西の果てから‐踊る聖詠女 Ⅰ
「──≪黄赤の花≫をー……明けに摘みー」
ルールー、と聞いたことのない鳴き声が聞こえる。
「水……浸け洗いー……五度……晒すー」
怖い。
でも、怯えを見せると負けだ。
「干ーして乾かし……灰汁を混ぜー」
月明かりの下、足を引きずるように動かす。
重い大杖に、縋りながら歌い、進む。
括り付けた小さな角灯が、頼りなく揺れて影を散らす。
「麻に吸わせてー押して濾すー……」
止まればきっと、囲まれる。もう遠巻きに囲まれてはいるだろうけど、全身にぶら下げた「香ノ木」の札とやらが、わたしの命を守ってくれている。
きっと。
「……≪燻し実≫漬けたー水を混ぜー」
わたしは元気だ。そう言い聞かせるために、歌う。
「弱く煮ー詰めてー練り上ーげるー」
がさり、と離れた茂みが揺れた。
ケークケーシュ、ケークケーシュ、と、甲高い知らない音がして、ざわめきが広がる。わたしを中心に、合唱するように四方で怪音が重なっていく。
警戒の声なのかなんなのか、分からない。
ただ、見られている。ヒトではないなにかが、わたしを、力尽きて倒れることを期待して。
だが倒れたところで、やつらはわたしを守るこの札をどうするつもりなのだろう。この匂いがある限り、近付けないはずだ。
それともわたしの身が朽ちれば、その臭気は札の匂いに勝るのだろうか。
周囲のモンスターどもは、その機会を待っているのだろうか。
分からない。
知っているのは、ここが、大陸公路の果ての「東の砦町」、の更に東。
「蟲の森」と呼ばれるモンスターの群生地、だということと。
この森を抜ければ、未開の新興国がある、ということ。
□ □ □
今歩くこの道は、東の砦町で出会った「武装商会」が切り開いた、道ならぬ道。
森は三日で抜けられる。
途中の水場は使えない。
水棲の蟲型モンスターが、うじゃうじゃで。
彼らは交互に警戒と仮眠を取る組に分かれて、でも、わたしは独りだから、寝ちゃダメで。
「眠く、ない」
気休めでもいいから、口に出す。重い大杖を握る手に、力をこめる。
あと少し、あの坂を上りきったら、水袋の水を飲もう。背の水樽の残りを、移そう。ランタンに、油を足そう。
周りを睨み、わたしは倒れないと誇示しながら。
数多のラバに踏み固められたのだろう、緩く上下する坂道に終わりは見えない。
果ての見えない森、土の固さを足裏と杖で探り、伸びかけた草刈り跡を目で確かめ、進み続ける。
東の砦町から確か五日間。それでこの木々から、モンスターの音から、脱せるのだろうか。
枝葉の狭間から見える夜空は、星が美しかった。
月が照らす木々の影、黒と、もっと暗い闇。
「……、神様……」
乾いた声は、モンスターが発するざわめきにかき消された。
□ ■ □ ■ □ ■
わたしの名はオーシャ。身寄りはいない。
≪青き海の国≫の「舞芸神殿」の側に捨てられ、輔神官さまに拾われた。
教典を覚え、教義に則り≪聖務女≫の一人になれば、と育てられた。
農作と雑役を担うことで神殿名簿に名を連ね、身元が保証されるから、と。
七つになった年、声と所作がいい、と女性神官に誉められ、≪聖詠女≫の見習いになった。たくさんの歌と踊りを習い、祭事では雑役でなく≪詠隊≫の末席に立つことができた。
寄せられた喜捨に感謝し、舞芸神様に祈りを捧げるべく歌い踊り、畑仕事と加工業務で日々忙しなく。
それでもこのまま、穏やかに老いて、いずれ神世へ旅立つのだと、思っていた。
──「創造神」以外を崇める勿れ。
新たな領主が、ブレサウィズの新王が、その勅令を発するまでは。
街中での宣教活動は禁じられた。
神殿入口まで近衛兵が寄せ、信者の立ち入りも喜捨も封じられた。
改宗を受け入れた者だけが、許された。
わたしはできなかった。
神殿酒場は風紀を乱す、なんて無茶苦茶な言い掛かりも、奉納舞いを淫靡なものだと嘲笑されるのも、耐えられなかった。
だから逃げた。
黄赤の花の種袋二つと、≪軟白岩≫のひとかたまり。
道具と、舞芸神の聖詠女のしるしの小さな銅細工、仕事歌と共に。
□ □ □
「軟白岩とー≪剥がれ石≫ー、砂より見えぬー粉にするー」
しまった、白粉の歌は短かった。
ええと、次だ次。
なんでもいいから歌わないと、足も止まりそうになる。
「ブレサーウィズのー王はーアホー」
替え歌になっちゃった。でもいいや、どうせ誰も聞いてない。蟲の森には今、わたし以外の人間はいないんだから。
「娼婦の姐さんーありがとうー」
□ □ □
封鎖された神殿からは、下水出口を使わなければ逃げ出せなかった。
大人の体格では通れないそこから、汚泥まみれで抜け出せたわたしを見付けた娼婦の姐さんたちは、即座に井戸水をぶっかけて、巡回する近衛兵から匿ってくれた。
どう身繕いをしても一人前にはほど遠い年齢だったから、小間使いということにして、隣国行きの馬車に紛れ込ませてくれた。
みんな元気だろうか。
思えば彼女たちの言葉が、今までわたしを支えてくれた、気がする。
──化粧は女に夢を見せてくれるのよ。男を騙くらかす、のはそのオマケ。
「つーめを染めるのー武器としてー」
不意に笑みが浮かんだ。
改宗の建前として言われた「淫猥」の象徴である姐さんたちが、わたしたちの作る化粧品の一番のお客さんで。
彼女たちに助けられなければ、わたしはあの国から出ることも叶わなかった。
「はーじけ≪朱花≫とー青蓼のー」
そして舞芸神信仰が潰されたのは、その化粧品や、楽器を、酒を王が占有するためだったとか。
愚かすぎる。
木札とランタンの炎が、揺れた。
□ □ □
ぬるい水で喉を湿らせて、水樽を出したついでに堅焼きも一枚。
咥えながら樽の注ぎ栓を捻って、水袋をいっぱいにした。日に日に、背中は軽くなる。
一滴も漏らさないように、しっかり栓を戻して、背負い袋にしまってまた担ぐ。
地面に置いていた大杖を両手で立てて、歩き出す。バリバリと堅焼きをかじれば、破片が口中に刺さりそうになった。
灯し油を足したランタンが、また揺れる。
たくさんの、か細い粒々の光。
重なる木々に遮られ、月明かりがなくなった今、銅板の穴越しの炎だけが、先を弱々しく照らしていた。
□ □ □
「いーまの黄赤のー花の種ー」
品がないけど、咀嚼しながら歌う。黙ればまた、あの蟲型モンスターの合唱に震えてしまうから。
「ろーくだーい以上はーおーぼえてなーい」
神殿から持ち出した種は、もうない。生活費を稼ぐために、その年のうちに隣国で、間借りした公有畑に蒔いたからだ。
「はーたけを借ーりるもー、一苦労……」
神殿が持っていた畑と、そこまで変わらず花は咲いた。少し小さかったのは、土や雨量が違ったからだろう。育て方は同じだったんだけど。
それでも翠紅は作れた。ブレサウィズから移り住んだ姐さんたちや、元々隣国に住まう女性たちによく売れた。
採れた種は、半分を町の長に納めた。黄赤の花畑は増えた。そして。
「祠を祀るはーゆーるされずー」
意味が分からなかった。
民として住まうは許すが、舞芸神信仰は控えよ、とか、未だに腹が立つ。
要はブレサウィズから高値で売り付けられるようになった化粧品に対抗する、生産技術者として生きろということだろう。
国同士のなんちゃらが、という説明はさっぱり分からなくて、結局わたしは新たな手持ちの種を蒔かずに隣国を出た。
翠紅の作り方までは、他人に教えなかったから、黄赤の花畑がその後どうなったかは知らない。町に納めた種と、わたしと一緒に育て収穫した人たちがいたから、染料とか、薬とか、油とか、そういったものになったと思うけど。
それにしても、大杖が重い。
もっと軽いやつにするんだった。今更だけど。
□ □ □
「翠ー紅の作りはー神のものー」
幼い頃から聞き覚えた仕事歌は、門外不出と女性神官に言い渡されていた。
漬物になる、酸っぱくて渋い実を燻して使うことや、行程の順番が分からなければ、とろりとのびる翠紅にはならない。
「みーずでのばすがーよい翠紅だー」
周囲がうるさい。わたしは少し声を張った。
□ □ □
眠い。
思えば、寝ずにこんなに歩いたことはなかった。
「……≪鉄楠≫の木はー斧泣かせー、開拓の邪魔ーでーもかーねになるー」
最早、替え歌でもなんでもない。でも眠気払いに、自棄になって歌う。喉が渇くから、もう大声はやめた。
「てーつなら伐れーる、銅負けるー」
幾つ目の国だったっけ。畑は貸せない、自力で荒野を切り開け、とかほざいたクソ村長がいたなあ。
どうにか領主が人手を……って、あの男たちもろくでもなかった。石も根も拾わず、金になる木ばっかバカスカ伐って退散とか、わたしをそういう目で見るとか。
舞芸神様も知らない輩に、なんでわたしが身を任せるとか思うのかしらね。
娼婦の姐さんたちだけじゃない、女性神官だって、聖務女や聖詠女のみんなだって、≪注ぎ女≫たちだって。男を選ぶ権利は女にあると教えてくれたわ。
例え金の為でも安売りするな、って。
怪我や病気や疲労や、翌朝以降に女が負うものはとても大きいのだから、って。
あー駄目だ、思い出しただけでもムカついてきたわ。目が覚めるからいいけど。
「ぎーんか如きで身を売るかー、わーたしは……」
わたしは。
そう言えば。
「恋などーあーりえーないー……」
出会ったことがない。
身を焦がすほどの強い恋慕の情を、抱く相手になんて。
ちょっとへこんだ。
ブレサウィズを出てから、生きるのに必死で。
見目のいい金持ちの息子とか、白粉と翠紅で誑かしちゃえ、って姐さんもいたなあ。あっちこっちで、「最終目標」はそれだ、って聞いたし。
けど、わたしにとっては、これっぽっちもそれが正解だと思えなかった。
神殿が潰されたって、わたしは舞芸神の聖詠女だ。
俗人の妻女になりたいと願うなら、そもそもブレサウィズを出ずにいただろう。改宗ではなく、還俗を申し出て。
「こーいとは破滅か幻かー」
吐き捨てるように歌えば、武装商会から買った香ノ木の札とやらが、背負い袋の中の水樽に当たって、からり、と鳴った。
□ □ □
足が痛い。
ふくらはぎや腿のそれは、感覚が鈍ってきて重さになったから、まだ耐えられるけど。足の裏と膝と股関節の痛みは、いつまでも骨に響くくらい、痛い。
もう少し痩せてたら、少しはマシだったのかしら。
いやでもこれ以上痩せたら、いよいよ骨と皮だけになるかも。ただでさえ胸も尻もぺったんこ、とからかわれてきたし。
「無の草原」とか呼ばれる平野では、月を見ていない。
草を刈らず、朝日以外は空を見上げず東へ進め、と教えられ、必死に武装商会のラバが落とした糞を探しながら歩き続けた。
多分、二日半くらい。
眠気と頭痛をごまかそうと、香ノ木の札を噛んだ。
おそらく三日目から先、蟲の森に突入してからは、枝葉の重なりで昼でも薄暗い。ラバと武装商会、が固めた道ならぬ道以外、目立つ標がない。
森に入ってからは太陽と月を常に見上げてもいい、と言われたけど、中々見えない。
ので、ラバ二頭分くらいの幅で刈られているらしき草木をランタンの明かりで探しながら、進む。彼らがここを通ったのはつい最近。そのことに縋るくらい、なにもない。
あと数日も経てば、藪漕ぎとかいうこの痕跡も、なくなっているかもしれない。だってどんどん、進むにつれ草丈が高くなっている。
藪漕ぎ跡を辿ると、青い花を咲かせた灌木と、クスノキらしき大樹に、何度か出会った。ぽかりと空いたそこは蟲の声が遠く、どうにか用を足せた。
ランタンの油が、心もとなくなってきた。
日の光が足りなさすぎて、森に入ってからはずっとつけっぱなしにしないと厳しいからだ。
誤算だった。
節約するのも、限度がある。
四日間も人間は寝ずに歩き続けることができるのだから、きっとあと一日くらいはどうにかなる。油も、ギリギリ足りる。そう、願う。
「……死ーにたーくなーいなー」
もうわたし自身にも聞き取れない、掠れ声で歌う。
□ □ □
わたしは国の民ではない流れ人として、同盟国家群を東へと進んできた。
銅貨を稼ぐために、街ごとに見知らぬ奏士と組んで、酒場で踊った。
≪聖曲≫を伴う≪奉納舞い≫ではない、適当な演奏に合わせた即興。
ぺったんこな体では、妖艶で扇情的なものにはならず、曲芸紛いにしかならなかった、けど。
投げ銭の取り分で揉めたり、逆に何日も一緒に続けられたり、一貨も得られないこともあれば、銀貨を貰えたこともあった。
楽士と共に歌ったこともあった。
聖曲の旋律を教えて、教典の一部を謳わせてもらったこともあったけど、酔客の心には響かなかった。
税が重くて、衣食住の保持で必死な農村では、「心豊かに笑みを絶やさず」という教えは、通じなかった。
銅貨の代わりが薄焼きと水、なんてこともあった。
翠紅や白粉は醜い、と蔑む人もいた。
贅沢品だと奪われそうになったり、価値が分からないフリをされ、買い叩かれそうになったり。
豊かに暮らしていても、心根が貧しい人は幾らでもいた。
貧しい人々は、盗むことも奪うことも、対価を踏み倒すことも、禁忌と思わなかった。
そうでない人もいたが、少なかった。黄赤の花を植えよ、と言われた村くらいでしか、わたしは労られなかった気がする。
生きることが目的、富むことが目標、そんな人々の中で、ずるずるとわたしは流れ続けた。
休耕地の片隅や荘園畑の一角を借りられても、黄赤の花を育てきっても、どの国でも信教は認められなかった。
日銭を村や町の酒場で稼いでいれば、小作人たちからは蔑視された。
新天地を夢見て旅立つ度に、行き先では現実を思い知らされた。
わたし独りでは、一からの開墾も住処を建てるのも、水源の確保もできない。
羊を飼うのも、麦を育てるのも、伝手と経験と金が要る。
野菜の種だって無料じゃない。
薪も糸車も、鍋も刃物も、わたしだけでは作ることも入手することもできない。
居場所もなければ、寄る辺もない。
生存に必要な技術を持たないわたしは、信念と信仰を捨てなければいずれ野垂れ死ぬしかない、と気付けた。
それでも。
同盟国家群、東の端の≪陽の国≫まで流れ、この先にはもう北東の≪丘の国≫しかないと、知った。
ここに留まりすべてを諦めるか、最後まで歩き続けるか。覚悟を決めなければいけない。
小さな神像を彫り、隠し祠を建て、わたし独りだけで、命が尽きるまで信仰を捧げるしかないのだろうか。
□ ■ □ ■ □ ■
「こーとわーりのー果てーみーちの果てー」
未開地である東から、厳つい男たちが大勢入ってきた、東の砦町の酒場。
稼ぎ時だ、と注ぎ女と娼婦の姐さんたちが詰めた裏部屋に呼ばれ、この国では四角い銅貨数枚と引き換えに翠紅や白粉筆を駆使していた夜。
表から楽士の歌が、聞こえてきた。
「モーンスターの巣にー人が住むー」
主に大陸公路を使って東西交易を行う、武装商会が、男たちの正体だった。
全員が武芸を嗜み、荷馬とラバを率い、時として己の腕でモンスター素材を収集するという噂の、変わり者の集団。
有事の際には国の衛兵ばりに剣や槍を振るい、寒村を壊滅から救ったという逸話まである──わたしはそれが事実だと、知っている──人々。
「たーがやーし戦いーたーすけ合うー」
化粧を終えたわたしは、酒場に出た。豪快だけど下劣さのない男たちを確かめるが、覚えのある顔はなかった。
少し落胆したわたしとは対照的に、姐さんたちは微笑んでいた。
金や腕や権力に眩まされるのではなく、勇敢な者への敬意を伴った、表情だった。
上客よ、とこっそり伝えてくれた注ぎ女は、胸元のボタンを閉め、スカーフを巻いた「普通の」格好をして、男の話に相槌を打ちに戻る。
逆に娼婦の姐さんは、スカーフのない首まで白粉を塗ってしなだれかかり、共湯の誘いをかけていた。うん、英雄らしいおじさんたちだけど、盥湯で丸洗いしたい埃っぽさだわ。
「やーがてーはーたけーはこーがねー色ー」
楽士は、彼らから新しい詩の種を仕入れたんだろう。ありきたりではない物語への興奮からか、即興の内容にはそぐわない荘厳な旋律を挟んでいた。
弦を単音で爪弾くのではなく、彼の技量すべてを使った、和音の連なり。
「すーべてーの者がーパーンをー食むー」
パン。
神殿を出てから八年、口にしていない。
その国の籍がない流れ人には、パンを買う権利がない。
どうにかして小麦を手に入れても、水車小屋で挽いてもらうことは許されず、ましてやパン屋に近寄ることもできない。擂り潰して水で練って、薄く焼ければ上等。
当然、パン屋に併設されている蒸し風呂を使うことも叶わないから、わたしにとっては盥の行水が身を清める最上だ。
だけど、それ以上に。
「ひーとびーとのー笑みー満ちあーふるー」
わたしの心に響いたのは、その詩だった。
砦町の東だか南だかにある、凶悪な蟲型モンスターが棲息する草原や荒れ地や森。
その向こうに連なる山々。
それを越えた先に、新たな国がある。
その噂は、同盟国家群を東へと渡り歩くようになった頃から耳にはしていた。与太話やお伽噺の仲間として。
だけどそれはどうやら真実で、慌てて近くにいた年嵩の男の人に尋ねれば、顎鬚を扱きながら語ってくれた。
隣の注ぎ女は何度も聞いた話なのか、頷きながら笑っている。
あの楽士の詩に、誇張はない、と。
国によっては、ああいった歌を広めると捕縛されることにもなりかねない、とも。
新しい国と武装商会は、何十年もの付き合いがある、と建国に至るまでの話を、男の人はざっくりと語ってくれた。
わたしが口にした「恩人」の名は、彼と親しい仲間のものだったから、だ。
□ □ □
わたしはすぐに、その新しい国へ向かうと決めて宣言した。
姐さんたちや話してくれた男の人──隊長さんを含む武装商会の面々、酒場の主や奥さん、歌を止めた楽士のお兄さん、更には洗い場から出てきた給仕のおばちゃんやお子さんたち全員に、考え直せと引き留められた。
だけどわたしは、首を縦に振らなかった。
もう、なにもかもを諦めていたのだ──だからこそ、最後に大博打をしてみよう、と自棄になっていた。
この国、ディスティアは。
ブレサウィズや今までの他国に比べて、人々がおおらかだった。初対面の時は訝しがられるけど、同じ村で一晩過ごせば翌朝からは話しかけてこられ──その夜には口が疲れるくらい、あれこれ喋らされてきた。
海があり、夏には懐かしい「貝吹きの紫行事」もあった。神殿主催では、なかったけど。
うちで働かないか、次男の嫁にどうだ、と東の訛り混じりに言われた回数は、両手の指では足りなかった。
それでもやっぱり、舞芸神様の布教はやんわりと禁じられたし。
黄赤の花の畑作を望まれてはいたけど、それ以上でも以下でもなくて。
ここで妥協して残りの人生を費やすのは、今まで流れてきた年月の否定になる。
そう思えば、ディスティアへ、この東の砦町近辺へ、終の住処として留まりたい、と望むことはできなかった。
□ □ □
今までのことを簡略化して伝えたわたしは、武装商会からモンスターよけになるという、香ノ木の札とやらを買った。いや、買わされた。
向こうで新しいものを買ったばかりだから、これは古いやつだから、と。
だったら無料で譲ってくれてもいいのになあ、と思ったけど。
有料の取引には責任と相互信頼が発生する、と言われ、反論できなかった。
彼らは、無の草原の抜け方をこっそり教えてくれた。朝一の太陽以外は信じるな、日が暮れるまでは空を見上げるな、というのは信じ難い内容だったけど──信じた。
その先の、蟲の森の注意事項も教えてくれた。こちらは空を見ても大丈夫だけど、止まらず、眠ってはいけない。可能な限り音を立てろ、と。
今なら藪漕ぎ跡を追えるから急げ、とも言われた。
背負い袋は絶対、下ろしてはいけないとも。
本当は、より安全なのは、次の武装商会に同伴することだけど、それには金貨一枚の支払いが要る、とも。
そんな蓄えは、わたしにはない。
大陸公路でもない道を教えてくれるのは何故か、と訊いた。
いつもより姐さんたちが別嬪さんなのは君のお陰だろう、と返された。
路銀の足しになるだろうか、と幾つか武装商会に翠紅を売ろうとしたら、今までで一番高く買い取ってもらえた。
その金払いの良さに、姐さんたちの目が、完全に恋する乙女のものに変わっていた。中には今日の化粧代が安すぎたんじゃないか、と気付いてわたしから目を逸らす注ぎ女もいた。
いや冷静に考えたらさ、そんな危険な出立を後押しする武装商会は人としてどうなのよって感じだけど。最初は誰より強く、止めたのにさあ。
剣の一振りも携えてない、ガリガリの流れ人になに言ってくれちゃってんの、って話なんだけどね。
わたしの意志が変えられないと察した直後、無事に向こうに着けるかどうかが賭けになった。
顎鬚の隊長さん以下、武装商会の人たちは入国に賭け、それ以外の酔客は行き倒れる方に賭けた。
好きにしてよ。
結果はどうやって確かめるつもりなのよ。
□ ■ □ ■ □ ■
「……まーほうーをー武器にー……」
あ、ダメだ。一瞬、寝てた。起きなきゃ、歩かなきゃ、ほら、また蟲の声が。
「……」
小さくなった、ううん、遠く、なった?
歩く。
重すぎる大杖を頼りに、足を引き摺る。
だって、ほら、向こうに、見える。
重なり合う梢の向こうに、見上げなくても、空の色が。
明るい、岩場が。
夕焼けか朝焼けか、薄ら赤い、森の果てが。
あそこまで。
この蟲の森の、外、まで。
あと少し。
この痛みも、眠気も、恐怖も、あそこまでで全部、きっと、終わ──
□ ■ □ ■ □ ■
自分の空咳で、目が覚めた。
頭が痛い。体中が、痛い。重い。人間って、わたしって、こんなに、重いんだ。
瞼が重い。目が、開かない。死ぬ時って、こんな感じなんだ。
そこでやっと、自分が仰向けに横になっていることに気付いた。
おかしい。
だってわたしは、歩いていて。
それなら俯せに倒れてる、はずで。
背負い袋が、ない。
「……」
低い声が聞こえた。
「水、必要哉」
今度は、はっきり。
あ、大神官様かな。
「……蟲……、いな……い、み、ず」
どうにか声が出た。カッサカサで、喉がひび割れそう。
「接触致す」
大神官様の声じゃない、でも似てる、古い、堅苦しい、言い回し。
大きな手が、わたしの背と板の間に入ってくる。板の上に転がされていた、みたいだ。
そのまま、上体を起こされた。ぐるん、と目が回る。
咳き込んだ。
唇になにかが押し当てられた。硬い。一所懸命、口を開ける。水が、すべり込んでくる。
水が喉の中を落ちる。直後、目を見開いた。わたしに押し当てられているのは、木の柄杓、きれいな、水。
必死に飲んだ。噎せた。背中の手が、ゆっくり擦って、くれた。
「急き過ぎる勿れ、緩やかに、静かに」
低い声は、落ち着いている。言葉は分かるけど、だってこれ、大神官様の教義語りと同じ言葉。
香ノ木札とやらに似た、匂いがする指。
「再杯、必要哉」
もう一杯いるか、って意味だろう。
頷けば、空になった柄杓が口から離れた。水音。軋みそうな首を動かせば、水瓶に突っ込まれた柄杓が、またわたしの顔に近付けられる。家具の脚が、見える。
柄を持つ手は大きく、目で追えば逞しい太い腕と上半身、銅貨のような色の顎鬚と頬髯、鋭い目付きと深い皺、もっさりした厳ついおじさんが、いた。
香ノ木札とやらとは違う、癖のある匂いも、してきた。
「此処は『赤の山々』の麓、国境の柵門が内也」
必死に水を飲んでいたら、おじさんが説明してくれた。
「汝は蟲の森に続く交易路に伏せり。柵内で鍛練中に発見し、屋内に運び入れし」
どうにか頷く。わたしは森を抜けたところで気を失い、倒れていたのをおじさんに見付けられ助けられた、ということか。
あと、あの獣道に毛が生えたようなものを、交易路と呼ぶのはどうかと思う。
「あ、りがと……ございま」
「発声は不要也。休息を乞う」
すごい強面だけど、わたしを気遣って優しくしてくれているのは、分かる。
「ここは、≪豊国≫です、か。わたしは、オー」
「リーシュだ。安堵せよ」
その返事に、わたしは目を閉じて、眠った。
気絶したのかもしれない。