新人パルト③‐火魔法使い Ⅴ
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春が終わる。
同期たちが南地区へ赴く人数が更に減り、向かうチームは複数任務を請け負うようになった。
街中の清掃や下働き任務へと分散したチームも、ルートと効率を考えて動くようになったので、私たちは水車小屋周りのホブフリオスメルジャや落ち枝葉の交換任務を、受けることがなくなった。
木橋の渡川料で日暮れまでに戻れる、職人町や西地区の南村、まで来るチームも出てきた。
土地勘がないなら、仕事休みの日を下調べに当てればいい、と判断したチームには、そのうち追い付かれるかもしれない。
講習や座学の希望者が増えてきちゃって、というのは、ワーフェルドさんのパン友であるアーガさん情報。
そう、二人はまだ、ただのごはん友達なのだ。どっちの背を押せばいいんだろー。
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入林許可見習い。
依頼主か指導者が帯同する場合のみ、林内作業ができる許可証は円い竹札だ。
それを背負い袋に着けて、やっと竹林任務を受けた頃は、もう筍の時季を過ぎていて正直がっかりした。
でもまあ、先輩方が受けた成果が食堂のメニューに反映されていたから、いいことにする。
コリコリポリポリした食感の炒めものは、美味しかったから。
私たちが受けたのは、筍掘りでなく、伸びた筍切りと、落ち葉掃除。
来年からはもっと早く、そのまま食べられる大きさの、柔らかいやつを掘りに来たいなー。
≪竹爪箒≫で竹林掃除というのは、ちょっと面白い。払うんじゃなくて、落ち葉を引っ掻けて寄せ集めていくの。
除草用の手把や、代掻き鍬と同じ形なのに、撓む感覚があって取り回しが軽い。
これ、実家にあったら良かったのになあ。
「成竹の間伐はいつですか」
「冬前だなあ」
一緒に行こう、と素材講習の後で声をかけたツァルク君は、私たちより早く安宿を脱出している。
イルさんの家に間借りして、独りでも受けられるパルト任務を熟したり。講習を受けに屯所に来たりする日以外は、大工道具の使い方を直に教わって、あれこれ手伝っているそうだ。
まめに各種講習に通い続けているので、私たちと一緒に許可見習いを取得。今日に至る、と。
ツァルク君と南地区の元チームの人たちは、先日やんわり仲直りしたらしい。
幼馴染み相手でも、大人になると離れることもあるんだなー、と勉強させてもらいました。
口に出しては言わないけど、ね。
「この大きさじゃ硬くて食べられませんよね、どうするんですか? 竹の葉は堆肥ですか?」
借りた手鋸片手のお義兄ちゃんの質問に、竹林管理をしている依頼主のおじさんがみんなを手で招く。
集めたでっかい固い筍を一本、手に取って皮を剥きながら、用途を教えてくれた。
「皮と中身でそれぞれ違うんだ。皮は洗って乾かして食料品店、小分け販売の包装や蒸し物の包み、編み箱に使う。食材が少しだけ、傷みにくくなるからな」
ほうほう。
あ、村で巡回商人から塩漬け猪脂を買った時、包んであったのってこれかー。
そう言えば食堂でサーロはまだ出たことなかったわね。
「中はこのままじゃ食えんが、干して粉にしたら食える。竹粉つってな、麦粉の嵩増しになるんだ」
「……あのパンの名前って、中に竹粉が入ってるからじゃね?」
「竹葉は堆肥じゃなく、どっちかってぇと藁みてぇに畑土に──」
と、おじさんの声が止まる。
「……猪三頭、いけるか?」
「僕とカルゴとキリャの弓で、追い返せるかな?」
「いんや、わしは狩猟免許持っとる。事後依頼になるが、やるぞ。手伝うてくれんか」
「行くぞワーフェルド、あいつら狩ったらサーロっていう美味いもんが食える」
「いのししあぶら」
ひそひそと戦闘モードに入った男性陣には言えなかった。
春夏の猪は、脂が少ないなんて。
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「りんごのにおい」
「そうよー、不思議よねー」
まだ結球していないキャベツ畑の畝の中、数列おきに白い小花が咲いて揺れている。
雑草として抜かれず残された林檎菊は、キャベツを守り、美味しい飲み物になる素敵な草だ。
「お花を摘むの。十のうち三は残してねー」
「わかった。キャベツ、ぼくしるのとちょっとちがうます」
「そうなんだー、色かなー、大きさかなー」
お喋りしながら、借りた竹かごにどんどん摘んで歩く。クードとワーフェルドさんの、中腰姿勢もそこそこ様になってきた。
「いってぇー……」
でも、そうやってクードが体を伸ばすタイミングで小休憩だ。
腰痛予防体操は、万能じゃないから。
屯所に帰っていたら、魔法の家の隣の資材置き場から出た荷車が、何台も北路を東へ向かっている。
「ああ、そろそろ関所の建て直し時季ですね」
「たてなおす? いえもさくも、こわれるないしたのに、こわれた?」
ワーフェルドさんが不思議そうな顔になったので、三人で説明した。
香ノ木が育たない赤白の山の関所は、石柱香炉だけだと──山向こうの麓の、蟲の森にいるホビュゲたちの侵入を防げない。
落ち枝葉で「生えているフリ」も、できない。運搬中に乾いて、効果がなくなってしまうから。
「それはあぶない、どうする?」
「大きく育った香ノ木の芯材を、組んで柵を建てるんです。一年しか、忌避効果は保たないんですが」
「建物の屋根は、香ノ木の皮で葺くんだが……こっちは半年ごとに換えるんだっけ?」
「それはたいへん。香の木、たくさんいる」
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「なんか草むしりが上手くなってきたぞ、おれ」
言いながら、クードが農道沿いの柔松灌木をばちんばちんと鋏で切って、竹笊に落としていく。
むしってないし、ちゃんと若葉を選別できてるのか気になる。後で選り分けよう。
「セーロリ、サーフラン、マージョーラームー」
唄いながら、葉を摘む。
足腰が痛くなるから、好きな手伝いじゃなかったなー。
それがパルトになって、安い任務であっても安心して受けられて、満足感が高くなるなんて、知らなかったなー。
「レーディスーマーントルー、ヤーロウ、ヒソーップ」
私の三節目が聞こえたのか、続きの四節目を、すっかり聞き覚えたワーフェルドさんが唄う。
ハーブの名前は外国でも同じだったようで、発音も抑揚もバッチリだ。
山刀で畦道の酸葉を刈り、細い藁縄で束ねていくのも、慣れた手つき。
「……ラーヴェンダー、バージル、ウィンターサボリー」
歌い出しの一節目に戻って口遊むお義兄ちゃんが、丁度用水路から戻ってきた。
水山菜が束になっていて、薬師のおばあちゃんの任務があと半分だ、と知れる。
クードとワーフェルドさんのそれは、村の女性陣に頼まれた事後依頼、だから。今夜のごはんは、どのお宅も美味しいんだろうなー。
「なあキリャ、そう言えばこのハーブ唄ってどんな意味があるんだ?」
「パーセリ、セージ、ローズマリーとターイム」
お義兄ちゃんに続けたワーフェルドさんが、二節目を唄い終えて首を傾げている。
いや、そこで終わらないんだけどなー。最後は四節目、ヒソップ、でおしまいなのよ。
さっきワーフェルドさんが唄ったところで、ハーブ唄は終わりなの。
「女の人の唄よ」
実家で借りた鎌と露草を掲げて、私は立ち上がる。
「赤ちゃんができて、産まれるまでは女の人が口にできないハーブの名前」
三人揃って、挙動不審になった。
そっか、適当に並べた唄だと思ってたんだー。
独身男性だと、こういうのって他人事なんだろうなー。
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今年の夏は、どうやら寝坊助らしい。
クードの二代目長柄鎚が完成して、ワーフェルドさんは支払い順を変え、先に緑楠の棒を得た。
働いて働いて、一先ず全員、ぴったりの新しい靴を買った。
稼いで貯めても、要るものは次から次だ。
今はワーフェルドさんの、新しい革鎧と手袋。私たちの防具の作り直し、の支払いに向かって走り回る。
「ちょっと暑いねー」
「汗がでます、でもかえった水浴びサイコーです」
ぱたぱた、と梯子を支えていない左手で顔を扇ぐワーフェルドさんは、半年足らずで体が一回り大きくなった。
勿体無いなー、と思いつつ服の詰めを解いたのは、ついこの前だ。
抜いた糸で、ポケットにボタンを着けてあげたら好評だった。
今日は今年最後の、菩提樹の花摘みだ。六の月なのにまだ枯れている方が少なく、蜜蜂用に半分残して再採取、の任務が出たので。
「蜂が来るか、影が短くなったら終わりだからねー」
「うおおお、匂いが甘ぇえ」
「束ねず落としていいんだよなー」
「いいよー、花と側の薄い色の葉っぱだけよー」
本当は葉っぱじゃないんだけど、ワーフェルドさんへの説明が面倒なので、そう呼ばせてもらう。
木の下には早朝から急いで敷いた、藁の筵が待ち構えている。
「かぜひかなくなる、あまいのたのしみ。リーシュはのみもの、たくさん」
「もっと暑くなったらねー、漬け水が美味しいのよー」
「つけみず?」
「カブとかの漬物の汁をねー、水で薄めて飲むのー。酸っぱくてしょっぱくて、ちょっと甘いのー」
ぽてぽてぽて、と菩提樹の花が落ちてくる。
「……それはおいしいか?」
「汗をかく夏だけは美味しいのよー、こっそり冬に飲んだら、あんまりだったからー」
「あんまりか」
「おぅい! 梯子ちゃんと押さえててくれよ!」
「ちゃんとやってるー」
ぽてぽてぽて。
甘い花が、次から次に。
遠くから、同期たちの悲鳴が聞こえた。
先輩たちが森や水場に設置した罠、に掛かったホビュゲの運搬任務、かなあ。
掌より大きい蚊型ホビュゲとか、死んでても触りたくないなー。
頑張れ頑張れ、とちょっと悪い顔で笑った。
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だけど翌日、私はどんよりした顔になった。
血の月が、きてしまったのだ。
前はたまたま、雨続きの時に来て、ごまかせたのに。
「……キリャちゃんは何日? 皆に言ってなかったの?」
「三日です。なんか恥ずかしくて、言ってないです。前回は言おうと思ったら雨で、私、動かなくて良くて」
余程顔色が悪いのか、ダイラさんが寄り添ってくれた。
「チーム組んでるなら、言っておかなきゃダメだよ。重い娘のために、月に何日休むかが必須になってもいるんだから」
血の月は、二月か三月に一度来る。血が止まらないから、蒲穂や古布を詰めた充て布を縛り、交換して洗って干すことを繰り返さないといけない。
女だらけの作業場だと、開き直って受け壺付きの穴空き椅子に座ることもあるけど。
「……ああ、まあ女部屋の隣にあるけどさ、充て布の乾きが遅い冬くらいだよ。あっちを使うの」
前回独りで大丈夫だったら、こっちにしておきな。
そう言いながら、肩を擦ってくれるダイラさんに、何故か涙が出てきた。変なの、前は、こんなんじゃなかったのに。
おなか、いたい。
「伝えて来てあげるよ、三日間はあんたらだけで頑張れ、って」
「……済みません」
ぐずぐずしながら、ダイラさんの頼り甲斐のある広い背中を見送った。
彼女がチームを組んでいないのは、これが原因なのかもしれないなあ、と思った。
戻ってきたダイラさんから、魔工石の充填任務を前に受けたんだよね、と器に入った水晶片を渡されて、また涙が出た。
これなら、できそう。
受付の人かお義兄ちゃんたちか分かんないけど、覚えててもらって良かった。
ダイラさんに助けてもらえて、良かった。
出血、早目に終わると、いいなあ。
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ちまちまと箱寝台の上で一日を過ごしていたら、翌日の暮れに嫌な笑いを浮かべた同期の女の子が近付いてきた。
ああ、初日にダイラさんを悪く言った娘だ。ずっとすれ違ってたのに、なんだろう。
「知ってる? あんたの仲間、昨日娼館行ったんだって」
……なにが面白いんだろう。
「あんたが血の月で邪魔者いなくなったって、箍が外れたんじゃなーい?」
そうかもしれない。
でもそれは、私たちみたいな男女混合チームならきっと、どこでもある価値観のズレや秘密じゃないかな。
あと娼館は国営だし、そんな風に見下すのは良くない。
「かもね」
握った水晶片を破裂させないよう、呪文を止める。イライラしたり、腹を立てたりしながら唱えた魔法は、ろくなことにならないから。
「……なによ、本当のことじゃ」
「キリャさーん、クード君、とカルゴ君ワーフェルドさんから差し入れですよー!」
と、妙に元気な声のアーガさんが、女部屋の扉を開ける。
左腕に抱えてる緑は。
「……『この研草で、爪をピッカピカにして落ち込むな。ちゃんとメシ食って無理すんな。腹を冷やさず休みを優先、内職できなきゃ休め。研草余ったら女部屋のみんなで分けてくれ』ですって!
寂しそうだったから、動けそうなら明日は見送ってあげたらいいんじゃないかなー!」
ほらほら、と渡された研草は、小分け前提の小さな束の集合体。
びっくりしていたら、アーガさんは「お駄賃もらうわ」と一束、摘まんで踵を返す。
「──娼館で欲を散らせるのは三回目からよ、それまでは『体の違いの座学講習』なの。
半端な聞き齧りを広言するもんじゃあ、ないわよ」
アーガさんの捨て台詞に、絶句したのは私だけじゃなかった。
クードの研草は、あの娘にもあげた。
あんたたちが目立ってて悔しかったの、って謝ってくれたから。
ツァルク君も、こんな気持ちだったのかなー。
ダイラさんにも謝ってねー、って言ったら、あの女怖いから一緒にいて、だって。
だったら最初から、嫌な言葉を言わなきゃいいのに。
遅れて帰ってきた同期たちに研草束を配ったら、クードの評判が上がったので複雑。研草以上は、あげないよ。
遅れて戻ってきたダイラさんに二束渡したのは、ただの依怙贔屓。
あたいの顔で爪を磨いてもねえ、とか言ってたから、同期の女の子たちで押さえ付けて、きゅこきゅこしてやりました。
厳つそうに見えるダイラさんの反応が、とっても女の子だったので。
きゃあきゃあ騒いで笑った後、全員で美容話とコイバナに突入。戸口に掛けられた機工ランタンの光が、一段階暗くなるまで。
「えー、南地区の≪整え油≫って、ミント入れないんだー」
「うちらは枸櫞の皮を刻んで入れてるのぉ。西地区にはないんだっけぇ?」
「うんー、黄色くて酸っぱい実は知ってるー。村に来る巡回商人さんから買ったことあるよー」
「あれ採るの大変なんだよぉ、棘だらけでさぁ」
南地区に塩泉があることは知っていたし、その近辺では麦が育てられない、ということは知っていたけど。
その水が注ぐ川には、そこにしか生えていない藻草があって、その灰が石鹸の材料にもなっているとか。
泥臭くない美味しい魚がいるとかは、知らなかった。
豆汁を固める苦汁は、製塩の副産物なんだって。なるほど、そういう名前なのね!
「え、そっちは雪積もんないの?」
「降ってもすぐ融けちゃう。霜柱も見たことないなぁ」
「うっそ、あれ踏むの楽しいじゃん。親には靴汚すなって怒られるけどさ……って、こっちはシトロン育たないよ」
「あれー? 同じ地区でも違うのー?」
「村ごとで結構違うよぉ、あたしのとこはねぇ、なんかあったかいんだってぇ」
卵が茹だる熱湯が出る泉があるのは凄いけど、そこだと私とお義兄ちゃんのお湯はありがたがられないだろう。
ううん、同じリーシュなのに、別の国の話みたい。
思わぬ情報交換は、有意義だった。
オーシャさんに出会った運搬任務の話は、ダイラさん以外の全員にとっても食い付かれました。
そうだねー、目茶苦茶大変だったけど──リーシュを見下ろせるあれは、いつか絶対受けるといいよ。
最終講習で見た地図より街が凄く小さくて、村と畑がうんと広くて、緑で。
なんだか両親や村のみんなを、誇りに思えたから。
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夏の暑さが遠ざかる頃から、西地区は殺気だってくる。きっと、南地区も同じだろう。
「うおおおおおお、無限任務じゃねえか!」
クードが小声で叫んだ通り、早朝から日暮れまで、いつ見ても掲示板から竹札が消えることがない。受ける端から、新しい札が掛けられていく。
「しょうがねえ、実りの季節なんだから」
お世話になっている受付のおじさんが、そう苦笑しながら新しい竹札を渡してくれた。
ええと、明日は四ヶ所ですか。
わあ、全部、一回以上受けた依頼主さんだ。
えーん、朝から全力疾走しなきゃー。
「八の月に入ったら、お前さんたちは西地区泊まり込みになりそうだな」
「でもしょくにん町も村も、パンないです」
ワーフェルドさんはブレない。
好き嫌いはないし、夜営実習や関所に行った任務みたいに、パンがなければ大麦粥でも平焼きでも固焼きでも、文句を言わずに食べてくれるけど。
可能な限りは、屯所の食堂でパンを食べたいんだろう。特に、夜は。
□ □ □
「ワーフェルドさん、吉報です。明日の朝から、限定で白パンが出そうです」
毎日、へっとへとになって戻り、いよいよ北村からはじまる麦刈り任務の気配に備えるべく。
明日は休みにしよう、一回しっかり体力回復させよう、と、みんなで決めた日の夜。
いつかのお父さんたちが、麦酒を呑んだ姿のように、豪快に漬け水を呷って口を拭ったアーガさんが。
薄い隈が浮かぶ目を細め、こっそりと、そう告げてきた。
「しろパン」
「今年は、小麦の生育状況がすこぶる良いんです。備蓄倉庫を段階的に空けるよう、屯所でも国のパン屋でも、白パンを焼く回数を増やすそうです。
パンにできない小麦粉も、値段が下がりそうです。
でねでね、使われた痕跡がある、布張りの篩が食堂の流し台に積んであったから」
そういう情報は、どこから入ってくるんだろう。
あ、一の通りや町や村の倉庫から、パン屋へ運ぶ小麦袋の量が変わるから、判っちゃうのか。
……ううん、食堂の奥の道具まで確認して、情報を統合して、販売日を推理してるアーガさんは、ちょっと普通じゃない。
「わたしは明日、休みをもぎ取りました。ふ、ふふふ。
そのために今日は、夜明けの鐘の前から走ったのよ。ホブフリオスメルジャ、焚きまくったし、延々と竹札彫りまくったんだから」
あ、それでアーガさんの左手の指に、切り傷があるんだ。血は出てないけど、人指し指と中指に、皮だけ切った白い痕。
「ぼくたち、あしたやすみ……」
「まあ! きっとパンに愛されてるのね!」
大きな声になったアーガさんに、周りのテーブルの、へとへと同期たちが笑っている。
すっかり名物になっちゃったよね、夜の食堂の、二人のパン会話。
「ねっ、ねっ、朝から作ってるところ、こっそり見ない? 中庭の端が、釜のある第二調理場の窓で」
「おこるされない?」
「成形と発酵までは、窓を閉めてるんだけど……焼成がはじまったら、熱気が凄いから窓を開けるのよ。それに合わせて覗くくらいなら、呆れられるけど怒られないわ」
「いや、怖くてなんも言えねえだけだろ。それ」
職人も気の毒に、とクードがため息を吐いた。
私もお義兄ちゃんも、真顔で沈黙した。
夜明けの窓、布戸の向こうからパン釜を凝視する内勤女性。想像したら怖すぎる。
アーガさんが屯所勤めになって何年経ってるか、までは知らないけど──この女、絶対毎年やってる。
血の月と重ならない限り、いや重なったとしても、雨が降ったとしても、アーガさんなら根性で白パン見学してそう。
「みたいです……しろパン、ぼく見るしたい!」
「やぁったー! ワーフェルドさんならわたしの気持ち、分かってくれると思ってたんです!
わーい! 誰かと白パン焼けるのを見られるなんて!」
……私たちだって、白パンは好きだ。
ふわふわで柔らかくて、噛んだらキュッと小さくなって、年に何個も食べられないご馳走だから。
でも村のパン屋に張り付いて、焼けるまでを見ながら、店頭に並ぶのを待ち続けたことはない。
多分、リーシュ全土を探しても、そんなことしてるのは、アーガさんだけだと思う。
□ □ □
翌朝、講習も受けない完全休養日、と安堵した私は綿羽布団に包まってゆっくり惰眠を貪り。
よく休めたわー、と欠伸をしながら起きて、身支度をした。
女部屋はとっくに空っぽで、他の同期たちやダイラさんも、無限収穫と運搬任務に出ているみたいだ。
今年の茄子と胡瓜と瓜は、いつ採り尽くされるんだろう。なんで次の日の朝、葉っぱの陰から一回り大きいやつが見付かるんだろう。
こればっかりは、謎だ。
遅い朝ごはんをとろうと、階段を降りて廊下を渡り、食堂がある屯所本棟へ向かえば。
無表情で入り口横の壁に凭れている、クードとお義兄ちゃんに、出会した。
そして、予想通り食堂の中では。
「……アーガさん、アーガさぁん……」
「分かる。そうよね。びっくりよね。おいし……ぐすっ、そうよね。ワーフェルドさんの人生初の白パンに立ち会えて、わたしも嬉しいわ……!」
「ほんとにあまい、ざらざらもぷちぷちもな……うぅ、すごい、これがしろパン……おかず、いらない。水だけでいい」
二人の他には誰もいない。
お皿に並べた白パンと、感動で泣きながら話し合う──なーんか一の月に見たのと、よく似たような構図。
「……どうしよう」
「おはようキリャ。どうもしなくていいぞ、あれは二人とも、ただの嬉し泣きだ」
「腹減った。おれも白パン食いてー」
なんでも、ワーフェルドさんの最初の白パン体験、一個目くらいは同席して共感してやるか、と早起きをした二人は。
今年初の白パンを喜びつつ、任務に急ぐパルトたちの中で。
ものすごーくゆっくりと、半口ごとに延々と感想を言い合い、微笑み合う妙齢の男女の間に割って入れず。
食堂からパルト全員がいなくなってからは、感極まった、とばかりにワーフェルドさんが泣き出して。アーガさんがもらい泣き。
お義兄ちゃんとクードは、すっかり声をかける機会を逃し。
ずうっとここで、どうしたもんだか、と苦笑していたらしい。
なにそれ。
私は二人の腕を掴むと、食堂に入りながら声を張った。
「早くないけどおはようございます! ワーフェルドさん、アーガさん!
幾ら白パンが美味しくても、おかずも食べなきゃダメです!」
□ □ □
陳列棚に三つだけ残っていた白パンは、美味しかった。
違うわ、他のパルトたちがいなくなってから、三つ以外の残り全部、ごっそり二人が確保したんだわ。自分たちのお皿に。
クードとお義兄ちゃんが、目撃証言者です。
白パンは皮まで柔らかくて、香ばしくて。
ナスとキュウリと塩漬け川海老の炒めものと、瓜のスープ。
この時季、珍しくもないおかずが、白パンと一緒だと何倍も美味しかった。
「うめぇ」
「夏の終わりの、味ですね」
「美味しいねー」
にこにこしながら、私たちは二人と同じテーブルに並んで食べる。
向かい合って座っていた二人も、おかずを取りに立ち上がる。
五人で、匙を動かした。
パルトの任務話や内勤の愚痴じゃなくて、ずっとパンの話をした。
私たちは、白パン一個じゃ足りません!
今度からは二個ずつ残しておいて欲しいなー。
「白パンの欠点は、他のパンより早くお腹が空くことなのよねえ。その点では、繋ぎパンの方が優秀だわ」
「しろパンは夢のパン」
「なんだよ、そりゃ」
「すぐきえる。いつも見ない。あまくてやさしくて、あとでちょっとかなしいなる」
みんなと食べるできて、うれしい。
笑いながら目を伏せるワーフェルドさんに、お匙を振りながら行儀悪く、アーガさんが返した。
「なに言ってるんです! わたしの見立てでは、来週また会えますよ! なんてったって今年は大豊作なんですから」
「……すき」
「わたしもです! 好きなパンに変な遠慮しちゃダメですよ、ワーフェルドさん!
美味しいパンは全力で味わうのが、パン好きとしての礼儀です!」
お義兄ちゃんが噎せて、私とクードは顔を見合わせた。
──頑張れ、ワーフェルドさん。
それにしても、仕事ができる大人の女性と思ってたアーガさんが。
ここまでパンきちが……パン至上主義で、鈍感で、素っ頓狂なお姉さんとは、思わなかったなー。
……がんばれ、ワーフェルドさん……。