侯爵令嬢の華麗なる復讐劇
王都の冬は冷たい。けれど、煌びやかな宮廷の舞踏会場には、そんな寒さなど微塵も感じさせぬ熱気が満ちていた。
絢爛なドレスを身に纏った令嬢たちが、微笑とため息を振りまきながら、次々と舞踏に誘われていく。王家主催の舞踏会ともなれば、そこはただの社交の場ではない。政略と野心、虚飾と見栄が交差する――まるで仮面の饗宴。
その中心に立っていたのは、王太子ユリウス・グランゼルク。黄金の髪に、麗しき青の瞳。女性を惹きつける容貌に加え、甘く響く声と社交辞令の天才ぶり。そう、外見だけなら――彼は完璧だった。
ただし、内実さえ伴えばの話だが。
会場の片隅に立ち、静かにその様子を見つめていたのは、侯爵令嬢リシェル・アルセイン。淡い青銀のドレスを纏い、琥珀色の瞳に微かな冷気を宿している。誰よりも端正で、誰よりも冷静。ユリウスの婚約者である彼女は、今日もただ、一言も発せぬまま時をやり過ごしていた
「……また、ですね」
傍らの侍女が小さく呟く。目の前の王太子は、今まさに平民出の少女と楽しげに踊っていた。初対面の者にしては随分と親密だ。だが、珍しくもない光景だった。
ユリウスの浮ついた噂は、社交界ではもはや風物詩である。数えきれぬほどの侍女、令嬢、女官――どれも“軽い遊び”だと王太子は笑い飛ばしてきた。
リシェルは特に眉も動かさず、ただ一度、視線を王太子へと投じた。
気づいたユリウスが、何故か勝ち誇ったように微笑む。
次の瞬間、彼は少女の手を取ったまま、堂々とリシェルの前へ歩み寄ってきた。
「リシェル。君と話がある」
微笑を浮かべたままの王太子が差し出すのは、真新しい恋人――というよりは、ただの“今夜の相手”と見えなくもない平民の少女。その手を取ったまま、彼は周囲の注目すら気に留めぬ様子だった。
リシェルは一度だけ瞼を伏せ、静かに一礼する。
「かしこまりました。では、奥のお部屋で」
無駄な言葉を挟むことなく、リシェルは先に歩を進めた。視線も姿勢も崩さず、完璧な礼儀作法のまま、応接室へと入る。
ユリウスは相変わらず少女の手を引いたまま後に続いたが、リシェルが振り返ることはなかった。
室内に入ると、リシェルは自らの立ち位置を定め、軽く腰を落とす。向かいに立ったユリウスは、唐突に宣言をした。
「……君との婚約を、ここにて解消したい。理由は単純だ。僕はマリアに心を奪われた。これは、真実の愛だと確信している」
マリアと呼ばれた少女は、はにかんだようにリシェルを見つめた。だが、リシェルは彼女に視線を向けることもなく、まるで空気を読むように、そっと口元をほころばせる。
「そうですか。それは……結構なことですわ」
「……え?」
面食らったのは、ユリウスの方だった。怒鳴られるか、泣き出されるか、せめて取り乱してくれれば――そう思っていたのかもしれない。
だが、リシェルの声は驚くほど静かで、穏やかで、そして冷ややかだった。
「王太子殿下。あなたがどなたに心を奪われようと、それは私の知るところではありません。ただ……」
言葉を切り、リシェルは一歩、ユリウスへと近づく。
「“公の場で婚約者に恥をかかせた”という一点において、王家の品格を疑われぬことを祈るばかりですわ」
「な……っ」
「もっとも、殿下がご自分の振る舞いを“恋に生きる正義”とお考えなのであれば、それ以上申し上げることもございません」
琥珀色の瞳がまっすぐにユリウスを射抜いた。
「私は、婚約破棄をお受けいたします。……いえ、むしろ――心より感謝申し上げます。ようやく、あなた様との関係に終止符を打てましたもの」
マリアが困惑したようにユリウスを見上げる。だが彼は何も言い返せず、ただ唇をわずかに動かすだけだった。
リシェルは深々と一礼し、振り返るとそのまま扉へと向かった。
その背中には、王太子妃の座を捨てることへの未練も屈辱も、微塵も宿っていなかった。
◇
王都を揺るがせた“王太子との婚約破棄”から、ほんの数日――
だというのに、リシェルのもとにはすでに、数多の手紙と贈り物が届けられていた。
哀れみを装った同情。表面だけの慰め。中には、王太子の後釜を狙う貴族子息からの求婚状まで。
だが、リシェルはそれらに一切の返答をしなかった。
ただ静かに、いつもと変わらぬ日常を――それだけを保っていた。
そんな彼女のもとに、扉を開けて勢いよく入ってきたのは、栗色の巻き毛を揺らすひとりの令嬢、クラリッサだった。
「リシェル、本当にあの変態王子と婚約を解消したって?」
「クラリッサ、それは言い過ぎよ」
そう言いながらも、リシェルの口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。かつて彼女が、王都で心許せる数少ない友人のひとり――それがクラリッサだった。
「限度? むしろ控えめに言ったつもりよ。あれでも王太子なんて呼ばれてるのが不思議なくらいなんだから。女癖の悪さに関しては、もはや才能の域よ?」
リシェルはくすりと笑いながら、ティーカップを差し出す。
「ちょうど淹れたところ。落ち着いて、座ってちょうだい」
「ありがと。で、ねえ、本当なの? 本当にあの輩と、ついに終わったの?」
「ええ。正式に解消されたわ。証人付きで、文書も交わしたもの」
クラリッサは目を丸くしてから、急に声のトーンを落とした。
「……あなた、泣いたりしてない?」
「してないわ」
「怒鳴った?」
「いいえ」
「じゃあ――引っ叩いた?」
「……してないってば」
リシェルが肩をすくめると、クラリッサは本気で信じられないといった顔で天を仰いだ。
「信じられない……私だったら、紅茶のひとつもぶっかけてるわよ!」
まくし立てるような口調に、リシェルはふっと息を吐いて笑った。
いつもそうだ。クラリッサは、代わりに怒ってくれる。代わりに悔しがってくれる。そんな友人が、傍にひとりでもいるということが、どれほど救いだったか――リシェル自身、言葉にしたことはなかった。
「ありがとう、クラリッサ。でも、私には必要なかったわ。感情をぶつけても、何も届かない相手だもの」
それが、どれだけ侮辱的な行為であろうとも。どれだけ屈辱的な瞬間であろうとも。
王太子ユリウス・グランゼルクという男には、誠意も、罪悪感も、後悔もない。ただ、自らが“選ぶ側”だと信じ込んでいる――浅薄で、傲慢な人間。
そんな相手に、怒りをぶつける意味などあるだろうか。
リシェルの言葉に、クラリッサは苦々しく眉をひそめた。
「あなたは強いわ、本当に。でも……ずるいとも思う。そうやって一人で全部、飲み込んじゃうところ」
「ずるいかしら?」
「ずるいわ。だってそんな風にきれいに振る舞われたら、周りはもう何もしてあげられないじゃない」
「ずるいかしら?」
「ずるいわ。だってそんな風にきれいに振る舞われたら、周りはもう何もしてあげられないじゃない」
リシェルは少しだけ瞳を細めた。
「……なら、あなたはどうして、こうして来てくれたの?」
「それは――」
言いかけて、クラリッサは視線をそらした。言葉が見つからないわけではない。ただ、どんな言葉も、今のリシェルの在り方には届かないと知っているのだろう。だからこそ、彼女は代わりに言った。
「せめて今日くらいは、何も考えずにお茶でも飲みましょ。あなたが無理やり笑うのを見るより、私はその方がずっと好き」
リシェルの表情が、わずかに和らいだ。
すると、クラリッサはくるりとティースプーンを回しながら、まるで何気ない雑談のように口を開いた。
「ねえ、リシェル。そういえば、南の隣国から、最近ようやく親善使節が戻ってきたらしいわよ」
「……アルヴァーナ王国のこと?」
「そう。あの国の第二王女、知ってる? セラヴィア王女って名前。十七歳。剣と詩と政治に通じた才媛で、しかも信じられないほど美しいって評判」
「……何が言いたいの?」
「ただの偶然かもしれないけれど……その王女が、王都に“正式な友好訪問”で招かれたら、王太子殿下はどうするかしらねえ?」
リシェルはカップを持った手を止めた。クラリッサの声音は、あくまで柔らかい。けれど、その奥には鋭い意図が潜んでいる。
「まさか、あなた……」
「ええ、ちょっと手を回せば、実現しそうなのよ。公的には“親善と文化交流”の名目で。お国柄的にも無下にはできないはず。王女様を迎えるとなれば、当然、王太子が応対役になるわよね?」
そして。
“あの王太子”が、いつもの調子で隣国の王女に色目でも使えば――
それは外交問題どころか、国家間の信頼そのものを揺るがす事件になりかねない。
「そんな危ないこと、するべきじゃないわ」
リシェルはそう言いながらも、明確には否定しなかった。
その沈黙を、クラリッサは肯定と受け取ったのか、唇を引き結んで笑った。
「ええ、もちろん。私は何もしないわ。ただ、王都に良い風が吹けばいいなって思っただけ。ね?」
「……風、ね」
「どのように転ぶかは、彼の品格次第よ」
リシェルは目を伏せ、そっとカップを口に運んだ。
紅茶はもう冷めかけていたが、不思議とその味は――どこか、少しだけ甘かった。
◇
アルヴァーナ王国第二王女、セラヴィア=リュミエール姫の来訪は、王都に大きな波紋を呼んだ。
賢王と呼ばれる現国王の庶子ながら、剣術・語学・音楽に通じた才女として名高く、その美貌は“月下の花”と詠われるほど。わずか十七にして政務にも参与し、戦乱の爪痕が残る南の国で民の支持を集める逸材だった。
王都の街並みを馬車で進むその姿に、誰もが息を呑んだ。だが――
それ以上に浮き足立っていたのは、王太子ユリウスその人である。
「まさかあんな美しい姫君が来るとは……これは運命かもしれない」
にやけ顔のまま式典に臨んだ彼は、宮廷内でも早くも浮き足立った様子を隠しきれなかった。
歓迎の晩餐会では、開会早々から姫の隣席を希望し、形式を無視して贈り物を差し出す始末。
セラヴィア王女は初対面の礼を丁寧に返しつつも、どこか距離を保つような姿勢を崩さなかった。けれどユリウスは気づかない。いや、気づこうとしなかった。
「アルヴァーナの薔薇にふさわしいのは、このグランゼルクの名を継ぐ僕だけだ」
あろうことか、宴も半ばにして彼は姫の手を取ろうとした。舞踏の誘いだという建前で。
――それは、外交儀礼において“求婚の意思”と受け取られてもおかしくない、非常に無礼な行為だった。
「……お言葉はありがたく頂戴いたします、殿下。ですが、アルヴァーナの王女たる身として、貴国に恥をかかせるような真似はできませんわ」
セラヴィア王女の声は澄んでいた。けれどその語調には、凍てつくような拒絶の気配があった。
その一言で、場は凍りついた。
貴族たちは互いに顔を見合わせ、空気を読み、そして黙った。あの“自由奔放な”王太子が、ついに外交儀礼の一線を越えた瞬間――そう受け取った者は少なくなかった。
翌日には、アルヴァーナ側から“正式な釈明”を求める書簡が提出された。王家は慌てて火消しに走るが、事はすでに各国の耳にも届き始めていた。
ユリウスの軽率な言動が、ついに「王太子としての資質」に疑問符を付けられる日が来たの◇
午後の陽が、淡く書斎を照らしていた。
窓の外では、白薔薇が静かに風に揺れている。冷たい空気のなかに、それでも春の予感を含んだ風だった。
「……決まったみたいよ」
書類を手にしたクラリッサが、椅子の背にもたれながら言った。
「ユリウス殿下、しばらく“静養”という名目で地方へ下げられるんですって。表向きは病気療養。実際は、隣国への謝罪がうまくいかなくて、宮廷内で揉めに揉めたらしいわ」
リシェルは手にしていた本を閉じ、カップに手を伸ばした。
「……そう。なら、もう彼の顔を見ることもないわね」
「ねえ、少しはすっきりした?」
「そうね。少しだけなら」
そう言って、リシェルは紅茶をひとくち。
「でも結局、私は何もしていないわ。崩れたのは彼自身の足元。それだけのことよ」
「まぁ、彼にとっては痛いくらいの教訓になったわよ」
リシェルが肩をすくめながらそう言うと、クラリッサは小さく微笑んだ。
「……教訓になるかしら? あの人に、“自分が間違っていた”なんて考えが浮かぶとは思えない」
クラリッサはテーブルに肘をつき、頬杖をつきながら言葉を続けた。
「ま、気づけたらまだマシよね。でもあの王子様は、自分が世界の中心だと思ってるタイプだし」
「ただ、私としては、それで十分よ。彼に勝ちたかったわけでも、復讐したかったわけでもないの。ただ――何も失わないまま終わるなんて、不公平だと思っていただけ」
「ふふ、そういうのを“勝ち”って言うのよ、リシェル」
クラリッサはにやりと笑うと、椅子にもたれて天井を見上げた。
「ねえ、次はさ。もっと良い相手、ちゃんと見つけなさいよ? 頭が良くて、品があって、あなたをちゃんと見てくれる人。そういう人、世の中に一人くらいはいるでしょ」
リシェルは一度、目を伏せたあと、静かに微笑んだ。
「……いたら、考えてみるわ」
「“考える”って、あんたね。もったいぶりすぎよ」
リシェルはゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄った。
午後の日差しが、淡くレースのカーテンを透かしている。
庭の白薔薇が風に揺れ、その向こうに、青空がひろがっていた。
あの日と同じ風景のはずなのに、どこか違って見えた。
胸の奥にわだかまっていたものが、ようやく静かにほどけていく。
「……私、ようやく“終わり”を受け入れられた気がする」
ふと漏れた独り言に、クラリッサが後ろから声を返す。
「終わりじゃなくて、“始まり”よ。あんたにとっては、こっちが本当のスタートでしょ?」
静かに、けれど確かに告げたその言葉は、空に解き放たれたように澄んでいた。
「ええ、そうだったわね」
――たとえ裏切られても、未来を捨てはしない。
それが、リシェル・アルセインという令嬢の、選んだ生き方だった。
『真実の愛に気付いたと言われてしまったのですが』の連載版を毎日投稿しています。もし興味のある方いたら是非。