あたしの上司がイケメンすぎて
あたしが就職して一番良かったと思うことは、隣の席の上司がイケメンだったことだ。
直属の上司である三好係長は、上司というだけあって三十八歳のおっさんであり、二児の父であるけれど、年齢を言われるまで三十歳くらいだと思っていたくらい若く見える。切れ長の瞳と薄い唇が特徴的な、爽やか系のイケメンなのだ。配属前には、人事課の男性の先輩が「事務所内一のイケメンだよ」と教えてくれた。つまり男も認めるガチ本気のイケメン。
そのうえ三好係長はとても優しくどんな仕事にも詳しい。部下にとっては、相談しやすく、相談すれば大体解決してくれる超絶当たり上司である。あたしが数少ない高卒採用の社員だから、最高の環境に配属してもらえたのかもしれない。
あたしの仕事を一言で言えば、建物の維持管理になる。この説明をすると、実際に壁紙を張り替えるだとか、天井に板を当てて釘を刺しトンカチで叩くような光景を想像されがちだが、そういった職業ではない。そういう仕事の人に、うちの会社の管理する建物の修繕を依頼したり、そのためのお金を管理したり、建物の状況を確認して修繕計画を立てたりする地味な職業だ。
中学三年生のとき、模試の志望校一覧表には普通科や特進科といった学科名が並んでいて、その中から見つけた建築学科という名前が、特別カッコよく見えた。親も「専門知識がある方が就職しやすくていいかもね」と言っていたから進学した工業高校で、先生が大学に進学するより工業高校から就職した方が有利だと言うから就職することにした。高校の卒業生が多く務める会社のうち、あたしに向いているらしい会社を先生がピックアップしてくれて、その中で女性社員の活躍応援を掲げていた会社に就職。その会社が今勤める弊社であり、就職先を決めた当時は完全に現場でトンカチを振るう職業だと思っていた。
新人研修、そして配属を経た半年。かつてのあたしが想像していた仕事と、実際に行っている仕事は全然違う。
朝一番、「八尾さん、今日一緒に現場行こうか」と三好係長に声を掛けられて、事務所から車で三十分ほどのテナントに行くことになった。助手席の窓から見えた空は見事な秋晴れで昨日まで降り続いた大雨が嘘のようだ。
「おはようございます」
テナントについて、三好係長はまずメロンパンを売っているおばさんに挨拶する。おばさんは「お疲れ様です。あら三好係長、珍しい! 店長呼んできますね」とすぐ奥に引っ込んでいった。あたしも三好係長に続いて挨拶はしたけれど、名前は当然知られていない。そしてあたしもおばさんの名前を知らない。このテナントには先輩について二回来たことがあるけれど、裏手から入るばかりで、店舗に顔を出したことがないからだ。そもそもこのテナントはうちの会社が不動産を貸している、いわば貸店舗であり、このテナントに雇われているおばさんのことは、関係者というより赤の他人だと思っていた。
ただなんとなく、三好係長が顔見知りであるのであれば、このおばさんの名前を覚えて帰ろうと思った。
「係長!早速来てくださってありがとうございます。昨日連絡しました雨漏り箇所に案内します」
店長が案内してくれた雨漏り箇所というのは、厳密には雨漏りではなかった。建物の中ではなく、店舗とバックヤードを繋げる渡り廊下で、雨樋から雨が溢れてしまったらしい。
「雨樋のキャパが足りていないのでしょうか?この場合って雨樋をかえるんですか?」
店長から話を聞いて、雨が溢れた当時の写真を見せてもらい、気になったことを三好係長に質問する。三好係長いわく、一年目はどんどん質問した方がいいらしい。
「うーん、一年にあるかないかの大雨やったからなぁ」
「でもここの渡り廊下は毎日通るのに、店員さんたちが可哀想ですよ」
三好係長が、雨漏りの対応に後ろ向きな発言をするから、むむっとしてしまう。店員さんたちのためにもあたしが反論しないと。
「雨樋をかえたら、次は集水桝が溢れて排水管に水が流れんくなるかもしれん」
「えっと、浸水しちゃうんですか?」
「ちゃうちゃう。そんなニュースで見るようなことにはならんよ。雨樋と排水管の接続部分から水が溢れてくるかもしれへんねん」
「じゃあ接続点も大きくします! 合ってますか?」
これだ!と思い、三好係長に宣言する。そうしたら、なぜか三好係長は目尻にぎゅっと皺を寄せて、口元を抑えている。笑うのを堪えているみたいだ。
「そこまでやったら、お金がかかりすぎるわ」
「そうでした。予算も考慮しないといけないんでした」
少し前三好係長に教えてもらったフレーズをそのまま口に出す。「覚えてるやん」と言った三好係長の声音は、褒めてくれているように聞こえるけれど、ここからどうしたらいいのか、一ミリもわからない。
素直に「どうしたらいいかわかりません」と伝えたら、三好係長は店長に借りた梯子を上って、雨樋を上からのぞき始める。
「八尾さんも覗いてみ」
降りてきた三好係長と交代し、あたしも雨樋を覗き込む。
「落ち葉だらけです!」
「おお、とりあえず掃除やな」
「雨漏りは落ち葉で詰まったせいだったんですか?」
「それだけのせいなんか、雨樋のキャパも足りてへんのかはわからへんけどな」
梯子から降りたあたしに、三好係長は「お金のかからへんところからやっていこか」と言った。
取り急ぎ雨樋の掃除をし様子を見ると大まかな方針は固まったけれど、今日は道具もないし、午後からは事務所で打合せがある。来週も雨予報だというのに、三好係長は明日以降のスケジュールが詰まっているから、掃除には同じく一係の先輩とあたしの二人で行くことになった。
ただ、先輩とあたしのスケジュールから決定した、掃除の日である明後日は、偶々店長も不在らしい。
「佐藤さんにバックヤードの鍵借りて、こっちで勝手に掃除したらまずいですか?」
「大丈夫です! ありがとうございます」
三好係長と店長は、あたしが口を挟む隙もなく、サクサクと折衷案を決定する。「じゃあ、最後に佐藤さんに挨拶して帰ろか」と言われ、よくわからないまま「はい」と返事したところ、向かった先がメロンパン屋の店頭だったから、やっと状況を理解した。
ここに来てすぐ朝の挨拶を交わしたおばさんに、三好係長が「佐藤さん」と声を掛ける。
「八尾が明後日雨樋の掃除に来るんで鍵渡してもらってもいいですか?」
「設備課二係の八尾です。明後日はよろしくお願いします」
佐藤さんはふんわり笑って「まぁ、よろしくね」と言った。
三好係長は、以前からの知り合いらしい佐藤さんが困っていても、名前も知らない店員さんが困っているように、変わらず予算も考慮しないといけないと言う。
こういうとき、この仕事ちょっと嫌だなって思う。地味だし、難しいし、お金のために誰かに不便を強いるのは、責任を感じる。だけど三好係長は、明日明後日の仕事にいつも、小さなやりがいをくれる。あたしは、明後日誰の呼び名かもわからない店員さんのためじゃなく、佐藤さんのために雨樋の掃除をする。
「やっちゃん、会社どーお? 慣れた?」
洒落た串焼きが並ぶ居酒屋、ハイボール片手に少し声が大きくなった高尾先輩が聞く。
あたしは未成年でお酒は飲めないから、数少ないノンアルコールドリンクから適当に選んだオレンジジュースをちびちびと啜っている。
「係長と先輩のおかげで楽しいです」
高尾先輩は「いい子や」とでろでろになった言葉を吐いた。酒が入っていないときは頑なにあたしを八尾さんと呼ぶこの真面目な先輩が、酔っ払って「やっちゃん」と呼んだり、仕事の不満を大声で叫んだりするのは、結構見てて面白い。
設備課二係は三好係長と五歳年上の宮先輩とあたしの三人だけの小規模な係だ。
宮先輩も大卒二年目の二十四歳なので、あたしの業務の面倒はほとんど三好係長が見てくれている。あたしはこれをラッキーと捉えているけど、二十歳年上の直属の上司が教育係とはいかがなものかと、上の人は考えたらしい。
だから隣の設備課一係に所属する、同性の高尾先輩がフォロワーとして面倒を見てくれることになった。
今年二十七歳になった高尾先輩と私では、やっぱり年は八つ離れているのだけど、たぶん本質的に面倒見の良く、それでいて結構適当なところがあるこの先輩とは、かなり上手くやれている。
「三好係長ね、いいよねー」
うんうんと頷く高尾先輩に合わせて、あたしも首を縦に動かす。
「あたし、あんなイケメンの隣で毎日八時間も過ごすのはじめてです」
目の前から、んふっと変な音が聞こえた。ねぎまの最後に余ったもも肉をどう処理するかに悩んで、下に向けていた目線を上げると、笑いを堪える高尾先輩と目が合う。
「え、イケメンじゃないですか?」
「いやそうだけど。いい上司よねって言われて、そんな返しすることある?普通、どんだけいい上司でも隣の席に座るのは嫌だよ」
「三好係長、声量も控えめなんで、聞き返すとちょっと近いづいてくれてドキドキします」
「ふっ、ちょ、待って。全然そういう問題じゃない。隣にずっと上司いて緊張しないの?」
「係長優しいし別にしないです」
「やっちゃんまじ逸材だわ」
これで素面っていうのがさらにすごい。と高尾先輩はひとりごつ。高尾先輩は配属当初から、まだ酒の飲めないあたしが課の飲み会に連れて来られて嫌な思いをしないか心配してくれていたようで、最初の方は何度も嫌じゃなかったか聞いてくれた。
ただそれは無用な心配だったらしく、飲み会のボルテージが上がると、アルコールを一ミリリットルも摂取していないあたしのテンションも不思議と上がって、今のところ課の飲み会はずっと楽しい。そういう話を三好係長にしたら、あたしは場酔いするタイプなんだろうと教えてくれた。
周りに就職している人が少ないあたしは、SNSでよく見る「職場の飲み会は楽しくない」「時代遅れ」「職場の飲み会とか行きたくない」という意見に大きく影響を受けていて、酒が入っているとか入っていないに関わらず楽しくないイメージが強かった。こんなに楽しいものだなんて、自分でも予想外だ。
「あたし飲み会も係長の隣空いてたら座りますもん」
「それはわかる」
他の偉いおっさん達と違って、三好係長は自分の昔すごかった語りをしない人だ。というか、自分の話をあんまりしない。だけど雑談は存外好きなようで、昼休みなんかもあたしたちの会話にさらっと混ざって笑っている。
日頃からそんな三好係長だから、飲み会は基本聞き役だし、課長やあたしたちのしょうもない話にひとつひとつ反応して、ずっと楽しそうにニコニコしている。イケメンが自分の話に興味持って、そんでもって目をくしゃくしゃにした笑顔まで作ってくれるもんだから、三好係長の隣の席は楽しくってたまらない。
「三好係長の声、居酒屋のガヤガヤした空間じゃ全く通らんから、飲み会だとちょっとパーソナルスペース狭なるよね。それはちょっとドキドキする」
高尾先輩はハイボールを目の高さまで持ち上げて、少し眺めたあとゆっくりと口をつけた。
「えっあたしと同じこと言ってるじゃないですか⁉」
「いや飲み会のときしか思わんよ」
「仕事の席と飲みの席でそんな違います⁉」
「イケメンの顔が近い喜びが上司の隣に座っている嫌さを超えられない」
「ええっ」と少し大きな声を出したら「言っとくけど八尾さんがレアタイプだからね」と呆れたような目を向けられる。
そして実はこれは何度も同期に言われてることだったりするので反論できない。事務所の同期が皆男子だから、イケメンに喜ぶ気持ちができないのかと思っていたけれど。
「高尾先輩ならわかってくれると思ってたんですけどぉ」
「残念わからん」
ちょっとむくれたような声を出してみたいが、先輩はにべもない。
「というか、飲み会で三好係長の隣に座りたいの、武勇伝とか語られないのもあるからね」
うんざりしたような高尾先輩の声に、武勇伝が大好きな設備課一係の係長が思い浮かぶ。それはそう。
あたしは三好係長に、初ボーナスで高校の友達と北海道旅行に行ったなんていうレベルのしょうもないことまで話しているし、三好係長は笑顔で聞いてくれる。
だけどあたしは三好係長を、娘さんが二人いることぐらいしか知らないのだ。
「高尾先輩が誰のことを言ってるのかはめっちゃわかります! だけどあたし三好係長の武勇伝なら聞きたいです」
「それは流石に嘘やん」
「マジですよ。三好係長のこともっと知りたいので!」
「えっそれってやっちゃん、まさか……」
いつもと然程変わらないはずの、あたしの発言に高尾先輩の表情が固まった。でもそれは、あたしが何ですかと問い返す前に「いや、流石にそれはないか」と一人で飲み下したようで、首を傾げたあたしは「ごめんごめん、気にしないで」と言われる。
このときのあたしは知る由もなかったけれど、何も気にせず流したこの言葉は、半年後同期に言われることになる。男子達に言われるくらいなら、高尾先輩に言われたかったと思うが、後の祭りである。
徳島県は関西らしい。というのも、関西弁を話しているものだから、関西出身だと思い込んでいた三好係長が実は徳島出身だったらしい。
二係の雑談の「三好係長って関西出身じゃないのに、関西弁お上手ですよね」という会話により、二年目になってやっと三好係長が関西出身じゃないことを知った。
当の三好係長はこう言わはるが。
「徳島は関西やで。テレビのチャンネルとかも関西やし」
実はこのしょーもない知識が、数年後徳島出身のお偉いさんを相手にする際、大いにあたしを助けることになる。
だけどこのとき、あたしがショックを受けたのは、この後に続いた三好係長の「四国に新しく事業所できるらしいやん。俺出身やし異動かもな」という言葉だった。三好係長自身、四国に帰りたいという思いもあるよう。それならばもう、これはただの雑談ではなく事前予告なのでは、なんて疑ってしまう。
職場にほど近いうどん屋では、月に一度割引デーがあり、その日は設備課の皆で食べに来ることが定例化している。とは言っても何となくのレベルのものなので、奥さんに弁当いらないと伝え忘れたらしい課長は本日欠席である。
「三好係長、四国行くって本当なんですか?」
噂になってますよと高尾先輩が声掛けた。
「希望はしてるけど、実際行くかは知らんで」
「そうなんですか? 事務所内みんな言ってるから確定かと」
一係の先輩が反応する。この人はいつも課のランチには参加しないので、今日は珍しいなと思っていたけれど、三好係長の噂が気になっていたのだろう。
「ほら! 俺が言った通りやろ!」
「ほんとですねー」
自慢気に胸を張った一係長を高尾先輩が適当にあしらった。
「あれ、ご存知だったんですか?」
ただ張本人である三好係長は、一係長の反応が気になったらしく、少し深掘りすることにしたようだ。
「ちゃうちゃう。ほんまに異動するなら八尾さんが泣いてるからまだ決まってないやろって言っててん」
言い切る一係長と「そんなことないでしょう」と苦笑いする三好係長。急に出てきた自分の名前に、深く考えず一係長の方を見ていたら意味ありげに目配せされる。
「確かに、三好係長の異動決まったら泣いちゃいます」
期待に応えたあたしの発言に一係長だけでなく先輩達も笑う。あたしのこの三好係長推してます発言は、なぜか課内のウケがいい。こんなに上司のことが好きな部下というのが珍しいからだと思っているが、誰にも確認していないから真偽はわからない。
「もう持ちネタにしてるやろ」
目尻に皺を寄せた三好係長にからかわれ「してないですよ! ほんとに三好係長の異動とか嫌すぎます」と否定する。確かにさっきの発言は任されたオチをつけにいった部分がある。でも噓じゃない。家でいる時ですら、三好係長の異動が決まったら泣いちゃうかも、なんて思うことがあるのだ。
「けどそろそろ独り立ちしてもらわなあかんからなぁ」
その言葉に、課長から出された宿題を思い出す。今までは三好係長や宮先輩と一緒の仕事しかしていなかったが、今回初めて一人で行う仕事を渡されたのだ。もちろん完全に一人で行うわけじゃない。報連相はこまめにするよう言われているし、三好係長と課長には決裁をまわす必要もある。
「それはもちろんわかってますよ!」
勢い余るその返事に係長たちも先輩たちも皆が苦笑する。あたしに任された仕事は、いわゆる社内セキュリティ検査への準備、当日の対応等全てであり、社内の人間しか関係しないこの仕事は、若手の登竜門でもある。先輩方曰く、難しくはないが面倒くさい、という仕事らしい。
この仕事を任せた課長には、ついでとばかりに宿題を出されていて「八尾もそろそろ独り立ちすんねんで」とのこと。二年目になりそういう時期なのもわかっているし、一年間教えてもらった分、ここで成長を見せたいという気持ちもある。あたしは今回の仕事に大いに熱が入っていた。
社内セキュリティ検査は二年に一度実施されており、毎回その年度と前年度の書類検査と、事務所内の現地検査が実施される。
そして何故か不思議なことに、昨年の書類が何も整理されていなかった。前任の宮先輩に確認したら「俺のときもそうだった」と言われたが、悪循環になっているだけで宮先輩がやるべき仕事だったと思う。そんなこんなで、あたしの仕事は初日から想定の倍の作業が必要になってしまった。
「所長、すみません。昨年度の書類なのですが、押印していただけませんか」
あたしが謝らなあかんのかこれ、そんな気持ちを抱えながらも所長のもとに未決の書類を持って行く。
「何で去年の書類が未決で残ってるの?」
普段は優しい所長の冷たい声に、宮先輩を売るわけにいかず「すみません」とただただ謝る。
「ん? これ一昨年の検査で指摘されたところも直ってないんじゃないか?」
追撃され、内心では宮先輩に呪詛を吐きながらも「すみません、今から直します……!」と声を絞り出した。
就職したから初めて、理不尽な目に合っている。意気消沈しながら所長室を出て自席に戻ると、斜め前の席から宮先輩が両手を合わせて「ごめんね」のポーズをしている。
仕方がないから「いいですよ」の意味を込めてオッケーの手を作ったら、不審そうな顔をしている三好係長と目が合った。
目があったどころか、「二人で何やってるん?」と聞かれてしまい、宮先輩と二人目配せする。流石にと思ったのか、宮先輩が事情を説明してくれることになった。
事情を聞き終えた三好係長は、意外な反応をした。まずは予想していたことだが先輩に注意をし、その次に「じゃあ、来年はどうしようか?」と言ったのだ。
「来年の書類は私がまとめておきます」
当然こうでしょとあたしは返事する。だけどそれは違ったようで三好係長はうーんと首をひねってしまう。
「来年はもっとたくさんの仕事任されるけど、八尾さん全部やれる? 皆やりたくないからこの仕事放っておいたわけじゃなくて、他の仕事で忙しいと、この仕事は検査前に書類まとめれば何とかなるって自分の経験から思っちゃうから後回しにしてたんやと思うで」
宮先輩は三好係長に視線で同意を求められ、ほっとしたように「そうです」と頷く。
「そうやなぁ、課長にも相談しなあかんけど、来年はすぐ新人に引き継ごうか。今年はうちの課新人おらんけど来年は入れると思うし」
「そうしたら、今年の検査で指摘されたところとかわからないんじゃ……」
仕事が楽になるのは有難いけれど、つい先程所長から一昨年指摘された点について詰められたばかりだから気になってしまう。
「八尾さんは検査終わったら、検査結果をワンペーパーにまとめようか。それを後輩に引継ぐときに渡してあげたらええやんな。そもそも、指摘された点を検査の担当者が知ってるだけじゃ良くないから、作ったワンペーパーを使って所内周知もしよう」
さらっと提示された、完璧なプランに「わかりました!」と意気込んで返事する。先輩には改めてきちんと謝罪され、その後は特に何のトラブルもなく、社内セキュリティ検査は完了した。
総評として、課長から「合格やな。検査終わった後の対応も含めて良かったよ」と褒められた。検査後の対応は自分のアイデアではないため「三好係長にアドバイスをもらいました」と素直に伝える。「八尾さんが頑張っとったからやで」とその後フォローを入れてくれた三好係長は、目尻にぎゅっと皺が寄った素敵な笑顔をしていた。
先に言われた言葉がどっちだったかはもう忘れた。「お前流石にそれはアウト」だったか「三好係長のこと好きなん?」だったか、どっちかだった。立て続けに言われる言葉でもないから、この二つの言葉の間にあたしの返事が挟まっていたはずだ。全然覚えてないけど。
ただ「三好係長結婚してるからな」って最後に言われたのは覚えている。あたしは「いや知ってるし。そんなんじゃないねんけど」って言った。「三好係長のスマホのロック画面娘さんやからな。知らんわけないやろ」とは流石に言わなかった。
いや、そんなんじゃないって何やねん。そんなんって言えるほど、恋の形も知らないのに。
近々二十歳になる予定のあたしだが、誰かとお付き合いしたことはない。恋バナは好きだし、高校生の頃は自分について恋愛経験が全くないとは思っていなかった。だけど、社会人になってすぐの頃、高尾先輩の口から「二年付き合った元カレ」という言葉が出たときは衝撃を受けた。彼氏という存在すらいたことのないあたしにとって、元カレという単語も二年という月日も「これが二十七歳か」と大人の世界を感じるものだったのだ。
そういった経緯があって、社会人になってからは「恋愛経験なくて」を定型文として繰り出している。だけど本当は高校生の頃に好きな先輩がいた。
一学年先輩のその人は優しくて背が高い人であり、部活の先輩と付き合っていた友達の彼氏の友達として出会った。当時は深く考えていなかったけど、自然に出会うには少し遠い縁であり、友達には意図があったかもしれない。何はともあれ、友達とその彼氏の繋がりだったことによって、あたしは友達に引っ付いて先輩の体育祭の応援に行ったし、そこで先輩のクラスメイトにニヤニヤされたりした。友達に背中を押されて、高校から最寄り駅まで一緒に帰りませんかと誘ったこともある。その度照れたように少し頭を左右に振る先輩に、あたしの頬も熱くなったりして、そういうのを恋だと思ってた。
三好係長と並んで座るデスクよりも、現場帰りにランチ食べてから帰りましょうと誘うことよりも。あの頃の方がよっぽど、友達から聞く惚気や高尾先輩から聞く愚痴のような、生々しい恋の形をしていた。だけど今、係長の笑顔ひとつに、あの時よりもっとずっと、心臓を揺らされている。
あたしがそろそろ社会人三年目になろうという春。三好係長の四国行きの話が持ち上がってから一年足らずで、正式に四国異動の内示が出た。
そこからは慌ただしくて、三好係長からの仕事の引継ぎ、一番下っ端として送別会の幹事を務め、設備課の皆で名入れのボールペンを送別の品に用意した。
二月生まれのあたしは、送別会で初めて三好係長とお酒を飲むことができた。ギリギリ三好係長が異動になる前に誕生日を迎えることができたとも言う。そして、人望が厚い三好係長の送別会にはたくさんの人が集まり、幹事だから一次会はてんてこまいだったけれど、設備課だけで行った二次会では、いつも通り三好係長の隣の席に座った。
「設備課二係の三好です。先程辞令いただきまして、四国支社営業部へ異動になりました。初めての係長ということでわからないこともたくさんありましたが、皆さんに支えていただき業務を遂行することができました。管外への異動にはなりますが、今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
四月一日。朝から辞令交付があり、前日中に荷物発送の準備や、机の片づけが終わっていた三好係長は、挨拶のスピーチを終えすぐに事務所を出発した。
誰かが異動するときは、事務所の玄関の前で集合写真を撮るという風習があるため、全員で三好係長の後ろをぞろぞろとついて行く。
集合写真を撮り終わり、課長が口を開く。
「じゃあ最後に、設備課から」
青い袋に簡易なラッピングをされた送別の品が渡される。
「開けてもいいですか?」
課長が「どうぞ」と言うと、三好係長は丁寧な手つきでラッピングをほどき、袋の中に入っていた箱を開ける。ボールペンだ。
「名前入ってるやん」
嬉しそうな三好係長に、課長が「二係の担当二人で考えたらしい」と伝え、宮先輩の背中を押した。
「三好係長、新人の頃から迷惑ばっかかけてすみません! 三年間面倒見ていただきありがとうございました!」
勢いのまま告げた宮先輩に「おう、これからも頑張れよ。期待してるで」と三好係長が応える。
課長に「八尾も何か言っとけ」とあたしも背中を押され先輩に続く。
「三好係長のおかげで仕事楽しいです! またどこかで三好係長の部下として働かせてください」
お世話になりましたみたいなよくある言葉じゃないその本音に、あたし自身がこの人にどう思われたかったのかわかって、胸につっかえていた小骨がなくなったような気がした。
三好係長は一瞬切れ長の瞳を丸くして、その後すぐに破顔する。目尻に皺がよって、唇が薄くて大きい口の、口角がぐっと上がる。この二年で何度も見た、あたしの大好きな笑い方だ。
「それは賑やかになるな」




