街中を走る日‐団長の娘 Ⅳ
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両替したての鉄貨で、ウェドさんがさっき立て替えた洗濯代をじゃらじゃら返してくれた。あたしの財布にはもう入らないから、金ぴか銅貨と一緒に巾着袋の中に入れる。
ケフィーナさんは、金ぴかを大事そうにエプロンのポケットに入れていた。
「やったわ、今日のパンは多めに買っちゃおうっと」
ずっしり重い財布にウキウキしながら、歩き出す。まだ日は高いし、ここから魔法の家は遠くない。
「パンの指定日制度は、この国も同じなんだな」
あれ、今気付いたの。スーさんの鋳掛屋出てから話してたのに。
ウェドさんは、あたしより抜けてるなあ。
「そうね、うちは明後日よ。薄焼きなら今日でも出せるけど」
「……水や、器も違ったな」
ようやくケフィーナさんの抱っこを免れて落ち着いたのか、ウェドさんはゆっくり呟く。
「そんなに違うところが多……いよねえ。ひつじとか。うん、よく分かったわ」
服も、お金も、体力も。かちく、やホブリフたちの呼び方も。
あたしにとっての当たり前が、ウェドさんにとっては全然知らないこと、の連続なんだろう。
「……魔法もまるで違う。ワンドを持つ魔法師が、一人もいない」
「ワンド?」
どっかで聞いたなあ。
「ああ、昨夜落としたあれかい?」
ケフィーナさんの言葉に、ウェドさんは頷いて、腰の後ろから棒みたいなものを取り出して見せてくれた。
ベルトが鞘みたいになってるんだ。
「……きれいだね」
「わあ、なにこれ」
細くて短めな棒に金属が巻き付いていて、模様か文字か分からない、あの刺繍に似た意匠が彫られている。
てっぺんが蛇の頭の形になっていて、磨かれた透明な石を咥える格好だ。
水晶かな。機工ランタンの光源の。
「私が知る魔法は、先ずこのワンドに魔力を通す。ワンドが光れば、呪文を詠唱した後に、魔法が発動する」
「「時間がかかりすぎない?」」
ケフィーナさんとまったく同じ言葉を返すと、ウェドさんは肩を落とし、ワンドをベルト鞘に差し戻した。革紐とボタンで落ちない造りになっている。
「……ああ、魔法の、そもそもの基準や立ち位置が違うんだろう。
それを知らず昨日、研究所を訪ね、ただの民家でろくな論文もないと、酷いことを言ってしまった。
昨夜と今日とで、自分の見識の小ささを、思い知らされたよ」
「いや、逆ならこっちが物知らず扱いされたんだろうね。言いすぎたよ、悪かった」
「……貴女は悪くない。昨夜も今日も、助けてもらった。ありがとう」
ウェドさんは歩きながら、ケフィーナさんを見た。少し、見上げる角度で。
「そうだケフィーナさん、昨夜のホブリフはどんなのだったの?」
二人の後ろからそう言えば、ケフィーナさんが肩を竦める。
「毛長牛……んんと、『白の山脈』の向こうの……北にベルガスって国があるんだけど、そこの高原にいるうし、動物、に似ているらしいわ。
わたしは、腕が鈍ってたのを思い知らされたわ。もっと本腰入れて鍛練し直さないと、団に戻れないわね」
あ、ウェドさんが言ってた、聞いたことなかった単語。でもあたしは覚えたもんね、うしは食べられる。ふふふ。
あとベルガスの動物なら、スーさん知ってるかなあ。
「えー、昨夜、父さんが帰ってから言ってたわよ、『武の女神』とパルトフィシャリスが早く動いてくれたから、犠牲者がいなかったって」
「んもう、団長ってばまだその呼び方してるの? やめさせてよ、コディアちゃん」
いつ頃戻るの、来年よあの子が四つになったら戻るわよ、と二人で話していたら、ウェドさんが立ち止まった。
「コディア、きみの、父上って」
「父さんは衛兵第二団長、だけど?」
途端にウェドさんに頭を下げられた。
こわい。
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日を跨がずに戻ってきた魔法の家、流石に長が驚いている。
ウェドさんは先日の無礼をなんちゃらとか、謝っていた。
「改めて、この国の魔法の在り方を勉強させて下さい」
「でしたら、コディアが詳しいですわ。明日からこの子に訊いてくださいな……コディア、パン屋はまだ行ってないの?」
「もうちょっとしたら、行きます。父さんは黒パンの方が好きだし」
普通の全粒パンは朝から、混ぜ物パンは昼前から並ぶ。
黒麦パンは昼過ぎから焼かれ、夕方に売り出されるのだ。
ケフィーナさんは、副長のおじさんのところに行って、なにか話している。
なし崩しに明日からの予定が決まってしまったあたしは、ウェドさんにざっくり先案内することにした。だって明日は、庭掃除と買い物と氷屋で、昼すぎからしか来れないし。
「きみもその、火魔法師と言ったな。あの女の子みたいに戦うのか」
「誰のことか知らないけど、不可能貝ー」
おっと、これはあの黒おじさんの口調だ。うっかり真似てしまった悔しい。
「は?」
「一個しか発動しないって言ったでしょ……【火】」
これで今日、三回目のランタン点火。よし、うまくいった。
「あたしがちゃんと発動させられるの、これだけだもん。焚き付けとランタンの着火が、ちょっと楽になるだけよ」
「……」
「衛兵に必須な風魔法じゃないし、こんな種火じゃホブリド一羽も焼き落とせないわ。
代わりにここの冊子はぜーんぶ丸暗記したのよ、火魔法以外も説明はできるし、明日昼から来るから、詳しくはその時に訊いてね。
棚のここまでが風魔法、ここから水魔法、こっちは土魔法と植物魔法ね。あとそっちが氷魔法と火魔法で、これが長も使える機工魔法だけど、まだ一冊なの」
「ああ、それは……助かる。いや、じゃなくて。
その、今、スゥェールや昨夜の子と同じ、ワンドも持たず無詠唱で、単音節の分類名のみというのは……」
共立魔法院では高等技術になるんだが。
そう続けられて、あたしはパンかごを落としそうになる。ランタンは死守!
「ちょ、さっきも言ったけど、なにそれ聞いたことない!」
「私も知らな──そうか、昨夜の火魔法師のあれは、無詠唱ではなく聞き落とした単音節分類名か。ならまだ、理屈は通る」
それから、ウェドさんは人が変わったみたいに魔法の話をはじめた。これは長くなるやつだ、と勘付いて、あたしは「大人」たちに「甘える」ことにする。
長と隣室の副長おじさんと、ついでとばかりにケフィーナさんを引っ張ってきたら、ウェドさんが不思議そうな顔をする。
「失礼ですがその──この冊、いや論文を記すのは引退した方だと聞いて……」
ちら、と長を見る。土魔法使いの長は白髪混じりのおばあちゃん、もとい、「大きなお姐さん」だから、見た目ですぐ納得したのだろう。
けど、なんで針を持ったままの副長おじさんは「若すぎる」、って言いたい顔なんだろう。
なにが疑問なのかが、分からない。
「はっ、あんたは俺が、まだホブリフとやりあえる年齢に見えるのか?」
「テルダード、言い方」
長に窘められつつ、まあ一昨年までは現役張ってたがな、と副長おじさんが吐き捨てる。
そこでようやく、あたしも納得できた。
常識が違うと、当たり前のことが通じないから──違う点だけでなく、その前提から伝えないと理解し合えないんだ、って。
「ウェドさん、戦う魔法使いは、ホブリフから走って逃げられなくなるくらいの年齢で引退するのよ」
ケフィーナさんの説明に、ウェドさんは首を傾げた。
副長おじさんは元パルトフィシャリスで、戦う仕事から引退してここに、とあたしが付け加えると、どうにか理解してくれたっぽい。
魔法使いが街の外で戦うということが、ウェドさんの常識にはないんだ。小国家群って、平和なのね。
「まあ俺は膝をやっちまったが、生きて辞められたから、幸運な部類だ」
ニヤリと笑う副長おじさんは、白黒まだらな髭を掻く。
長はおっとりと微笑んでいた。
「ではウェドさん──我々に答えられる範囲でしたら」
そこからは、ウェドさんだけじゃない、あたしにとっても勉強時間だった。
あたしたちが短い呪文と呼ぶものが、外国では「魔法の分類名」で。
魔力を込めずに発声しても発動しない、からリーシュでは「分類名」と「呪文」が同じだけど、おかしいと思ったことがなかった。
最初の、適性審査の時に復唱する長い響きが、外国では「発動呪文」と呼ばれていて。
外国では大人でも、こっちを唱えないと魔法が発動しないらしい。
ワンドが要るとか集中がとか、のんびりしすぎてるけど、そうした方が発動しやすくて、威力と距離がばらつかない──例えば火勢の調整や、範囲や方向の一定制御が楽なんだって。
適性審査の時も、先ずワンドを握らせて。
光れば、魔力放出、つまり魔力の操作ができる「才能あり」扱いされる。長い呪文詠唱を覚えるのはその後、なんだって。
そっちの方が、審査が早くて便利かもしれない。
でも、属性ごとにワンドは造りが違うんだって。じゃあ不便じゃない。
リーシュではワンド無しで、長ーく響きを合わせて唱えさせる。発動できたら「その属性に適性あり」だ。
それぞれの魔法使いがあちこちの手習い所に行って、みんなで順番に長ーく唱える。
それでほとんどの子が、なんらかを発動できるんだけど。それはつまり、長い詠唱の方が、発動は易しいって意味よね。
……分かるんだけど、なんか、解せぬ。
あたしは火魔法の短いやつを、ずっと頑張ってたのに。
実は書かれていないし知られていないけど、ブランダにもフォーゥみたいなもっとずっと長ーい呪文が別にあったってこと?
そ、そんな!
「コディアは発音と抑揚が少しズレているのかもしれない。教えてやるから一回、ワンドを使ってやってみないか?
それか、私の新呪文をどこかで試してみるか?」
やだ、ウェドさんが手習い所の先生みたい。
ちょっと見直したわ。
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楽しかった。
冊子にないことも、たくさんあった。
副長おじさんの探索話や、防御の呪文効果範囲が大きくなったこととか。
土魔法は「解き放つ」と「変える」呪文構成と解明されて進んだとか。機工魔法へ進みやすいのは、土魔法と風魔法使いだとか。
長が作った魔道具、から魔工石を抜いて大きくしたものが、水車小屋で使われている、とか。
パン屋の粉挽き魔道具は、もう亡くなった前の長が作ったとか。
知ることで、曖昧だった別々が繋がっていく感覚。
山にかかった雲や靄が晴れて、山頂までの稜線がくっきり見えるような、落ち着いた気持ち。
勉強を中座したくない、と思ったのは、はじめてだった。
「──退くのも勇気だ。無理な背伸びは、自分も周囲も不幸にする。過信と傲りは、魔法使いだけじゃない、人間の真の敵だ」
副長おじさんの言葉は、重かった。
あたしはなんとなく、心の中で謝った。うまく言葉に出せなくて。
もう、灰まぶしゆで卵なんて、こっそり呼びません。ごめんなさい。
「今日はいい出会いがあったんだな、コディア。ほら、そろそろ帰れ。パン屋が閉まるぞ」
「はい」
はじめて副長おじさん──テルダード副長の顔を、正面から見て返事ができた。
ケフィーナさんが、ポケットからあの金ぴか銅貨を摘まみ出して、あいさつの手の代わりに振ってみせてくる。
「また明日!」
あれ、明日って、ケフィーナさんお店はいいのかな。
……いいんだろうな、ケフィーナさんだし。
□ ■ □ ■ □ ■
魔法の家を出ると、日が傾き出していた。夕暮れの鐘が鳴る前に、と巾着袋入りのかごを抱え、パン屋へ全力で走る。
鉄貨で膨れた財布の重さを、一歩ごとに思い知る。でもこれは価値ある重みよ、と自分を奮い立たせた。
パン屋並びに到着、まだ二軒、開いていた。隣接している蒸し風呂屋の受付に指定日の札の裏表を見せて、靴を脱ぎながらパンかごと財布を預ける。
大急ぎで更衣室に入ると、巾着袋を開けて棚に突っ込み、服を脱ぐ。髪紐もほどいて、櫛と石鹸ごと洗い布を引っ掴んで、蒸っし蒸しのパンの匂いのお風呂に突入!
過去最短時間で湯浴みも終えて、垢も落としてさっぱりする。
洗ってスッキリした濡れ髪と体を拭い、服を着てから整え油を髪と肌にすり込んで。
お待ちかねのパン屋へ、とうっ!
遅くなったから心配だったけど、ちゃあんとパンは買えました!
増やした鉄貨で、黒人参の甘パンも、最後のサトイモパンも買えました!
三日月パンも一個、買っちゃった。これはあたしの晩ごはん。
全部鉄貨でじゃらじゃら払ったから、お財布に空きができた。
ので、巾着袋からお金を入れ直した。
てっぺんに置いた金ぴか銅貨に、にんまりする。
満足感に勝ち誇ってパン屋を出ると、西の方で警鐘が鳴っていた。あっちは職人町、じゃあ南西の第五衛兵団の担当だ。
そう思いながら見上げれば、西の「赤の山々」上空の、夕焼けにホブリドの影が浮かんでいる。ここからでも見える大きさに、高揚感がすっと消える。
□ □ □
「来ないでよ」
足が竦む。
「もう街を、リーシュを壊さないでよ」
抱えたパンかごの匂いだけで、正気を保つ。
ぐう、と鳴ったお腹の音が、他人事のようで。
「──落ちちゃえ! ホブリドなんか、死んじゃえ!」
勝手に目が潤む。勝手に口がそう叫ぶ。
死んだ母さんの笑顔が過る。
駆け寄る父さんの鎧装と、いつまでたっても強い火魔法が発動しないあたしの掌と。
さっき見た副長おじさんの横顔が、鋳掛屋のスーさんの掌が、泣きそうな顔が、笑顔が。
ケフィーナさんの背中、あたしたちをばかだと言い切ったのに提案してくるウェドさん、宿の女将さんの声、色んななものがぐるぐる──。
「──えっ」
信じられないものを見た。
旋回するホブリドの影に、下から一直線に飛んできたなにかが、当たったのだ。
小さい黒い影、逆光でよく分からない。けど続け様に幾つも、幾つも。
ホブリドの羽が散って、いるように見える。遠くから小さく届く甲高い咆哮は、焦っているように、聞こえる。
まるで石当ての的になっている、みたいだ。あんな高さに飛礫を投げられるわけないけど。父さんだって、無理なはずだ。
「どう、なってるの」
北西の第三、南西の第五。二ヶ所で鳴るようになった警鐘の音に混じって、硬い音が微かに聞こえ、たような。ホブリドの鳴き声が小さいけど邪魔だ。
ううん、鐘もホブリドも、もうちょっとだけ静かにして!
と。
ごっつ、という微かな鈍い音が、ここまで届いた、気がした。
石のような、ううん、ここから見える大きさなら大石?
すごい勢いで下から飛んできたなにかの影が、ホブリドの羽根を貫く。
ちょっと待って、なに、一体なにが起きてるの!?
また遠い小さな鈍い音、が聞こえたような。
一つ、二つ、三つ目がホブリドの頭を砕いた。ずごん、という間の抜けた音が聞こえたかもしれない。
錯覚かも、しれない。
でも警鐘の合間に変な音がした、よね?
空中でホブリドの動きが止まる。ゆっくり、墜ちる。
「えっ、えっ」
警鐘の合間に届く小さな細い鳴き声は、今朝のピーちゃんとちょっと似て、ない。今のはあんなに可愛くない、けど。
ホブリドはあっという間に見えなくなった。多分、西の森の向こう。石切場の辺り……なら大丈夫か。
石工は強い。衛兵さんが詰所から駆け付けるのも、すぐだろう。
森が揺れて騒いで、小鳥たちの影が少しだけ羽ばたいて、まるで黒い葉っぱが夕焼け空にちょっぴり散るみたいで。
同時に、南西と北西の警鐘は止んだ。
昨夜よりずっと早く、片は付いたらしい。
少しだけ立ち尽くしていたら、向こうから衛兵さんが走ってきた。
風魔法のテレフィミを受けて、自分の声が次の衛兵さんに届く位置まで移動、しているのだろう。滑らかな詠唱の後に、普通の言葉が続く。
「西の森上空のホブリド絶命確認、全長七級、黒色。
被害は落下した屍による石切場の足場崩壊一箇所、飛礫による用具置き場の損壊、死亡負傷なし、パルトフィシャリス新人四名による撃墜。
現時点では以上!」
「……」
撃墜、って言った、わよね、今。
「うっそおおおおおお!」
まさか本当に石当てでホブリド落としたの! 誰が! どうやって!
あと最後の四つ、石じゃない絶対! 石ならあたし見えてない絶対!
見たもん!
見えたもん大きな塊の影が!
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安堵と混乱でわけが分からなくなってたけど、パンの匂いと繰り返すお腹の音で、落ち着いた。
──そうそう、帰ってピーちゃんたちを小屋に入れないと。
父さんに、この美味しそうなパンを食べさせないと。
かまどに薪を入れて、浄水筒を組み立てて井戸水を通して、鍋で沸かして。
麦酒煮込みを作って、黒パンを切って、ランタンに火を灯して、風呂上がりの父さんを迎えないと。
昨日よりきっと早く帰って来る、父さんに話さないと。
今日が平和な、とびきりおかしなことだらけの日だったことを。
明日からもきっと、昨日までとは違う日になることを。
ああ、その前に一個だけ、このサトイモパンを先に摘まんじゃおう。きっとこの春、最後だし。
そして言わないと。
あたしは父さんの鎧装より、鬚が好き。母さんは顎鬚が一番素敵って言ってたけど、あたしも同じだってこと。
だからこれからも──毎日無事に帰ってきてね、って。
団長位の薄金色の、ホビュゲ素材の立派な鎧より。ウェドさんがくれたあの金ぴかの銅貨より。
父さんの金褐色の鬚が、一番素敵よ、って。
歩きはじめたあたしは、夕暮れの鐘に背を押されて駆け出す。
警鐘とは違うのんびりした響きに、顔を上げて走りながら、笑った。