第17話:記憶の海と、失われた名
その場所は、地図には記されていない。
霧に覆われた深き海――《ノウティルの入江》。
咲良とミナトは、導かれるようにそこへたどり着いた。
「ここ……冷たい」
咲良が小さく呟く。
風はなく、波も立たない。
ただ、海面がゆらゆらと鏡のように揺れている。
その水面を覗き込むと、見えるはずのない“記憶”が映った。
――誰かが泣いている。
――誰かが名前を叫んでいる。
――誰かが、「忘れたくない」と願っている。
「……記憶が、漂ってる」
ミナトの声にも、少し怯えが混じる。
この海には、“名を失った者”の記憶が沈んでいるという。
女神の器を求めて、己を見失った者たち。
その名前は記録からも抹消され、ただ哀しみだけが残った。
「ねえミナト……もし、私たちもここで名を失ったら、どうなるんだろう」
咲良の問いに、ミナトは一瞬言葉を詰まらせ、そして笑った。
「それでも俺は、君の名前を呼ぶよ。
たとえ君が思い出せなくても、俺は何度でも呼ぶ」
その言葉が、海に波紋を生んだ。
海が開き、光が射す。
そこには“記憶の断片”が形を持って浮かび上がっていた。
一冊の記録帳。
表紙には名前がない。だが中には、咲良たちの旅が、確かに綴られていた。
「……私たちの記録?」
咲良がページをめくる。
そこには、過去・現在・未来の記憶が混ざり合っていた。
まだ知らぬ出来事さえも、そこには“既に在るもの”として記されている。
「この本……未来も記録してる。どういうこと……?」
ミナトが眉をひそめた時、背後に静かな声が響いた。
「それは“予見された記憶”――女神が最も恐れたものだ」
振り向くと、白いローブをまとった老いた旅人が立っていた。
「名を失った者ではない。我は《記録の海の管理者》――アルシェ」
アルシェは咲良に記録帳を差し出すよう言う。
「その書に触れ続ければ、いずれ“己”を喰われる。
だが、それでも持ち続けるのか? お前の“名前”を代償にしても」
咲良は記録帳を見つめた。そして、そっと抱きしめた。
「私は忘れない。誰かを忘れたくないって気持ちも、忘れたくないから」
「……ふむ。ならば進め。器は、ついに“名”を宿す準備が整いつつある」
波が引き、記憶の海に道ができる。
その先に、女神の真なる影がちらりと揺れた。
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次回予告
第18話『偽神の影と、器の目覚め』
記録はやがて真実へとつながる。
だがその先には、女神を騙り続けていた“偽神”の影が立ちふさがる。
器が目覚める時、咲良とミナトに最大の試練が訪れる――。