西の果てから‐踊る聖詠女 Ⅲ
□ □ □
その日はもう一つ、山道を登ったところの石柱香炉、の手伝いをしたところで、家に返された。
足を治すのが先、と言われたので。
シェダールおじさんは山道の石柱香炉を幾つか、毎日見回ってホブ……フリオ、スメルジャ、の交換をしているそうだ。
そしてその先にある、別の関所の衛兵と話したり、山道の路面の整備をしたり、をするらしい。
ひび割れた岩肌から落ちた石を集めることもあれば、東側の崖が崩れ危なくなっていないかを確かめるとか、色々なこともするらしい。
二番目の関所小屋の近くの岩からは、飲用に適さない水が湧いているそうだ。金臭くて、飲むと腹痛と脱水を起こすらしい。
トイレ用の樽や桶の水は、それを汲んでくる、とのこと。
この山に、関所やトイレは幾つあるんだろう。
「家の中なら安全だ、自由に休め」
そうお許しが出ていたので、ここぞとばかりに探検する。
土間に置かれていた麻袋の中身は大麦、黒っぽい塩、薄黄色のまんまるな豆、瓜みたいなもの。今朝食べた豆はこれを、一晩水で戻したものっぽい。
棚の小さい籠は干し肉──だけど、羊じゃない匂いだ。豚でも鶏でもない。あとなんだっけ、山羊かな猪かな。もしかしたら牛だったりして。だとしたらすごい贅沢品だけど、リーシュでは普通、かもしれない。
干し野菜は刻まれていて、葉物としか分からない。≪波茸≫は判別できた。白いから驚いたけど。
塩漬けキャベツの壺は、落とし蓋が底に着きそうになっていた。
棚には謎の箱があって、中には粉が入っていたのでちょっぴり舐めたら、少ししょっぱくてすごく美味しかった。これなんだろう。あとで訊こう。
黒っぽい瓶の中身は液状の油で、大樽の中身は水だった。わたしの布や食器を洗うのに使っていたっけ。
水は寝台のところの瓶と、土間の大樽、覚えておこう。
包丁はあんまり使われてないみたいで、少し錆びていた。
鉄だ。
「わお」
びっくりして見渡せば、竈の鍋も傍らの火掻き棒も鉄だった。もしかして他にもあるかも、と家探ししたら、板部屋の棚にあった針も鋏も鉄。
扉の外に立て掛けられていた槍、に至っては柄まで丸ごと、鉄製だった。
槍は重くて持ち上げられなかった。
見慣れた銅製のものがない。
ちゃんと全部元通りに戻して、椅子に腰掛ける。
リーシュの町に行ってから、鉄がいっぱいあっても驚かないようにしよう。
衛兵さんだから鉄の普段使いが許可されてるのかもしれないけど、それにしても銅鍋がないのは違うと思う。
畳まれた衣類が入っている籠を、椅子から見下ろした。どっちからも寝台や、シェダールおじさんの匂いがする。多分どっちかが使用済み、なんだろうけど、よく分からない。
棚から木の板を取り出してみたら、疎らな日付と出入国者の仔細が刻まれ、炭で黒く上塗りされていた。
月と日の順が逆だけど、これがリーシュ流なんだろう。神殿で文字を習っていて良かった。
「……あれ、暦がない」
壁や棚を見渡しても、ない。
扉にも、窓の突き上げ戸にも。
どうでもいいけど、突き上げ戸の外周は段になっていて、棒を外すと窓枠にぴったり嵌まって動かないようになっていた。棒は布戸の下枠に刺せるようになっていて、強風にも隙間風にも強そうだ。
ええと、窓じゃなくて暦。
農家や町家にはないのが当たり前だけど、役場や商家、酒宿にはある。出入国記録を残す関所なら、あるに決まっている。
外だろうか、と靴を履き直して出てみるが、家の外壁にはなにもない。干し場に回っても、ない。
柵壁に近付いてみると、あった。思ったより大きな木戸の筵をめくると、板格子が入った小窓と暦板が一枚。三の月のものだ。
「……二十七日」
二十六までの焼印数字は、薄く削られているから、今日は二十七日。一月は二十八日で終わり。
うん、同盟国家群と同じだ。
十三の月は二十八日ずつ。
≪時暦局≫が一の月に、その年の「冬の祭日」期間を発布する。祭日が終われば年が改まり、春が来る。
今年は一日か二日か、どっちだろう。リーシュにも時暦局があるのかなあ。祭日はどんな感じなんだろう。
というか、わたしが東の砦町を出たのが三の月の十九……ん?
えーと、五日歩いて、あれ、四日半?
それで今日が二十七、で、昨日起きて二十六。
──わたしって、二日か三日、ぐーすか寝てたの?
え、確かに寝ずに歩いてたけど、だからって、そのあと延々ぶっ通しで眠れるの?
ちょっと混乱したので、他のことを考えようと、板格子の小窓の向こうに目をやれば。
柵壁の木戸から鬱蒼とした森へと、踏み固められた小道が続いていた。
起伏があるので、森の入り口、だか出口だかは見えない。柵壁の外からなら、見下ろせるかもしれない。
けど。
「……出たくないし、出ちゃダメだし」
謎の大合唱を思い出して、背筋が寒くなる。
うん、やだ。
森を覗くためだけに、ここから出ていくのも絶対やだ。
わたしを拾いに出たシェダールおじさんは、すごい。
石小屋も覗いてみた。
ホブフリオ、スメルジャがあると思って戸を開けたら、なんだか物凄い臭いがしてびっくりする。
鼻を摘まんで中を窺うと、壁に小さな窓があって、家と同じように薄布が張られた木枠が嵌められていた。少しの埃が、照らされながら舞っていた。
中は木箱が積み重ねられていて、蓋をずらしたらホブフリオ、スメルジャが入っていた。五つずつ、四列。箱の内側に黒い跡が付いていたから、元はここにぎっしり詰まっていたんだろう。
大きな袋には、ホブフリオ、スメルジャの灰がまとめられていた。
別の箱の蓋を開けたら、ホブフリオ、スメルジャより強い臭いがした。この小屋の臭いの元はこれだろう。急いで蓋を閉めたら、少しだけマシになる。
他には、細い丸太がたくさんあった。柵壁と同じ赤っぽいもの、ありきたりのもの、見たことのない節がある細い緑のもの。知らない木が、たくさん。
よく乾いていて、手斧もあったから薪になるんだろう。箒、手桶、工具や農具もある。
どこかに他の月の暦板があるかと思っていたら、一枚もなかった。
小屋を出る。
あーびっくりした。
山道を吹く風が、清々しい。広場の辺りまで離れると、鼻の調子が戻る。
「……あ」
あの小屋の臭いを薄めると、シェダールおじさんや寝台の匂いになる、と気付いた。ホブフリオスメルジャ以外のあの臭い箱の中身は、多分、この山で必要ななにかなんだろう。
一通りの好奇心が満たされたので、家に戻って靴を脱ぐ。
扉の横に下げられているランタンは大きな窓硝子が嵌められていて、見たことがない模様入りだった。贅沢品だと思うが、お洒落だ。
ってか、こんなに大きい四角い硝子を見たのは、生まれてはじめてだわ。硝子って円窓以外もあるのねえ。
椅子に座って、背負い袋の荷を広げた。空の水樽は昨日出してから、床の上だ。保存食は全部、シェダールおじさんに渡しちゃったし。
朝、じゃない昼に使った白粉の残りと栗鼠筆と銅磨鏡、翠紅の入った胡桃の殻が五つ、黄赤の花の種の包みには≪酸桃≫の種も一つ、小さくなった軟白岩のひとかたまり。
大杖から外した覚えのない、穴だらけの銅板ランタンは、布で包んである。銅屋根が歪んだのを打ち直されているけど、シェダールおじさんの仕業だろう。お礼を言わなきゃだ。
空に近い油壺も、無事だった。ランタン同様、漏れても染みになっても、いない。
服を、着替えてみた。
いやだってこれ、八日も着たきりだ。絶対臭い。一人きりだし、と下履きも替える。
洗濯したいけど、居候が勝手にざばざば水を使っていいとは思えない。顔は拭かせてもらったけど、町に入るまでは垢のことは忘れることにしよう。
畳んで、背宛代わりに詰めていた麻袋に入れて口を折っておく。
あとは大したものはない。火口箱、細いロープ、予備の拭き布、小鉈とナイフ、あれ、そうだ、大杖はどうしたんだっけ。
そう言えばどこにもない。森を抜けて倒れてたなら、近くにあったはずだ。
シェダールおじさんは勝手に捨てたりしない、だろうけど、杖と気付かず薪にされたりしてないだろうか。
□ □ □
あの大杖は、東の砦町で武装紹介の人に勧められて買ったもの、の一つだった。
独りで行くなら、せめて頑丈な杖を持て、と言われたから、町の道具屋で探したのだ。
「とにかく頑丈なやつ下さい」
そうしたら出されたのは、緑がかった大杖だった。とにかく硬くて、買ったはいいが加工が難しくて、磨いて杖にしかできなかった、という逸話つきの。
「もう邪魔だから安くしておくよ」
とは言われたけど、銀貨が吹っ飛んだ。元値は幾らだったんだろう。
撫でただけで買ったのは間違いだった、と気付いたのは、支払いを終えて渡された時だった。
びっくりするくらい重くて、片手で受けたまま倒れかけたのだ。今考えたら、シェダールおじさんの鉄槍よりはずっと軽かったんだろうけど。
両手で衝いたら、まあどうにかなったし、今更他の杖を買う余裕もない。渋々森抜けのお伴にした大杖は、でも確かに頑丈だった。
わたしが思い切り縋り付いても、びくともしなかった。重さを恨んだりもしたけど、折れる気配のない硬さは、心強くもあった。
□ □ □
慌てて土間の薪を見たけど、あの緑がかった色はない。小屋の丸太を思い出しても、なかったと思う。
倒れた時に転がっちゃったんだろうか、でもランタンはあるし。シェダールおじさんが帰ってきたら、尋ねなきゃ。
溜め息を吐きながら俯いたら。
「……あるし」
寝台の足の横に、ちょこんと薄汚れた石突きが見えた。おのれ、そんなところに。
ってか、シェダールおじさんに洗われたっぽいなあ。ううう、お気遣いありがとうございます。
屈んで寝台の下から引っ張り出せば、ずるずるとあの重い長さが現れる。
ううん、わたしの動揺を返せ銀貨二枚。
今日からあんたの名前は「銀貨二枚」よ覚えておきなさい。
日が暮れる頃、シェダールおじさんは帰ってきた。
わたしは銀貨二枚を抱えて、床の上で寝ていたらしい。
「大事な杖なんだな」
高かっただけです。
□ ■ □ ■ □ ■
翌日は、ちゃんと朝起きた。
昨夜、シェダールおじさんが炊いた塩がきいた大麦粥の残りを一緒に食べて、刻んだ塩漬けキャベツを摘まんだ。しょっぱ酸っぱいのって、美味しいよねえ。
足の腫れが引いていたので、包帯を外して洗い、石柱香炉の手伝いに行く。
生まれ変わった靴は絶好調で、足取りも軽い。
「シェダールさん遅ーい」
「おっさんを労れ。あと余り離れるな」
「はーい」
ぴょこぴょこ戻ると、また謎の言葉を呟かれ、笑われる。初対面の強面が嘘みたいに優しくて、くすぐったくなって、わたしも笑う。
山道の風は柔らかくて、なんだか嬉しくなった。
「おっさんはーあんなにすごく槍を回せないと思いまーす」
「オモイマース」
「だから違うって!」
「チガウッテー」
「もう!」
……やっぱり、お父さん、みたい。
くだらない言い争いが楽しくて、笑ってくれると嬉しくて、わたしを子どもみたいに甘やかしてくれる。
強くて大きくて、優しくて、白髪をちょっと気にしてて──昨夜、何気なく言ったら落ち込んでたから、もう言わないと決めた──いっぱい話せて、全然怖くない。
「モンスターは、三つ。蟲がホビュゲ」
「ほびゅげ」
「鳥がホブリド」
「ほぶりど」
「獣がホブリフ」
「ほぶりふ……みんな頭がほぶ? ほびゅ?」
「非ざるもの、という意味だ」
色んなことを教わって、少しずつリーシュのことを知っていく。
「創造神はすべてを創り給う、だが数多の神々もまた、創造神の愛し子である、と聞くな」
「はい、わたしが崇める舞芸神様も、その一柱である、とされます」
「ならば弾圧は筋が通らぬ。我にも分かることが、何故ブレサウィズの民には」
「金銭と権利が」
「ならばその者共が、創造神の名を騙ったことになる」
あちらの神殿が、分け前欲しさに結託した、と考えてた。でも言われてみたら、そうかもしれない。
「創造神の神官は、慈悲を遍く分け与える。子神の信徒を徒に虐げるは、教義に悖るであろう」
「リーシュにいらっしゃるんですか」
「神殿はないがな……ああ、神殿は知っているぞ。絵図で見たことがある。石造りで彫刻があるのだろう」
「うちには彫刻はなかったですねえ、神殿酒場はありました」
麦酒と葡萄酒、蜂蜜酒。蒸留器を使った、薬酒。
どのハーブを組み合わせて麦酒や薬酒に使うかまでは、教えてもらえなかった。大人になるまでお勤めしていたら、秘伝に触れられたかもしれないのに。
懐かしむ口調で返すと、気付かれたのだろう。
「オーシャはそこで踊るのか」
「聖詠者は……えっと、奏士みたいに神殿酒場や祭事で楽器を演奏する役割です。わたしは聖詠女、歌い踊る役割でした。教典の一節を聖歌にして……」
もう、誰も残っていないだろう。
神殿は潰されてしまったのだから。
わたしが脱出して一年経たずに。
捕縛されたみんなは、農奴か貧民に落とされたと隣国で聞いた──命があっただけマシと思うのよ、そう言ってくれた娼婦の姐さんは、元気だろうか。
みんなも、いや、きっと大丈夫だ。生きていればきっと。
「楽士ではないのか」
「神殿では歌いながら奏でる人はいませんでした」
神殿の外にいることは知っていたし、組んで日銭を稼いだこともあったなあ。器用じゃなきゃできないよね、あれ。
わたしは楽器を奏でられないし、東の砦町のあの楽士のような歌や歌い方を知らないし、考え付かない。聖歌を封じられたら、踊るしかなかった。
旅はいい思い出ばかりじゃないけど、悪いことばかりでもなかった。
今ならそう思える。
そんなことを話しながら、そよ風の山道を登る。
途中で息が切れて、背負われてしまった。
だけど静かだったのは、山道を下る途中までだった。
□ □ □
人の声が、聞こえてきた。怒鳴り声だ。柵壁の、向こうから。
「オーシャ、家に入れ。物音を立てず、出てくるな」
シェダールおじさんに下ろされ、石柱香炉の荷をまとめて渡されて、わたしは頷く。
リーシュへの入国希望者、だ。
わたしが立ち会っていいことではないのだろう。
急いで家に入ろうとすると、シェダールおじさんは外壁に立て掛けてあった鉄槍を手にして、柵壁へと向かっていた。
わたしは扉を閉め、靴を脱いで板部屋に上がり、寝台に荷物を置くと、棚から木の板を出す。
十三日、武装商会、これは出国管理の方だ。入国管理の板はどれだろう。
今月か先月の日付と、武装商会と記載された板をそっと探す。あった、先々月。
一の月、二十四名。黄色一名、緑一名、ってどういう意味だろう。
刻字に炭を塗り込まれているから、と靴をつっかけてひょこひょこ竈へ向かう。使用済みの若蓬と水で消されて湿り気がある灰の隅、使えそうな木炭を拾った。
声と様子だけでも聞こえるか、とそのまま扉に寄ると、嫌な声が聞こえてきた。
「吾こそは至高神の信徒なり! 無知蒙昧な未開の蛮族どもに真の教義を与えに参った! 平伏して道を開け!」
──うわ、なにそれ。
金属と硬いものが擦れる音がする。鞘走り、だ。
嘘でしょ、国境衛兵であるシェダールおじさんに向かって、剣を抜いてる?
「何処より参らん」
あ、シェダールおじさんが厳しい声してる。絶対、不機嫌だ。
そりゃそうよ、いきなり刃を見せて蛮族呼びとか、失礼極まりないわ。
「なんだその言いぐさは!」
「まあ待て、ふん、言葉遣いだけは大仰だな……斯様な貧弱な木柵程度に頼る者、吾等の敵ではない、これで通じるか?」
嘲る笑い声、一、二……四人、かしら。酒に焼けた、傲慢で品のない、貧しさが滲む口調だ。
だけど気付いてしまう。
同盟国家群から来て、初見でシェダールおじさんに近い言葉遣いを真似られるのは、最初のあの口上は、神殿教義を学んだ経験がある身か知識階級者だ、と。
嫌な音がする。
ぶぅん、ぶぉん、と得物を回す音。がり、と柵壁に当たったのか削ったのか、そして笑い声の合唱。
なにがそんなに自慢気なのか、分からない。
シェダールおじさんの鍛練を見ていたから、入国者たちの稚拙さが音だけ知れた。全然、滑らかでも律動的でもない。
わたしが銀貨二枚に引っ張られたみたいに、得物の重さに負けて無駄足を踏んでる、と気付けた。
「何処より参らん、リーシュに何用だ」
「さっさとこの戸を開けろ!」
「……吾等は至高神の啓示により、西の大国より参った。東の辺境未開の地に向かい、崇高なる教義と高潔なる叡智を授けよと」
要らないわよ、とわたしは口を歪める。
第一、至高神という名の神はいないわよ。怪しいわ。
「心得た。名も無き神の信徒五名、布教の意図で入国を望む、と。靴裏の土を落とし、参られよ」
「え」
入れちゃうの?
シェダールおじさん、そんな無礼者、いいの?
「うむ、道理の分かる頭はあったか!」
「ないだろうが、決めごとを繰り返すだけの能無しだろ」
「おい、さっさと開けろ!」
柵壁の木戸が軋む音、どかどかという足音に、ぶつかる響きが続く。
「なにやってんだ」
「狭ぇんだよ」
「おい、荷車が通れねえだろうが!」
え、なに、荷車を牽いてきたの。無の草原と、あの蟲の森の中を?
うわあ、無茶苦茶だわ。
「くそ、おいどうにかしろ!」
見えないことに苛立って、わたしはそうっと扉を細く開く。
「荷を外し横に倒せば通る。だが先ずは、靴裏の土を払い落とせ」
「ハァ?」
「おい巫山戯んな!」
ギャアギャア喚く入国者たちを無視して、シェダールおじさんは小屋に入り、手箒っぽいものを手に戻ってきた。
戸を薄く開けて相手に手渡すが、作業が終わるまでは中に入れるつもりはないらしい。
「……糞が」
毒づきつつ、従ったらしい男たちが入ってくる。一見、立派な「武装神官」──のような、破落戸紛いの連中だった。
二人、柵壁の木戸から先に入り込んで、シェダールおじさんの背後に回ろうとしている。
薄汚れた銅の甲冑に鉄剣、泥と、返り血にしては青っぽいもので染まった外套。こちらに向けた背面には、染め抜き紋章がある。
剣と槍と斧が重なった、≪戦の神≫のしるし、だけど。
中央に、穴をあけた円い銅貨が縫い付けられている──あれは過激派だ。
安価で野盗や害獣を狩る代償に、最寄りの村や依頼人の家に気が済むまで居座り食い潰す。
ひゅっ、と背筋が寒くなる。
中部の国の、寒村。
秋口に野盗に畑を焼かれ、雪崩れ込んできた過激派に荒らされ、飢餓で人死が出た、村。
国の衛兵でなく、武装商会の来訪を知り、逃げたと聞いた。
わたしが連れて行かれた時に見たのは、武装商会の数人が残り、炊き出しや再建を手伝う姿で。
痩せた村人と一緒に蕪や豆を植え、黄赤の花畑も作って、害虫と戦いながらどうにか夏を越えられ、小麦を収穫できた。
それまでに二度、物資を運んできた武装商会は、東の砦町で出会った人たちではなくて、でもあの隊長さんたちの知り合いで。
あの村から、わたしは結局離れた、けど。
ダメ、そんな連中、通したらリーシュがろくなことにならない。
危ない、と声を出そうとしたら、シェダールおじさんはこちらに背を向けたまま、左手を上下させた。掌を下に向けて、ぽんぽん、と幼子の肩を叩くようなかたち。
──わたしは出てくるな、って意味かな。
ふっと、恐怖が薄れる。
「手伝おう」
と、シェダールおじさんはつっかえてる荷車に歩み寄ると、柵壁に鉄槍を立て掛け、あっという間に荷を固定する縄を解いた。
樽や麻袋、木箱を素早く下ろし。
車輪にも、投げ捨てられていた手箒を拾って、使い。
破落戸どもが呆然としているのを尻目に、片手で荷車を斜めに倒して、引き入れる。
そしてさっさと荷車を戻し、荷を積み上げ、元通り縄をかけた。隙間になにかを突っ込んだように見えたけど、見間違いかな。
いやあの荷車、随分ぼろっちいけど村の集落ごとで使う二輪台車じゃない。あんなものどこから盗んできたのよ。
ってか、あれを牽きながらあの森の坂道を進めたって、力だけはあるみたい。
「……おう、力は、ある、ようだな」
「人並みには」
「ま、まあそれなりに、でかい、ようだな」
「そ、そら、入国税だ」
下衆な笑みを浮かべた男が、広場に貨幣を投げ捨てる。あまりの行動に叫びそうになったが、自制した。
あそこにわたしが出ていっちゃ、いけない。そう思って、歯を食い縛る。
「金子は不要だ」
シェダールおじさんは表情を変えず屈み込み、拾った貨幣を投げた男に差し出した。
あの色は、銅貨だろう。って、幾らなんでも銅貨で国境越えられるわけないじゃない!
「──はっ!」
「忠僕のつもりか、物知らずが」
男たちは地面に唾を吐き、礼も返さない。
「ならばその金の分、水と飯と酒を寄越せ」
「売るものはない」
「井戸くれえあるだろうが!」
ないわよ! と怒鳴りたくなるのを我慢する。あと銅貨二枚で買えるわけないでしょ、と地団駄踏みたくなる足も、抑える。
東の砦町でもあんたら全員分の水と保存食を揃えるなら、銀貨二枚でも足りないわよ!
「この先に宿営地と湧き水がある」
……ん?
指を洗う以上はできない、飲めないって、言ってたやつかな? トイレ用の。
「つっかえねえオッサンだなあ、おい!」
「まあ、こんなくっせえオッサンからじゃ、ろくなメシもねえだろ」
「違ぇねえな」
クズ野郎が、シェダールおじさんから銅貨を引ったくった。
「山降りりゃ町があるんだろ、こいつら売っ払って豪遊しようぜ」
「おうよ」
バンバン、と木箱を叩いて別のクズ野郎が笑う。ちょっと、なに入ってんのよ。
ってか、あいつら随分傷と汚れが多いわね。この距離でも、虫刺されの赤みが見えるわ。
……わたしも、あんなに汚かったのかな。でも、あんな腫れはなかったわよね。どこかが痒くなった覚えもないし。
「持ち込みは水と携帯食、モンスター素材か」
「おうよ、見たらオッサンちびるぜ」
「吾等は無の草原と蟲の森で、襲い来る数多のモンスターを狩った。同盟国家群ならば金貨相当の、な。まあ蛮族どもには価値も分かるまいが」
え? わたし、無の草原でモンスターに会わなかったよね。
蟲の森では取り巻かれてたっぽいけど、でも。
「また行って狩って売ろうぜ、あの砦町のいけ好かねえ連中に」
「ちぃと痒いがな」
「なあ、僻地でも町なら銀貨くれえはあるだろう? 足りねえ分は、酒と女で払わせりゃいいさ」
「砦町の女より臭ぇんじゃねえか」
「洗ってやりゃあいいだろ」
「お優しいこって」
「至高神の信徒は寛大なんだよ」
ゲラゲラ笑うクズどもを、ぶん殴ってやりたい。けど、扉に爪を立てて、わたしは耐える。
「あばよオッサン」
「まあそのうち、荷物持ちにでも雇ってやるよ」
「気が向いたらなーあ」
……歯軋りしすぎて、奥歯が砕けそうだ。あのクズども、東の崖から落ちてしまえ!
うるさいクズどものわめき声が遠のいて、わたしは安心した。いや、このあとの、リーシュのことを思うと、そんな気持ちになるのはいけない。
でも。
「……嫌な思いをさせたな」
鉄槍を携えたシェダールおじさんが、家の扉を開けてそう言った瞬間。
涙が溢れた。
悔しい、腹が立つ、嫌い、そんな感情で、止まらない。
きっと次の関所か、町の入り口かで、あのクズどもはどうにか対処されるんだろう。そう思う。けど。
「なんなの、あいつら」
「うむ」
「しぇだーる、おじさんの、ほうが、つよいのに」
「それは買い被りだ」
「おじさん、りっぱなのに」
「我は臭いぞ」
「りゆう、あるんで、しょ。あの、小屋の」
「オーシャ」
しゃくりあげてると、ぽんぽん、と肩を叩かれる。さっきの、あの手つきで。
「あいつら、戦の神、の、信徒、だけど、違う」
「そうなのか」
「暴れて、奪うの。戦の神、の建て前」
「──騙りか」
うん、と頷けば、肩を強く掴まれる。
「酷い目に、会わされたことがあるのか」
首を振る。
「銅貨、穴あけて、縫い付けた紋章。野盗より、酷かったって。あいつらか分かんないけど、荒らされた村で、わたし、カブと豆、黄赤の花を植えて」
シェダールおじさんの手の力が、弱くなる。
「小麦より先に、花を摘んだの」
「うん」
「翠紅を、つくったの。売ったの、それで、村にごはんが」
「よくやった、オーシャ」
ぎゅうと、抱き締められた。
「汝は立派な娘だ」
「ちがうの、領主が、税を待って、翠紅も、買ってくれて。武装商会の人たちが」
「違わない。汝は人を救う力がある」
……そう、かな。
「騙る愚者には、山が鉄槌を下す」
安堵せよ、と背を撫でられて、やっと涙が止まった。
シェダールおじさんは石小屋から、赤い木を持ってきて、トイレの手洗い樽の中に削り入れた。樽を持ち上げて振り、柄杓でその水を撒く。
あいつらが通った跡を湿らせて、踏みつける。
何度も、何度も。
またなにかを呟いているようだったが、わたしには聞こえなかった。
□ □ □
その日は、一緒に夜ごはんを作った。湿っていた灰はいつの間にか乾いていて、シェダールおじさんの火熾しはやっぱり早かった。
竈の前でも、また不思議な声で呟いてたけど、おまじないなのかしら。
大麦と、干し肉と干し野菜と、瓜を丸ごと使った煮込みは、食感がそれぞれ違って食べ応えがあった。謎の粉の味がふわっと優しい。
尋ねたら、干した魚や貝の身を粉末にして、塩や色々と混ぜたものらしい。臭くないけど、ディルやタラゴンにない辛みがあった。
知らないハーブなんだろうな。山を下りるのが楽しみになる──あいつらは収監されてて欲しい。
「彼の者共には、山越えの護身香を渡さずにおいた。どうせ無事に過ごせまい」
「しるし」
「石小屋を覗いただろう」
わあ、バレてる。ってか、自分から言っちゃってたっけ。
「ホブ・フリオ・スメルジャと、臭いの」
「ホブフリオスメルジャは主にホブリド避けだ。この山々には、他にも居る」
「ほびゅげ?」
もう一つ、ほぶ、なんだったっけ。
「ただの鳥でも、ホブフリオスメルジャは好まない。煙だからな」
「ほぶり、ふ」
思い出して口にしたけど、首を振られた。
「護身香はただの虫除けだ。あの進度では、切実に必要になる場までは、進めまいが」
よく分からなかった。
あれは見間違いだった、っぽい。
遅くなったので、夕食が終わる頃には日が落ちそうになっていた。
シェダールおじさんは扉の横に掛けられていたランタンを持ってきて、竈の熾火を芯に移す。
わたしもランタンを出したら、油を分けてくれたけど、火はくれなかった。
「壺も出せ、満たしておこう」
「家の油がなくなっちゃうよ」
「明後日には、補給隊が来る」
いいのかなあ。
油壺を出そうとして、手伝いになればと出した木の板と炭を机の端に置きっぱなしにしてたことに気が付いた。
なんでごはん食べてる時に見えてなかったのかな、空腹と美味しさで忘れちゃってたのかなあ自分。
いやまあ、香ノ木の札を収めた木箱もずっとあるし、器とコップを二組並べても余裕がある大きさだからしょうがない、と思おう。
「……あ、これ」
「彼奴等を記す必要はないな」
シェダールおじさんは、先々月の日付と武装商会、と書かれた木の板に、明日の日付とわたしの名を、棚にあった彫り刀で刻んだ。
それから、なにも書かれていない小ぶりな板を棚から取り出して、薄く文字を彫っていく。
──我が養女オーシャであると一の兵・シェダールが認む。第二兵団長チューシェ、その娘コディアと共にリーシュの民として住まうことを許されたし。
「……え」
二枚の板に薄く彫られた文言の上を、置きっぱなしにしていた炭の塊がなぞる。
立ち上がったシェダールおじさんは、小ぶりな板だけを持ってまた竈に向かった。脇にあった火掻き棒を炉に突っ込んで待ち、板にその先端を押し当てる。
ぶん、と板が振られた。焼き印を冷ますように。
「山の四つ関と、街に入る前に、衛兵にこれを見せろ」
板部屋に上がりながら、シェダールおじさんはわたしに小ぶりな板を差し出してきた。流れ人であるわたしには分かる。
きっと公紋章付きの許可証、だこれは。
領主ではなく越境商人に銀貨を何枚も渡さなければ、翠紅を十も付けなければ貰えなかった偽造身分証。
わたしがディスティアまで進むために手に入れたあれより簡素で、だけどこれは間違いない本物、だ。
そして文面は。
「……」
「臭い養父は嫌か」
「くさ、くない」
ああ、いいのだろうか。
明るい灯火に照らされたシェダールさんの顔が、滲んで見えなくなる。
「おとう、さん」
どうしよう。
おとうさんとおじさんと、いとこが。
わたしに、家族が。
「……うむ」
「お養父さん」
「泣くな、冷めるぞ」
「う」
頷いたら、涙が煮込みの残りに落ちた。
鼻水じゃなくて、良かった。