第6話:花と声と、忘却の淵
──夢を見ていた。
白い花が風に揺れる、静かな野原。空は灰色で、音がなかった。
咲良の足元には、小さな花弁が舞っていた。
誰かが泣いている。
──それは、自分?
いや、違う。もうひとりいた。
その少女は、咲良とよく似た声で、こう言った。
「……さくら。お願い、思い出して」
振り向くと、少女の顔は影に覆われていた。
だが、瞳だけは──深い碧だった。
「わたしの名前を、呼んで」
その言葉とともに、夢は崩れるように消えていった。
──目を覚ますと、夜はまだ明けていなかった。
焚き火の火はすっかり消え、灰が風に舞っている。
「……夢、だったよね」
『全部が夢とは限らねぇ』
クラの声が、頭の中に響いた。
『見たんだろ。“声”と“花”と……“呼び名”』
「……うん。でも、あの子が誰なのか、わからない」
咲良は胸に手を当てた。あたたかさと、冷たさが入り混じっていた。
ベルが木の陰から顔を出し、尻尾を揺らした。
「なーんか、寝汗かいてる顔しとるな。……見たんやろ、“夢の記憶”」
「夢の……記憶?」
『夢とは、記憶の残滓だ。そしてこの世界では、ときに“忘れられた真実”に繋がる』
クラの声が、静かに続けた。
『お前の中には、もう一つの“名前”がある。かつて名乗った、もう一人の自分の名が』
咲良は小さく首を横に振った。
「私には、“咲良”以外の名前なんて──」
『違う。“咲良”は今の名前。だが“器”が空であった以上、元の名があるはずなんだ』
「……前にいた世界の、私……?」
その言葉に、風が揺れた。
すると突然、空が歪んだ。
草木が逆巻き、地面から瘴気が噴き出す。
ベルが牙を剥いた。
「くる……また“境界外”や!」
瘴気の中から現れたのは、ヒトの姿をした異形だった。
顔はひどく歪み、眼球はない。ただただ、空虚な笑みを浮かべている。
「……サク……ラ……」
異形が、咲良の名を呼んだ。
『ナンナの“擬似体”か。名を喰った者だ』
「なんで、私の名前を──?」
『記憶を喰らうことで、“お前になろう”としている』
ベルが前に出る。
「さくら、思い出せ。“夢”で聞いた声、“あの子”の名──」
「……でも、まだ……思い出せない……っ!」
『ならば、感じろ。“名前”は記憶に宿るだけじゃない。“想い”にも刻まれる』
咲良は叫んだ。
「──だれか!」
その瞬間、彼女の中で何かがはじけた。
空白だった記憶の中に、たったひとつの響きが差し込む。
「……アリア……?」
擬似体が止まる。空気が変わる。
咲良の胸元が光り、そこから薄紅色の羽が舞い上がった。
『その名だ。“アリア”──お前の記憶の中にいた、もうひとりの少女。その名を呼ぶことで、“器”はまたひとつ満ちていく』
咲良の手が、白と黒に染まる。
「いくよ……“アリア”を、取り戻すために!」
咲良の叫びとともに、光が空を裂いた。
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次回予告:
第7話『名前と力、そして私』
“アリア”とは誰なのか?
咲良の力が新たに覚醒し、擬似体をめぐる戦いが始まる。
記憶を手繰る旅は、やがて女神の真実へとつながっていく──。