第2話:目覚めた場所、空っぽの私
柔らかな草の匂いと、木々のざわめき。
咲良は、ゆっくりと瞼を開けた。
視界に広がったのは、見知らぬ森の天井。
背中には土の感触、頬を撫でる風は穏やかだった。
「……ここは……?」
体を起こそうとして、自分の手を見つめた。
傷ひとつない。あのトラックに轢かれたはずなのに、痛みも残っていない。
まるで“死”が嘘だったみたいに、すべてが静かだった。
咲良の胸元で、ふわりと動くぬくもり。
彼女はそっと手を添えた。
「……猫ちゃん……」
黒猫が、小さく鳴いた。
生きていた。あの瞬間、確かに咲良は守った。命を引き換えに、と思っていたけれど──
違う。
なにか、もっと大きなものが起きた気がする。
──《裁定の器》、適合者確認。
──禁忌スキル【善悪吸収】、発動中。
あの“声”が、再び脳内に響いた気がした。
咲良は立ち上がろうとし──そこで、ふと気づいた。
自分の影が、木漏れ日の中で、不自然に揺れている。
「……え?」
風がないのに、影が“ざわめいた”。
それは明らかに、咲良とは別の意思を持つように、形を変え、揺れ動いた。
──“影”が、こちらを見ていた。
『やっと目覚めたか、主』
その声は、低く、冷ややかだった。
だが、咲良自身の声にも、どこか似ていた。
『おまえが拾った“善”……その裏側にある“悪”は、俺に流れてくる。おまえが救おうとすればするほど、俺は重く、強くなる』
「……あなたは……私?」
『いや、"おまえ"が選ばなかったもの。
怒り、恨み、嫉妬、悲しみ。──それらすべて、俺が引き受ける。
その代わり……戦うときは、貸しを返してもらうぜ?』
影はそう言い終えると、咲良の背中へとすっと吸い込まれた。
息を飲む咲良の手に、突如として“白い光”が宿る。
「……これ……魔法?」
手のひらから放たれた光が、周囲の小さな花を咲かせる。
だが次の瞬間──背後で“どす黒い瘴気”が吹き出し、木々が一部枯れた。
『ほらな。善と悪は、ワンセットだ』
咲良の影が、再び笑った。
*
そのとき、茂みの奥から獣のようなうなり声が聞こえた。
現れたのは、牙をむいた異形の魔獣。
赤黒く濁った目。ひしゃげた骨格。明らかにこの世界の“正常”ではない。
『あれは《落ちた者》──善も悪も壊れ、ただ喰らうだけの存在だ』
咲良は立ちすくんだ。恐怖が足をすくませる。
けれどそのとき、影が囁く。
『力がほしいなら──呼べ。
俺の名を、心で叫べ』
「……名……?」
咲良は息を吸い込み、目を閉じた。
内に広がる闇。その奥にあるもの。その名を──
「クラ……!」
その瞬間、咲良の背から黒い腕が伸び、地面を叩いた。
影が、姿を現したのだ。
『契約、完了。咲良──白魔法を。俺が黒をぶつける』
「……わかった!」
二人は、初めて共に立ち向かった。
善と悪。
少女と影。
ふたつの器が、初めて“ひとつの敵”へと挑む瞬間だった。
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次回:
第3話『影の名は、クラ』
少女は知る。影は“もう一人の自分”ではなく、むしろ彼女を守ろうとする存在であることを。
だがその関係には、ある“代償”が存在していた──。