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西の果てから‐踊る聖詠女 Ⅱ




 □ ■ □ ■ □ ■ 




 背中が痛くて目が覚めた。

 目に飛び込んできたのは、板張りの天井だ。壁は、漆喰(しっくい)だろうか。木の柱と塗壁は、屋内では違和感がある組み合わせだ。石積壁じゃない理由は、なんだろう。


 そんなことを考えてみるが、首から下が、バッキバキだ。

 腕を回そうとして、肩もガチガチになっていると気付いて、(うめ)く。

 腰が、重い。自由に動かせない。

 奥歯を噛みしめながら、全身を揺する。段々、感覚が戻ってくる。

 少しずつ、腕を上げてみる。手を開いて、握る。足首を、回す。膝を折って、立ててみる。

 ゆっくり横を向くと、素通しじゃない変な木枠の窓が見えた。木の突き上げ戸は開かれていて、外が明るい。

 そっと上体を起こしてみた。

 わたしが横たえられていたのは木製の寝台で、下にはモソモソした枕と……毛皮と、藁詰め布団。

 周囲には、小さな虫の死骸。伝え聞くモンスターっぽくない、見知った害虫。


 布団の上にわたし、その上にふかふかした布、が掛けられていて、更にその上にわたしの外套が広げられている。

 なんだろうこのふかふか、藁より軽い。まさかディスティアの綿?


 布団全体からは、癖のある匂いがした。なんだろう、臭いと思う一歩手前くらいの、ハーブたくさんと、嗅いだことのない何種類かが混じったような。

 でもこれ、わたしの体臭……じゃないよね?

 香ノ木の札とやらはもっと弱くてスッキリしてたし、まだ汗をかく季節じゃないから、あ、でもわたしちょっと臭うかも。


 鼻を鳴らしていて気が付いたけど、着衣の乱れはない。

 胸元の一つボタンは外されていたけど、緩く結ばれたスカーフで肌はしっかり隠されている。結び目が違うから、直されたのは確かだろうけど。

 ボタンに触れる。くるみ布も中身も、別物にすり替えられてはいない、と安堵する。

 靴は脱がされていた。板張りの床の上にも、その向こうの土間にもない。

 どこいっちゃったんだろう。




 室内を見渡せば、三方が漆喰で、扉のある壁は板張りだった。明かり取りの窓は、扉の近くにある。あっちが南なんだろう。

 寝台がある部屋は、扉がある土間から一段高くなっている。側に椅子と、机。

 あ、香ノ木の札が机の上の箱に全部、きっちり並べて置いてある。もうあれを体中に着けなくても大丈夫なんだ、と思ったら力が抜けた。

 そうだ、あの変な声が、しない。鳴き声も気配もない。静かだ。


 机の奥、壁際にはたくさんの木の板が収まっている棚。様々な箱が並ぶ棚もある。

 床の上、寝台の(そば)には蓋をされた水瓶と、上に載ってる柄杓。わたしの背負い袋も、武装商会に買わされた水樽も水袋も、腰袋もまとめてその横にある。


 棚の前の床には、大きな(かご)が二つ。どちらにも服が積んであるのが見える。

 顔を右に向け、寝台の上を少し動く。


 土間には(かまど)と、うんと大きな樽と蓋付き瓶、盥がある。

 薪の小山と作業台。木の器と鍋。麻の袋が幾つかと一回り小さい樽に棚。

 どれが食料で、どれが水や酒だろう。


 作業台の端には、皿に乗った石鹸もある。ブレサウィズとディスティアでは普通にあったけど、間の国々ではあまり見なかった。壺に入った≪柔鹸(じゅうけん)≫ばっかりだったなあ、と思い出す。

 扉の横の板壁にはたくさん大きな釘が打たれていて、幾つかの刃物がぶら下げられている。


 人の住む、家だった。

 トイレは外だろう。




 よいしょ、と寝台から下りて、虫の死骸を寄せ集めてから、掛けられていたふかふか布を畳む。外套を羽織って、裸足のまま二歩、歩いて気が付いた。

 わたしの足は包帯だらけで、若(よもぎ)の臭いがしていた。

 足全体が重いけど、足裏の痛みは弱くなっていた。


 土間に下りたら、この包帯を汚しそう 。どうしようか、と悩んでいたら、扉が叩かれた。

 はい、と返事をしたら、銅貨色のもさもさひげのおじさんが入ってきた。手には小さい籠、そしてわたしの靴がある。


「無断で奪った、謝罪致す。だが修理を行いし」


 おじさんは土間にわたしの靴を置いた。綺麗(きれい)に洗われていて、爪先横に当て布が継がれていた。

 びっくりして近寄って持ち上げると、()り減っていた木底が新しくなっている。おじさんと靴を交互に見ると、ちょっと目を細められた。


「木釘を抜き底を脱し、洗浄した。木を成形し新底を作製し、打ち直せし。破れを(つくろ)えり」


「すごい」


 新品とは呼べないけど、十分綺麗だ。当て布も、葛布(くずふ)じゃなくてつるつるの麻だ。うわあ、どうしよう。


「単身で、蟲の森を踏破した汝は素晴らしい」


「ありがとうございます、あの、足の手当ても、ですよね。寝台も使わせていただいて」


 慌ててぺこぺこ頭を下げてお礼を述べれば、おじさんは少し間をおいてから首を振った。当然のこと、とでも言うように。

 集めていた虫の死骸を、見留(みとめ)たおじさんが掌に乗せる。靴を突っ掛けて土間に下り、竈の焚き口に捨て、振り返った。


(かわや)と食事、どちらを望む」


 ……かわ……あ、トイレか。どこかの農村の長老が、そう言ってたっけ。

 って、ちょっとそれを一緒に尋ねるのは、どうかと思うけど。



 □ □ □ 



 ひょっこひょっこついて行ったのは、外だ。振り返ると不思議な家は、外も漆喰塗りで木皮()き。

 その横には、()け反るほど高い岩壁がある。縦に幾つもひび割れていて、崩れ落ちないか怖くなる。こんなに大きな赤い岩の連なりは、見たことがない。

 家の扉と明かり取りの窓が、南向きの壁にあるんだから、家の左側にある怖い岩壁は西に位置するんだろう。


 岩の逆、家の東側は乾いた山道に面していた。無の草原や蟲の森、のような土の色じゃない。赤っぽい砂と石が目立つ、荷馬車では難しそうな幅と傾斜。

 弱い風が通る山道の先へ顔をやると、ぽつぽつと、穴の空いた石造りの、変な柱が建っていた。

 周囲にも道の先にも、木や草が一本も生えていない。赤っぽい岩と石だらけで、家の前はちょっとした広場みたいに開けていた。

 幾つか路面が黒くなっているのは、焚き火をした痕跡だろう。


 改めて家から出た正面、南側へ向き直れば。

 西の岩壁から広場の端、その東、崖っぷちまで、細い丸太でできた高い柵が設けられていた。隙間がないので、壁のようだ。

 広場の向こう、柵の真ん中へんには木戸があって、小さな(むしろ)が下がっていた。多分あそこは窓かなにか、だろう。

 柵壁の向こうで倒れていたわたしを見付けてくれたのは、窓越しか、木戸を開けた時、だと思う。



 家の横、柵壁までの間には、石造りの小屋があった。こっちは屋根以外全部、石だ。なんでだろう。


彼処(あそこ)を使え」


 おじさんは東の崖っぷち、柵壁から少し離れたところにある、屋根だけ木でできた石造りの小屋を指した。外に樽がある。

 ひょっこひょっこ追い付いて、樽の隣の扉を開けると、トイレだった。多分。


「……」


 座面がくり()かれた石の椅子、の下は──ええと、床に穴が、その下は、なーんにもなくて、覗くとなにやら痕跡のある斜面と、かなり下に灌木、更にその向こうに森のてっぺんらしき緑が見えますが。


「用足し前、穴に灰を()け」


 椅子の横には、桶が二つ。一つは灰が入っている。


「……はい」


「用足し後、陰部をこの水で洗え。振って滴を落とした後に、また穴に灰を撒け」


 二つ目の桶は水。

 ええとですね、女性に、股を振れ、というのはどうかと、いやでも、ええと。


「わたしに竿はありませんが──やってみます」


 そう返すと、おじさんは顔を(しか)め。


「無礼をした! だが女性が述べるべき言葉に非ず、留意されよ!」


 すっごい勢いで、頭を下げられた。




 あんまり出なかったけど用を足してトイレを出ると、離れたところにおじさんが立っていた。

 聞き耳を立てるような変態性癖は、ないらしい。


「戸の横の水で手を洗浄せよ」


 扉横にある樽には、柄杓が置かれた蓋がある。取ると、蓋裏には謎の袋が括り付けられていて、水は樽の半分くらい入っていた。ちょっと濁ってるから、飲み水ではないっぽい。

 よいしょ、と屈み込んで中の水を(すく)い、手に着いた灰を樽から離れて洗い流した。その後で柄を立てて持った箇所を流せば、おじさんが近付いてくる。


「汝は礼節を知る者だな」


 え、だって次に使うこと考えたら普通でしょ。柄に、灰や汚れがついちゃうかもだし。




 並んで家に戻ると、おじさんはわたしに自分と同じよう、板の部屋では靴を脱ぐように勧めてきた。

 裸足と包帯足の二人で土間から上がると、おじさんは寝台脇に置いてあった、わたしの背負い袋たちを押して寄越してくる。

 中を改めよ、と言われ、荷物あれこれと空になった水樽、財布の中身を確かめ、流れ人には必須の身分証と保存食の残りを机の上に出すと、頷かれた。


「我が煮よう」


「へ?」


糧食(りょうしょく)に余裕はない。汝は弱っている」


「はあ」


 どうやら、療養食を作ってくれるらしい。そこでわたしは、財布を出した。入国税と、諸々の恩返しの意味で銀貨二枚。足りるかな。


 だけどわたしが出した銀貨を、おじさんは怖い顔をして受け取ってくれなかった。


金子(きんす)は汝の未来に必要也。礼には及ばぬ」


「でも」


「心身を癒せ。我への感謝はその後だ」


 一瞬、体が強張った。そういう意味か、と恐る恐る見上げると、おじさんは鋭い目付きのままだった。


「四日、後に補給隊が来る。彼らを護衛にリーシュに入れ」


「でも」


「我は此の関を(まも)る兵也。汝は入国を求む者。其れ迄に癒せ」


「入国税は」


「国以外より金子は預からぬ」


「おじさん」


 わたしは困った顔をしたんだろう。思わず、名前を知らない人をそう呼ぶと、おじさんは優しい顔になった。


「我に姪がいると、何故知る?」




 バリバリの堅焼きは水と干し肉と干し野菜らしきもので煮込まれて、食べやすかった。塩漬けキャベツが、ほんのり懐かしい。

 わたしは椅子と机で、おじさんは板の床の上で胡座(あぐら)をかいて、一緒に食べた。

 匙を二つ使うのは久々だ、とおじさんは楽しそうだった。

 見たことのない木のコップは、軽い。よく磨かれていて、なめらかだ。


「あの、今更ですが、わたしはオーシャといいます。ブレサウィズから流れて来ました」


 身分証の木札を改めて差し出しながら自己紹介をすれば、難しい顔をされた。

 とある商会名義が刻まれているけど(つづ)りが一文字違うし、焼き印は中央の形が異なる偽物だ──けど、今までどの国でもばれたことはない。

 栽培技術者、≪踊り()≫、という肩書きは嘘じゃないし。


「シェダール。リーシュの国境衛兵」


 おじさんはもさもさひげを汚さず、煮込みを頬張っている。器用だ。慣れかな。顔の下半分がもさもさって、(かゆ)くならないのかしら。


「偽りに非ざれど真意でも無かろう、事実は」


 匙を落としそうになった。

 え、嘘、なんで。


「ううう嘘じゃありません、あのこれ、黄赤の花の種です。一年前のやつですけど。花を加工してこの翠紅を作れます踊れます」


 慌てて背負い袋を引き寄せ、中から種袋と胡桃殻を一つ出した。

 おじさんは、じっとわたしを見ている。

 賄賂を渡すべきか、と考えたが、入国税さえ受け取ってくれないこの人には意味がないと思い直す。

 どうしよう、言ってもいいんだろうか。


「……舞芸神……の聖詠女です。リーシュに祠は、建てられるでしょうか」


「舞芸神、神か。如何なる神か。セイエイジョ?」


 俯きながらしたわたしの告白は、否定されなかった。

 驚いて顔を上げると、おじさんの表情には嫌悪や忌避の色がなかった。


「え、あの、いいんですか」


「我は舞芸神の仔細を知らぬ。説明を欲す」




 わたしは匙を置き、教義を話しはじめる。何年ぶりだろう。一から、成り立ちから、嫌な顔をしない誰かに話せるなんて!


 が、途中で猛烈な眠気に襲われた。


「続きは明日。口を(ゆす)いで飲んで休まれ」


 フラフラしていたら、うっすいハーブ水の入ったコップを渡される。

 うう、ちゃんと話さなきゃいけないのに。だってこれ、入国審査でしょ。わたしの進退がかかってるし、なにより舞芸神様がちゃんとした正しい存在だと、証明、しなきゃ。

 くるみボタンをほどいて、中に隠した、しるしの銅細工も見せて。

 濯いだ水を飲み込んでからも、必死に続けようとしていたら、立ち上がったシェダールおじさんに抱え上げられた。

 うわあ、わたしもう大人なのに、子どもみたい。


「寝ろ」


「おじさんは」


「我は床でも睡眠可能だ」


 ふかふかの布を広げられ、上から掛けられたら、わたしの瞼はすぐに閉じてしまった。




 □ ■ □ ■ □ ■ 




 翌朝──じゃない、多分もう昼だ。

 北側の、開いた窓から入ってくる風に冷たさがない。

 うっすらと不快でない煙の匂いが、する。


 寝台から飛び起きたわたしは、慌てて身(づくろ)いをした。うう、(くし)が通りにくい。顔もべたべただ。布を瓶の水で湿らせて()けば、すごい色になった。嫌だもう。


 銅磨鏡(かがみ)と白粉を背負い袋から取り出して、栗鼠(りす)筆で肌に乗せる。シェダールおじさんに素っぴんを晒すよりはマシだった、と思いたい。

 翠紅を伸ばすのはやめた。近場に井戸が見当たらないここでは、飲み水や洗い水が貴重だと感じたからだ。

 ……顔を拭くのは必要最小限だった、うん。


 抜け毛を捨てようとしたけど、ごみ籠が見付からない。手でまとめて汚れた拭き布に包み、一先ず机の上に置く。あとでどこに捨てるか、尋ねよう。

 竈で焼いたら、臭いよね。




 (かかと)を踏んで突っ掛けた靴で外に出たら、シェダールおじさんは独りで槍を振るっていた。自主鍛練、だろう。

 すごく速くて力強くて、まるで見えない敵と戦っているみたいだ。

 口が動いて、聞いたことがない不思議な声がした。リーシュの、古い言葉じゃない。呼吸法、かなにかだろうか。

 よく分からない。

 けど全身の挙動は、凄い筋肉は、今までに通り過ぎてきたどの国の衛兵よりも、強そうに見えた。


「おはようございます」


「癒えたか」


 声をかけたら、シェダールおじさんは槍を下ろして振り返った。もう元気いっぱいです、とは流石に言えない。


「半分くらいです」


「上等」


 シェダールおじさんは、口を開けて笑った。そういえば幾つなんだろう。皺はあるけど、白髪は少ない。姪御さんがいるって言ってたけど、お子さんはいないんだろうか。


「お早う──良いな、挨拶が可能な者がいる朝は」


 いやもう昼です。日が高いです。




「あ、ごみはどこに捨てましょう」


 またシェダールおじさんがご飯を作ってくれる、そうだけど、わたしは机の上の汚れた布が気になって尋ねた。器やコップを置くことはできるけど、ちょっと気になる。


「ごみ」


「ええと、髪の毛とか」


「ごみではないな」


 え、と思ったら、シェダールおじさんが靴を脱いで板の部屋に上がってきた。止める間もなく布を見留められて開かれ、確認される。うわあああ、やだやだじっくり中身を見ないで汚いから。


「我より長い、糸の代用に成り」


「いやいやしばらく洗ってなくて汚いです」


「構わぬ」


 うあーやめてー!


 じたばた抵抗したけど、物資が限られているこの家ではなんでも使う、といったことを述べられ、わたしは折れた。

 シェダールおじさんは、わたしの抜け毛を太い指先で結んで()って、あっと言う間に長い焦げ茶の一本糸にした。

 それと布を持って土間に戻り、行儀悪く片足で、立ててあった盥を引っ掛けて土間床に倒し置く。布と髪糸を入れたところに樽の水を注ぎ、石鹸を掴んで屈み込んだ。

 わたしが手伝いを申し出るより早く、シェダールおじさんは揉み洗いと濯ぎを終え、盥を抱えて外へ向かおうとする。


 どうにか先回りして扉を開けると、盥を抱えたシェダールおじさんにお礼を言われた。

 いえいえこちらこそ。

 汚水は、東の崖の向こうへと豪快に撒かれ、ひっくり返された盥は家の東側の外壁に立て掛けられた。


「干し場は此処だ」


 家の北側、窓がある方へ進むと、西の岩肌に打ち込まれた大きな釘と、軒先の間に細いロープが繋がれている。

 でも他の洗濯物はない。首を傾げていたら、服や大物は定期的に洗濯屋に回収されているそうだ。

 シェダールおじさんは、髪糸をロープに括り、広げた布を木の挟みで留めた。ロープに幾つか揺れている挟みが、なんだか可愛かった。



 □ □ □  



 また一緒にごはんを食べた。

 焚き付け用に火口箱を渡そうとして、断られた。

 シェダールおじさんの火は早い。竈の焚き口の手前、ナイフで削った薪の皮に火打ち石で火種を飛ばし、小枝やほぐし紐も使わず(おこ)し、中に押し入れて大きくしていく手技(てわざ)は職人じみている。

 見たことがない薄黄色の豆がたくさん入った大麦粥を口にしながら、昨日の続きの教義を話し、祠の建立や布教は入国手続きのあとで王様に要相談、という返答をもらった。

 え、いいの? って、いきなり謁見なの?

 狼狽(うろた)えていたら、シェダールおじさんにまた笑われる。


「王は(おそ)るる存在ではない。オーシャの神は良い神だ。笑うことは幸福だ。きっと(ゆる)される」


 昨日よりかなり言葉が分かりやすくなったのは、たくさんお喋りしたからかな。


「我は独りでは、笑うことがない。山を降りた時は、姪によく笑わせられる。鶏も、愉快だ。その時は、幸福になる」


「歌も舞いも、大事です。辛さに泣くことも必要ですが、楽しく笑うことはもっと大事です」


「良い神だ」


 嬉しい。

 舞芸神様の教えを話せることも、否定されないことも、受け入れてもらえることも、すごくすごく嬉しくて、楽しい!


「あの、わたしは今、すごく高揚しています! 奉納舞いを踊りたいです! 聖詠女として!」


「足が治ってからにしろ」


「もう歩けます!」


「まだ半分だろう?」


 ぐっ、と詰まれば、また笑われる。


「しっかり休め」


「でも、寝たきりじゃダメです」


「ダメではない」


 シェダールおじさんに微笑まれて、わたしはごねた。やだやだ歩く、と駄々を()ねて、なんとか勝つ。



 □ □ □ 



「じゃあ彼処(あそこ)の石柱香炉までだぞ」


「わーい!」


 なんだか、こう。子どもに戻ったみたいで、ちょっと恥ずかしいけど。

 いいのだ。シェダールおじさんが、優しいから、わたしは悪くないのだ。


 ──お父さんって、きっとこんな感じなのかもしれない。




 包帯はそのまま、水で戻した若蓬を換えてもらって、交代でトイレも使ってから、わたしはシェダールおじさんについてひょこひょこ歩く。うん、昨日よりは動けるぞ。


「あの柱はこうろ、なの?」


「そうだ、この≪魔忌避香(ホブフリオスメルジャ)≫を焚く」


 シェダールおじさんは左の腰袋を開き、引き出し型の小さな火口箱と、石小屋から持ち出した大きな練り玉を幾つか見せてくれる。

 もう慣れた、家とシェダールおじさんの匂いとも違う、スッキリとした。


「モンスターよけの香ノ木札!」


 あれはもっと薄い香りだったけど、これは強い。ちょっと爽やかな、匂い。

 窓から入ってきた煙の元は、これだと知った。


「柵や小屋の屋根も香ノ木だ。こうのき」


「こうのき!」


 あれ、武装商会の人たちと同じように言えてたつもりだったんだけど、発音が下手だったのかな。

 じゃなくて。

 えーと、ということは、柵壁と家とトイレはモンスターが近寄らない、ということね。便利すぎて怖いくらいだわ。


 ……ん?


 待って、違うわ。蟲の森を出たからモンスターがいなくなった、から、あの札を外された、と思ってたけど。

 あちこちに同じものがあって、石の柱の香炉、に、ほぶなんとかを焚くということは。


「……香ノ木とほぶふり、お、すめるざ? がないとダメなくらい、ここってモンスターがいっぱいいるんですか……」


「いっぱいいるな。ホブフリオ、スメルジャだ」


「ギャーッ!」


 そうだった、あの楽士も歌ってた。モンスターの巣に人が住む、って。

 あわあわと震えていたら、からかうように笑われた。


「我の傍なら、心配ない」


 シェダールおじさんが右の腰袋から、小さな(ほうき)と皮袋を取り出した。石柱香炉、の前で膝を着いて、くり貫かれた穴を覗き込んでいる。


 ピンときたので、手伝いを申し出た。


「中の灰を掻き出すんですね? わたしがやります」


 だってあの大きな手じゃ、穴の手前で詰まってしまう。


「待て、コツがいる」


「こつ」


 聞き直すと、シェダールおじさんは穴の中に箒の先を突っ込むと、手首を返した。そのまま引くと、箒の先に燻った小さな塊が乗っている。


「まだ燃えてる」


「……『下』とは違って、絶やすことはできんのだ」


「下?」


 シェダールおじさんは路面に塊を置くと、また穴に箒を突っ込んだ。次こそ灰だろう。そう思ったので、わたしは下に放ってあった皮袋を拾い、口を開いて穴の下に構える。


「助かる」


 掻き出される灰を受け止めてたら、くしゃみが出て笑われた。




 新しいほぶふり、なんちゃら、に燃え残りから火を移し、穴の中に入れる。これは、わたしがやらせてもらった。


「火傷するなよ」


「大丈夫」


 だってわたしの方が指が細いし、ほら、手首ごと穴に入るし。


「ええと、ほびゅ、なんだっけ」


「ホブフリオスメルジャ?」


「ほぶふりおすめじゃ?」


「ホブ、フリオ、スメルジャ」


「ほぶ、ふりを、すめるざ」


 真似て繰り返すと、シェダールおじさんに微笑まれる。


「モンスターを、寄せ付けぬ、聖なる香り、という意味だ」


 随分古そうな響きだ。思ったまま口に出せば、前の燃え残りを踏み消したシェダールおじさんは、また意味不明ななにかを呟きながら頷く。

 癖、なのかな。


「リーシュの源は、『外』──汝が来た、西の……大陸中原にある、小国家群だ」


 今度はわたしが頷いた。中原は平野部、小国家は同盟国家の意味だろう。


「様々な国から集められた兵が、この地に住まい、国となった」


「合従軍の辺境遠征、でしたっけ」


 それは武装商会の人から聞いた。少しだけ。

 ディスティアでなくベルガスの砦町が起点だったそうだ。砦町が二つあるなんて知らなかった。

 普通は砦町といったら、ベルガスの方を指すらしい。ディスティアのあそこが東の砦町、と呼ばれていたのはそういうことだった。ややこしい。


「今より百年ほど前になる。その時代の言葉が、リーシュの言葉の元だ」


 あ、だから大体分かるんだ。


「我らは直接、他国人民との交流がない。武装商会との交易で、新たな言葉も入り都度変わるが、その回数は限られる」


 知識も流儀も異なる、「外」にない言葉は古いまま残り(つか)われる。

 少し難しい顔をされたので、わたしは笑顔を向けた。


「大丈夫、話をしていたら大体分かりますし、通じます」


 それで十分だ。


「……我の言葉は難しくないか?」


「ええと、神殿の、原典教義を話す大神官さまっぽく聞こえました。でも、最初だけです」


 すごいお爺ちゃんだったから、もう神世に旅立たれたかもしれない。あの頃はなに言ってるのか分からなかったけど、今ならもっと理解できたかなあ。




 ふと思い出せば、もう薄れてしまったみんなの顔が次々に浮かぶ。

 わたしを拾って下さった輔神官さまは、掌が暖かく小さく光る「奇跡」で、怪我人の傷を癒しておられた。

 女性神官は厳しかったけど、毎年黄赤の花を仕込む時、優しく歌っていらっしゃった。

 聖詠女の先輩方は、翠紅をどう引けばいいかと、お互いの顔で試されていたっけ。


 みんな──自分勝手なわたしで、ごめんね。

 でも、生きてるよ。

 わたしはこれからも、舞芸神様の聖詠女として、生きていくよ。




 そうか、と呟いたシェダールおじさんの声で、わたしは自省をやめた。

 でも、思う。

 倉庫からの持ち出しを(とが)められず、無言で防水袋をくれた神殿のみんなは、わたしの意地と怒りと勝手を、多分。


「我には武装商会も汝の言葉も、少し幼く聞こえるが」


 ──って! ちょ! わたしが美しい思い出に(ふけ)ってる時に!


「わたしもう大人です!」


「ワタチ、モウ、オトナデシュ」


「違う! ちゃんと言ってる!」


「チャントユッテル」


 あー! もう!


「昔のコディアに似た口調だと、思ってな」


「んもう! お幾つなんですか、そのコディアさんは!」


「幾つだったかな、ああ、十四になるか」


 ぬ、さては姪御さんだな、コディアちゃん。


「わたしはこの夏で十九です!」


「……」


 ちょ。

 なにその無言。


「……十九、か」


「はい」


「そうか、なら──我から見れば娘だな」




 今度はシェダールおじさんが、なにか遠くを思い出す顔をして、黙った。

 わたしは仕返しとばかりに、意地の悪い顔をして訊く。


「お・と・う・さ・んは幾つなの?」


「──四十二になった」


 若いと返そうか、老けてると返そうか迷って、結局わたしはなにも言えなかった。

 シェダールおじさんは、少し困ったような、でも嬉しそうな目でわたしを見下ろしていたから。


 お父さん、なんてからかっちゃいけなかった。そんな気がした。




「……ごめんなさい」


「我は謝られる年齢か?」


「違います」


「チガウマス」


「もー!」


 けど、すぐにからかわれて笑われて、なんだかどうでもよくなった。

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