改め、迎える‐植物魔法使い Ⅰ
物心ついた頃から、緑はすぐそこにあった。
玄関脇の虫除け蓬菊。
庭に植わった香ノ木は黄葉も紅葉もせず、季節ごとに盛りが変わる数多の鉢植えは、異なる緑と花を見せる。
刈られ、干され、束ねられ。
窓際に吊るされたハーブたちの芳香には、微かな青臭さも混じる。
料理にも飲水にも、ハーブの香気があることは当たり前だった。
公営施設や店舗のように≪機工角灯≫を持たない民家では、獣脂や植物油の照明で──虫除けと臭気の緩和目的に、ハーブが混じる。
数軒おきにある共同井戸や、旧い建物の庭にある家井戸の横に、香ノ木を植えることと。
七つ通路の脇に香ノ木が並ぶことは、≪豊国≫の定めであり、象徴だ。
川藻を食らう魚、山の恵みに育まれる鳥獣、青々と繁る畑。
刈られ、裂かれ紡がれ、糸に布にと変わる麻。
染める前の布を浸ける豆汁、色になる草木や花、樹皮。
甘味を授ける樹木や葛。
苦痛を和らげる薬は、母の薬研や乳鉢を経た、緑。
蜂が集めた花蜜を分けてもらうのは、夏になるまで。
俺に植物魔法の力が能えられたのは、幸運だった。
街に住む子より、農村部の子の方が、適性持ちが多いとされるのだから。
□ □ □
兄と姉は、結婚を機に家を出た。
薬師である母の跡は継げぬ、己にその才はない、と。
言外に俺は期待されたのだろう──だが、末子である俺は、≪公務遊撃隊≫となって家を飛び出した。
母に、通いの弟子が複数いたから、と言い訳をして。
俺は根付いた植物に長く触れることで、害あるものか益となるものかを知れた。
どの枝が病んでいるか、いつ枯れるか、植物が直接、教えてくれた。
言語を持たぬ植物は、俺の痛覚へと合図を送る。仔細を、希望を、それを翻訳するのは難儀だったが──知ることは、楽しかった。
緑の中で力を振るい、見知らぬ新種を持ち帰ろうと汚泥に塗れることすら、苦にならなかった。
緑は絶対の畏怖であり、人が活かし操ることができるものであり、飢餓を充たすものであり、国を満たすもの。
リーシュは、満ち足りた緑の国。
俺は国を豊かにする、選ばれた緑の申し子なのだ、と思い上がっていた。
家族より、誰かより、自分と仲間が一番大事だった。
己の才と野望と、それに伴う対価こそがすべてだった。
植物を、そのままの理を越えて操ること、が可能になった日に得たのは。
魔法が使えぬ宰相殿や、武の才に恵まれぬ王を越えた、という思い上がり。
愚かだった。
半ば捨てた家族が、血縁が、いつまでも変わらず居てくれると甘えていたことも。
想い合った女性が、自分を万事優先しないと怒り、別れたことも。
己に与えられた権利であり、当然だと思っていた。
義務も、配慮も、気遣いも果たさぬ自惚れ者は──緑の中を走れなくなるまで、それに気付けなかったのだ。
慌てて悔いて、改めて。
言葉を尽くし、態度で見せて。
取り零したものを拾い集めて、寄り添おうとして。
なにを今更、と老いた母に伸ばした手を撥ね除けられた。
かつての恋人はとっくに、他の男と所帯を持っていた。
俺は派手に間違えた。
周囲に甘えを押し付けて、自分を保つことに専念し、他者に重きを置かなかった。
なあ、お前さんはこんなおっさんになってくれるなよ、ウェド。
今、そこにある「当たり前」は、なに一つとして「明日もそこにある」ものじゃないんだ。
聞いてるのか?
俺は酔っちゃいねえぞ。
「呑み過ぎです、テルダードさん」
□ ■ □ ■ □ ■
外国から来たウェドは、傲りを捨てれば──有能だった。
規則性を見出だし、仮説を構築し、挑戦と失敗を繰り返すことで本質へと迫っていく思考作業を、苦と思わない。
魔法研究、との建て前に恥じぬ再編と筆記っぷりは、俺の助手にしておくのは勿体ない。
試験導入された≪草紙≫に、びっしり書かれた「発動条件推論」。
鉱石と導体を用いた「媒介」を併用することで、集中と想起を容易にする、との内容を読みながら。
執務机に肘をついた宰相殿は、黒髪を掻いた。
「ああ、まあ、そういうことだろうね。属性ごとの好相性……金、銀、銅、鉄、鉛、錫。
水晶、は魔工石になるくらいだ、全属性向けか、そうか。
じゃあ早速、彼の短杖を接収、分解して構造解析しないと」
「私物、いえ、個人財産の徴収になりませんか」
「元に戻して、返せばいいじゃない」
「壊さずに戻せる確証はおありですか?」
そこだよねえ、と天井を仰ぐ宰相殿に、俺は嘆息した。
宰相殿は、腐敗した某国からリーシュに逃れてきた文官だった、と聞く。
どこまで本当かは、分からない。
小国家群で使われる度量衡の原器を複製してすり替え、持ち出し。
流れ人の死体を自宅家財と共に燃やし、己の事故死を偽って。
あらゆる知識を頭の中に詰め込んだまま、名を変えて──「武装商会」を頼り、出国した、と。
どんな目に遭ったら、そこまでするんだ。いや、信憑性不明の噂、だが。
≪丘の国≫の氏族連合代表議会からも、≪陽の国≫の王公からも在留所属を求められたが、冒険がてら入国したリーシュで。
邂逅した少年に、王の器を見、跪いて従士となることを求めた、と。
こっちは一応、本当のこととされている。
魔法を使えぬ身であり、俺より年嵩ではあるが──あらゆる面で、勝てる気がしない。
怠惰と現状維持の結果で独身である俺と、王と国にすべてを捧げようと私生活を捨てた宰相殿。
その差に気付けなかったかつての俺は、しみじみと間抜けだったと思う。
魔法の才を持たない宰相殿の武器は、知識と経験と計算、組織作りと指揮能力。
近くで仕事をするようになるほど、多岐に渡る能力に愕然とする。
この超人に勝てると思った、かつての俺の目は節穴だったな。絶対。
□ ■ □ ■ □ ■
「いらっしゃいま──あら、テルダードさん」
振り返ったケフィーナに軽く頷き、俺は額に手をやった。夏の盛りを越えた夜でも、まだ汗はかく。
走ることができなくなってから、俺は二つ通りを往復することが精一杯になった。
「今日はなにがある?」
「塩漬けキャベツと茄子の川海老炒め、≪魔獣≫の内臓焼き、薄焼きの蜂蜜添え」
「またナスかよ」
ざり、と顎を撫でると、ケフィーナは肩を竦めた。
「しょうがないわよ、豊作なんだから」
パルトの新人どもが、南地区から連日、ナス満載の荷車を牽いてくるとは聞いていた。
しばらくは皆に喜ばれていたが、通う酒場で、こうも続くと飽きがくる。
やれやれ、すっかり贅沢口になったもんだ。
「ホブリフはこの前のか」
「そうよ、鹿型」
いつもの席に座る。「武の酒場」はなんだかんだ、毎日違う料理が出てくるのが独身男にはありがたい。
調理場に続く開口枠の隣では、異国からきた細身の乙女が、竹笛奏士の曲と酔客の手拍子に合わせて踊っていた。
翻るスカート、ちらと見える足首。娼館に通えるほどの甲斐性がない連中には、さぞ扇情的に映るだろう。
だが、彼女に手を伸ばす愚者はいない。
「……いいねえ、華があって」
温い湯冷ましを含み、嘆息した。
二月前の騒動は、大層愉快だったと伝え聞く。
オーシャという名のあの乙女は、技術者であり伝播者であり、聞き馴染みのない神に仕える存在だ。
舞い踊る神、とその教義には誰もが一瞬戸惑ったが、宰相殿の告知もあって排斥や差別には至らなかった。
個人的には、彼女が持ち込んだ≪黄赤の花≫に、ときめいた。
土魔法研究本棟に頼み込んで、「魔法の家」の裏庭で一鉢、面倒を見ている。
彼女は日中、土魔法使いたちが管理する試験農場や役場で働き、日暮れから月が傾くまでは、ああしてこの武の酒場で──妙に流暢な教義を唄うか、要望があれば踊る。
教義内容は新鮮だが、よくよく聞けば穏和で優しく、ほろ酔いの耳で聞くのは、悪くなかった。
口説こうとした若いもんもいたが、迎えに来た第二衛兵団長さんの愛娘の口撃に退けられ、ケフィーナに腕比べを挑まれて諦める。
あのちびっ娘コディアは、ウェドの見張りと生活介助役として働くようになって、気の強さが増したからなあ。
ただそれでも、酒が入ると歯止めが利かなくなるバカは現れる。
東帰りのパルトの一団が、頭数にものを言わせて彼女に迫ったのだ。
流石に人は斬り倒せないケフィーナを足止めし、うるさいコディアを引っ叩き。
荒事に向かねえ癖に、間に入ったウェドをどついて吹っ飛ばし。
彼女の、細っこい腕を掴んで。
直後、駆け付けたチューシェさんと、交替休みで戻ったばかりのシェダールさんにぶん殴られた、と。
いやあ、この目で見たかったねえ。リーシュ最強兄弟の、ぶちギレ大捕物。
そのことがあって、彼女がシェダールさんの養女で、チューシェさん家に住んでるって広まったんだよなあ。
おまけにカルゴたちも駆け付けて、連中はずぶ濡れになって噎せ返ったとか。
いやあ、カルゴが組んでる黒髪の兄さんも大暴れして、人型ホブリフ三人組状態とか。見たかった、ああ見たかったねえ。
そんな、楽士が吟う英雄喜劇のような一件は、瞬く間に国中の噂になった。
酒が抜けて平身低頭のパルトどもは、年内は宰相殿の監視下で強制労働。僅かな余暇すら、第二衛兵団の詰所で扱かれているそうで。
≪魔蟲≫も殺せぬオーシャちゃんは、今や王様くらい、誰にも手出しができない、と。
……そりゃいいが、将来どうすんだろうなあ。
恋だってしたいだろうに、聳える防壁が最強かつ堅牢すぎて、寂しいことにならなきゃいいが。
□ □ □
小気味良く踏まれる床が奏でる音に耳を傾けていたら、ケフィーナが料理を運んでくる。
「なぁにやらしい顔してんの、いい年齢して」
「心外だな、俺ぁ人型ホブリフたちとやり合う気もねえし、あんな細っこい娘は好みじゃねえよ」
「そうよねえ、テルダードさんはおっとり女将さんが……ってのはもう昔話?」
やめろ、あいつの耳に入ったら困らせるだろうが。
俺たちの過去の交際を知る者は多いが──縒りを戻そう、なんて俺は望んじゃいないし、それができる立場じゃない。
「残業せず、毎日来てちょうだいよ。あの日もテルダードさんがいたら、≪防御草木≫で店内の破損が少なくなったのに」
「無茶言うな、ここじゃ店中、枝だらけになっちまうぞ」
製材された床板や柱から生やせる質量は、魔法防御力を伴わせるものなら──細枝程度だ。
魔法の家の裏手のように、土に根付いた「弄れるナマモノ」がありゃ別だが。
塩の効いた内臓焼きを頬張っていると、カルゴたちの姿が見えた。噂の黒髪兄さんは、あれか。確かに外国人だな。
「お久し振りですー、テルダードさん」
少し大人びた問題児、もといキリャが声をかけてくる。
おう、可愛げもへったくれもないカルゴも元気そうでなによりだが。
「……あんた、その装具」
「だれ? はじめてまして?」
オーシャちゃん同様、片言でそう尋ねる兄さんは。
俺たちが最後に狩った、足蛇の革でできた新品の鎧と兜を着けていた。
≪緑楠≫の棍棒を携えた兄さんは、小童と自己紹介してきた。なんだその名は。ふざけてんのか。
そう思ったことが顔に出ていたようで、カルゴに返される。
「本人がそう呼ばれてきて、これでいいそうです」
「良くねえだろ、渾名にしても、もっとマシなもんにしろ」
「ぼくはこれでいい、です」
流れで同席してきやがる。お前ら、えらい図々しくなったな。魔法の家に来た頃は、おどおどしてた癖に。
もう一人は、二人やワーフェルドとの間合いを目で測り、面識のない俺へ僅かな警戒を見せていやがる。
なんでパルトやってんだろうな、こいつ。気質は明らかに、衛兵向きだろうに。
「あのねー、魔法の家の副長さんなのー、テルダードさん。植物魔法使いで元パルトよー」
気が抜けそうになるキリャの紹介に頷き、俺は右手をワーフェルドともう一人に差し出した。
四人は、定期的にオーシャを護衛する役を担っているらしい。
暴発炎上娘と踊り子が、なにがどうして親友関係になったのか、までは分からんが、任務以上の仲である、と。
「あの、おれらはまだ『外』に出られねえんですが……どんなホブリフだった、んすか」
クードという少年は、俺が膝をやっちまった頃に、魔法の家で挫折を味わったらしい。
なんとなく、同時期に将来を憂いた仲間感覚になる。いや、年齢が親子ほど違うが。
職人見習いを経てパルトになった彼は、俺よりずっと早く、大事なものを理解できているようだった。
いいぞ、そのまま真っ直ぐ進むんだ。
「おう、ワーフェルドが着けてる足蛇は──東南の湿地帯にいたな。向こうに行けるようになったら、膝下防具をどうにかしろよ」
「どんなの、いる?」
何故かわくわくした顔で尋ねてくるワーフェルドに、俺は肩を竦める。
こいつはあれか、恐怖心が吹っ飛んでる欠落者か。仲間にはしたくねえ奴だな。
濃い肌、黒目黒髪は、暮れる前に面会した宰相殿に似た色合いだ。
「お前はあれか、南の大国出身か?」
「みなみちがう、ぼく≪中央国≫」
「そうか、混血か」
「こんけつ?」
首を傾げる大男には、宰相殿にはない可愛げがあった。
「根は南だろう、宰相殿のように」
「黒おじさんー?」
キリャの言い方に、うっかり笑う。なんだその渾名は。
「ワーフェルド、はリーシュ……と、小国家群で遣われている言葉なんだろう? 向こうでの意味は知らんが、リーシュじゃあんま素晴らしい意味じゃないぞ。
お前さん個人に相応しいのは、南の大国の言葉、の名前じゃないのか」
俺や兄の名が、ディスティアの地域語から採られたように。
名は家族や先祖、所縁や故郷から続く。
惑わず、立てるように、と願われて。
そう説明すると、四人はそれぞれ難しい顔になった。
「んな大層なモンじゃねえと思う。うちは兄貴たちと一字違いだし」
「ひい婆ちゃんの名前って聞きましたー」
「俺は……どうだったのか分かりません。あ、昔はクードと呼び間違えられました」
「あったあった」
「お母さんが『クード、水撒きできる?』ってー」
けらけら笑う三人は、家族との絆が強いようでなによりだ。
「……ぼくは」
だが、ワーフェルドにはそれがないのだろう。故郷を捨てても、思い出は残るが──こいつには、それすら希薄なのかもしれない。
人名でなく呼称を名とする、なんて、家族が一人でもいればそうはならないだろうから。
「ワーフェルドは通称で使えばいい、だが真名は持て。根無し草にならないために」
「……リーシュで、ワーフェルドはどういういみ?」
「小童、は、未熟な子ども、って感じの呼び掛けで遣うな。
危ないことをやらかした子どもを叱ったり、説教したりする……血縁がない相手から、だ」
「よかった。ぼくみじゅくだから、へいきだです。かぞくいない、です」
「……そうか」
変わってんな。
まあ、本人が納得してるなら、そう呼ぶが──小国家群では、どういう意味なんだろうな。
だが、血縁がいないなら、人の縁を繋げ。
誰だって、独りでは生きていけないのだから。
亡き後に、誰かになにかを遺し、継げ、繋ぐように。
灰になるだけの命で終わらないように。
そう言おうか、と思ったが、俺は黙ることにした。
知らんおっさんの人生訓なんざ、鬱陶しいだけだろうから。
□ ■ □ ■ □ ■
四人組とは、武の酒場で顔を会わせるようになった。
干したナス皮の油焼きを酒の肴にしていたら、藁屑塗れで駆け込んできたこともあった。
「おう、麦刈りか」
「いえ、藁干しと燻蒸です」
すん、と鼻を鳴らせば、確かに煙いな。特にクード。
「クードが大活躍だったんですよー、ねー」
「……別に、大したことじゃねえ」
「そうかー……んじゃ、藁布団の詰め物交換がそろそろか」
貸部屋の近隣を思い出す。子持ちの娼婦、家族との折り合いが悪かった独身職人、独り身の氷売り、傷痍衛兵。
中々どうして、昼間に布団を店へ持ち込むのが、難しい面子だ。昨年、詰め物交換できたんだろうか。
大家は、布団の状態まで管理してねえよな。
「なあ、貸部屋棟の布団交換って任務はあるのか?」
「依頼でしたら代理申請しますよ?」
カルゴが竹札と木炭を出して、にやりと笑う。
手慣れてやがる。本当にお前ら新人か?
「何組希望があるか分からんから、先ずは俺の分だけやってくれ。そん時に各部屋の扉に『中材詰め物交換代行します』って竹札括っときゃ」
「あれー、テルダードさん?」
「お疲れ様です、あ、今日の献立はなんですか」
と、コディアとウェドが雪崩れ込んで来た。おいおい、今晩は随分と賑やかだな。
「んなもん、ケフィーナに訊け」
「ダメですよ、このヘタレおっさん未だに緊張して」
「えー、なになにー」
「猪脂塗りと野菜スープだよ、いらっしゃい」
「あ、ども……」
「あー、ウェドおじちゃんだー! おっす!」
「こら! 一応お客さんでしょう!」
そこにケフィーナと息子が現れ、いよいよ大騒ぎになる。
「構いませんよ……おっす、お手伝いか?」
「うん! お皿あらったらねる!」
参ったな。
ウェド、お前そんな顔で笑えたのか。
夜なのになんて明るいんだ、ここは。
ふと、視線を逸らすと。
オーシャもワーフェルドも、俺に似た顔をしていた。
目を細め、眩しいものを慈しむような。
□ ■ □ ■ □ ■
高く積み上がる雲と夕立がなくなり、空の青さがより遠くなった頃。
陽の下を歩いても汗が出なくなり、リーシュの麦畑はいよいよ本格的な収穫を迎える。
雪渓が小さくなっていた「白の山脈」だが、天辺から短い夏が終わる。
工作兵──リーシュの関所とベルガスを結ぶ「人には見えぬ道」を探る、どこぞの偵察兵が不定期に残す人為的な目印の撤去を担う専門家──たちが、≪蟲の森≫から越山し、設備の建て替えを終えた大工団に合流して帰還する。
それに続くように、関所の駐在衛兵たちが、下山して来る。
ウェドのことといい、飽きもせず。
二国以外の小国家群は、いつになったら、夢から醒めるのやら。
リーシュは黄金郷でも楽園でもない、ただの辺境小国に過ぎないんだがなあ。
一斉に、国中が動き出す。
村人は鎌を持ち、ひたすら麦を刈る。
見習いパルトたちが自前の鎌を買い求めるようになるのは、この時季の任務のほとんどが収穫手伝いだからだ。
刈り束ね、干し、実を外し──藁は素材として肥料用に、細工用に、布団用にと分けられる。
秋咲きの花蜜を求め、蜜蜂は最後の貯蓄に励む。夏までのように奪わないから、安心してくれ、と声をかけたくなる。
林や森では、許可証持ちが果実の収穫を競う。
共同作業場では休むことなく加工が続き、備蓄倉庫からは各地区に、塩袋が運び出される。
街中でも、手仕事の成果があちこちに晒される。
何軒かが共同で、漬け物を仕込むのだろう。民家商家を問わず、軒先に複数種類の野菜が干され。
布糸の買い足しに向かう奥方たちの姿が、三つ通りに散見され。
子どもは遊びでなく、連絡や購入手伝いに走り回り、忙殺される。
麦糖の値が上がり、酒と酢の小売りが減る。
傷あり果実は大急ぎで加工所に搬送され、農作業の合間に摘まめる混ぜ込み菓子が焼かれ、それを巡回商人と雇われパルトたちが駆けながら売る。
冬越しを目論む、野山の獣と人との遭遇が里山で増え──武の酒場にも、肉が増えた。
≪魔蟲≫も≪魔鳥≫も、出現頻度が上がる。事件も事故も、伴う犠牲も。
収穫作業中に、見習いパルトが二人、死んだ。
南地区での、ことだ。
夏季に比べ、屋外作業に勤しむ人の数が増えれば──それを狙うホブリドも、増える。
臨時で≪魔忌避香≫を焚く場を増やしたとて、完全には防げないのだ。
里山に入り怪我をする者と、その顛末。
今年の栗や胡桃の実付き。
どの区画の小麦が「膨らみが足りない」薄いものか。
俺の後輩にあたる植物魔法使いたちが、各農産地区を走り回って確認し、施肥や天候の記録と照合した役人たちが、土魔法使いと翌年の方針計画会議を行う。
人と物の流れと共に、情報も街に伝わる。
善きも悪きも。
街から出る力を失い、収穫にも加工にも関わることがない俺は。
慌ただしく焦り、笑い、嘆き、動く人の流れや輪から取り残される。
□ □ □
「……なにかを、作りたくなりますね。向いてないと分かっていても」
火魔法以外の「発動しやすくなる」長文呪文を明確にするべく、分解と再構築という思考作業に就くウェドが、そう呟いた。
魔法の家には、四季がない。
希望者の指導と、聞き取りの写しと編纂、冊子の補修は暑さ寒さに関係がない。
機工ランタンの光源作製は、春夏に需要数がやや減るが、それくらいしか差異はない。
「もう、野菜ごとの水やりも、雑草の見分けも忘れてしまいましたが」
麦はまだ束ねられるかも、と竹ペンを置き、手指を動かすウェドは、農家の生まれと聞いた。
農具の扱いを忘れた代わりに、知識を持ち込んでくれた──ただの紋様程度に思われていた刻印が、規則性のある文字である、と。
「あたしは麦の刈り方も、知らないや」
その隣で、ウェドのワンドを借りながらコディアが魔工石へ「光の素」を込めている。随分と、器用になったものだが──暴発すると危ないので、俺はミント鉢を寄せて万が一に備えている。
「便利ですね、デフェンドプランタって」
「万能じゃないし、加減を間違えると枯れちまうがな」
対象魔法の影響効果相殺と、多少の物理衝撃軽減。
割れた水晶片が飛び散っても、同じテーブルにつく三人の、怪我くらいは防げる。
「テルダードさんがいるから、あたしたちは色んな挑戦ができるんです。助かります」
コディアはウェドが入国してから、はっきりと大人びた。
口喧嘩をすると以前のままだが、それ以外では落ち着き、他人との距離が適切になり、苛立ちと焦りが消えたように思う。
いいことだ。
「でもね、そういう魔法がある、展開してるってことは、ちゃあんと言わなきゃダメですって。
言わなきゃこっちも分からないし、伝わらない気遣いは意味がないんです」
手厳しい。
無精髭を撫でながらウェドを見ると、苦笑いが返った。目を合わせ、頷き合う。
「あっ」
バチ、と音を立て、コディアが摘まんだ水晶が割れる。
ひょろん、と伸びたミントの枝が揺れたが、魔力が吹き荒れることも破片が散ることもなかったので、光り枯れることはなかった。
「しまったぁ……まだお喋りしながらの注入は、無理でした」
□ □ □
入国前から、小国家群に属すセトラムの間諜と見做されていたウェドには、監視がついていた。
「武装商会」の飲水供給専門家である、あいつの亭主がそうだ。
水魔法使いとしてはそこそこだが、剣と尾行を得意とする、元パルトの斥候職。
宿屋の跡取りのはずが、しょっちゅう姿が見えなくなる──宰相殿直属の、工作員の一人。
──うちの宿に放り込みました。妻に魔法の家へ誘導させ、幾つかの商店情報も与えるように頼んでいます。平時は魔法の家へ縛り付けておいて、無駄に街の外へ出さないように願います。
そう伝えに来た顔を見て、知った。
亭主は、俺が、妻の元恋人だと理解している。
あいつに微かな未練がある俺の息の根を、任務ついでに止めに来たのだ、と。
□ □ □
だが、と俺は小さく笑う。
事態は、あの亭主の予測を越えた。
ウェドは燻っていたコディアを目覚めさせ、補助員とはいえ定職へ就かせる要因になった。
ケフィーナと出会い、衛兵たちへの敬意を態度で見せ。
スーと友誼を結び、休日には歩行に難がある彼の元へ、酒や保存食を持参し、語り合うようになった。
武の酒場の常連であった俺と酒を酌み交わし、その中で過去を語った。
だから俺も、胸襟を開いた。
望まぬスパイ役から、如何に脱せるか。
その相談は、わざと武の酒場で続けている。
伝え聞いたであろうあの亭主と宰相殿が、どう感じたかは知らないが。
俺が武の酒場に通い続けた理由は、通りすがりにあいつを見られるからだった。
過去だ。
今はもう、宿の受付を覗き見ることもない。
季節を映す料理と酒を楽しみ。
ワンドに目を輝かせたケフィーナの子と、親しくなるウェドの様を。
外国から来た少女の、楽しげな踊りのリズムを。
俺を打ちのめさない顔馴染みとの、交流を。
まっすぐ育つ教え子たちを、毒づきつつ眺め、楽しむために通うのだ。
真っ当な家庭も築けず、子を生せなかった出来損ないのジジイだが。
眩しい奴らに関わり、少しでもその助けになりゃあいい。
名も無き灰で終わろうと、少しでも悼んでくれる誰かがいりゃあ、それでいい。
そう、心から思えるようになったのは、俺の変化だろうか、成長だろうか。