怪しい入国者‐火魔法師 Ⅳ
□ □ □
四方から、長柄武器を構えた平服の人々が襲いかかった。石と鉄が擦れるような、嫌な音がする。斬れても刺さっても、いない。あのモンスターの体表は、毛並みは、どれだけ硬いのか。
明かりが増えていく。
道端で煙っていた石柱が幾つか、倒れている。
建物が崩れる音がする。
砂石灰の下は石ではなく土で、中から細い木組みが覗いていた。
木と土の壁など、田舎の物置小屋じゃあるまいし!
ランタンを携えた住人が、その腕を掲げ、モンスターに立ち向かう人々を、修羅場を、揺れない光で照らす。
エフじみた軽装の者が声を上げ、動いている。
何故、逃げない。
私は──逃げられない。立てない。悲鳴も、上げられない。
「ええーい、こっち向けー!」
少女の声と同時に、モンスターの眼前に投擲された細木が弾け、小さな炎が炸裂した。一つ、二つ、冗談のような破裂音が、え、いや、火魔法の連続発動、って、そんな速く。
モンスターが頭を振って嘶く。ずしずしと足踏む震動が伝わる──のに、その音が、何故か小さい。
あり得ない。
何故、音が遠い!?
「ダメ、あたいの剣じゃ通らない!」
「どうにか衛兵到着までもたせろ!!」
「左、牽制! 足止め目標!」
「いきまーす! 今度は逆よーええーい!」
また枝らしきものが宙を舞い、バチンバチン、と、モンスターの耳の近くで夜目にも鮮やかに火魔法が爆ぜる。
速い。
またモンスターが嘶く。なのに、また音が遠くなる。
なんだこれは。音が消されているのか? 誰が? なんのために?
あの少女の、発動に至るための呪文詠唱が、聞こえない理由と同じなのか?
私の目と耳がおかしくなったのか?
いや、周囲の人の様子は違和感なく見え、聞こえる。
「キリャ、次はあの尻尾燃やしてやれ!」
「むりー準備ないー! あとなんか、魔法が邪魔されてるー!」
「クード、風で囲んで火種を飛ばせるか? 外周は俺が水降らせる!」
「ダメだ、あいつは『風を纏っていて』おれの魔法じゃ手前で消される! カルゴも直に狙うな!」
……眼前の群衆の向こうか、姿が見えないガキたちの声、普通に喋りながら、即座に発動、分類名のみで、魔法を展開しているのか。
馬鹿な、あり得ない、どこだ、どこから。
ええい、警鐘も崩落音も静かにしてくれ! せめて発動の瞬間を、くそ、なんで私の足は動かないんだ!
「あれは大き過ぎる、見たことがない、弱点は」
「「「頭潰せば死ぬ!!」」」
「了解。不思議な攻撃は待ってください」
「ちょ、貧民の子さぁん!」
「待ちなあんた!」
罵声と怒声と水っぽく粘る咆哮と、鳴り止まない警鐘、ばらばらと降ってくるモンスターの血、ガキゴキとうるさい擦過や殴打音の中。
場違いな──私の耳に馴染みのある同盟国家群の言葉、低い声が聞こえた。
誰何の声を発す前に、思い出す。
あの声は確か、革の鎧兜、武装商会に、私と同行していた、黒髪のエフだ。
名は──覚えてない。今、聞こえたのは、人名ではない。
ただの蔑称だ。
□ □ □
ぐわぁん、というのは、その、あの注ぎ女がいるであろう彼方から聞こえてくる。が、見えない。くそう! 人の足はもういい!
前へと這いずって行けば、集団陣形のような、武器の柄と人々の隙間を、なにかが異常な速さで縫っていく。
ちらと見えた革の脚甲、長身の、武器を携え、じゃない! 太い! なんだあれ、どこかの木柵でも抜いたのか!
──丸太、違う、確かあのエフは、まるで蛮族か破落戸のような印象で。
それは振るっていたのが太く長い、ただの薄汚れた棒だったから、で。
私は更に這いずって、群衆の隙間からモンスターへと近付いた。エフの男の足が、下半身が、後ろ姿が見える。
男は、両手で握り直した棒を構え、腰を捻って後ろへ振ると、モンスターの左前脚に叩きつけた。
その場にいた全員の、腹まで響いたであろう重い、なのに場違いなほど爽快な音。
そして衝撃に負けたのか、モンスターはその膝を折った。
「な」
信じられないことが起きた。
男は傾いたモンスターの体、棒を握ったまま毛を掴み、関節を足掛かりに駆け上がると、その背で立った。また棒を両手で握り直して足を開き、大きく腰を捻って。
爆音と共に、男の棒は砕け散った。
後頭部を強打されたモンスターは、一瞬すべてを停止し。
ぐらりと揺れ、横倒しになった。
轟音が響き渡る。
巻き込まれて潰されないよう、人々が広がり避ける。
地面が揺れる。
巨体に相応しい音を、ようやくモンスターが完全に取り戻したように、感じた。
「に」
再び、土煙が舞い上がる。
すぐに霧雨と風が、それを晴らす。
誰の仕業かなんて、もう確かめなくても分かる。
「第二団到着!」
「非戦闘員、退避!」
「展開! 目標、関節!」
と。
重い複数の足音と、統制のとれた号令が場を制した。
突然現れた、ように思えた兵士、いや衛兵たちが、一斉に退いた武器持つ人々に代わってモンスターを取り囲む。
速い。
衛兵も群衆も、どこぞの長閑な兵団訓練よりも、見事な動きだ。
いや、果たしてただの一般庶民なのか。あの注ぎ女といい、なにもかもが私の常識とは違う。
集まった灯火に映える、虹を帯びた銀色。脚甲。王都の祭典で見た、玉虫色の儀礼鎧よりけばけばしくない、目にしたことのない色。
大きな盾を、長柄の石突きを、全員が地面に立てる。先になにが付いているのかは、ここからでは見えない。
「まだ死んでないです!」
倒れたモンスターから転がり落ちたらしいエフの、蔑称で呼ばれた男が、群衆と衛兵たちの向こうで、叫ぶ。
「心得た! 助力に感謝する!」
低く太い声が、場に轟いた。
退く群衆に踏まれそうになりながらそちらを見上げれば、どうにか見えた指揮官らしき顎鬚男が、金とも銀ともつかない光沢をした兜の、同色の面防を下げた。
視野を確保する隙間から、ぎりぎり双眸だけが認められる。
そこから先も、とんでもなかった。
衛兵たちは指揮官に倣うように軽い音を立てて一斉に面防を下げ、無言でなにやら腕を振る。
指合図、だ。
確かに顎まで覆うあれを下げれば、互いの声など届くまい。
直後、金属装備とは思えない軽快な接触音が重なり。
一気に、衛兵たちは突撃した。
モンスターの呻き声が途切れた、ほんの一瞬の間隙を狙い衝くように。
全景が見えないのがもどかしい。
だがその足音と、聞こえてくる斬撃音と高く鳴る殴打音の重なりは、今までとはまるで異なった。刃が滑るものではない、あの女が、舌を断ち斬った時に近い、肉を断つ応えのある音の連なりだ。
正気に戻ったのか、モンスターがどうにか身を起こし──だが、猛攻に押され、じりじりと下がろうとする。
道の向かいの建物より、遠くへ。
闘争本能より、生存と逃走欲求が勝るようになった、のか。
いつの間にか大音量になった、モンスターの咆哮は続く。じゃら、と遅れて持ち込まれた、目を疑うような大鎖や無数の黒い縄が前方に投げられる。血の臭いが濃くなる。警鐘は鳴り続ける。
終わりはないのか。
瓦礫を踏む衛兵たちの足は小麦畑の穂波のように、進み、引き、また進む。歩幅も足音も完全に同調し、乱れがない。
一方で、縄や先程の大鎖を引くエフもどきたちの姿が垣間見える。拘束と保持か。縄が千切れない、麦藁にそんな強さがあるのか。
違う、麦の桿は燻されてもあんな色にはならない。お化け研草のような、未知の植物なのか。
時折、装甲が擦れる音が混じる。
それに合わせて、兵士たちの足の動きが変わる。
変わっても、まるで乱れずに揃っている。
右手側の衛兵たちが、唐突に大きく退いた。二人が離れ、残った兵士たちは長柄武器を引いて、盾を前面に構え直す。下縁で路面を抉るようにして立て、態勢を低くした。
遅れて左手側の衛兵たちも、同じように動く。彼らの頭越し、盾越しに見えたモンスターは、明らかに動きが弱まっていた。
「凄い」
同盟国家群の発音を拾い、そちらを見る。
棒を失ったエフの蔑称男が、目を見開いて眼前の光景に見入っていた。
片膝をついたままだが、無事なのだろうか。
その周囲には、分類名の声の主たちだろう。藍色と生成りの服だけの──こちらもどうやらエフもどきらしい、少年少女らが、いる。
誰一人、ワンドを携えてはいない。手袋もない、素手だ。
眩暈がした。
私が知り得る魔法との違いに、ぞっとした。
ガツゴツ、と、自由を失ったらしきモンスターが暴れる音が響く。
だが恐らく、その足掻きは衛兵たちの盾に防がれているのだろう。なにかが割れる音も聞こえるが、彼らは退かない。
私の横、決戦を遠巻きにする人々から、緊張は漂っていても悲壮感は伝わってこない。誰も一目散に逃げ出そうと、していない。
咆哮は弱まっている。警鐘は変わらず鳴り続ける。
改めて正面を見ると、モンスターの頭部辺りに群がる鎧装の中に、布靴とスカートがちらつく。
あの女だ。
あんな軽装で一人、背まで鎧う衛兵たちと共に目立つ斧槍を振るい、完全に進退を揃え連動して、いる。
と、ぶちり、となにかが弾けるような音がした。水が散る微かな音も。
咄嗟に少年たちを見遣るが、彼らが分類名を唱えた様子はない。
吉兆か、絶命の証か。私はつい、気を緩めた。
途端。
私の眼前に、血まみれになったモンスターの、巨大な頭が迫った。
最期の力を振り絞ったのか、半分断たれた首を回らせ、自ら断ち切るかのように。
血飛沫と血反吐を撒き散らしながら。
盾を並べ構えていた衛兵たちを数人、弾き飛ばし。
素早く散開した人々に倣えず、独りで両膝をついたままの私の、すぐそこまで。
「がっ」
変な声を発したが、同時に聞こえた鋭い音が私を救った。
裂帛の気合いを込めたあの女が、振り返って跳びながら斧槍を翻し、私に向かってきた片角を、切断してくれたのだ。
弾かれた衛兵たちが、見事な受け身を取りながら地に転がる。
吹っ飛んだ巨大な角の先端が、酒場の看板を貫き、壁に突き刺さる様が、視界の端に見えた。
着地した女と、目が合った。気がした。
私は目を見張った。
女は、美しかった。
角度をずらされたらしいモンスターの巨大な頭部が、泥を跳ね上げながら私の斜め手前に落ち、転がり、縄打たれ、ずりずりと遠退いていく。
衛兵たちは全員が立ち上がると、素早く陣形を狭め、何人かがモンスターの胴体に近付き──なにを、している、のか。
まだ分からない。
首を失っても、まだ、なのか。
警鐘だけが鳴り続けている。少しだけ、音が弱くなっているのは、気のせいか。
「死亡確認! 撃退完遂!」
面防を上げる音に次いだ顎鬚男の力強い声が、警鐘を越えて響き渡った。
直後、鐘の音は止んだ。
少女の泣き声が、聞こえたように思う。
□ □ □
「一班、周辺被害状況確認。応援のパルトに協力指示」
「はっ」
かしゃかしゃ、と衛兵たち全員が整列して面防を上げ、ようやく声を掛け合う。というか、指示出しか。
パルトってなんだ。
「二班から四班、解体班到着次第、助力と運搬」
「はっ!」
「五班、副長と帰還。上へ現状報告の後、通常待機」
「はっ!」
「以上、かかれ!」
「「「「「はっ!」」」」」
衛兵たちは声掛けの後、一気に散開した。見事だ。周囲の人々が拍手喝采を上げ、顎鬚男は軽く手を振って応える。
なんだあれ、無茶苦茶、格好良い。近衛兵の御披露目行軍か。
衛兵だの兵士だのなんて、学も品位もない筋肉馬鹿、じゃ、ないのか。
この国では、違うのか。
違う──私が、この国では、普通じゃない、方なのか。
腰を抜かしている人間は、私だけ、のようだった。
□ □ □
「これは貴殿のものか」
面防を上げた衛兵の一人に声をかけられるまで、私はその場から立ち上がることもできなかった。
通り沿いの向かい何軒かが崩れ落ち、瓦礫の中から家財やハーブ鉢を引き出す人々や。
無事を笑い合うご婦人方や。
率先して片付けの手伝いを申し出る幼子たち。
私の前に落ちた巨大なモンスターの頭部は、既に衛兵に数人がかりで運ばれ、血溜まりと胴体から続く血痕が、束になって落ちている黒い毛の固まりが、道の薄い泥の上に点々と残っている。
あの女は柄の曲がった斧槍を携えたまま、衛兵たちと立ち話をしている。
エフの男は、エフもどきの少年少女らに喚き立てられた後、揃って衛兵たちから瓦礫の撤去作業やらを習っていた。
少女だけが離れ、泥まみれの毛束を拾い集める女性陣に合流した。
それらすべてが、夜の闇の中、無数のランタンでまだらに照らされて、浮かんで見える。
たくさんの、幾重もの淡い影が、薄く濡れた路面を動く。
盾か鎧の破片だろうか、淡く煌めく薄いものが、散らばっていた。
ふわ、と舞うのは羽毛だろうか。場違いな。どこから。
「はは……は、そう、です」
差し出されたワンドを泥まみれの手で受け取りながら、私はようやく立ち上がれた。
モンスターの返り血と埃や泥にまみれて、特に下衣は元の色も分からなくなっている。
赤橙の縁取り刺繍は、あちこち赤黒く染まっていた。
その衛兵は頷くと、近くに転がっていた巨大な舌をズタ袋に押し込み、担いで去っていく。
声をかけようとして、もう喉が限界だと知った。
膝の震えも、止まなかった。
私の中でだけ、未だ、警鐘の音は続いているようだった。
□ □ □
私はふらつき、建物の外壁に縋りながら、宿へと向かった。
通りすぎた酒場は戸口のランタンが一つ落ちて歪んでいて──なんとまあ丈夫な硝子だ。って、硝子はあんなに曲がるものだっただろうか──、飛んできた瓦礫で、一階の窓の木戸が壊れている。
衛兵が二人がかりで外壁に刺さった角に縄をかけ、外そうとしていた。
その二つ隣の宿は、砂石灰塗りの外壁にひびが入っていた。もろり、と見えているのは土壁と編まれた木だ。瓦礫でも当たったのだろうか。
石積が当たり前な同盟国家群とは違う建物、と改めて突き付けられる。
ああ、どこかの貧民窟が枝張りの隙間に土を詰めて。
違う。
道も街並みも洗練されて、ここは劣るわけでも貧しいわけでも。
「あらウェドさん、大丈夫だった?」
高級そうな、得体の知れないランタンを掲げ、別の衛兵にそのひびを見せていた宿の──女将が、私を見て声をかけてきた。
震えも怯えもない、昼と同じような、人の好さそうな、普通の様子で。
「……」
無言で頷いた。
なにを言えば良いのか、分からなかった。
なにも言えないことも、分かっていた。
「あんたの部屋はなんでもなかったから、荷物も無事よ。明日からあちこち直すんで、昼間はうるさくするけど勘弁ね」
「……」
明日、そうか、私は生きて、明日を、このリーシュという国で、迎えられるのか。
──貴方は火魔法使いだったわよね。明日は四つ通りの鋳掛屋か、西地区の鍛冶屋町を覗くといいわ。
ケフィーナ、確かそう呼ばれていた、あの女を思い出す。
巨大なモンスターに怯まず、返り血を浴びてなお、勇ましく声を張り戦う、後ろ姿。
翻るスカート、垣間見えた足首。
ほつれた後れ毛。
酒場と修羅場の高級ランタンの下、私はあの女の瞳の色もはっきりと覚えていない。
緩く束ねられたあの髪が、陽光でどんな色に艶めくのかも、知らない。
ただ、この世の誰よりも美しかった。
──明日。
もう一度、この国を知ろう。
この目で、直に見聞きしよう。
驕らず見下さず、思い込みを捨て。
──裏切られることには、慣れている。
だが、あるいは、この国は。
この国、なら。
私は女将に頭を下げ、宿の中へと入ろうとして。
□ □ □
「待ちな、あんたひどい格好よ!」
そう呼び止められ、我が身を確かめる。
確かにこれは汚い。無茶苦茶だ。どうしたものか。
「着替えはあるわね?」
頷く。
「明日の朝、洗濯屋に行きなさい! 否、早めに水洗いした方が」
女将は衛兵に断りを入れると、高級ランタンを提げていない方の手で、私の腕を引いた。
促されるまま歩くと、受付を過ぎ、庭へと招かれる。
よく茂った、宿の高さには僅かに届かない木と、屋根付きの井戸と、小屋の影が見えた。
木札のような匂いと、鶏の臭いがする。あの騒ぎで起きたのか、コッコッコ、と囀ずる声。
軒先に並ぶ影は、ハーブ鉢だろう。冬を越えたばかりであれだが、葉の影形と薄い芳香から薄荷、辛蓬、鋸歯薄荷あたりと知れる。
ハーブ唄にはない、若い青い香り。
──部屋や廊下の窓から、外を見ることを忘れていた。
この庭は、どちらに面しているのだろう。
いや、明かり取りの窓は南にあるのが普通で。
庭は、別世界のように平穏だった。
遠い日を、思い出した。
ああ、実家にも鶏がいた。山羊と羊がいて、畑があって、名も知らぬ木々と、肥料の臭さと、貧しさと、怒りと、諦めが。
私を育んでくれた父母と祖父母が、姉弟たちが、いた──。
「ほら、外套と服脱いで、この盥に入れなさい!」
女将の声で、正気に戻る。
言われるままに脱衣し、貴重品を抜いてから歩み寄った。暗がりだし、冬用の肌着は袖も裾も長い。相手は母親を想起させる人だ。恥じらう気持ちも湧かなかった。
ただ、春先の夜の空気は冷えた。
くしゃみを連発する私を尻目に、慣れた手つきで釣瓶を引き上げた女将は、近場に立て掛けられていた盥に水を注ぎ、ざばざばと雑に洗い出す。
ああ、そんな乱暴にされたら、刺繍の糸が。
「やり、ます」
どうにか声を出すと、女将は顔を上げた。
「あんたの部屋に火を入れとくわ、鍵を貰える?」
言われるままに渡せば、女将は高級ランタンを残して去っていく。暗いのに大丈夫か、と思ったが、その足取りはしっかりしていた。
鶏小屋の波打つ──細めのお化け研草の屋根に、高級ランタンとベルトと貴重品を置く。
何度かくしゃみを繰り返し、鼻水を啜る。
外套と服を、水中で揉んだ。ある程度は落ちただろうし、指先の感覚が限界になったので、終わらせる。
底に服と外套を押し付けて盥を傾け、汚水を流す。洗い物を取り出し、盥の外で絞ってから戻す。そうした後で、水をそこらにぶち撒けても良かったのだろうか、と思った。
まあ、もう遅いのだが。
庭の外周に溝があることを、願おう。井戸と同じ敷地内に、清潔そうな鶏小屋があるなら──それくらいはある、だろう。
きっと。
□ □ □
左手にベルトを巻き付け、財布と書状を持ち直した右手指に高級ランタンを引っ掛ける。ワンドは右脇に挟んだ。
左脇に濡れた重い衣類を一まとめにして抱え、宿へと戻る。扉が開けられない。下は庭土だ。荷も置けない。どうしたものか、と立ち尽くしていたら、女将が開けてくれた。
戸板で頭を打った。
そうだった、この国の扉は外開きだった。
「失礼、大丈夫かしら」
「寒い」
「服はこれに入れて、このまま明日、洗濯屋に運びな。外套は……替えがないよね」
「はい」
庭より暖かい受付で、床に置かれた籠に服を入れる。震えが止まって、ほっとした。
ただ、脇まで濡れた左腕が、冷える。
「じゃあ椅子の背に掛けて、暖炉の前で干すかねえ。三つ通りに服屋があるから、そこで繋ぎの外套を買ってから、まとめて洗濯屋に行きな」
「はい」
三つ通り、とはどこだろう。
明日の朝、詳しく訊こう。
「洗濯から返ってきたら、繋ぎの外套は売ればいいから」
「はい」
「じゃあこれ、鍵を返すよ。そのランタンは、持っていきな」
頷いて、階段を上がる。
部屋の前で一旦籠を置き、鍵を開ける。窓の突き上げ戸は薄く開けられ、暖炉には明々とした炎が揺らめいていた。
伝わる温かさに、心底ほっとする。
先ずは部屋に入って、高級ランタンをテーブルに置いた。相乗効果で、部屋が明るくなる。寝台の上に貴重品を並べてから、廊下に戻って籠を持ち上げた。
暖炉に再度向かおうとして、気付く。
昼も今も、靴を履いたまま、室内に上がっていた。
しまった。
砂や泥が、床板に足跡を残していた。
渋い顔をしながら靴を脱ぎ、扉に閂を掛けてから、籠を抱え直す。
足跡を避けて暖炉に向かい、籠を置いてしゃがんで、冷えた両手をかざした。
爪に泥が残っていて、嘆息する。
ぱち、と炉室で薪が爆ぜる微かな音に、モンスターと戦う少女を思い出す。
薪は脂が少ないようで、派手な火の粉は飛ばない。
体の前面は暖まるのに、無数の疑問が私の背を震わせた。
窓から入る風の寒さに気付き、突き上げ戸を下ろしにいった。明かり取りの窓は高いし、閉めようがない。
閉める前に、庭の木の影と、左側にたくさんの灯りが見えた──庭は南にあって、廊下は北側、と知れた。
寝台の下から、荷袋を引きずり出す。ただのシャツとズボンを着け、濡れた肌着や下穿きも換える。
椅子を暖炉前の炉床に引き寄せた。
籠から濡れた外套を取り出して、その背に掛ける。端から水滴が落ちる。籠の下にも、水が滲み出している。
板の床よりは、石の炉床の上の方がまだマシだろう。
高級ランタンを持ち、テーブルも暖炉へ引き寄せてみた。濡れた服もそれぞれ、縁に掛けて干してみる。
なにもかもが、薄汚かった。
籠には、湿った肌着と下穿きを入れた。炉床の上にひしめく影に、変な笑いが漏れた。
朝までに床と、外套は乾くだろうか。
私は揃えた指先をこめかみに当てて、目を閉じる。偉大なる知恵と魔法の神に願いが届くよう、祈った。
管轄外だろうな、と思いつつ。
高級ランタンの火を消そうとして、目を見張った。
三面窓の角硝子には、あるべき同心円の溝がなく、ひびと見紛う黒線や多角形の模様が入っていたのだ。
穴はおろか、換気の隙間もない。
なんだ、これは。
更に、内にあるのは油と炎と芯でなく、光る固形物だった。
手をかざしながら、注視する。
鉱石、いや、水晶か。
底の窪みに嵌め込まれて、動かないようになっている。
提げ持っていても、熱を感じなかったことに今更思い至った。
透明窓が一つ、跳ね上げ式だったので、開けてそれを直接、見る。
「……魔工石か?」
財布から正金貨を摘まみ出して、中央に嵌まった麦粒大のそれと比べるが、大きさが違いすぎる。
共鳴反応も反発光点滅もない。理が異なる機工魔法か、基幹呪文はなんだ。
いや待て、蟲型モンスターで発光器官を持つものが、王妃の宝冠に、ええと。
記憶を引きずり出そうとして、くしゃみで途切れた。
ああそうだ、ここは未知の国だ。
こんなわけの分からないものが、あちこちの軒先に提げられた、酒場でもあんなにたくさんの「揺れない灯り」がある、私が知らない国だった。
謎ランタンの消し方が分からないので窓を下ろしてテーブルに置き、金属壁をこちらに向ける格好にしてから、寝台に上がった。
畳まれていた肌掛けと毛布より軽い上掛けで体を包み、目を閉じる。
少しずつ、温かくなった。
全身の震えが、ようやく止まった。
見知らぬ国の、宿の部屋で。
窓越しに聞こえてくる、夜の闇を晴らすような人々の気配と。
忘れた頃に爆ぜる薪の音の重なりが、私からゆっくりと遠退いていった。
□ ■ □ ■ □ ■
強烈な排泄欲求で目を開ければ、暖炉は消えかけていた。謎ランタンはまだ、うっすらと光っていた。
一晩限りの光源、なのだろう。
靴を引っ掛けて手探りで階段を下りると、謎ランタンが灯る受付には知った顔があった。
東の砦町から中途参加した、謎の中年男が板になにかを書き付けていた。おのれ、こんなところで。
「よっ」
穏やかに微笑まれ、戸惑う。
ディスティアから帰国する、リーシュ人だったのか。
風体の違和感は、そういうことだったのか。
宿の関係者が、なんの専門家かは謎のままだが。
彼に案内され、個室に入る。
ここは柱から、小型のランタンが提げられていた。やっぱり中身は魔工石だった。
──用を足したら壺の水で股を洗え。それから中に灰を落として蓋をしろ。外で手を洗え。
武装商会の隊長の、低い声が甦ったが、不浄には水壺の影しかなかった。
どこで、聞いたのだろう。
便器の蓋を開ければ立ち上る、汲み取り式のツンとした臭さに、何故かほっとした。