第5話:記憶を喰らう者たち
森に静寂が戻っても、咲良の胸はざわついていた。
焚き火の火は小さくなり、クラの影が揺れる。ベルは背中を丸め、空を仰いだままつぶやいた。
「……見えたか? あれが“境界外”の魔獣や」
『しかも、“無き者”の眷属だな。食っていたのは、間違いなく“記憶”だ』
「記憶を……?」
咲良の声に、ベルが頷く。
「この世界には、二つの“糧”がある。ひとつは命、もうひとつは記憶。普通の生き物は命で生きるけどな、“無き者”はちゃう。記憶を喰う……“存在そのもの”を削るんや」
『一度喰われたら、存在の輪郭が薄れていく。名前、顔、声、想い──全部が、世界から抜け落ちていく』
咲良はぞっとした。
「じゃあ……誰かが喰われたら……その人を覚えている人もいなくなるってこと?」
『そうだ。“この世界にいたこと”すら、誰の記憶からも消える』
それは、死よりも恐ろしい終わりだった。
ベルが木の根に腰を下ろし、懐から小さなペンダントを取り出した。
「うちの姉ちゃんも、そうやった」
ぽつりと、ベルが言った。
「ある日、いきなり姿が消えてな。家族も仲間も、誰も覚えとらん。……でも、うちだけは覚えとった。声も、手のぬくもりも……夢に見るくらい、はっきり」
咲良は言葉を失った。小さな狼の瞳が、どこか遠くを見つめていた。
『ベルは、“器”に近い存在だからな。忘れられずに済んだのは、奇跡だ』
「器……?」
『女神の器。それは、“記録を保つ者”だ。世界の歪みの中でも、記憶を繋ぎ止める存在。お前がその名を名乗ったことで、咲良、この世界におけるお前の“枠”が定まった』
「じゃあ、私は……この世界に、本当に“存在”するようになった?」
『ああ。名乗った瞬間に、“空の器”はお前のものになった。だが、それは同時に“狙われる”ってことでもある』
咲良の背筋がぞわりとした。
「私の記憶も……喰われる?」
『そう。だが逆に言えば、お前の“記憶”には力が宿る』
クラの声が少し低くなった。
『“無き者”たちはそれを狙っている。咲良、お前の中には……まだ“目覚めていない記憶”がある。封じられた、何か大きなものがな』
「……何?」
その問いに、クラは答えなかった。
ただ、夜風が焚き火を揺らし、闇の奥で“何か”の気配がざわめいた。
その瞬間──咲良の意識に、断片的な映像が走った。
──白い花畑。倒れ伏す少女。泣いている誰か。
──「忘れないで」
──「私を、呼んで」
──「あの日の名を」
咲良は膝を抱えて、震える。
胸の奥で、何かが目覚めかけていた。
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次回予告:
第6話『花と声と、忘却の淵』
夢に現れる謎の少女。
咲良の中に眠る“失われた記憶”が、徐々に姿を現し始める。
ベルの過去、クラの正体、そして《無き者》の真の目的とは──。