怪しい入国者‐火魔法師 Ⅲ
※飛ばし読みをされた方々へ
このページからは「異世界ふれあい街歩き」に戻ります。
「黄色の男」のリーシュ見聞録をお楽しみ下さい。
□ ■ □ ■ □ ■
遠くで鐘の音がする。
短く鳴らされ続ける音が、やがて止む。やたらと回数が多かったが、夜明けだろうか。
目を開けると、見知らぬ屋内だった。
小川に浮いて空を仰いだ二十年前のような、得も言われぬ心地よさがある。いや、体の下になにかがある。なんだこれは。
敷かれている麻織布に当たる頬の下、細い──なんだこれは、籠か、蔦編みに触れた時のような、しなりがある。
身を起こそうとすれば、みしみし、と微かな軋みが返った。折れて壊れないだろうか、と不安になるが、どうやら物凄く頑丈に編み込まれている立体物、らしい。
毛布はなく、何枚かの麻布が重ね縫いされた肌掛けと、ふかふかした軽い上掛けが心地好かった。
うおおお、清潔な麻の肌触りサイコー!
あの、忌々しい盾は何処にもなかった。
謎の籠状のなにかの上に横たわったまま、全身を確かめる。
裸足になっていたが、外套から下の着衣に乱れはなさそうだ。
腰のワンドと財布がない、と焦るが、頭のすぐ横に置かれているのが見えた。
慌てて重い腕をそちらへ伸ばせば、ワンドに傷はなく、財布が少し軽くなっていた。
やられたか、と封を開け数えるが、魔工石が嵌まった正金貨すべて、少しの≪中央国≫銅貨は丸々残っていて、混乱する。魔工粒入りの正銀貨も半分以上無事だ。
意味が分からない。
共立魔法院から持たされた書状は、胴着の内ポケットに入ったままだと、上から押さえた手指の感触で知れた。
頭痛がする。全身が仄かに、煙臭い。
額に手を当てれば、痛みが少し和らぐ。
室内の様子を窺う。
覆いが突き上げられた妙に大きな窓には、やや荒い織りの布が張られた木枠が嵌まっていて、端にドライハーブの束が提げられている。素通しではないので、外が見えにくい。
同じ壁、天井近くには、明かり取りの小窓があった。円くない。
素通しか、と目を凝らすと、木枠が見える。大窓と同じく、布張りのようだった。
幅が揃った板が、隙間なく張られた上等な壁。陶器の水差しと謎の木筒が載った、三本足の小さなテーブルと、椅子。
木筒──恐らくコップだろう──以外は、私が見知ったものの造りに似ている。
壁面の小型暖炉は赤い煉瓦造りで、炉室と炉床の間は金属の網で遮られていなかった。内では炭が燻っている。
薪と火掻き棒の入った桶と空鍋が、炉床の脇に置かれていた。
ゆっくり体勢を変え、首を巡らせる。
床も美しい板張りで、炉床と──部屋の扉の手前、だけは石造りのままだった。南の大国にある三和土、というやつだろうか。知らんけど。
私の靴は寝台付近ではなく、三和土に転がされている。扉の小さな閂は掛かっていなかった。
底冷えが少なさそうな、家屋にしては贅沢な小部屋だ。
蛮族なりの国賓対応、だろうか。
そう思うが、煙臭い私の荷袋は、寝台横の床に雑に転がされていた。
前言撤回。
武装商会から貸与されていた、香ノ木、とやらの札は、なくなっていた。代わりに財布の口紐に、入国許可、と旧い字で刻まれた木札が括られている。香ノ木に似た赤さだ。
鼻に寄せると、知った匂いがした。あれと同じ素材なのだろう。
ふらつきながら床に立つと、足裏に板の優しさが伝わる。ささくれもべたつきもない、磨かれた清潔な感触に驚いた。
水差しを傾け、木筒コップに注ぐ。ざらとした質感の水差しは、色以外は珍しくない。
暖炉の煉瓦といい、赤い粘土で作られているのだろう。
問題はこの、よく磨かれた、やけに軽いコップだ。研草が巨大に育ち、硬質化したものを節のところで切断したら、こんな感じだろうか。
注いだ水に濁りがないことを目で確かめ、意を決して口に含む。
若干ひやり、とした水だった。
無味無臭で舌に硬くなく、含んで様子見をするはずが、一気に干してしまう。どころか、水差しが空になるまで飲み続けてしまった。
生まれてはじめて、水が旨いと思った。
頭痛が遠退き、空腹だったことに気付かされた。
だが食欲より、知的好奇心が勝る。
──己の目で見知ったもの以外は、信用できる事実ではない。
□ □ □
ワンドと財布を突っ込んだ荷を抱えて扉へ近付き、屈み込んで靴を履く。
外開きの扉を珍しく思いつつ、部屋を出ると、見張りも警護も側仕えもおらず、謎の女が床の掃除をしていた。
廊下の壁と床は木でも石でもなく、砂石灰を塗ってあるようだ。私が知るものとは色味が違うが、まあいい。
扉の端、持ち手横には木箱錠が付いていた。
振り向いた女は蛮族、にしては獰猛さが感じられない。顔の造作や体格は、同盟国家群によくいる中年女と大差なかった。
ボタンがたくさん付いている褪せたシャツと上着、くるぶしまでの丈のスカートに前掛け。
スカーフがあれば、差異に注目することもなかったであろう出で立ち。
凡庸すぎて逆に、正体が判別できない。
布靴に装飾がないから貴族以下と思うが、着衣には染色布が複数使われている──蛮族の基準が分からない。
振り向くまで口遊んでいた鼻歌が、ハーブの名を連ねた馴染みのあるものだった、と遅れて気付いた。
故郷の母を思い出す。
年齢は、当時の母よりは上だろうか。
同盟国家群に係累がいる女なのだろうか。
警戒し、言葉を選びながら話しかけると、少し旧い言葉遣いで、ここは目的地である──≪豊国≫の宿屋、と説明された。
いつの間に。
いや、今までの経過を思い出せば当然なのだが、なんと言おうか、想像と違う。
辺境に興って十年そこそこ、の蛮族国の、迎賓施設でもないただの宿が、これほど洗練されているものなのか?
疑問を押し留めつつ、女から片言混じりで聞き出せば。
どうやら私は失神したまま入国し、勝手に手続きをされ。
同行した武装商会の連中に、勝手に財布を開けられて十日分の宿代を支払われて、適当に盥湯で洗われて、あの部屋に放り込まれたらしい。
おのれ。
顎に触れれば、ディスティアを過ぎてから剃れずにいたひげがなくなっていた。代わりに浅い切り傷が幾つかある。
おのれ。
……奴らはここと近場の宿に、分かれて泊まっているそうだ。
見かけたら文句の一つでも言ってやる。
女にあれこれ説明されて、一旦部屋に戻った。
窓の布戸を手前に跳ね上げて、できた隙間に手を入れ、突き上げ戸の支え木を外して下ろす。
布戸を戻して、留め穴に支え木を差し込むと、室内は薄暗くなっていた。
明かり取りの小窓から、外光が四角く寝台に降り注いでいる。
屈んで、その光が当たる箇所を押す。
大きな長方形をした、寝台に横たわる籠状の謎の木編みは、目がまるで揃っていないことが、布越しに知れた。
頑丈なのに撓み弾む感触が、ちょっと面白い。弓ノ木製だろうか。
テーブルの側の椅子の座面に、女に言われた通り、溝が彫られた木片がある。
これが鍵、だそうだ。
部屋ごとに内からも外からも施錠ができる、のであれば、貴重品以外は室内に置いておけるだろう。
便利ではあるが、それだけ治安が悪いのか、とも思う。
私は少し考え、財布とワンドを取り出し、荷袋を寝台の下に押し込んだ。ワンドはベルトの背当ての定位置に、差し込む。
財布を腰に括り付けようとして、入国許可札を内に入れるべきか、と改めて手に取った。
裏には国章らしき焼き印があるが、しょぼい。
一応は国の証書となるものだろうに、共立魔法院のように羊皮紙も使われていないのか。
呆れつつ、札をしまわず提げたままにして、私は宿を出てみることにする。扉を閉め、謎の木箱に鍵を横から差し込んで抜くと、カチ、と音がして扉が開かなくなった。
面白い。
同盟国家群の青銅鍵、と同じ仕組みなのだろうか。
木の鍵は、ジレのもう一つのポケットに突っ込んだ。ドライハーブが揺れている──部屋と同じ造りの窓がある廊下を見渡せば、同じ扉が五つ並んでいた。私の部屋は、建物の一番奥だった。
廊下の先には、よく磨かれた階段があった。下りると、さっきの女が受付にいた。
「貴方が行かんとす『魔法の家』は、宿の前方道路を北進し、北の大路を西へ曲がるべき哉」
そしてなんだそれは、と訊けば、どうやらこのリーシュの、共立魔法院に準ずる機関らしい。
ほら見ろクソ政務官、やっぱり蛮族の国にも魔法が存在するじゃないか。
って──家って。しょっぼ!
と言うか、何故、行き先を指定されるんだ。
女は、武装商会の連中から私の表向きの肩書きを聞いていたらしく、案内は親切心からのようだった。
詰問口調を一応詫びると、寝てたんだから仕方がない、夫が色々勝手にごめんね、といった内容で謝られた。
旧い言葉遣いなので、とても丁重な謝罪に聞こえ、調子が狂う。
どうやらこの女は、宿の人間として信用、しても良さそうだ。
なので、取り敢えずそこへ向かうことにした。
ところで夫って、誰だ。
□ □ □
陽は高い。
空は、広く青い。
催されているかどうかは知らないが、冬の祭日を終え、年が明けた一の月──新春の気配がする。
道は乾いた露地だが轍の抉れがなく、石畳と呼ぶには足りない石敷きが線を描くように並ぶ。
馬車や荷車は、あの上を通るのだろうか。
随分と操縦に長けているのか。石敷き同士の間隔は狭く、ここで使われている馬車は小型荷台ではないか、とも推測した。
排水溝は道の中央でなく、両側にある。路面の傾斜が知るものと逆になっているのが、不思議だ。
建物の出入口のところにはそれぞれ頑丈そうな木の蓋が段差なく埋め込まれていて、住人が溝に躓く不安はなさそうだった。
出入口の扉は外開きか引き戸のようで、側には同盟国家群の民家と同じ、蕾だらけの蓬菊の鉢がある。って、早くないか?
引き戸の溝枠は、素人目にも良くできていた。
木工職人や鍛冶屋の腕はいい、ようだ。
道には、排泄物や馬糞、ごみは見当たらない。
清掃役の猪豚や、貧民の姿もない。
汚臭が近くない春先の空気には、様々なハーブと、香ノ木札のような匂いが薄ら煙さと共に漂っている、気がした。
私の衣服や荷と似た、燻香。
視線を上げると、道沿いの建物はすべて二階建てだった。
色は違うが、砂石灰塗りの造りは、同盟国家群の町中と階数以外、さほど変わらないように見えた。
いや、上階が迫り出していないし、窓も複数ある。何故だ、節税したくないのか。
煉瓦は、屋外に見当たらない。
屋根には半円状の黒い瓦が二重に──並んだ円を真っ二つに切って上下をずらした格好で、葺かれている。
面白い。
長い軒にはこちらも半円の樋があり、同じく節が目立つ木の管を伝って、溝へ流れるようになっている。
瓦と樋と管は、色が違うが同じ素材のようだ──あの、謎コップのお化け研草に似た。
なんか凄いな。雨水を瓶で貯めずに捨てているのか。
あとお化け研草、目茶苦茶でかいやつがあるんだな。木材並みの強度があるとは、便利そうだ。
ありきたりの町並みと呼ぶには、随所で差が目立つ。
数軒おきに奇妙な石柱があり、拳より大きな穴が穿たれていて──中からは香ノ木に似た匂いの煙が漂っていた。煙さの発生源はこれか。
まじない、だろうか。
はじめて見るのに、どこか覚えがある。何故だ。
どの建物にも、松明消しの円錐形が見当たらない。
日暮れと同時に闇に沈むのか、村落以下ということか。
道や建物の技術と、いささか釣り合わない気がした。
建物の向こう、おそらく庭には、常緑樹が植わっているのだろう。屋根越しに、てっぺんの枝葉の影が見える。
針葉樹ではないようだ。
ほぼ等間隔、すべての建物が庭持ちか。
王都の庶民街ではあり得ないな。
太陽の高さから昼と判断し、自分の短い影が北に伸びていると仮定して、そちらを向いた。
白い巨大な幾つもの山が、街の向こうで左右に連なっていた。迫り来る壁のように。
──領土は白の山脈以南、赤の山々以東。
ならばあれに向かえば、北か。
硝子がない大きな窓はすべて薄布張りで、同盟国家群の街中とは違い、大半の鎧戸──というか木戸が突き上げられていた。
道に汚物がなければ、臭気を気にする必要がないから、だろう。
無防備さと建造物のゆとりに、故郷の村を思い出した。
あの、二度とは戻らない、戻ることもできない農村がやや密になり、栄え、町になると、こうなるような気がした。
ならば垣間見える庭木はイナゴマメの木か、と考えて首を振る。
ここは農村ではないし、あの労役税の木がぼこぼこ生えているわけもない。
樹形も違う。今の時季にあの緑は、ないはずだ。
なんの木だろう。
一先ず、蛮族の国、という先入観は忘れることにした。
ここは相応の技術と文化と知性がある人々の、領内だ。
空腹を訴える腹を押さえ、歩みを進め、観察を続ける。
食い物より知識への欲求が勝るのは、私にとっては当たり前のことだった。
□ ■ □ ■ □ ■
日暮れの鐘らしきのんびりとした音を聞きながら、私は疑問と失望と絶望的な空腹を抱えて足を引きずり、宿に戻った。
あの女──掃除婦ではなく、宿の女将だった──に、飲食店を尋ねる。
侮るには栄えすぎているこの「街」であれば、存在するだろうとの見込みは、当たった。夜更けまで営業する酒場が、この通り沿いに何軒かあるらしい。
冬の名残を感じる冷え込みに、外套の袷を閉じて再度外に出る。近場なら月明かりでも、宿まで戻れると踏んで。
どこからか、笛の音が聞こえる。
葦笛より太いそれは、旧い労働歌の音律を奏でていた。
と、住人が戸口に、非常に眩いランタンを掛けている姿を目にする。
松明もないのか、と呆れていたので目を見開くほど驚いた。
ランタンは銅窓に無数の穴あき、ではなかった。三面窓は透明に近く四角い──あの大きさの角硝子を切り出す道具や技術があるのか。
いや、それだけじゃない、潤沢な蝋燭か灯火油があって、民家に普及しているのか、どうなっているんだ。
そして宿の二軒隣、女将に薦められた酒場らしき建物に入る。戸口にも屋内にも同様のランタンが幾つも掛けられ、予想以上に明るかった。
ここは同盟国家群の王都、大貴族の邸宅か、と一瞬、混乱する。
煤や油の臭さが少しもないが、そういうものだろうか。
店の奥には、木の管を束ねた笛を吹く奏士が座っていた。会話を遮らない音の大きさに合わせ、禿頭の老爺が労働歌を口遊んでいる。
白い顎鬚を揺らす姿は、冬の祭日で民衆に教義を唱和させる、大神官のそれを私に連想させた。
旧い言葉遣いのせいだろう。
違和感と郷愁と安堵と疑問が入り交じる。
ハーブ唄のように、完全に同盟国家群と同一のもの。家屋の造りや街並みのように、解せども差異が引っ掛かるもの。
既知の中に、見慣れぬ未知のものが混在する感覚は、呪文解析のそれに似ている、と思った。
平静を装って正銀貨を出し、適当に食事と酒を頼む。先に水が入った、木製らしき筒型の──宿のものと同じ、お化け研草のコップが出された。
やはり非常に軽く、滑らかな造りだ。
中の水はまたしても癖や雑味がなく、旨かった。
この街には相当、水質のいい井戸があるのだろう。
それだけでも侵略に値する条件だな、と思った。
やがて、長身の女が皿や器を並べ、横に座った。酌婦か、と眉を寄せて手で断る仕草をするが、立ち去らない。
その顔を凝視する。
白粉のない素肌に、紅も差されていなかった。
スカーフを着けていないが、身形は崩れず整っている。
宿の女将もそうだったが、リーシュでは「服にボタンがたくさんあって」、「肩から胸元をスカーフで覆う習慣がない」らしい。
首もとに目を奪われつつ、改めて知らない国だな、と思う。
女は空になった筒コップに、酒を酌みながら話しかけてきた。
なんだ、ただの≪注ぎ女≫か。
私は警戒を解き、大麦の粥と小さな焼き魚、焼き鱗葱に塩漬けキャベツといった献立に目を落とす。
極端に、物珍しいものではなかった。
それなりに、旨そうに見えた。
自給自足は想定していたが、平民が常食できるだけの作物収穫があり、樋が必要な降水量があり、漁獲が可能な水場もある、と改めて知れた。
肉はどうだろうか。
□ ■ □ ■ □ ■
……いえ、もう結構です。これ以上は呂律が回らなくなりますので、後は水で。ああ、この水は何杯でも飲めるな。旨い。
魚、いい味だな。干して燻して──水で戻してから炙り直してるのか。なんでこんなに凝ってるんだ?
ああ、いい音色だ。あの奏士には銅貨を払おうか。
……そうですね、共立魔法院としても、この国はなにもかもが規格外、想定外ですよ。
なんで長が土魔法師で、副長が植物魔法とやらなんですか?
聞いたことないですよ植物魔法とか。魔法は火・水・風・土の四属性、高難度の氷を含めた五つでしょう。
それらを領主の命に沿って、工事や加工に最適化した小出力で、と。
危険な辺境なら、害獣を牽制する火と、渇水に備えた水が普通でしょうが。
しかもなんで、研究室や論文もないのに、バカスカ未知の呪文が存在しているんですか!
ほぼ住人全員に魔法適性があるとか、どういう国なんですか!
……計算読み書きの手習い所? とやらがあるとか、平民の識字率もおかしいですが、なんでそこで魔法適性診断してるんですか。
普通は巡回診査官が四年に一度、村や町に来るもんでしょう。
優秀な氷魔法師だと親が泣くとか、意味が分からない、あり得ないんですよ我が国では!
こんな異常環境じゃあ、モンスターに直接対抗できる攻撃型高等級魔法師なんて、もっとチヤホヤされるもんじゃないんですか!
なんなんですか、やたら日中に鐘が鳴るから≪時暦局≫のお膝元かと思ったら、モンスター襲来を告げる警鐘だとか!
今のこれもそうですか! 昼から街中でもモンスターと接敵する可能性があるとか、どういうことですか!
あ、止んだ。なんなんですかあれ。
ああ、演奏が終わる。惜しい。
□ □ □
「貴方は愚かです」
は? 私が愚か?
注ぎ女に言われる筋合いはありませんよ!
「斯様な国、戦闘可能な魔法使いは、毎日最前線に立たん。国の守り手は、覚悟を持ち臨む。
然様な我が子を親は誇らん。
然れど、その死を望むには非ず」
ならば行かなければいいだろう! 魔法律の研究と論文筆記を、
「立ち向かわねば人は死す」
だ、だが、魔法適性者がそこまで多いなら、半数でも出兵させずに、基礎研究に専念すべきだ。
研究が進まなければ等級も上がらず、母国へ戻ることも家族を持つことも、モンスターを倒す力も、
「得られぬ、然り。然れど。
……魔法は万能に非ず。適合性有れど適宜の操作調整、戦闘能力、各人異なりし哉。
然るにこの国の、戦闘魔法使いたちは数的上限有り、須く──実学主義也。守り戦い乍、閃き実践を繰り返さん。
研究分析の遅滞に非ず、常に最先端は最前線に有り。
口伝にて広まり、実施実験の後に記述記録が残されし。斯様な論述に携わりしは老年魔法使いが責務」
ああもう、聞いたままだと古文か神殿教義臭くて調子が狂う。適当な口調に開いてやる。
こっちも多少、形式張った言い方をすれば、いいだろう。
今までの話し方でも、大体通じているようだし。
……だが、土魔法なんぞが何故上位に、
「人は毎日空腹になるわ。貴方が今まで食べてきた麦粥やパンや麦酒は、どこから湧いてきたの?」
食物を生み出すだと?
そんな土魔法の呪文が、存在するのかこの国は。普通は臨時塹壕か、街道の衝き固め……。
いや土魔法──地面操作を開墾に応用する、のか?
待て、収穫量を上げるには、肥料と休耕がいる。
草木灰と排泄堆肥、落ち葉に骨灰、水底の泥土……引き上げ回収か?
肥料も常に同じではない。作物の種類や畑によって選ばなければ、生育も実付きも変わる。
鍬を入れない期間を設けなければ、土は飛び、施肥を続けても地力は減衰すると、父たちが……。
「詳しく知りたければ、長に尋ねればいいじゃない──で、余所者が泊まって飲み食いできるまで、どれだけの人と魔法と食糧と資材が要るのかしら?
貴方のいらっしゃった国は、民の全員がそれを分かっているの? 崩れた防壁や壊された家屋すべてを領主が補填して下さるの?
荒らされた畑を衛兵さんたちが整えたりされるの?」
そんなことは、下層……いや、平民が自らすべきことだ。
貴族や魔法とはもっと高尚な、国の攻守の根幹であり、文明の、
「そうね、普通はそうなのね。この国は普通じゃない。それだけのことよ」
上下があるからこそ、国は成り立つ。国は民が支える。それぞれが為すべきことを──うわ!
なんだ今の地鳴りは! また鐘が、
「ごめんなさい、今の警鐘は『近い』わ。わたしも行かなくちゃ」
え、おい、なんだその斧槍。壁の飾りじゃなかったのか。
「だってここの二階には、まだ戦えない息子が眠っているのよ。
あ、そうそう、貴方は火魔法使いだったわよね。明日は四つ通りの鋳掛屋か、遠いけど西地区の鍛冶屋町を覗くといいわ。面白いものが見られるわよ」
……この!
ご婦人を見捨てて、この騒音の中で寝られるか!
おい、待て!
私の魔法が役立たずとでも言いたいのか!
見せてやろうじゃないか!
未だ共立魔法院で発表していない、新たな火魔法を!
こら待て! おいて行くな女! せめて名前を教えろ!
いや違う人妻に興味がある、わけじゃない!
□ ■ □ ■ □ ■
酒場の分厚い扉を開いた女の向こうから聞こえたのは、それまで微かに響いていたものと同じリズムの拡大版。
モンスターが立てる音、だったのか。
それに重なる怒鳴り声は、駆け回っている若い連中。統一装備に見えない、エフかなにかか。
鳴り続ける警鐘の大きさと速さは、日暮れまでに二度、耳にしたものと明らかに違う。
濃い土埃に咳き込んだ。
重い音が足元から伝わる。暗がりの中、なにかが崩落する音や悲鳴が上がる。
閉められていても窓があり、気密性が高い建物ではなかった。
何故、これだけの音が遠かった?
酒場を出た私は外套の袷を開いてジレの裾を跳ね、腰に留めてあったワンドを抜いた。目を閉じて集中し、内の導線に魔力を通す。
ほどなくして、ワンドが炎の色に光を持ちはじめた。街中の高級ランタンに負けぬ明るさだ。
「──よし」
いける。そう自分に言い聞かせて、顔を上げた途端。
「危ないどけ!!」
絶叫と共に突き飛ばされ、私の集中は途切れた。ワンドが光を失い、手の中から離れ宙を飛んでいく。
「なっ」
目を見開けば、耳をつんざく轟音と地鳴り、すぐに視界は更なる土埃で覆われたが──あの女の後ろ姿を、見た。
「ケフィーナ!」
「舌!」
ぶぅん、と風を切る音と、足元に伝わる衝撃。空気が漏れるような、人に非ざるなにかの、絶叫。
なんだ、なにが起きているんだ!
びちゃびちゃ、と液体が降り注ぐ。手で拭えば、金臭い。赤い。ぬるぬると──
「ぅわあああああああああ!」
重い濡れた音。私の真横に落ちたのは巨大な、蠢く、赤黒いなにかの、ねばついた泡状の粘液にまみれた、
「【散水】!」
水魔法の、中等分類名が聞こえた。
少し高い少年の声、手本のように正しい発音が、喧騒を裂くように私の耳に届く。
「【風】!」
別の声、風魔法の初等分類名。
完璧な単語の発音。
そして、突如として降り出した霧雨が周囲の土埃を濡らして落とし、白く霞んでいた薄暗い視界が、一気に晴れる。
夜の闇より更に黒い、光沢のある、人より遥かに巨大な。
牛に似た毛深いモンスターが、ねじくれた二本角を冠した巨頭を振るい。
血の泡を噴きながら、四肢を踏み鳴らしている様を、見た。
その目が、ランタンの光で赤いと知れる。
言葉が出なかった。
悪夢か幻であってくれ、と思った。