街中を走る日‐団長の娘 Ⅰ
ああ、またあの夢だ。
人に非ざる金切り音。
声にならない絶叫。勝手に揺さぶられる、恐怖。
母さんが、あたしを庇って、鉤爪が。
真っ赤だ。
宙ぶらりんの母さんが、血が、誰かの怒号が。
鐘が鳴り続ける。短く速く、うるさいくらい。
道が赤い。赤い中に何人も倒れて。
母さんは動かない。顔も、手足も、ぶらりと垂れて。その胸から、尖ったものが。血が。
そして──炎。
呪文と火炎。
やめて。
やめて。
幾つも、幾つも。どこかの庭の≪香ノ木≫が火柱になって、轟音が、熱波が、母さんをぶら下げた≪魔鳥≫が、爆ぜて。
真っ赤だ。
悲鳴と、炎と、なにもかもが焼ける臭いと。
母さんは真っ黒になって、崩れて、落ちてくる。
誰かの、男の人の、絶望の呻き声──
□ ■ □ ■ □ ■
庭のピーちゃんの「朝告げ鳴き」で、あたしは目を覚ました。
毎朝、雄鶏が夜明けの鐘より早く鳴くのは何故だろう。
≪豊国≫で鶏が飼われるようになってから、きっと誰もがそう思っている、だろうけど、その答えは誰も知らない。
ただ、それが当たり前で普通。
首にぬる、とした不快感があって、手の甲で拭う。汗をかいていた。
一の月の、夜の空気はまだ冷たいのに。
「武装商会」が建国時に、このリーシュに持ち込んだと聞く、ロバと鶏は国民全員の癒しだ。
あたしがまだ小さくて、お母さんも元気だった頃。ピーちゃんの幾つか前の鶏たちがうちに来たんだっけ。
鶏は肉も食べられる、んだけど、みんな積極的にしめたりしない。雌鳥があたためようとしない、産みっぱなしの卵は拾うけど。
寿命で死んだ飼い鶏を、泣きながら肉屋に抱えていってお肉にしてもらって、美味しいと泣きながら食べたり。脂や羽を買い取ってもらったりするのが、リーシュの子どもあるあるだ。
そろそろピーちゃんもお肉になる年だ。さっきの元気な鳴き声からは想像できないけど、覚悟はしておこう、そう思いながら、暗い部屋の寝台から身を起こす。
ロバは蓬が生えてる中央広場の小屋で大事に飼われ、日中はいつでも見に行ける。
運良く王様が居合わせたら、子どもはその背に乗せてもらえることもある。
そして大抵、王様は、探しにきた黒おじさんに引きずり戻されていくんだけど。
ロバ小屋の近くに手習い所、紡織工房が集まっているのは、上手く考えられてるなあ、とふと思った。三つ通りにある中央街区は、国で一番安全な場所だ。
……手習い所を卒業した今の自分には、あそこもすっかり縁遠くなった。
そのうち、つぶらな瞳のロバを見に行くのもいいかもしれない。
寝台を下りて上掛けの上に広げていた何枚かの服を畳み、外套は吊るさず羽織る。
窓の布戸を手前に跳ね上げ、外の突き上げ戸を固定したら、夜明けの鐘がゆっくりと鳴りはじめる。
直に庭を見下ろすと、顔に当たる微風が冷たくて少し震えた。香ノ木の影は、昨日と変わらない。
薄暗がりの中で、ひょこひょこ歩いている鶏たちの影がある。餌の草の実と、砕いた豆殻と、≪魔蟲≫の残骸を撒いてる父さんの大きな後ろ姿も。
「おはよう、父さんピーちゃんピヨちゃんピピちゃん茶色ちゃん」
布戸を下ろさず、顔を突き出して声をかける。
「おう、起きたか」
昨夜、遅くに帰ってきた父さんはもう、身支度を済ませている。顎鬚も櫛を通したみたいで──もう恥ずかしくて言わなくなったけど、さらりとしたその長さは格好いい、と思う。
「今日は早番なの?」
「いや、しばらくは早出と夜上がりだ。昨夜の始末が済むまでは、な」
「……うん」
大型の≪魔獣≫が街中に出たのは、確か半年ぶりだった。
ホブリドならそう珍しくない。街の東の石壁の高さは限られているし、あちこちで≪魔忌避香≫を焚いていても、風が吹く空まで充満させるのは無理だから。
「しばらくは二つ通りが混み合ってるから、避けて通れよ」
そう言う父さんは、もう「第二団長」の顔になっている。
「……気を付けてね」
半人前の娘としては、他になにも言えないのが、歯がゆい。
そっと布戸を戻すと、室内の四隅の暗がりが濃く見えた。
□ □ □
外套と夜着を脱いで、髪に櫛を通す。
抜け毛を箱に入れてから髪を括り、服に着替えて外套を羽織り直した。あったかくて、ほっとする。
寝台の上掛けを畳んで、新しい肌着と櫛、ミントを浸けた≪整え油≫を持って階段を下りる。母さんの椅子の座面に置いてから、朝の準備だ。
テーブル上の油が入った角灯に、呟きながら火を灯す。コディアありがとう、と笑う母さんの幻が、今朝も見えた。
台所に吊るしてある、腸詰めの燻製干し。ぶら下がってる端の二つをちぎって、竹串に刺して。窓を開けたランタンの中に立て掛ける。
直火に当たって燃えないように離しつつ、脂が窓に付かないように見張って。
行儀が悪いのは分かってるけどね、と笑った母さん直伝の、朝の技。
じう、と、音がしたらくるりと裏返して炙り、さっさと器に入れる。
竹串を抜いて、ランタン窓を閉めちゃえば、父さんにもばれないのだ。肉詰めの燻製干しと違って、腸詰めは細いから。
かまどのそばの樽から、流し台の小盥に手桶で水を移し、石鹸を使って顔を洗った。水の冷たさに目がぱっちりする。
整え油を二滴、手のひらでのばして顔に塗った。
樽の中はもう残り少ない。父さんが昨夜、大盥で沐浴したから。
明かり取りの窓から入る朝日が、ランタンでは足りない屋内の暗さを薄めていく。
明日は横着せず、朝から火を熾そう、と思った。
二の月に入る前、本格的な芽吹き前の朝は、まだ寒い。
父さんは庭用の麦藁履きを脱いで部屋に上がり、あたしに藁かごを手渡して、小盥の残り水で手を濯ぎ、手桶で汲んだ水で流した。
まだ暗いのに、ピピちゃんと茶色ちゃんが産んだ卵を上手に探し集められるのは、父さんの朝の特技だ。
ひよこになれない色違いが、二つ。
羽が換わる間は得られない、恵み。
藁かごを台所の棚に置いて、下段から竹コップを二つ出す。隣のハーブ箱からひとつまみずつ入れて、水樽の側の瓶へ一歩、向き直った。
昨夜作った湯冷ましを入れた瓶を傾け、竹コップ二つに注ぐ。匙で軽く混ぜ、テーブルに並べた。
藁かごは棚に直接置けばいいのに、そう思うけど父さんは毎朝、あたしに手渡してくる。
理由は知らない。
ただこれが、あたしたちの普通。
樽から片手鍋で水をすくって、庭に出る。ぶかぶかの庭用サンダルを履いて歩けば、雌鳥の茶色ちゃんが寄ってきたので、足元に気を付けながら鶏小屋へ向かった。
傾けて、中の水皿に直接注げば、みんな一斉に寄ってくる。
ふわふわの羽を震わせて、コッコッコ、と水を飲む姿は、やっぱり可愛い。ちょっと臭いけど。
そろそろひよこが見たいなあ、なんて思う。
「今日はパンの日だから、明日は焼き卵挟んだの作るね。父さんも、お風呂入ってから帰ってね」
「おう、分かった。頼んだぞ」
空になった片手鍋を持って台所に戻ると、父さんは大鍋に残っていた冷めた麦粥を、レードルを使い器にそれぞれ移していた。炙った腸詰めの燻製干しが、どろり、と覆われて見えなくなる。
あたしは木匙を準備して、テーブル向かいの席につく。いただきます、二人きりの朝御飯。いつもと同じ朝。
塩漬けキャベツを刻んで詰めてた小壺は、ぴったり空になった。
父さんは相変わらず、すごい早さで食べ終わる。あの食べ方でどうして顎鬚が汚れないのか、不思議だ。
「旨かった。じゃ、行ってくる」
「……気を付けてね」
コップのハーブ水を含んで、口を濯いで飲み下してから、また同じ言葉をかける。
母さんが生きてたら、なんて言うんだろう、見送る時に。
□ □ □
大鍋とレードル、串と小壺と食器を樽の最後の水で洗っていたら、荒縄束子越しに鍋底がもろり、と欠けた感触。
慌てて水から上げたら、小さな穴が開いていた。
「父さん」
思わず声を上げたけど、返事はない。そりゃそうだ、もう家にはあたししかいない。
困った。家の金物を、修理に持っていくのは父さんの役なのに。お前には重いから無理だ、って、あたしが手伝うのも断るのに。
──いや、でもあたしはもう十四だ。鋳掛屋に持って行くことくらい、できる。父さんはいつもより忙しいんだから、うん、後で行こう。
水を切った小盥を、流し台に立て掛ける。
水切り笊を渡して、大鍋以外を伏せて並べていたら、本格的に外が明るくなってきた。
ランタンの火を消し、油の残量と芯の様子を確かめる。うん、問題なし。
穴あき大鍋は、一旦かまどの五徳に乗せておく。
空になった樽を持ち上げて玄関へ向かい、靴を履く。
扉を開けて石段を二歩下り、父さんが出掛けに出してくれていた台車に乗せ、共同井戸に向かった。
昨夜の騒ぎで、水が濁っているかもしれない。そんな心配は、井戸蓋をずらして釣瓶を落とし、引き上げた中身を見たことで、杞憂に終わった。
側に立つ石柱香炉からは、いつもと同じ細い香煙が立ち上り。反対側に植えられている香ノ木も、変わりはなかった。
二つ滑車のロープを手繰り、上がってくる釣瓶からどんどん水を樽に移しては落とす。早くしないと、後ろに並ばれてしまう。
幸い、今朝は近所のおばさんたちに遭遇せずに済んだ。一旦捕まると、長いのだこれが。こっちは色々やることがあるのに──と考えて、ああ、と思う。
もしそうなっても、今日はうちの「指定日」だから、で切り上げられたはずだ。
パンの日ならでは、の絶対の断り文句。
思い出すと、それを使えず終わるのが、なんだか勿体ない気がしてくる。
水樽を乗せた台車を、引きながら帰った。
よいしょ、と持ち上げて段差を越える。
床板の上で斜めに揺らしながら、台所に移動させた。それから外の台車も持ち上げて、玄関内の定位置に戻す。
次は洗濯屋だ。
晩ごはんの前に浄水筒を使ってもう一瓶分の湯冷ましを作らなきゃ、と頭の中に書き留めておく。
ついでに黒斑湯も、煎れようかしら。
棚から下ろした大きなパンかごに指定日の札がちゃあんとあるのを確かめて、大麦箱に埋めていた財布を掘り出すと、軽く振ってから中に入れた。
ちょっと笑う。
泥棒避けと母さんは言ってたけど、本当にいるのかしら。盗賊と同じ、作り話の中だけじゃないのかな。
乾いていない石鹸を、粗目の洗い布でぐるぐる巻く。持って下りた新しい肌着と拭き布と櫛と整え油の小瓶と一緒に、壁に掛けていた巾着袋に入れて、肘から提げる。
部屋の隅から洗濯かごを持ってきて、その上にパンかごを重ねて家を出た。軽いけど大荷物。
□ ■ □ ■ □ ■
ちょっと早いかなと思いつつ、四つ通りの洗濯屋に向かうと、丁度開店したばかりだった。
「おはようございます」
「あらおはよう、コディアちゃん」
台机の上に荷を下ろし、これ見よがしにパンかごの中から財布を出せば、長話の空気はない。よしよし、これよこれこれ。
洗濯かごをだけを向こうに押せば、受けたおばさんは持ち手に円い木札を括った。
手早く洗濯物の種類と数を確かめて、白墨で札になにやら書き付ける。いつもながら、隙のない動きだ。
「はい確かに──今日はこっちの糊付けも、かね」
「お願いします」
いつもより多く出した鉄貨の枚数に、にっこりされる。ええ、だって今日はパンの指定日ですから。贅沢、しちゃうのです。
□ □ □
さてパン屋だ、と意気込んだけど、まだ日は高くない。
入店前には必ず隣の風呂屋に行かなきゃいけないし、入浴後にあちこち出歩いて汚れるのも気が進まない。
だったら今日は、お昼まで好きに動いて、鋳掛屋の後でパン屋に寄って帰ればいいか。
指定日アピールで持ち出した一式を、一旦置きに帰る。掃除は、昨日したからいいや。床はまだきれいだし。
パンかごと巾着袋を上がり框に置いて、財布だけ持って家を出た。駆け足で四つ通りに戻って、洗濯屋の北へ行ってみる。
鋳掛屋ってこの辺りじゃなかったかしら、と店ごとの看板を見ながら走ると、引き戸を開け出した金物屋さんを見付けた。尋ねてみたら、隣だった。戸口のそばの外壁に、大きな盥が立て掛けてある。
「音がするからなあ、開くのはもうちょっと後だよ」
「分かりました、ありがとうございます」
ついでに大鍋の修理代金と手間を訊いてみたけど、流石にそれは品と状態によりけりだ、って。まあそうよね。
じゃあお昼までは遊んじゃえ、と小路に入って三つ通りに抜ける。
パン屋の並びからは離れてるけど、いい匂いがした。毎日、この匂いを嗅ぎたいなあ。
このまま北に進めば、中央街区。広場で久々に、ロバを愛でてみよう。
□ ■ □ ■ □ ■
ロバ小屋は、朝から賑やかだった。子どもたちが群がる先には──あらま、王様がいる。
「順番だからね、押したり騒いだりしないこと。ロバを叩いたり毟ったりしちゃだめだよー」
小柄でのほほんとした王様の声に、みんな良い子のお返事だ。ちゃんと並ぼうぜ、と声を上げた子がいて、わくわく顔の列ができていく。
「おうさま、このこはおとこのこ?」
「女の子だよ」
「かあいいねー」
「かわいいよね、優しく撫でてあげようね」
あー、可愛いなあ。王様はもうおじさんのはずなんだけど、なんでか可愛いんだよねえ。あたしと背丈が変わらないくらいだからかなあ。髭をたくわえてないせいかも。
周囲を見ると、母親らしき若いおばさんたちが、遠巻きにその様子を眺めている。平和だ。みんな笑顔だ。
昨夜のことが嘘みたい──そう考えて、真顔になる。
逆だ。
あの騒ぎでみんな、少し不安になってるかもしれない。だからわざわざ、王様が来て、朝からロバ小屋を開けているんじゃないか。
そっと広場を後にした。
色々な感情が過ったけど、うまく整理できない。自分独りだけ、みんなと違う顔をしているのが、なんだか息苦しかった。
□ □ □
早足で広場を抜けると、自然に北へ向かっていた。
街の北路沿い、古い石造りの建物。
広場の横にある手習い所を卒業してから、毎日通っている「魔法の家」。
隣は資材置き場になっていて、でも今朝は人が多い。材木も石も、川砂もどんどん数えられて分けられて、待ち構えてる何台もの荷車に積み上げられていく。
裏手の弓場まで埃っぽくなってそう。
「あれ、おはよう。コディアちゃん今日は」
「おはようございます。ちょっと時間があったんで」
西の窓を全開にしていた長が、自分に気付いて声をかけてきた。皆からおばあちゃん、とうっかり言い間違えられる優しい人。
熱心だねえ、と迎えてくれた長に一礼して、魔法の家に入る。
「今日は東と南の突き上げ戸は閉めたままね、布目より細かい土埃が入りそうだから」
「はい」
いつもより暗いから、と渡された、うちのと同じ造りのランタン。それを目の高さに上げて、今朝と同じ呪文を唱える。
「【火】」
腹の底から背筋に沿って、なにかが上がって抜ける感覚。
ぽう、と小さな──赤い、火が油芯に灯った。
ちょっぴり待てば、十分な明るさになる。
ランタン窓に張られたホビュゲの透明な翅越しの火は、薄い模様の影を伴っていた。ゆらゆらしてる。
□ □ □
庭や弓場での呪文練習は無理そうなので、座学室に入った。
ランタンを机に置いて、棚から薄い冊子を幾つか適当に出す。椅子を引いてから、改めて一冊を手に取った。
まだ一つしか術の発動ができない、自分のような見習い魔法使いは、≪公務遊撃隊≫の試験を受ける資格がない。当然、衛兵採用のそれも。
この魔法の家で毎日練習を繰り返すか、諦めて普通の仕事に就くか。
この前、キリャねえちゃんがここを出る許可をもらって、パルトの試験も合格して出ていっちゃったから。次の見習いが来るまでここは自分専用みたいになった。寂しい。
早くあたしも出ていかないと。
暗記するほど読み込んだ、同じ火魔法使いだった人が記した、「呪文詠唱のコツと癖」という冊子。
読みながら、≪炎放≫の響きを一音ずつ区切り、声に出してみる。腹の奥底から背中へ、なにかが上る感覚がある。
ここまでは正しい、間違っていない。
こっそりと、北の窓の布戸を開ける。
弓場の端に見える変な蔓草が巻き付いてる朽木に向けて手を伸ばし、全部繋げて詠唱してみる。なにかがごっそり抜けるけど、魔法はやっぱり発動しない。窓枠に近付けたランタンの火にも、変化はない。
あの草、いっつも同じだけ生えてて妙にイライラする。ない日もあるから、長たちが刈ってるんだろうけど。気が付いたら蔓延ってるのよねえ。
じゃなくて──相変わらず、うまくいかない。
昨日までも、今日も、自分は半人前のままだった。
知らん顔で布戸を戻し、もう覚えてしまった他の冊子もだらだらと読み直す。棚にきちんと並べ戻してからランタンを持って、部屋を出た。隣の書き物部屋に顔を出す。
据え置きのランタンの光の下で、いつものように羊皮紙の束を縫い綴っている、白黒まだらな短髪と髭のおじさん魔法使い──ここの副長だ──に、今日はもう帰ると告げると、釘を刺された。
「さっきのあれは使うなよ」
灰まぶしゆで卵──じゃない、副長に聞こえていたのか。失敗。
「まだここ以外じゃ怖くて唱えられませんよ」
どうせ唱えても、無駄に疲れるだけだ。
「復興作業を勝手に手伝うなよ。あれは一人前になってから、まだお前じゃ金は受け取れないからな」
「分かってます」
いつものお決まりの、しつこいやり取りに、うんざりする。
早く一人前に、大人になりたい。
副長おじさんの小さな声が聞こえた。
なにかを≪解除≫したらしい。
□ ■ □ ■ □ ■
なんだか酷く落ち込んだ。寄るんじゃなかった。
塞いだ気持ちを忘れたくて、ちょっと走る。息が上がって、財布の中でお金が跳ねる。
東の石壁が近くなってきて、あたしは足を止めた。このままじゃ、詰所に行っちゃう。
今、怖い顔で働いてそうな父さんには、会いたくない。
焦って、パルトの屯所の角、二つ通りを南へ曲がる。あ、ダメだ。このままじゃ復興現場へ行っちゃう。そっちの方が、父さんがいるかもしれない。
少し考えて、東へ抜ける斜め小路に入った。なんとなく、人目を避けられる気がして。
一つ通りに踏み出さず、斜め小路の角から街の東を守る石壁を見た。建物の壁よりうんと厚そうで、高い。
あんなに分厚い頑丈そうなものを崩してまで、昨夜のホブリフはなにがしたかったんだろう。
自分が外の生き物なら、人に殺される覚悟で街に突っ込もうとは思わない。石壁、ぶつかったら痛そうだし。
木材と竹材を積んだ大きな荷車が、一つ通りを行き交っている。衛兵さんたちの中に、色違いの鎧を着けた父さんの姿はない。
息を詰めて、一つ通りに出た。
誰もあたしのことを見ていない。
安心してしばらく道なりに南へ歩くと、崩れた石壁の周りに竹材で足場が組まれているのが見えてきた。ホブリフ、ここから入ったのか。
「すごいなあ」
ただ崩れてるだけじゃない。転がる石の中には、礎石かと疑うほどきれいな断面のものがある。前に二回、侵入現場を見てきたけど、こんなのは見たことがない。
間詰めの漆喰が粉になって路上に散らかっているので、そばにいた衛兵さんに掃きの手伝いを申し出たけど。
「いや、もうすぐパルトフィシャリスが来るから」
と、断られた。
ちぇ、干し果実くらいはお駄賃にもらえるかと思ったのに。
「昨日のホブリフは消音と蹄浮き、角斬撃してくるやつでな、斬撃を防壁に使ってきたんだ。≪窒息≫無効で手間取ったんだよ」
あたしが第二団長の家族だと、気付かれたらしい。一人の衛兵さんが、囁き声で教えてくれた。
そう聞いて、顔を歪める。
ホブリフの分際で、おかしな魔法や知恵を身に付けないでほしい。そんな防壁特効ホブリフ、徒党を組まれたら厄介なことになる。
人でないものに徒党って、変かしら。群と言うのかな。
でっかい角持ちホブリフの群──想像するんじゃなかった、気が滅入る。
□ □ □
昼の鐘が鳴った。
警鐘ではない、のんびりとした鳴り方にほっとした。
一つ通りをもう少し南へ歩くと、件のホブリフが作ったひどい獣道が斜めに走っていて、右手の二つ通りに合流していた。間にあった建物は瓦礫の山だ。
でも正直、ここに小路があってもいいような気がする。とても口には出せないけど。
昔、父さんの忘れ物を届けに、母さんと詰所に行ったことを思い出す。
どの小路を抜けたらどの店に近いか、あたしを背負ってびゅんびゅん走りながら、母さんは、笑いながら教えてくれた。
楽しかった、なあ。
全部、教えてもらいたかったなあ。
覚えてるのはさっきの斜め小路と、家がある五つ通りの周りだけ。
──あの日、香ノ木が燃えたのは、どこだったっけ。
獣道の先を窺うと、若い衛兵さんたちとパルトの面々が、材木を梃子にしたり手押し車で運び出しをしたりと大忙しだった。
仮柱で屋根を支えたり、声を掛け合ったりしながらの作業は見るからに肉体労働で、あたしが入り込む隙はない。
倒れてる石柱香炉、あたしだけじゃ立て直すこともできなさそうだし。
あ、あの麦藁色の髪はキリャねえちゃんのお義兄さんだ。短くしちゃったの、仕方がないけど勿体ないなあ。
相変わらず調整も制御も上手いなあ。水浸しにならないように、土埃が立たない程度に広範囲に湿らせるとか、すごい。お役所勤めを期待されてたのに、なんでパルトになっちゃったんだろうなあ。
あと黒髪の、なんか変な格好の大きい人がいる。なんだろう、一人で丸太を担いで立てて。お義兄さんの知り合いみたいだけど。
人死にがなかったのが幸い、と皆の表情に明るさがあったのが、あたしにも少しうつった。
けど、崩れてない周りの建物の外壁や突き上げ戸、庇は幾つも損壊したっぽい。酒場は看板を外しているし、あちこちに荷車が到着して、漆喰が練られはじめている。
躓きながら走り回っているのは、キリャねえちゃんのお義兄さんと同じ、水魔法使いだろう。ちょっと下手だけど、比べたらダメよね。あの年頃だと飛び抜けてるもんお義兄さん。
けど水魔法使いは、パルトや衛兵さんにならずとも、一番、生活密着型でつぶしがきく。お金を稼げるのは氷魔法使いだけど。
「いいなあ……」
火魔法は焼いて燃やして殺す、が究極で、それ未満でも破壊や陽動を求められる。あまり街中に居場所はない。
鍛冶屋町や炊事場、火が要る現場では好まれるそうだけど、魔法だけでは話にならない。
鉱石の勉強や高温調整、範囲制御。
調理技術や時間管理、衛兵さんとの連絡報告や資材設備管理や調合や、色んなややこしいこともできないと。
「……」
大人扱いされたい、お金を稼いで父さんを安心させたい。
だけどそれに伴う責任と拘束と勉強は、心底面倒くさい。そう思っているのも、事実だ。
あたしはどれだけ、ひねくれた半人前の親不孝者なんだろう。
□ □ □
パルトは自由の象徴、みたいにキリャねえちゃんは目を輝かせてたけど、あたしは知っている。
あれは建国と国営の──黒おじさんが、余剰人口を国防武力に振り分けて、諸外国を牽制するぷろぱがんだ、とかいうやつなのだ。
魔法の家の長が作った、並んだ棒が上下する小さな魔道具──模型とやら、を役場に届た日に、建物を間違って牢に近付いてしまって、そういう喚き声を聞いたことがある。
とても納得できた。
確かにそうでもなきゃ、指定日がなく毎日パンを買える、とかの特権はないだろう。
その面では衛兵さんより厚待遇だ。ずるい。
でもお給料は低いと聞いた。ずるくない、のかなあ。
あたしはパルトになりたいのか。
なれないし、なりたいと思えない。
じゃあ、他のなにに、なりたいのか。
どうしても答えが見付からない。
焦がれるほど誰かに惹かれたこともない。
誰より確かな才能もない。
父さんや、今は酒場にいるケフィーナさんみたいな腕っぷしもない。
どうでもいいけどケフィーナさんはいつ衛兵さんに戻るんだろう。
ちょっとだけ、新しい母さんになって欲しいと思ったこともあったけど、今はそうならなくて良かったとも思う。
父さんとは年齢が違いすぎるし、亡くなった旦那さんの師匠と、どうこうなろうとかケフィーナさんは考えないだろうし。
多分、そうなってたら自分の居場所は今以上に消滅してそうだし。
ちっちゃい義弟ができるのはいいなあ、って思うけど。
あ、父さんより伯父さんの方が心配だ。一番遠くの、「赤の道」の第一関所勤めじゃあ、本当にこのまま生涯独身になっちゃわないかしら。
癒しはうちのピーちゃんたちだけ、とか、大人としてどうなのよ。そのうちピーちゃんもお肉になっちゃうのに。
ああ、やっぱりひよこが欲しい。
ピピちゃんと茶色ちゃん、ちゃんと孵る卵を産んでよ。食べないから。