新人最終講習‐内勤女性 Ⅰ
緊張と面倒臭い気持ちを、むちむちしたサトイモパンと一緒に嚥下して。
含んだミント水で、口中を濯いで飲み下す。
くじ運の悪さを、今更嘆いても意味がない。
「さあて、行きますか」
好物も食べられたし、今日はきっと上手くいくはずよ。
さあ、昼からも気合いを入れていこう!
「ラーヴェンダー、バージル、ウィンタサボリー」
いつものハーブ唄を口遊みながら食堂を出て、貴重品倉庫に向かい、木箱の中に立てられた巻き布の番号を確かめる。
引っ張り出して抱えると、まあまあ重かった。
階段を上がり、扉のない大部屋に入る。
教壇の上で巻き布を一旦下ろして立て掛け、窓際に一つだけあった椅子をその横に持ってきた。
靴を脱いで座面を踏み、巻き布を持ち上げる。外側の細い棒に付いてる輪っかを……こうして、教壇の上、壁に二つ並んでる掛け具に、順番に通して……よっこいしょ、と。
えーと、芯になってる太い棒、の出てるとこを左手で支えて、真ん中の束ね紐を解いてから。
両手で芯棒の両端をそれぞれ掴んで、椅子を下りながらぐるぐる開いて……よしできた。
紐さえ取っちゃえば重さで勝手に開くだろうけど、それだと輪っかの縫い目が切れたり、勢いで中の布やボタンが外れたりしそうよね、これ。
うーん、お裁縫は得意じゃないし、先輩の言う通りにして良かったわ。手間には理由があるのね。
無事に展示できたのは、様々な色の布が縫い付けられた、大きな麻布の図面。
あちこち直されたり染みができたり、うん、終わったら洗濯屋に持っていかなきゃね、このままじゃ来年困るわ。覚えておきましょ。
毎年みんなうっかり忘れる、って聞くけど。わたしは大丈夫、よね。
束ね紐を、ベルトに差していた指示棒に巻き付けた。これなら失くさないし忘れないわ。
室内を振り返ると、教壇に向く形で縁台が並んでいる。均等間隔で、一、二……十個もいるのかしら。今日は半分で済みそうだけどねえ。
そうこうしていたら、扉枠をギリギリ潜る、背の高い男の人がやって来た。
着込んだ革の──見慣れない造りの鎧兜と、変な履き物。
くたびれた背負い袋と、大きな水樽。ぼろぼろの毛皮っぽい布。
長太い、荒々しい得物。
ひょろりとしているけど鍛えられた四肢、浅黒い肌。
見慣れない風体と装具類、腰から下がる多くのものに、「例の人」か、と確信した。
「……」
「一番乗りですね」
お好きな席にどうぞ、と紐巻き指示棒を振りながら軽く笑んで誘えば、彼は慌てて革兜を脱いだ。艶のない黒髪が、ぼさぼさと露になる。
「ぼくは」
「座ってお待ちください」
人相も定かでない彼を黙らせようと、笑みに力を入れると、がちゃがちゃと音が返り、目論見は成功する。
ただ、わたしの真っ正面、一番前のベンチ中央に陣取られるとは思わなかったけど。
視線を合わせないよう、扉枠へ顔ごと向ける。廊下から大勢の、若い声が聞こえてきた。
──左頬に、すっごい視線を感じるわ。
大丈夫かしら。
他と同じ扱いでいい、って聞いてるけど、やっぱり事前に話をした方がいいんじゃないかしら。
ああ、でも他の子が来ちゃった。もう間に合わないわ。
うわーん、出たとこ勝負よこうなったらもう。
ええい、女は度胸よ!
さあて、わたしがはじめて講師役を押し付けら──任された者だって悟られないように、威厳と余裕を見せないと。練習通りにいくかしら。
ほらほら、ひよっこども座りなさい。好きなとこでいいから。
□ ■ □ ■ □ ■
はい、静かに。注目。
先ずはみなさん、合格おめでとうございます。
この講習が最後です。今までに見聞きしてきたこと、今更教わることでもない常識の復習、と感じるやも知れませんが、これからの任務に必要なことです。適当に流さず、ちゃあんと聞いてくださいね。
はい、では最初はこれです。
我が国≪豊国≫の地図です。
上が北、下が南、右が東、左が西です。
ここの四角い生成りの布が、今いる街です、国と同じリーシュという名です。
先ずは、ここから。
街を示すこの布には、細布が縦に五本、縫い付けられていますね。
これがそれぞれ東から順に、一の通り、二の通りと呼ばれています。
一の通り沿いには、北に第二衛兵団の詰所、南に第四衛兵団の詰所があります。ここと、このボタンがそうですね。
他は倉庫をはじめ、管理棟や役場、国が管理する大きな建物が多いです。
二の通りは、ご存知ですね。みなさんが今、身に着けている装具や、職人さんたちの専門道具の店、宿泊施設、酒場や……大人向けの館もあります。
夜まで賑やかな通りです。
三の通りは一番幅広く、中央広場や大きな商店、紡績場などがあります。王様のロバ小屋も、ね。
街の手習い所や、国営のパン屋の並び、食品商店とかもあるので、これから何度も通うことになるでしょう。
今年は、街生まれの子がいないのよね。いたら一番、馴染み深い通りです。
四の通りには、個人商店が幾つもあります。三の通りよりも建物が小さく、小間物や細工品、日用品を用立てるならこちらです。
食品や糸布は三、それ以外は四、と覚えておきましょう。
この二つは朝から夕方まで、ご婦人やお子さんが行き交う通りです。大声で騒いだり、荒々しい言動をしたりしないように。
五の通りから西は、住宅区です。あまり立ち入ることはないでしょうが、通る場合は騒いだり走ったりするのは控えましょう。
街の西には、縦長の水色の布がこの地図の下、南の果てまで長ーく縫い付けられていますね。
これは「南北川」です。
街の布の端から三つ、刺繍が川を跨いでいますね。
北西のこれが石橋。
中央と南西は、それぞれ木橋を意味しています。
街から三つ、南北川に橋が架かっているということです。お金を払わずに渡ることはしないように。
え? 中洲?
そうねえ、本当はあるんだけど、細かくなりすぎるから省略してます。この地図は概略であって、ざっくり位置関係を覚えてもらうためのものです。
距離や大きさは正確ではないので、追々自分の目で確かめるようにね。
□ □ □
さて、石橋を渡った先、この灰色布は鍛冶屋町です。この北や西には、採掘坑道とかもあります。
町には第三衛兵団の詰所……ボタンがここ、にあります。
街から見ると大体、北西方向です。
次はここ、街から中央の木橋を渡った、鍛冶屋町の南隣になる薄緑の布は、農産地区です。
街からざっくり、西方向です。
端っこの、山際のこの辺りだったかな、には石切場もあります。
そうね、全部畑や村じゃあないけど、まあ省略です。いつか渡川料を払って見に行くか、そっちの仕事を請け負って自分の目で確かめてください。
え? 橋は有料よ?
──あー、そっか、地元の小橋とかしか知らないのね。君たちは南地区の生まれかあ。
西地区の子は……挙手ありがとう、三人かあ。
君たちは知ってるよね、街に試験を受けに来たんだし。
あのね、村の中の小さい橋だって本当はタダじゃあないのよ。
建てるのに木材も人手も要るでしょう? 補強したり、傷んだら架け直したり、しなきゃでしょ。
だから村ごとに毎年、集めている共同費の中からそれに充ててるの。
君たちの親御さんたちが、先払いしているような感じね。
で、南北川に架かっている三つ橋は、そういうのよりずっと大きくて長いの。造りも頑丈で、国が直接管理してるから、使用の度にお金を支払うようになっているのよ。
村の橋とどれくらい違うかは、まあ遠くからでも見れば分かるわよ。
はい、じゃあ説明に戻ります。
西の農産地区の真下、じゃなくて南。
街から見て西南西に、横長の水色の布が縫い付けられてますね。
これは西の、「赤の山々」から流れて、この南北川に合流する「飲めない川」です。
中央と南西の、二つの木橋の中間で、南北川に合流する格好ですね。
飲めない川に沿って、それぞれ茶色の布が縫い付けられてますが、これが職人町です。
第五衛兵団の……あら、ここじゃないわ。失礼、ここは集積広場になりました。
えっと、飲めない川の南岸のこの辺り、に詰所が移っています。
やだわ、あとでボタンを縫い直しておきますね。苦手なのになあ、いえ、なんでもありません。
はい、さっきの中央木橋の南にある、この木橋を使うと、街からこの、南岸の職人町に直接行くことができますね。
この飲めない川には幾つか橋が架かっているので、農産地区や南北職人町、の行き来は容易です。
渡川料は南北川のそれより安くて……え、職人証提示で無料なの?
あー、村みたいに共同費制度なんだ。君、職人見習いだったんだ。へえ、西地区の実家から通って、って元気ねえ。
南北川の西側、橋の向こうにあるこの三つは、引っくるめて「西地区」とも呼ばれています。
地図では街と同じくらいになっていますが、実際はもっと大きいですね。
街は一日足らずで一周できますが、農産地区だけでも、街の何倍も広いですから。
さっき言ったように、大雑把な位置関係、を示しているだけですからね。今のみなさんには、これで十分です。
より正確な地図が見たければ、出世してください。
□ □ □
さて。
街に戻って、五つの通りの北と南にはこのように、横長の白い細布……東西に走る道があります。
これらは北路、南路です。
今いるのは北路沿いの、この辺りの建物の、二階です。
他にもそれぞれの通りを繋ぐ小路はたくさんありますが、こう、一から五の通りまでずどーん、と東西を貫いているのはこの二つです。
慣れないうちは、五つの通りと二つの南北路、で目的地への行き方を覚えておきましょう。
はいそこ、自分たちは習ったことだからどうでもいい、って顔をしない。
街中の任務依頼では、この七つ通路で目的地の説明が……はいはい、つまんないわよね。分かった分かった。
□ □ □
はーい、じゃあ街の外の、地区の説明の続きでーす。
西地区の外側、北から西と南側、は、このように濃い緑の布に囲まれています。
これは森と林、です。
森や林の手前、農地や川沿いといったあちこちに、「香ノ柵」が設けられています。これは国中、どこも同じです。
みなさんは勿論、見慣れているでしょうが──柵は大事なものだから気を付けてくださいね。
提げられてるかごや、窓なし角灯は、勝手に弄っちゃダメですよ。とっくに知ってるだろうけど、改めて約束してね。
古い区画や街の広い七つ通路には石柱香炉、それ以外は香ノ柵。
国内の居住地区ではこれが基本です。覚えておきましょう。
森や林は、まだ許可証がないみなさんは立ち入り禁止なので、説明を省きます。木々が均等間隔で並んでいたら林、と覚えておくように。
竹林もそうですよ。立ち入って行う採取伐採、狩猟に関してはそれぞれ許可証や免許が要ります。
さて。
森や林の外縁には、リーシュの西の国境……土色の布がこう、真っ直ぐじゃないですね。北から南西に、こう、うにょーん、と弧を描く感じであります。
これが、赤の山々です。
さっき説明した飲めない川は、この山の湧水が集まったものです。
ここを越えると、山の西、反対側の裾野にはまた濃い緑の布ですね。
これは「蟲の森」と呼ばれる、危険地帯です。国の外、になります。
それを抜けると……この地図にはありませんが、作物が育たない草原があり、大陸平野部へと繋がります。
そこには「金貨の誓い」と呼ばれる、不可侵条約と、交易協定を兼ねた同盟を締結した小国家群があり。
「すみません、フカシンジョウヤクはなに」
……はい、よその国に口出ししない、攻め込まない約束のことです。
交易協定とは、食べ物や糸布やその材料なんかを、できるだけ同じ価格……同じお金で交換しようね、という国同士の大きな取引の決めごとのことです。
これらによって、小国家群は別々の王様たちがそれぞれの領地を治めていながら、大きなひとつの国のようにまとまっていて、様々な学問や研究が共同で進み、発展しています。
暦や度量衡の統一も、その結果です。これらはリーシュも、同じものを使っています。
「ドリョーコーはなに」
……重さや長さの単位ですね。国ごとに基準が違っていると、取引の時に計算が大変です。
一定の重量を1パンドと決めて、小麦1パンドは今月は幾ら、のように重さと価値を結びつけると、その月はどこの商会でも、同じように取引ができますよね。
ものの長さや金貨や銀貨の大きさ重さも、常に同じになるように定められています。
国ごとの生産量や不作豊作、季節ごとの需要供給の度合いによって価値は変動しますが、単位そのものは変わりません。
さて、リーシュの唯一と言ってもいい交易相手である「武装商会」は、小国家群の品々を我が国へと運んできます。
羊毛製品、羊皮紙、塩、生活道具各種、種苗が主な輸入──買取品です。
建国前、農業生産が困難だった時代は、穀類や食糧の多くを買取に頼っていました。
そしてリーシュは、それらを買うために、彼らが求めるもの──特産物を売付ました。
それが≪魔蟲≫たちの素材です。
「すみません、ほびゅ、げはモンスターのこと、か」
□ □ □
……ええと、この方は外来人、今説明している小国家群から先日来られて、新たなリーシュの民になった外国出身の方です。
リーシュと小国家群とでは、言葉が少し違いますよね。
あの、のちほど個別に照合の時間をとりますので、ちょーっとだけ質問を控えてもらっていいでしょうか。
できるだけそちらの言葉も混ぜま……いえ、怒ってませんよ? 分からないことを素直に問える姿勢は大切です。知ったかぶりするより、絶対にいいです。
あの、ですからそんな顔しないでください。
ごめんね、おねーさんが急ぎすぎたね?
ほらその、貴方は外でも同じような仕事に就いてたから大体分かるだろうって、端折っちゃったの。
あのね、あとでちゃんともう一回説明するから。今はざっくり聞くだけにしておいてね。
はい、話を戻しましょう。
え、この方?
小国家群で≪自在狩猟士≫という、みなさんたちと似たようなお仕事をされていた方です。
みなさんのような、適性試験と戦闘審査は受けていませんが、証人と素材納品量によって宰相さまから特例許可が下り……えっと、合格扱いされました。
みなさんよりちょっとだけお兄さんですけど、同期です。
仲良くしてあげてくださいね。
あっ、ちょっ、個別の質問はあとにして!
今は最終講習の時間です。ほらそこ、ひとの装具を勝手に触らない!
済みません、少しだけ自己紹介お願いできますか?
「ぼく、フリーリー・ハンターやってたわーふぇるど。長いので、『エフ』、言ってた。みなさん、たのむます」
はい、よくでき……ありがとうございます。
では講習に戻──はいそこ、お喋りしない!
小童はちゃんとした登録名です!
理由とか本名とか、そういうのは後で尋ねるように!
……ちなみにこの方はわたしより年下です。こら、誰がおばさんだ! 言った奴、挙手! 正直なのは結構!
残り時間は後ろで立ってなさい!
□ □ □
今度こそ講習に戻ります。
えー、西はもういいわね。
じゃあ街の南側、「南地区」です。
……うん、君たちは知ってるつもりだろうけどね、あっちの……立ってる元職人のお調子者ともう二人は西地区出身だし、外国人のワーフェルドさんもいるでしょ?
いいから黙って聞いてなさい。あんたらも立たせるわよ。
赤の山々の麓、職人町の南側から。
こう、ずいっずいっ、と編み紐が南北川まで斜めに。川からは街の南東方向までながーく真っ直ぐ縫い付けられていますね。
これが防壁と呼ばれる、頑丈な丸太柵を組み上げて連ねた国境です。
あ、やだここ、ほつれてるわ。
えー、ここは川を跨ぐ形の石壁を設けよう、と石橋を渡して工事をしています。
完成したら、四番目の橋ですね。
南地区から職人町に行くのが、楽になりそうです。渡し舟は少ないからねえ。
他の防壁も、少しずつ置き換わっている途中です。
そのうち全部が繋がって、南の石壁と呼ばれるようになるかもしれません。
街の南からこの防壁までの間、南北川の東側、この大きな一帯は南地区と呼ばれています。
川の西側には、西地区であり職人町を支える農産地区があります。ちょっと小さめね。
さて、南地区は大きな薄緑の布が縫い付けられていますね、さあここは──はい、正解! 農産地区です。
ここは畑だけでなく、森や林もたくさんあります。濃い緑の布が、あっちこっちに重なってるでしょう。そういうことです。
色々あるわよねえ、丘や塩泉、池や小川は……うん、この地図ではごっそり省略されてるけどね。
みなさんが最初に向かう「外」は、この南地区とこっちの西地区、のどちらかの、川や森林を隔てている香ノ柵、の手前までです。
どの森や林にも普通の鳥獣が棲息していますし、それらを防ぐ力は香ノ柵にはありません。なので、付近でばったり遭遇することもあります。
対抗準備は怠らず、でも無許可で狩り場や採取場へ立ち入ったり、柵を越えて深追いしたりしないようにしてください。
南地区の北寄りには、第六衛兵団の詰所があります。はいこのボタンね。
勝手なことをして衛兵さんたちの手を煩わせないように、本当に、ほんっとーに! 注意してくださいね。
ただ、有事の際は先ず衛兵さんを頼ること。これは約束してください。
みなさんだけで、チーム単独で「敵」に適切な対応を取ることは、難しいです。無理です。
繰り返しますが、いざという時は衛兵さんに異常事態を知らせること、己の命を守ること、を最優先に動いてくださいね。
それができるようになってはじめて、次に進めるようになります。
□ □ □
──さて、南北川を越えた辺りから南の防壁は真東にこう、角度を変えてずざーっ、と延びてる、のは言ったわね。
そして街の東南の角から真南の、はい、ここで終わりです。
防壁の右、東端から上へまっすぐ、街の東沿いに北までずずずいっ、と延びている灰色の縦長、この布が、みなさんもご存知、東の石壁です。
街の一つ通りの向こうに聳え立っているので、有名ですよね。
この石壁の向こう、街から見て東方向には、はいボタン。
第一衛兵団、が仕切っている、開拓集落が点在しています。
みなさんの先輩がたも多く滞在し、日々、東へ国土を広げようと尽力されています。
みなさんはまだ、こちらへ出ることは許可されておりません。なので、現時点での詳しい説明は省略します。
はーい静かに!
ったく、本当に毎年、ここで騒ぐのねえ。聞いた通りだわ。
はいはい、石壁から結構、距離があるところに新しい防壁を建造する計画が出てる程度には、開拓が進んでいます。
だからあの石壁から出たら即、≪魔獣≫とかに襲われて終わり、とはならなくなりました!
でも格段に危険です!
みなさんのようなヒヨコがピヨピヨ歩いてたら、うっかりパックリされるかもです!
以上、終わり!
知りたきゃ出たきゃ、強くなるの!
わたしを倒せるなら、行ってヨシ!
「ぼく行ける、言われた」
──わあ、そうでしたっけ。
でもワーフェルドさんは駄目です。
貴方、強そうだけど、ダメ。禁止。
「なんで?」
貴方もこの子たちと同じ、見習い期間だからです。
リーシュのことを、よく知らないでしょう?
どこに誰がいて、なにが安全で、どういう繋がりがあるか。
自分の腕だけじゃなく、知識と判断力が伴っていないと、リーシュでは半人前として扱われます。
……みんなも、同じだからね! 分かった?
□ □ □
では次です。
この地図の右半分、石壁の東側は、ほとんどが濃い緑の布で覆われていますね。
開拓が進んでいるとは言っても、まだ縫い直すほどではないです。名のある村も、補強石を埋められた道もありません。
香ノ木の苗木は、あちこちに植えていってるそうだけど。
リーシュは元々、人のいない未開の地でした。
小国家群からは辺境と呼ばれ、モンスター……ホブリフや≪魔鳥≫やホビュゲの、あちらでの総称です。そういった人外の脅威が跋扈する、無人の危険地帯でした。
さっきも言いましたが、西の国境である、よいしょ、この、赤の山々。
それとここ、左上だから北東ね、でほぼ繋がっている、街の北に横たわっている長い灰色の布。
北の国境である、これが、「白の山脈」。
そして東の未開拓地や森の果てに見える、えい、こっち、「黒の岩峰」。
これは現在でも未踏の地で、赤と白の山頂部からの目視でしか、存在が確認されていません。
リーシュは西、北、東の三方を、連なる峻厳な高山帯や山脈にこう、取り囲まれた地形、です。
白の山脈からだと、ちり取りのような形に見えるそうです。
そのため、大陸平野部にある小国家群の大半とは気候が違い、水が豊富で、植生も異なるそうです。
遥か南にある水面は、小国家群の南沿岸地域と繋がっている海だと言われていますが、よく分かっていません。
赤の山々の南の端が海に突き出る格好になっている……ええと、岬、だったかしら。それを境に西からは大きな舟でもこちら側、東へは進めない、そうです。
なのであの水面は、南北川が注ぐ湖面だという説もあります。
……現状、我々にはその水面に辿り着く道自体、ないんですけどね。
そうなの、南地区の防壁の向こうも、東側と同じでまだまだ未開地だし、深い森が続くのよ。
水面は、赤白の山頂からうっすら見えるそうだから、あるのは確実なんだけどね。
……南北川沿いに下って行った人たちがね、とある地点から先を目指すと、そのまま誰も帰ってこないのよ。
せめて湖だか海だかの沿岸部で、生き延びてくれてると、いいんだけどねえ。
□ □ □
つまり、リーシュと諸外国を結ぶのは、この地図には載ってないけど、赤の山々を越える「赤の山道」と。
同じく、街の北から白の山脈を越える「白の山道」のみ、となります。
白の山道は、積雪の関係で年に四つ月しか、使えません。はいここで問題! 残りは幾つでしょう!
──宜しい、全員正解。九つ月です。
あ、えーと、ワーフェルドさんは、暦は知って……うん、両手指で十でしょ。足の指三つ。四本折ったら六、それに足指三、足して九ね。
大丈夫です、すぐ覚えられます。頑張りましょう。
□ □ □
ここからは、みなさんが手習い所で少しだけ教わった、リーシュの昔のお話です。
どうでもいい人は、寝ても構いません。ですが、聞くことでみなさんの心構えが変わると思います。
はいそこー! 立ったまま寝ようとすんなー!
どういう根性なのよ、そこの長柄鎚!
ああ? 名前? 覚えてやんないわよ。もう鬱陶しいから座りなさい。そこの可愛い恋人の横に。
はあ? ただの幼馴染み? はいはい分かった分かった、黙って座んなさい。
かつて西の小国家群──このリーシュの地図の、ずっとずっと左の方ですね──は、緑豊かなこの地に膨大な資源があるのではないか、と幾度となく偵察を行い。
比較的ホ……蟲型モンスターが少ないとされる、えい、この白の山脈の、北側の裾野までぐるーっと山沿いに繋がっている蟲の森の、この辺りを通り、山越えをする開拓遠征軍を出しました。
この地図だとここらへんかしら、上から下に向かう感じね。
森の北は厳しい荒野なんだけど、見通せるだけ西の草原よりはマシらしい、です。どっちもモンスターが棲息してるから、まあ危険なんですけど。
で。
毎回、犠牲を払って撤退したそうです。
それほどまでにこの地に至るまでの自然は深く、モンスターたちは強かった、ということでしょう。
もう無理だやめよう、と小国家群が決断したのは、第一回遠征軍から数十年後。その間、何度も何度も挑み、何百何千もの死体を重ねた、とされています。
そして、最後になった遠征軍の中に、一人の青年がいました。
戦場で重宝される、魔法の火を操ることも。
後方支援として、兵站や糧秣を支える水を生み出すことも。
生物の脅威となる氷を生むこともできない、≪伝令≫──声を遠くに伝える風の呪文しか使えない、弱い魔法使いです。
……そう記されているの! 違うとか言わない!
わたしも思ってないから!
続きがあります!
風の魔法使いは、己の弱さを補おうと工夫を凝らし、人より多くの荷も背負い、必死に行軍を支えました。
輜重輸卒の一員でありながら、蟲型モンスターの襲来を兵士と共に見張り、情報を全体に伝え。
辛い風雪を名もなき風で和らげたり、火や氷の魔法使いの呪文効果を、その風に乗せて拡げたり。
生きて故郷に帰ろう、家族にもう一度会おう、自分も許嫁を待たせている、と周囲を励まし続けたそうです。
行軍中に、遠征軍は再編成が行われ──るくらい減ったのねえ。
輸卒から別部隊への配置転属が二回、そして彼は、身分や国を越えた多くの友ができたそうです。
ですが、厳しい白の山脈越えをした直後、接触した凶暴なホブ……えー、鳥型モンスターたちに蹂躙された遠征軍は、史上最後の撤退に追い込まれました。
多分、地図だとこの辺りかしら。
残兵たちは、再び白の山脈を越え、北の裾野の蟲の森、で更に数を減らしながら、どうにか抜けて。
蟲の森の外縁、荒野を死に物狂いで北へと……地図の上へ戻って、そこから小国家群領土内を通って、酷いありさまで南西へ、と帰還したそうです。
その中に、風の魔法使いの姿はありませんでした。
優しい友とはぐれた。
守れなかった。
連れて還れなかった、と泣いた兵士は、一人や二人ではなかったそうです。
あら、結構生き残ってるわね。兵士もそこそこ強かったのねえ。
風の魔法使いは、戦没者一覧に名を記されました。
しかし彼の生存を信じたかった許嫁は、悔いる友たちと共に、最後の戦地へと向かうことを決意するのです。
彼はきっと生きている。
もしそうでなければ、せめて遺骨か形見だけでも、と。
諸国の王命を受けず動こうとした兵士たちは、除籍された上に罪に問われることになりました。許嫁も、家族諸共、捕縛されそうになります。
ですが各国の憲兵が動く寸前、彼ら彼女らは、同意した家族やかき集めた財と共に、それぞれの国を後にします。
帰る場所も身分も失い、罪人と呼ばれ、それでもただ一人の、風の魔法使いのその後を見届けよう、と。
戦う術のない民も含む集団は、結局、それぞれの出国、いえ脱国を見逃されました。
自ら死地に向かう罪人たちを追うのも、連れ戻すのも、投獄するのも、無駄だと判断されたのでしょうか。
……逃げ足が早かったのか、実はすっごい戦えたのか、どっちだと思う?
──よし、全員食い付いてる。
あとは覚えた通りに話せばいいわ。