西の果てから‐踊る聖詠女 Ⅳ
その夜は、寝台に二人で座っていっぱい話した。
シェダールお養父さん、は昔、衛兵じゃなくて、色んなモンスターを狩る仕事に就いていたこと。
結婚の約束をした恋人と、死別して。
衛兵になって、この関所に就いて、ずっと独りだったこと。
弟さんの奥さんも亡くなって、姪のコディアちゃんが頑張っていること。
可愛くない鶏たちが、可愛いこと。
「じゃあコディアちゃんと仲良くなって、一緒に頑張らなきゃ」
「聖詠女の仕事の次で頼む」
「聖詠女の仕事、ありますかねえ」
畑を借りたい。わたしを丸ごと認めてくれたシェダールお養父さんのために、頑張りたい。
黄赤の花を、咲かせたい。翠紅が作れなくても、きっと役に立てる。酸桃の木がないならあの種を植えて、育つまでは黄赤の花は油に加工しよう。
舞芸神様の教えを、話したい。聖歌を聞かせたい。王様に頭を下げて、祠を建てたい。否定されなければそれでいい。笑顔の価値を知ってもらえれば、いい。
チューシェおじさんやコディアちゃんと、顔を会わせて、仲良くなりたい。
シェダールお養父さんを、迎えて休ませたい。
ああ、土の違いや天候を教わらなきゃ。農具、買えるかなあ。
パン、食べられるかなあ。蒸し風呂、あるのかなあ。
どんな町だろう、どんな村だろう。
お養父さんが守る国。お養父さんを笑わせる鶏。
考えるだけで、涙が出そうだ。
「舞芸神様の教えを広めて、踊りと笑顔を見せるといい。きっと皆、喜ぶ」
「じゃあ酒場で雇ってもらえるかなあ」
まだなにも決まってないし、どうなるかも分からないのに、夢ばかりが広がっていく。
叶うかどうかも分からない、諦めかけた明日にどきどきする。ほっとする。
夢をまた持てる。
なんて嬉しくて──幸せで、満たされる、心。
「そうだな、『武の酒場』ならきっと大丈夫だ。腕利きの用心棒もいるし、弟に顔出しを頼んでおこう」
小さくなったランタンの火を見てたら、眠くなってくる。シェダールお養父さんに寄り掛かると、温かくて安心する。
「オーシャの神様は、きっとリーシュの民を幸せにする。我のように」
そうかな。
そうだと、いいなあ。
そう思われるように、頑張りたいなあ……。
□ ■ □ ■ □ ■
目が覚めたら、わたしは寝台でのびのびと横になっていた。
うぬう。またシェダールお養父さんを床で寝させてしまった。
起きて髪を梳かし、括り直す。顔を拭いて、白粉をのせて、荷物をまとめた。
靴を履いて扉を開ければ、鉄槍を振るうシェダールお養父さんの後ろ姿がある。朝陽が当たるのは家の東側と広場の半分、柵壁は崖側。
トイレの長い影が西へとのびている。
物置である石小屋の入口扉に、朝日が当たっていた。南の窓は日中、柵壁の影がかかりそうだし、夕方は大きな岩壁の陰になるだろう。ホブフリオ、スメルジャとかの劣化を防ぐために、そうなっているんだろうか。
静かだった。
ここからは遥か西の、同盟国家群の、農村で聞こえてきた鳥や虫の声は、ない。
シェダールお養父さんの息遣いと鉄槍が空を切る音、硬い地面を踏む音だけだ。
東の崖の下の森の梢に渡る風と、山道を吹く風。ホブフリオ、スメルジャの、微かな匂い──に、気付かされる。
風が、違う。
山道の風は、こんなに規則的に交互に吹くもの、だろうか。
そよ風が山道の上、わたしの背後から柵壁に向かってへ吹く。
少しして、柵壁から逆に。わたしの前髪がそよぎ、額が露になる。
それを繰り返している。
わたしの前髪は、ずっと前へ、後ろへ、南北へ交互に靡いている。
西の岸壁斜面に吹き付けることも、東の崖へ向かい落ちることも、ない。
山の気候に詳しいわけではないけど、こんなことがあり得るんだろうか。
今まで気付けなかった異常さに目を丸くしていたら、シェダールお養父さんが鉄槍を下ろしてこちらに振り返った。
「お早う」
「おはよう、ございます」
シェダールお養父さんの口が、動いた。声は、聞こえなかったけど、きっとあの。
不思議な、呟き。
風が、吹く。
冷たくも強くもない、柔らかく優しい風が。
「──補給隊が、昼前に着く」
恐怖は、感じなかった。
わたしのお養父さんは、誰も傷付けない「魔法」が使えるんだ、と。
それだけを思った。
□ □ □
大麦と干し肉、残りの干し野菜を全部、謎の粉を入れ、レードルで混ぜられた煮込みは、鍋いっぱいになった。
「補給隊の食事にもなるからな」
あ、白い波茸も入ってる。
これ絶対美味しいやつ。
「……まあ、若い奴等は、此処まで来るのも一苦労だしな。味の濃いものがいいだろう」
えっと、なりたての養女も若いんですけどー、とわたしが自分を指して言えば、噴き出される。
「もう十九じゃないのか」
「実はまだ十八でーす、再来月で十九でしたー」
二人で笑う。
「荷物は、まとめておけ」
「もう済んでる」
「そうか」
寂しくなるな、と言われて、シェダールお養父さんを肘で押す。
「ちゃんとお休みの月になったら、帰ってきてよ」
「ああ」
「落ち着いたら、遊びに来るよ」
「二日かかるぞ」
「来るよ。農繁期は無理だけど」
「……無理はするな」
「しない」
できるだけ。
「そうか」
うん、大丈夫。
わたしは、もう寂しくない。
わたしは、心から笑える。
ごはんを食べて、トイレを使って、ホブフリオ、スメルジャの交換に行く。
五つ目を換えて、背伸びをするが、先にあるらしい湧き水の音がどうにか聞こえても、昨日のクズどもの姿や、次の関所は見えない。
「いないね」
「三の関までは辿り着けまい」
シェダールお養父さんの悪そうな笑い声なんて、はじめて聞いた。
と、荷車を牽いて上から降りてくる人影が見えた。ぎょっとするが、シェダールお養父さんに緊張はない。
「おーい!」
若い男の子の声だ。
「おーい!」
「おーい」
「おーい?」
別の男の子と、女の子の声、に続いて、何故か疑問形の声がする。待て四人目の男、なんでこっちに訊くのよ。
「シェダールさんですかー」
「ちょ、クード! てめええええええ」
「ばかー!」
最初の声の子が、大きく曲がっている山道を独りで駆け下りてくる。手にしているのは杖じゃなくて、槍だ。
上で叫んでる子たちは、荷車を抑えている。あ、なんか大きい樽とか、箱や布がいっぱい積んである。
「横の美人さん誰ですかー!」
叫びながら下りてきたクード君とやらは、シェダールお養父さんに手箒で頬を叩かれていた。
□ ■ □ ■ □ ■
「よーし、もう一仕事ー」
家の前でそう溢しながら、荷車から下ろされた物資の仕分けをてきぱきとしているのが、キリャちゃん。
ぴしっと編み込まれた栗色の髪がきれいで、なのに声も口調もゆったり柔らかくて、聞き取りやすい。
「二種香の残量確認と、管理板の複写を行います。沐浴の準備もできますが、如何しますか」
「頼めるか」
「了解致しました」
シェダールお養父さんと、きっちり確認しているのは、カルゴ君。
キリャちゃんのお兄さん、じゃなくてお義兄さんだそうだ。麦藁色の髪は、さらさらしてる。
「厠使いまぁぁぁぁうおおおおー穴が森がうっひょおおおおお、やっべええてっぺんの厠よりこえええええ」
「……」
あの賑やかな子が、クード君。赤土色の髪なんて、珍しいなあ。
「クード、先に灰を穴に落とせ。用を足して洗った後もだ。でないと穴からほぶりどに尻を啄かれるかもだぞ」
トイレの外から声をかけてる、長身の男性は三人より年嵩──なのに≪貧民の子≫と呼ばれている、黒髪の変な人だ。柄の長い鎚を携えている。
そしてわたしにはもう懐かしい、同盟公用語を話している。ブレサウィズの西訛りでもディスティアの東訛りでもない、中央辺りのアクセントだ。
誰も剣を持っていない。リーシュでは槍とか長柄鎚とかが、普通なのかな。
シェダールお養父さんにくっついて、補給隊の様子を見ていたら、カルゴ君と目があった。
彼は誰何の声を上げず、真顔になって目を伏せる。名乗るべきかな、と迷っていたら。
「この娘はオーシャ、ブレサウィズから来た入国希望者だ」
ぽん、とわたしの肩を叩いたシェダールお義父さんに、先を越された。
「ブレサ、ウィズ」
「大陸中原の小国家群、その一番西にある国だそうだ」
「そうですか。俺たちは≪公務遊撃隊≫、そちらだと≪自在狩猟士≫──エフのような職です。
向こうのワーフェルドさんは、先々月──今年の一の月──に正式に入国しリーシュ人になった、元エフです。
今日はここ、国境第一拠点の補給任務で来ました」
おお、おとなしそうな真面目くんと思ってたら、説明上手だ。
「言葉が難しいようでしたら、ワーフェルドさんに仲介してもらって下さい」
「大丈夫、分かります」
シェダールお養父さんとのお喋りでこっちの言葉に慣れたから、うん、大体聞き取れる。
「そうですか」
カルゴ君は頷くと、石小屋へ向かう。
「……シェダールさーん、目録板との照合お願いしますー」
キリャちゃんの声で、シェダールお養父さんがそちらへ向かう。荷車の側で広げられた麻布の上、木箱や麻袋、樽や大盥、ふかふかの布や衣類といったたくさんの物が並んでいた。
ちらと振り返ると、カルゴ君は石小屋の戸を開けて、一歩も怯まず中へ入っていく。
あの臭いに動じないとか、玄人だなあ、と思った。
「クード、終わったらこの樽の水で手を洗って柄杓を清めるんだ。蓋裏の枝袋は濡らさないようにな」
「おー、もう水がねえー。あーと……中の香ノ木の木片、取っとく方がいいよな腐っちまうし。水は上に汲みに行かなきゃ、だよなあ……?」
クード君の言葉遣い、お養父さんやカルゴ君とちょっと違うのね。ジェスチャーや表情で、なんとなく砕けた言葉遣いと伝わるけど。
「……未だ『取込み中』だろう、カルゴに頼んだ方がいい」
「空いたー? 次入っていいー?」
トイレ前で騒いでる二人のところへ、キリャちゃんが駆けていく。彼女の言葉はなんか聞きやすいなあ。
「おおう、穴がすげえぞ。気を付けろよ」
「山頂の厠と違わないで……キャーッ! 森がー!」
元気だなあ。
若いなあ。
カルゴ君が石小屋から出てきて──細長いただの丸太を二本、抱えている──、キリャちゃんとクード君とワーフェルドさんと合流して、こっちに来る。
「不足はありますか」
「水がない」
シェダールお養父さんが眉を寄せる。え、と広げられた荷の中、樽に顔を寄せると、麦酒の匂いがした。
「他が多いのは助かるが」
「ああ、申し遅れました。うちの人間無限井戸です」
「え」
クード君が笑いながらカルゴ君の背を叩いて、わたしは首を傾げる。
「水魔法使いか」
「ええっ?」
さらっと返したシェダールお養父さんの言葉に、わたしは仰天する。え、魔法使いなの、カルゴ君。
短杖も刺繍法衣もないのに、えええっ?
って、そうだ、お養父さんも持ってなかった!
待って、わたしの中の知識と色々違いすぎる! 細かいところが派手に違う!
「無限なわけないだろ、大袈裟な」
「ええええ」
認めたー!
カルゴ君認めちゃったよー!
リーシュの魔法使いって、こんなに普通なのー?
ってか水、魔法で生まれる水って飲めるんだ!
わたしがびっくりしていたら、カルゴ君は丸太を抱えたまま、干場の方へ向かう。斜面に丸太を立て掛けて、腰袋から鏝を出して、穴を掘りはじめた。
「ワーフェルドさん、その盥と横の巻き布を持ってきて下さい。キリャは洗い布と拭き布と石鹸、あとクード、桶と空箱持ってきて手伝え!」
「動いてからじゃなくて先に言えよー」
口を尖らせたクード君と二人が、カルゴ君の指示に従って動く。
え、どういうこと、と瞬きをしていたら、人差し指を立てて振り返ったキリャちゃんが、唇を動かした。
声は、あれ、なんかお養父さんのあの声じゃないけど、似てる?
「──!」
ぽん、と彼女の指先から煙が上がる。え、嘘、今のなに!
「あったかいお風呂作りまーす」
「……」
「汝は火魔法使いか」
「そうでーす、水だけ熱せるのでー、薪は節約でーす」
腰が抜けた。
なんなの、魔法使いって、こんなに腰が低くて、ワンド無しで、前金無しでポンポン「驚異」を使ってくれるものなの!?
って、あーと、お養父さんもでしたっけ。
どうしよう、ついていけるかな、わたし。
丸太に、干し場から外された細いロープが括られる。それから路面の穴に一本ずつ差し込まれ、土を戻され、倒れないように周りを小石で固められた。
上背のあるワーフェルドさんが、麻布を広げて、縄に掛けてから雑に片寄せた。
それから男三人は、丸太柱から離れて手を洗いはじめた──カルゴ君の掌から、湧いて落ちる水で。
「はい?」
一旦下ろしていた箱と大盥を、ワーフェルドさんが下げた布の向こう側に持っていく。盥の中に、またカルゴ君の掌から、じゃぼじゃぼ水が注がれていく。
人間の手からあんなに水は出ない。
じゃなくて、そもそも、人間から水は湧き出さない。
えーと、あれ、なに?
いやその、あれが、水魔法、って、こと、よね?
カルゴ君って井戸じゃなくて滝なの? いや、人間は井戸でも滝でもなくて。
「……彼奴は大した魔力だな」
なんか、シェダールお養父さんが評価しつつ動じてないのが怖い。
あれってリーシュの普通なの? とんでもない魔法使いじゃないの?
あと、まろくってなに? 魔法の力? まりょく、ね了解。
「えーい」
箱の上にあれこれ並べたキリャちゃんが、盥に両手を翳して可愛い掛け声と、謎の呟きを向けると、ぽぅん、と煙、じゃない、水面から湯気が。
お湯?
お湯って火も薪もなしに、えーい、で沸くものだったっけ、あ、火魔法ですかソウデスカさいですか、あれ?
「あち!」
箱の上から桶を取ったクード君が、盥の中をかき混ぜている。また、カルゴ君の掌から水が、じょばー、って。
おかしいなあ、信じられない光景なのに、三人が当たり前な顔をしてて。
ワーフェルドさんがにこにこ見守ってて、あれ、なんか変だと思うわたしがおかしいのかな?
「いいかな」
「いいと思う」
屈んだ四人が、盥の中を確かめて、こちらを向いた。
「お風呂どうぞー」
麻布を広げ直して垂れの長さを調節し、縄に付いてた洗濯鋏で固定していく男三人。
外から見えないようにねー、と指示していたキリャちゃんに手招きされて、へたり込んでいたわたしは、シェダールお養父さんに担ぎ上げられる。
「よし、オーシャ入ってこい」
「ええええぇぇえ」
「石鹸ガッツリ使っていいからさ、おねーさん」
「うぇええええ」
「終わったら声かけてねー、みんなで順番だからー遠慮なしでー」
「ぼくは外で見張ります。最後に使わせてもらいます」
「はいぃぃいいい」
「……一人ずつ、お湯は換えます。ごゆっくりどうぞ」
ふい、と顔を背けたカルゴ君は、広げた物資の元へ走っていく。
「……あー、えー、入りまーす……」
もうどうすればいいのか分からなくなって、盥風呂手前でシェダールお養父さんに下ろされたわたしは、這うようにして麻布を潜った。
結論。
あったかい盥風呂は、すごかった、です。
髪が、頭がさっぱりです。
お湯が濁りました。
石鹸、中々泡立たなくて擦ってたら小さくなりました。お代払わせてください。って、お湯は幾ら払えばいいんだろう。
もそもそ服を着て足を拭いて、踏み乗って湿った靴を履こうとしていたら、キリャちゃんが来ました。
「これねー、≪整え油≫っていう≪群立≫や油菜の種実の汁と水ー。顔と髪に薄く広げて塗るのー」
見たことのない細い木筒──コップに似てる。リーシュの木かなあ──をぶんぶん振ってから掌に出して、濡れ髪に揉み込んでくれました。
顔や手にすり込むと、お肌がぴかぴか、つやつやです。ミントの匂いもして、なんか、なんかすごい。
「お幾らですか、あの、お湯と石鹸と、油」
「うーん、これは輸送依頼のついでなのでー、代金はもらえませんー」
魔法のお湯と美容品がタダでした。すごすぎる。わたし平民どころか流れ人なのに。
「出ましたー」
キリャちゃんと並んで麻布を潜り出ると、物資の山は半減していた。クード君が、家からぺたんこの布や服の籠を持ってきて、荷車に積んでいる。
長柄鎚を携えたワーフェルドさんが、柵壁の前に立っていて。
シェダールお養父さんは、何故か広場で椅子に座っていた。爪を、草で擦りながら。
「?」
「シェダールさんの髪切ったの。どうかなあー」
「すごい」
もっさりした髪が短く刈られていて、額が露になっている。ひげも少し短く揃えられていて、よく似合っていた。
「キリャちゃん、ありがとう。お義父さん格好良くなってる」
「ふぇ、あ、ありがとー?」
「出たか」
こちらを向き、立ち上がったシェダールお養父さんが、やって来る。
即席風呂へ向かい、相当重いはずの大盥を担ぎ上げ、そのまま崖に向かい、汚水を豪快に撒き捨てた。
素っぴんになっていたので、家へ急いだ。白粉も銅磨鏡も、背負い袋の中だ。
開けっ放しの戸から入ると、土間の樽に水を満たしていたカルゴ君と目があった。
「……」
「あ、ごめ、見ないで」
慌てて顔を隠して、靴を脱ぐ。板部屋に上がって背負い袋を掴み、窓の方を向いて白粉を塗った。
すっごく乗りがいい。キリャちゃんありがとう、後であれ、幾らで売ってるか訊こう。
「あー、俺は、盥に水を、湯のもとを、張りに、行き、ます」
凄い変な声でそう言ったカルゴ君が、ばたばたと出ていく気配が伝わる。
ううう、髪も下ろしてるし濡れてるし、そばかすだらけの素っぴん見られた。恥ずかしい。
□ □ □
夕方、さっぱりした全員で家に入って、床の上で揃って同じごはんを食べる。補給隊の四人は自前の食器を持っていて、流石だなあ、と感心した。
「──にしても、大変っすね。一年中この臭いって」
匙を手にしたまま、クード君が鼻を鳴らす。
「虫除けの護身香、と言っても確かに」
入国前に持たされたがぼくは正直苦手だ、と呟くワーフェルドさんは、外にいた時より厳しい顔だ。
「慣れだ。命には換えられん」
「わたしも慣れました」
シェダールお養父さんに、同意する。モンスター、じゃないホブなんちゃら対象でないただの虫よけ、と聞いてるし、そこまで酷いとは思わない。
「俺たちは堆肥に慣れてるから」
「だねー」
カルゴ君とキリャちゃんは、農家出身だそうだ。なるほど、そういうのもあるかもしれない。
「鞣し液の臭いは苦手なのになぁ」
「そっちが平気なクードが変なのよ」
「慣れだって」
「そうか、なら農家組合に繋ぎがあるな」
シェダールお養父さんが、親指でわたしを指す。
「オーシャは舞芸神の聖詠女だが、黄赤の花を育て加工できる技術者だ」
「あの、白粉も作れます」
わたしは空になった器と匙を置くと、背負い袋から化粧品一式を取り出した。
「この種を蒔いて摘んだ花で、こっちの翠紅を作れます」
「翠色だ」
ワーフェルドさんが手を伸ばし、胡桃殻を摘まんで中を凝視する。
「なのに紅?」
「水でのばすと、こう……」
ちょん、とコップの水で小指の先を濡らして、胡桃殻の内を撫でる。唇に滑らせた。薄く色付いているはずだ。
「……すっげ」
「きれいー」
注目され、顔が熱くなる。
「ねえねえオーシャさん、白粉ってのも花から?」
「リーシュで採れるか分かりませんが、こういう軟白岩を、崩して擂って粉にして」
白っぽい灰色のひとかたまりを小袋から出せば、クード君が目を見開いた。旅空では削って、直接筆に乗せてるけど、色んな店では擂り鉢借りてたなあ。
「……これ、≪粉石≫だ!」
「ご存知ですか?」
つ、と軟白岩の表面を指で確かめ、クード君が驚いた顔で頷く。
「脆いし手が粉だらけになるし、石切場でこれに当たると煙みたいに舞って、厄介石なんて呼んでるぜ。うちの裏手に幾らでも転がってる」
「買います! これを塗ると女性が綺麗になります!」
「よっしゃ売った! つーかマジか、石工組合に話通さなきゃやべーやつだな!」
いきなり意気投合して、わたしとクード君は握手する。うわああ、早速仕事が一つ確定したわ! これでリーシュで生活できる!
きらきらしてる剥がれ石も、特徴を伝えたら、あるっぽい。こっちは売り物だと言われたけど、主原料の軟白岩が超安価なら問題はないわ。
酸桃がないと翠紅は作れないけど、どうにかしてみせる!
「キリャちゃん、顔貸して!」
「んえっ?」
「白粉と翠紅の力、見てもらいたいの! 石鹸とお風呂と油のお礼もあるし!」
□ □ □
「キリャ、きれいだ」
「お前本当にキリャか?」
「ほう」
「……っ」
男性陣の反応は、四者四様だった。
素直に賞賛するワーフェルドさん、びっくりしてるカルゴ君、感心するシェダールお養父さん、と。
「……っー!」
なんか、真っ赤になって面白いことになってるクード君。キリャちゃんを見ては目を反らし、また向き直って突っ伏して、変な呻き声を漏らしている。
ははーん、さてはあれだな。君はキリャちゃんのことが好きなんだな。今、胸がドキドキして「好きだー!」って気持ちでいっぱいなんだな。
うん、正しい恋だ。話に聞く恋の症状だ。こういうのが恋だな、いいなあ、頑張れ。
「……すっごーい……」
銅磨鏡を渡したキリャちゃんは、周囲の反応より映る自分に夢中になっている。元々可愛い顔立ちだったけど、今はわたしの手で艶っぽさ増し増しだ。ふっふっふ、同盟国家群の姐さんたちを彩ってきた腕がここで役立ったわ。
あ、でも。
「ええと、これがわたしの仕事と言うわけではなくて」
「まだあるの!」
キリャちゃん怖い。
「……本当は、舞芸神様の聖詠女です。神様の教えの歌に合わせて踊るんです」
「どんな神様なの!」
キリャちゃんの勢いがすごい。今ならうっかり入信してもらえるかも、なあんて悪い考えが過るが、わたしはシェダールお義父さんに話したように、真面目に教義を説明した。
途中で、ランタンが必要になった。
わたしが出した銅板ランタンは、三人にすごく珍しがられました。ワーフェルドさんは、何故か胸を張ってます。なんで?
お養父さんは驚かなかったのになあ、と横目で見たら、知らん顔された。
「ぼくはいい神様だと思う」
「そうだろう」
創造神と戦の神しか知らない、と言ったワーフェルドさんは、そう返してくれた。シェダールお養父さんが腕を組んで頷く。
「ぼくはパンを食べたら幸せだし、アーガさんと一緒だと楽しいし、アーガさんが笑うと嬉しくなる」
いや、知らない女性の名前を連呼されても、困る。
「笑顔は大事。パンと同じくらい大事です」
この人、よく分かんないわ。恋人とパンが同じくらい大切、ってこと?
「美人の笑顔はありがてえし、美人が増えるのもおれは大歓迎だ。けど男が笑っても、誰か得するか?」
「女が嬉しくなるわよー」
「……そうか?」
「そうよー」
明後日向いてるクード君に、キリャちゃんがぴかぴかの笑顔を向けている。あれー、なによー、キリャちゃんそうなのー、なーぁんだ。
いいなあ、頑張れお二人さん。
「リーシュは創造神信仰が一般的です」
カルゴ君は、落ち着いてる。
「国を護る風魔法が盛んで、そこから風の神様を祀る祠が建ちました」
「うんうん……え、風の神様?」
「それぞれの魔法使いが、水の神様、火の神様、土の神様、木の」
「──ちょ、待って!」
慌てて制止する。
「そんなに大勢、信仰する神様がいるの? 教義はどうなってるの?」
あと魔法使いが信仰するのは、魔法司の神さまじゃないの?
「教義……」
と、ワーフェルドさん以外の全員が考え込む。
「汝の舞芸神のように、生き様を示唆するのは創造神様、だけか」
「え」
シェダールお養父さんの言葉に、ぽかんとする。
「どの神様も同じよねー、今日も火魔法使えました、ありがとうございますー、明日も頑張って生きますー、って」
「ん、風の神様もそんな感じ」
「水の神様もそうです。というか、うちは農家ですから、創造神様にも土の神様にも、同じように感謝してます」
「……あれー?」
どうしよう、わたしの中の常識が、音を立てて崩れていく。そんな、同時に複数の神様を信じるのって、ありなの?
……ありなのね、うん、それがリーシュなのね。
馴染めるかなあ。
うんうん唸っていたら、シェダールお養父さんに肩を叩かれた。
「我は舞芸神、様を信じよう。風の神様も、創造神様も、人を愛し、護る偉大なる存在だ」
「いいの、かなあ」
「他の神様を信じるな、なんて言わねえだろ。神様って」
うーん、そう言われたらそうだけど。
「お化粧も笑顔も、素敵だと思う。いい神様よー」
「……排斥、されない?」
「なんでー?」
にっこり笑われて、力が抜けた。
「オーシャさんも舞芸神様も、優しくて素敵じゃないー」
「ぼくはパンの神様もいると思う。笑顔の神様と、きっと仲良しだ」
いや、ちょっと待ってそれは聞いたことないし、違うと思う。
「……難しく考えず、入国の際に王様に話すといいと思いますよ。リーシュ唯一の『奇跡』の使い手ですし、黒、じゃない、えーと、宰相様は博識ですから」
「え、王様は神官様なの? 大神官様?」
全員に不思議そうな顔をされたので、わたしは床の上の器で説明を試みた。