新人パルト②‐風魔法使いⅠ
屯所に併設された宿場棟は、一人二泊で銅貨一枚。
板箱に藁の莚のみの寝台だったが、着替えと麻布と外套を重ねりゃどうにかなると思っていた。雨風凌げりゃまあいいや、と。
□ □ □
夜明けの鐘が鳴るより、どこかの雄鶏の「朝告げ鳴き」が聞こえるより早く、おれは背中の痛さと冷えで目が覚めた。こりゃ寝台の上に藁布団を買い足さなきゃキツい。
あと枕がいる。首と肩がギシギシしてら。
なんだかんだ言って、実家は恵まれた環境だったんだ、と今更思い知る。
≪公務遊撃隊≫の試験を受ける前、色んな仕事を試していたが、ずっと実家から通ってたからなあ。
「家と親って、ありがてぇモンだったんだなー……」
寝転んだまま全身を伸ばし、ぶらつかせ、上体を起こして腰や肩を回す。瞼を開閉させて目を暗さに馴染ませれば、まだうなされながら夢の中にいる同室の連中の輪郭が分かった。
そっと足布を巻き直して寝台を降り、布靴を履く。分厚い靴底が、音を立てないように気を付けた。
今日は記念すべき、パルトの初仕事だ。頑張らなきゃなあ。
ぽつぽつと灯る≪機工角灯≫の常夜灯を頼りに宿場棟を出て、中庭の井戸へ向かう。傍の洗い場で顔と髪の生え際を豪快に流し、石鹸を泡立てて薄い髭を当たった。
別に生やしてもいいかと思いつつ、おれにはまだ似合わない気がして、剃るのが習慣になっている。
布で顔の水気を取り、ついでに濡らして服の下もあちこち拭いておく。それから布自体を洗って、数字の刻まれた洗濯挟みを一つ、財布から取り出し、干し場のロープに留めに行った。
中庭に植わっている香ノ木は三本、それぞれの幹や太枝に渡されたロープで、干し場は三角っぽくなっている。
明日は朝、肌着を着替えて洗おう。できれば湯が欲しい。
かじかむ指の曲げ伸ばしをしながら、昨夕、ワーフェルドがあれこれ干していた辺りへ向かうと。
手巾が、なくなっていた。
おいおいおい、あれ借り物だぞ誰か間違って持って行ったのか。
慌てて周辺に目をやるが、暗がりでも目立つはずの白いハンカチは落ちていない。
ワーフェルドが借りた洗濯挟みの数字は十七から六つ、だったが暗くて刻印が読めない。おれたちが手伝って干したでかい洗濯物は、間違いなくある。長肌着二つとでかい上下、薄くて朽ちそうな拭き布。
もっと明るくなってから、皆で探してみるか。そう考えて洗濯物に触れると、まだ湿り気があって冷たい。昼過ぎには乾くだろうか。
一先ず、おれの拭き布を近くに干しておいた。
一つ目の夜明けの鐘が鳴り、徐々に空が白みはじめる。
昨日も見回したこの中庭では、長柄鎚の練習は無理っぽい。井戸と洗い場、区切られた屋根付き沐浴所が固まったところ以外は、ほぼ干し場で占められているからだ。
食堂に続く、パン釜の辺りの窓の隙間からは明かりが漏れている。人の気配はするが、かまどの熱気や小麦が焼ける香りはない。
鼻を鳴らすと、少しだけ発酵中の生地の匂いがした。
「……もうちょい、寝てみるか」
あの寝台では微睡む程度しかもうできないだろうが、仕方がない。
□ ■ □ ■ □ ■
「おい、起きろクード!」
カルゴの声と、ガックンガックンと派手な揺さぶりに、目を開く。うお、寝入ってた。マジか。
「もう日の出の鐘はとっくに終わったぞ。ワーフェルドさんは先に食堂に行ってる」
「ぬお、マジか」
目を擦り、起きる。周囲に散らばった上掛け代わりの着替えをまとめて畳み、手櫛で髪を整えてから外套を羽織り直した。
脱いでた布靴をまた履いて立ち、莚を丸めて木箱の蓋を開け、置いていた荷袋を出して着替えを詰め込んで担ぐ。
壁際の得物立てから長柄鎚と穂先に引っ掛けていた帽子を手に取り、準備は完了だ。
「メシだーパンだー」
扉枠に長柄鎚の石突きが引っ掛かって、危うくこけそうになった。やべっ。
食堂は焼きたてパンの香りが漂っていた。おっと、これは確かに朝からテンション上がるな。今までは村のパン屋の近くか、街の三つ通りまで行かなきゃ嗅げなかった匂いが、これからは毎日満喫できるのか。
カルゴと一緒に空いてるテーブルに荷物を置いて、席取りをしてから陳列台へ向かえば。
「あ」
「ん?」
急に足を止めたカルゴの背に、ぶつかりそうになる。
こいつ、ちょっと背が伸びたな。もうちょっとで追い付かれるかもしんねえ。
「おい、どした」
「あれ」
指差す先には、フル装備で荷を一つも下ろしていないワーフェルドと、引っ詰め髪の……アーガさん、がパンの陳列台前に並んでる。
アーガさんの手にあの白いハンカチが見えて、おれはほっとした。
なんだ、ちゃんと返せてたのか。
ってか、夜明け前に取り込んでたのか。いつの間に。
「これが、丸パンです。上に豆の粉が掛かっているのが特徴です。塩気が少ないので、干し肉や燻製干しとよく合います」
「丸パン。まめの粉。しょっぱくない」
「こちらは長パン。皮が堅く、噛み応えがあります。中はしっとりしているので、一つで二回楽しめるお奨めです。皮は煮込みに浸して食べることが多いですよ」
「長パン。かたい。なかしっとり。スープに合う」
竹のトング片手にパン講習をしているアーガさんと、トレイ持ったまま頷いているワーフェルド。なんだあれ。
「アーガさんこれ大きい、です! なんかいっぱい、入ってるます」
「それは皆さんがお昼用に購入する、繋ぎパンです。丸パンが幾つもくっついた形をしてますよね」
「丸パン、にてる」
「生地には木の実か干し果実、芋茎を刻んだものと、煮豆が混ぜられています。それを一人ずつちぎって、水と一緒に出先で食べるんです」
「たくさんまぜられ」
「あとは昨日の、豆パンですね」
「ベルガまめのパン、あまくておいしい」
「そうですね」
「おいしかった。すごくおいしかった」
……話が長ぇな。
「どれにしますか」
「どれも」
おい。
「朝から全部、ですか」
「ぜんぶ食べるしたい。ひとつえらぶできない」
待てワーフェルド、よだれ、やべえぞ。
「それは食べすぎです。わたしは丸パンと豆パン……と、長パンにします」
って、アーガさんこそ食い過ぎだろうオイ!
「でもこれだとわたしは食べきれないので、全部半分こしましょう。ワーフェルドさんが繋ぎパンを選べば、全部食べ比べできますね」
「はんぶんこ……」
ちょ、んなでかい図体でごつい棒を脇に挟んだまま、もじもじすんなワーフェルド。怖ぇよ。
けど陳列台の前からずれたから、後ろにいたやつがパンを取れた。その後ろに並んでたやつも、さっさと別の竹トングでパンをひっ掴み、逃げるように会計場へ急ぐ。
「あとは肉野菜煮込みと、塩漬けキャベツ卵にしましょうか。ワーフェルドさん、この煮込みも長パンに合いますよ」
「肉。羊?」
「いいえ。草食み≪魔獣≫──ええと、モンスターの中でも、その肉を人が食べることができる、種類の、ものと鳥獣の肉を混ぜたものです。細かく叩いて、塩漬けにした猪の腸や」
「モンスター、食べるできる!?」
「小国家群では食べないのですか」
「食べない。羊、たくさん」
言いながら、ワーフェルドはでかい棒を持ったままの左肘に乗せたトレイにでかい繋ぎパンを置き、おかずの皿を積んでいく。朝からすげえな。曲芸か。あと金あるのかタダじゃねえぞ。
「ひつじ、ああ、羊皮紙や毛糸の」
「干し肉は羊。いのぶたもいる。まちのいのぶたは──そうじする。だからにおいある、食べるひと、すこし」
ふとカルゴを見ると、二人の奇妙な会話に釘付けになっていた。あー、これは昨日と同じだ。多分、おれのこと忘れてるなこいつ。
□ □ □
カルゴはおれより頭がいい。
水魔法も、スッゲー上手い。
そしてこういう、わけわからんことに、めっちゃ食い付く。多分、今この話を聞きながら、頭のどっかが粉挽き魔道具みてーに、延々と止まらず回ってる。
てっきり役人になると思ってたんだがなあ。
「先行くぞー」
聞こえていないだろうと思いつつ、おれはカルゴに声を掛け、歩みを進め、ワーフェルドの肩を後ろから軽く叩いた。
「クード」
「おはようワーフェルド、取り敢えず荷物寄越せ」
「それはできない」
なに言ってんだこいつ。
「いいからそのでかい棒と、背負い袋をおれに渡せ。あっちのテーブルに置いてくる。そうしたらおまえ、んなおかしな格好じゃなくて両手でメシを選べるだろうが」
あと建物の中で革兜、被るのはよせ。衛兵でも屋内では面防上げて、顔を出すのが礼儀だ。
お前の革兜、目鼻と口以外、覆ってるじゃねえか。
□ □ □
ごっめーん遅れた、と栗色の髪を隙なくきれいに編んだキリャが、やって来る。弓手袋を着けずにいる右手を振るのが、可愛い。
椅子を五つにしておいて正解だった。
「……なんでアーガさんが同席してるの?」
「ワーフェルドの保護者だから」
「ちょっ」
「ほごしゃ?」
「済みません、クードの冗談です。キリャ、荷物ここに置いてごはん取ってこい」
「分かったー」
身軽になったキリャが、陳列台に急ぐ。うんまあ、腹も減るだろう、このテーブル見たら。
おれの苦言を受け入れ、革兜を脱いだワーフェルドは、あのでかい繋ぎパンを至福の表情でむっしむっしと食い、アーガさんが手で割って寄越したパンをうっとりと頬張り、合間に二皿目の煮込みや卵をそれぞれ空にする勢いだ。
こんなに豪快に美味そうに食われちゃ、料理人も嬉しいだろうなあ。
行儀がちょっと怪しいが、この笑顔でまあ、許せる範囲だろう。口の中が空になってから喋るのは、いいことだ。
会計場で鉄貨と銅貨を一掴み、豪快に払ってたのは、まあ、次回ちゃんと指導してくれカルゴ。
「アーガさん、しおキャベツ卵を長パンにはさむとすごいです!」
「……そうね、まあ、それは確かに美味しいと思うわ……一口もらえる?」
ちなみにキリャ、おまえが来るまでに、ワーフェルドは一人前以上を完食してる。おれらもうっかり、おかわりしそうになったぞ。
そんでアーガさんもおかしい。
ワーフェルドがぶっちぎって差し出したパンを、躊躇せずに口に入れてる。
食べきれない、って言ったのはなんだったんだ。パンは別腹、ってあんた胃が幾つあるんだ。ホブリフかあんたは。
「やだ、塩漬けキャベツ卵の結婚相手は丸パンだと思ってたのに! 長パンだと堅すぎると思ったのに!」
「長パンはにぎる、皮がばきばき、かみきるやすい。えっと、ぼくの干し肉もあうおもいます。出るときはじめてかえた、たからもの」
うわ、木匙咥えたまま荷物を漁るな。手掴みで食いもん出すな。いきなり腰から山刀抜くな。皿の上で干し肉削ぐな。
ダメだ、ツッコミが追い付かない。
「うん、ただしい。いるか?」
「お匙は置きましょう、ちょうだい!
……ずるいわ、これ≪豊国≫にないものでしょ……ひつじ……干し肉……」
「いのぶたのいぶしとキャベツ卵も、きっと長パンと合うます。ええと、まちじゃない、むらのいのぶたは、くさいのすこし。ぼくもってない」
「リーシュの燻製干しじゃダメなの?」
「くんせい? いぶしはこれよりもっと、しょっぱいだです。香草も、つかうます」
「ずるいわ小国家群……わたしの知らないパンのおとも……」
「パンのおとも」
おれは既に腹一杯だ。隣のカルゴも同じ顔をしている、多分。
「……なあカルゴ、これって俺たち、いちゃつかれてる?」
「落ち着けクード、多分二人とも自覚してない。
パン愛好家が同志と一緒に盛り上がってるだけだろう、きっと」
染色職人たちが釜の前で盛り上がってるのに近い。ということだろうか。
なるほど、新色試しの日のおばちゃんたちが、こんな感じで止まらなかったなあ。
いやまあ、なんつーか、昨日出会ったばっかとは思えねえくらい、お似合いですけどお二人さん。
素手で潰し切りされた長パンを、にこにこ食えるアーガさんすげえ。
戻ってきたキリャは丸パン二つと塩漬けキャベツ卵、ハーブ水が入ったコップをトレイに乗せていた。
「えへへー、朝から二個いっちゃうー」
「……」
やっべえ、キリャがいつもよりむっちゃ可愛く見える。
頑張れおれの理性。頼むぞ自制心。
□ □ □
結局、ワーフェルドの強い薦めで、おれたちは昼用の繋ぎパンを買うことになった。いろんな味がして、旨かったらしい。
ってか、結構金持ってんだなワーフェルド。それはいいが、鉄貨手掴みで会計場にぶちまけるのは改善しろ。
なんかお金に思えない、ってなに言ってんだこいつ。
よしカルゴ、ワーフェルドの教育指導は全面的に任せたぞ。頑張れリーダー。
先ずはワーフェルドのこのでかい水樽を売って、小さいやつに買い替えにいこう。さっきすっげえ重かったぞ正直。
□ ■ □ ■ □ ■
水車小屋周辺は、久々に会ったイルじーさんの言う通りだった。林でもない木立に少しだけ入ったが、静かなもんだ。
ここらは竹、生えてないんだな。まあ水路と水車小屋、ぶっ壊されたら困るもんなあ。
「おいクード、行き過ぎるなよ」
「へいへい」
「お義兄ちゃん、あったよー」
キリャの声に振り返ると、木柵の頭に窓なし角灯が下がっているのが見えた。
街中や村の屋内で、それこそパルト屯所内でも照明として使われているランタンと、同じ形と大きさだが──ホビュゲ素材の透過翅は使われておらず、四面とも金属壁といった格好だ。
ぱっと見、金属の四角柱に屋根がついている、感じ。
その金属壁の換気穴からも、屋根の排気穴からも煙は出ていない。
「やっべえ、消えてんじゃん」
「窓なしランタンの屋根はー、鳥印ー」
カルゴが手袋を着け換え、受付で預かってきた、≪魔忌避香≫を袋から取り出す。うん、証の木札よりちょい強いな匂いが。
「クード、灰掻き出して」
「はいよリーダー」
おれは借り物の手箒を取り出しつつ屈み、窓なしランタンの跳ね戸──換気孔がある壁板なので判りやすい──を手前に上げて留め具で固定し、灰袋に中身を移した。
うん、灰になっても少し匂うなあ。
「……なあ、本当に俺がリーダーでいいのか?」
「カルゴがリーダーだと思う人、手ぇ挙げて。はい」
「はーい」
おれとキリャが手箒と右手を挙げて、話を終わらせる。
「俺はお前か、ワーフェルドさんがいいと思う」
「あー……」
往生際が悪いやっちゃ。
後ろで突っ立ってるワーフェルドを見上げると、革兜の下で困った目をしていた。前髪、邪魔だな。
「ぼくはリーシュのこと、よく知るない。くわしい人、うえにたつ、正しい。ぼくは三人守る」
「ほら、じゃワーフェルドは無効で二対一になるな。決定」
おれの言葉に、カルゴは口を尖らせたが、反論はなかった。
「へん、じゃないでした。鼻がつめたいにおいする、これしってる。やまみちのあれとおなじ?」
「えっとねー、七つ通路や……屯所の側にも、石の柱あるでしょー。穴から煙が出てるやつ、あれと同じよー。
人を襲う、悪い鳥を遠ざける効果があるのー」
「わるい鳥、モンスター?」
「うん、≪魔鳥≫。覚えてねー」
「鳥、ほぶりど」
カルゴが置いた新しい香に、キリャが弓手袋を着けた右掌を近付ける。
単音節呪文だけで、直接触れることなく香のてっぺんに小さな火が点いた。
「火のまほうだ」
膝を曲げて窓なしランタンの中を窺うワーフェルドに、カルゴが少し思案顔をして、言葉を発する。
「ワーフェルドさんがいた国、では、こういう香がなかったんですか?」
「ない。これつよい……けむい! わあ、ちかいとけむりすごいいたい!」
慌てて飛び退く動きは鋭く、あっという間にワーフェルドはおれたちの後方に飛び退る。おおう、脚力すげえな。
顔の前で必死に手を振ってるのは、煙に直撃されたのか。
「そこまで臭くはないと思いますが……窓なしランタンの屋根の、排気穴の横。鳥の形が浮き彫り……刻まれているでしょう」
「ある」
「これがホブフリオスメルジャを入れる印」
「ほぶ、ふりおす、めるざ」
「ホブ、フリオ、スメルジャ」
なんか子どもに言い聞かせるようなカルゴの説明に、ワーフェルドは真剣に頷いている。
「あとは近くに蟲の印の札がついたかごがあるはずです」
「むし」
「リーシュには、ホブ……人を襲う鳥のモンスターと、蟲のモンスターもいます。そういうモンスターが嫌がって避ける香をあちこちで焚いたり、嫌がる葉っぱを置いたりするんです」
「むしのモンスターしってる、モンスターとちがうもの、どこちがう?」
「普通の虫や鳥より大きくて、人を喰おうとするのがモンスターです」
「たしかにそうだった。おおきいやつ、かむ ……だにもモンスター?」
「ダニや蚤は害虫ですね。虫や鳥や獣と同じ見た目なのに、異常に大きくて、特に人の背や顔を狙うやつが、モンスターです」
「わかった」
ワーフェルドが頷いてるが、エフって外国でホブリフとか狩ってたんじゃないのか?
動物とホブリフを見境なく狩ってたんだろうか。
と、窓なしランタンの中をずっと見ていたキリャが、跳ね上げ戸を閉めてから振り向いた。
「……大丈夫、火は安定したわ。次行きましょう」
「けむりへった、てっぺん穴からでてる。石のはしらとおなじ」
「あははー、こーいう香は火がちゃんと点くまでが一番煙たいのー。もう細くなったでしょー? これが『ちゃんと燃え出した』印なのー」
「ちょっとずつ、もえる」
「そうそう。あれ一つで半日分です」
「夜はもういっかい?」
「そうです、光源を持っている別の、俺たちの先輩になるパルトフィシャリスが取り換えるんです。街中のもそうです」
なるほど、と呟いたワーフェルドが、背筋を伸ばして周囲に目をやった。
「右のむこうと、左のあっち、六本脚とはねの、むしのふだがあるかご、ある。ランタン、左のさきにひとつ」
すっと交互に指差され、おれたちは慌てて目で追ってから、それらの存在に気付いた。
上背があるのは、羨ましい。それだけ高いところから広く周囲を見下ろせるんだな。
ところでここら辺には、石柱香炉がないんだな。古い区画だから、ご先祖さんが建ててると思うんだが。
ああ、でも水車小屋は昔っから小麦の搬入搬出で荷車の往来があるから、七つ通路みたいな道幅がないと逆に危ないのか。
洗濯屋なんて毎日通るだろうし、あれ、あそこの建物なんだろ。昔はなかったよなあ。
その後、ホブフリオスメルジャを焚くと、ワーフェルドはまた涙目になって逃げた。煙くなるのは分かってるのに、どうしてもキリャの火魔法を間近で見たいらしい。
「はなのなか、すーすー、つんつんする」
でかい棒に縋るように屈んで咳き込んでいるのは、ちょっと間が抜けている。つーか、そこまでキツいだろうか。
「すぐ慣れるわよー、香ノ木となにかの粉だから」
煙に怯まないキリャが、ちょっと格好よく見えるな。
「こうのき? きいた。かわらのむこうにあった」
おれはさっき交換した、蟲除けかごの枯れ枝が入った袋を上げて見せる。
河原?
「北路沿いにも並んでる、常緑樹だよ。街のどこの庭にも植わってっから、生の匂いはリーシュに入ってからもう嗅いでるはずだぜ? 昨日配られた通行証の木札も、香ノ木製だ」
「山道に石柱香炉がありませんでしたか、ワーフェルドさん」
「うん、けむり出てる石のはしら、みちとおなじがあった。ここのランタンおなじ……においした。おなじものだ!
こうの木、宿営地にあった。まちも木がいっぱいあった、たかいみちから見た、おなじ?」
そうか、この時季だと「赤の山道」とやらを通って入国してるんだよな。すげえ。
「……うん、あれだ。武装商会にかりた護り札、赤い木と、においがおなじ? くろいえらいひとと、アーガさんにもらった札、いっしょ? もっとつよい?」
ところどころ流暢なのは、外国でも同じ単語なんだろうか。言い慣れてる速さだし。
黒い人って、ああ、宰相サマか。へえ、入国に立ち会ったりもすんのか。なんでもやるんだな、あのおっさん。
「そうです、鳥のモンス……ホブリド、は枝葉を粉にして練ったものを焚いて、煙で嫌がらせます。香ノ木以外の素材も混ざってます……確か」
「ほぶりど、けむり、きらい」
「そうです。そして蟲型モンスター、≪魔蟲≫は生の香ノ木そのものを嫌います。煙も嫌がりますが、ホブリドほどの忌避効果はありません」
「なま。ほびゅ、げ」
「ええ。煙ホブリド、生ホビュゲ、で覚えるといいですね。
香ノ木が植えられない、足りないところには落ちた新しい枝葉をかごに入れて、生えてるふりをするんです」
「ほれ嗅いでみ? 交換したやつはカッサカサに乾いてて、あんま匂わねえだろ。焼けば薫るんだけどな」
かごの近くで手招きしてやると、近寄ってきたワーフェルドは鼻を鳴らす。
「わかった」
うん、カルゴの説明は易しい。おれももうちょい、考えて話そう。
「じゃあワーフェルドさんに問題でーす。ホブフリオスメルジャと香ノ木の枝葉はどっちが保つでしょーかっ」
火を点け終えたキリャが膝を伸ばして、こちらに向き直った。
「……もえる、半日。葉っぱはもっと?」
「正解ー」
お義兄ちゃん続きお願いー、と軽く駆け寄ってくっつくキリャに、おれはちょっと視線を外す。
カルゴへの全幅の信頼感が滲む仕草は、見慣れているけどたまにこう、寂しい気持ちになるのだ。
「今は春先で、暑くないから枝葉は数日保ちます。陽当たりがいい場所や夏は、もっと頻繁に交換しますが」
「こうの木、もっとうえたらかごいらない」
「そうなんですけどね」
二人がよく似た困り顔になる。
「香ノ木はな、他の植物と喧嘩するんだよ」
「けんか、こうの木は動いてたたかう!? モンスター?」
「ちゃうちゃう、他の木や作物が近いと、相手を枯らしちまうんだ……よな?」
「農作物は枯れます。ハーブも。共生……枯れずに育つのは≪青躑躅≫だけで、理由は分かっていません」
「小麦もかれる?」
「はい」
「それはたいへん、こうの木ふやすはきけん」
ふんふん、と鼻を鳴らすワーフェルドは、なんだかうちで飼ってる鶏や王様のロバみたいだった。
あれっ、鶏って鼻あったっけ?
なんか嘴開けて、ホガフガやってたよな。
□ □ □
「はい、終ー了ーっ」
南の木橋が見えてきた。
柵の端まで、ホブフリオスメルジャを焚き改め、変色した枝葉を交換したので今回の任務は終了だ。
後は戻って、おれたちが抱えてる灰袋と枯れ葉袋を提出し、借りた備品を返却すれば報酬がもらえる。
終わった終わったー、と笑顔になるキリャの傍で、カルゴはワーフェルドに木柵の向こうを指差している。
「アーガさんの講習にあったように、俺たちはまだ見習い期間中です。
この柵の向こう側には出られませんが、講習を受けて許可証を取得したり、色々できる免許を取ったら、ああいった素材を集めることができるようになります」
「つるくさ」
「あれは葛です。水に浸けて皮を剥いて細く裂くと、糸や布の材料になります」
「それはしってる。ぼくの服、おなじ」
「あそこの木立は無患子林なので、入っちゃ駄目です」
「あれ実がたべられる木。やくとおいしい」
「勝手に採ったら、イルさんたちや洗濯屋さんに金槌や篦で殴られます」
「……やらない」
どうやらカルゴは採取中心の活動を目論んでいるらしい。堅実なリーダーでなによりだ。
おれは林の隙間から見える、川面に浮かぶ漁師舟に手を振った。そのうち釣りや網漁の手伝い任務も受けられるのかなあ、と思った。
今年の筍掘りには、間に合わないんだろうなあ。竹林に入る許可証って、どうすりゃ取れるんだっけ。
イルじーさんの水車小屋に戻り、天気話をしてから井戸の横で休憩をとった。
三人揃って、なんとなく手の匂いを嗅ぐ。
手袋を着け換えてたカルゴと、直接触ってないキリャは大丈夫そうだが、おれの手にはちょっと香ノ木の匂いが移ってる。くそ、次からは横着せずに予備手袋を着けよう。
嫌な臭いじゃねえけど、気になる。灰もかかったし、これは石鹸使った方がいいかもな。
そう思って、流し場へ向かい、背負い袋の中から出して泡立ててると。
「あ、クード、石鹸」
唯一、手の匂いを確かめなかったワーフェルドが、おれの後ろで腰袋を外した。流し場に置くと、重い金属音がする。
「いくら、ですか、パン何個分?」
「──ああ、報酬受け取ってからな」
こんなとこで現金出すなよ。
つーか。
「じゃあ戻りますけど、なにかありますか」
水筒から口を離し、そう言ったカルゴに、おれは提案した。
「全員の持ち物を再確認しようぜ。ワーフェルドの水樽で思ったけど、無駄にダブって重くなると、進みが遅くなるだろ」
「そうだな、チームを組んだわけだし、一旦見直した方がいい」
「ぼくはずっと独り。いるものしかない」
財布を戻しながら困った顔をするワーフェルド、お前だよ。
お前の非常識さから考えて、今朝買い替えた水樽以外のその背負い袋の中身や、括り付けてるぼろ布が気になるんだよ。
頑張れよ、と見送ってくれたイルじーさんに、ちょっとムズムズした。