない湿気と熱気が全身を包み込んだ。着ていたポロシャツの胸のあたりが、瞬く間に汗で滲み始めた。アジア特有の濃密な匂い、喧騒、カオス。目の前のバスには溢れんばかりの人が群がっていた。とてもバスには乗れそうにない。スキー板と大きなバッグを抱えた僕は、しばらくその場に呆然と立ち尽くした。


そこへ、片言の日本語でタクシーの運転手が話しかけてきた。「安いホテルへ行きたい」と告げた。バンコクはニュージーランドへの通過点に過ぎないと考えていたから、事前の下調べも、その日の宿の予約さえもしていなかった。


彼のタクシーは、あちこちに錆が目立ちボンネットの塗装も剥げ落ちた古いトヨタ・コロナだった。日本ではもう見かけなくなったそのノスタルジックな車体に、不思議と気持ちが落ち着いた。バンコクではまだ現役で走っているのかと思うと、喧騒に混乱していた頭が、少しだけ静かになった。運転手は日本円にして約四千円という運賃を提示してきた。それが相場より高いのか安いのか、当時の僕には見当もつかなかった。信用していいのかという不安もあったが、今の僕には彼に身を委ねるほかに道はなさそうだった。


助手席に乗り込み、窓の外を眺める。そこはまさに異世界だった。小さなオートバイに家族四人が鈴なりになって乗っていたり、高速道路を走るトラックの荷台の最後部に男が後ろ向きに座り足をぶら下げていたりと、日本ではあり得ない光景が次々と背後へ流れていく。


道中、運転手が「あんたが日本人だとすぐに分かった」と話しかけてきた。「どうして?」と尋ねると、「日本人は他のアジア人と目が違うんだよ」と言う。彼が通りを歩く一人の男性を指差し、「ほら、彼も日本人だ」と断言した。その先を見ると、確かに僕と同じようなバックパッカー風の日本人青年が歩いていた。その眼差しは、確かに僕と同じ「日本人の目」をしていた。


連れて行かれたのは、街外れの白い外壁が印象的な小ぎれいなホテルだった。冷房がしっかりと効いていた。チェックインカウンターに向かうと、フロントの男性が片言ながらも丁寧な英語で接客してくれた。僕は必死に覚えた英会話のフレーズを思い出し、予約はないが部屋を借りたいと告げた。日本で暗記しただけの英語が、初めて「生きた言葉」として機能した瞬間だった。自分の意思が相手に届く——そのささやかな手応えに、僕は小さな感動を覚えていた。


別れ際、タクシーの運転手は「明日は観光案内する」と言い残して去っていった。成田からのわずか数時間のフライト。生まれて初めて足を踏み入れた異国の地で過ごしたその一日は、間違いなく僕の人生の新しい一ページとなった。

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