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東京オリンピック開会前の情景

作者: 頭ハジメ


 老夫婦が世田谷区成城の家を出たのは早朝のことだった。

 日が昇る前に起きる癖がついた、この老夫婦は日が上がる頃には、すでに身支度を済ませていた。

 6時には迎えの車が来ると言っていたので、ちょうど良い、と、この家の住む老夫婦は思っていた。



 夫たる老人は書斎にいた。

 カレンダーを見た。今日は10月10日。時計は5時半すぎを指している。

 ふとテレビをつけ、チャンネルを回す。普段ならニュースが主であろうこの時間帯も、今日は東京オリンピック開幕特番をはじめている。

 扉をノックする音が聞こえる。

 妻たる老婦人は桜色の着物をきて、入室をした。


「あなた、準備はいかがですか?」


「もういつでもいけるよ……過保護すぎじゃないか、俺は子供じゃないんだから」


「子供みたいなもんですよ、無鉄砲で、頑固ですし」


「おかげで今でも世界中飛んでいけるというもんだ」


「下旬にはもう飛ばれるんでしょう……もう御歳なんですから」


「いや、あれは毎年いっておかないといかんよ。今日と同じくらいに、大切な日なんだ」






 6時、迎えの黒塗りの高級車が到着した。

 国産車だった。愛知県に本社をもつ世界有数の自動車メーカーが開発した高級車だった。

 見知った運転手は玄関まで迎えにきてくれて、足腰の弱った運転手を丁寧に車まで誘導した。


「ありがとう、トビさん」


 老婦人は後部座席から、白い肌をした金髪の運転手に向かって微笑んだ。

 顔のところどころに皺が出て、白髪交じりだが、全く老いというものを感じさせない。

 トビアス運転手は流ちょうな日本語を話しながら、微笑を浮かべた。


「いえ、奥様。…それでは参りましょうか」


 トビアス運転手は狭い道路から車をゆっくり発進させた。





 大きな車道に出ると、車は速度を上げた。


「今日は車が少ないわねぇ」

 

 婦人はそうぼやいた。トビアス運転手が答える。


「朝ということもありますが、今日は一段と少ないですよ」


 老人が外を見た。やっと2台の四輪駆動車と3台のトラックの車列とすれ違う。

 いずれも深い緑色をしていた。老人は一目で自衛隊のものだとわかる。


「東京は厳戒態勢だね」


「ええ。一昨日から、街には警戒の自衛隊員や警察官がたくさんいますよ。検問所も多くて、いつもよりノロノロになってしまいます」


「時間通りに到着するのかしら?」と婦人。


「そこらへんは計算のうちだよ。ねぇ、トビさん」老人が運転席に向かって言った。


「はい。まあ、これだけ早い時間にお願いしたのも、その計算のうちってやつなのですが」


「それは私からお願いしたのもあるからね」


 老人は軽く、口元を緩めて笑った。


 



 車は世田谷区内で3回もの検問を受け、渋谷区内に入った。


 車は渋谷駅前を走っている。

 世界で一番有名となった渋谷駅前の大交差点には、祝日の早朝にも関わらず、凄まじい人込みとなっていた。

 ここの交通整理も100人近い警官隊が動員された。


 車の流れも途端に悪くなった。ほとんど止まったかのようであった。


 老人は窓からの眺めを見ていた。ふと目に留まった街灯を見る。

 街灯の一つ一つから五輪マークが描かれた旗が静かにはためいていた。

 五輪マークの下には『TOKYO』と書かれている。


「旦那様が仰った通りですね、ここまで混むとは想定外でした」


 トビアス運転手が言うと、老人はまあ、今日はそういう日だよ、と視線を変えずに言った。


「けど、あの戦争から随分経つけど、ほんと変わりましたね……」


 老婦人は感嘆しながら言った。老婦人もここら辺はなじみがある土地だ。

 それなのに、こうして改めてみると、数十年の経過で光景が一新したことに気づかされ、驚く。


 渋谷駅前の商業ビルの大きなビジョンには五輪のマークが描かれている。

 背の高い建物が交差点を包囲するかのように乱立する。渋谷駅前には

 周りの建物を見ると様々な看板が見える。


『五輪を成功させよう! 鷹のマークの正化薬品』『私達は新しい東京を作るんだ 島風建設』

『あなたの知らない世界が広がる オンラインゲーム:アサルトワールド』『果実の大山』

『Enjoy the Olympics!』『Thế vận hội Olympic là một lễ kỷ niệm hòa bình』『Wir werden eines Tages in unsere Heimatstadt zurückkehren.』


 老人はうんうんと頷く。


「うん、まあ数十年経つが、ほんと変わったよ。いくら数十年経ったとはいえ、日本がここまで変わるとは思わなかった」


「日本という国には随分と長くいるつもりですが、そこまで変わったのですか」


 トビアス運転手は思わずきいた。


「うん、車窓からでもよく見える。交差点から日常的に肌の色が違う人を、こんなに多く見ることはなかった」


「そうそう、外国人を見れば、サインをねだる子だっていましたもの」


「サイン? 何のために?」


 トビアス運転手が怪訝な顔で尋ねると、老婦人が答えた。


「外国人は遠くて憧れの存在でしたから。日本にもあまりいなかったし。まあ、スポーツ選手や俳優にサインをねだるようなものですよ」


 トビアス運転手は思わず口笛を吹いて片手で口をふさいだ。そのあと、失礼、と夫婦に謝罪をした。


「そんなに憧れの存在だったなんて知りませんでした……いや、むかしのハリウッド俳優や大リーガーとかならともかく、一般人が、だなんて」


「うん、本当にそんな存在だったよ。やはりある時から変わったけどね」


「ええ、私の時はとても存在ではありませんでした……私の両親は命かながら、この国にやってきたときなんか、役人から近くの日本人まで白い目でみてました。私はその時赤ん坊でしたけど」


「日本人は海の外を恐れたよ。白人なんか憧れだったが、一瞬で恐怖になって、出会ったら袋叩きにしてたのを何度も見たよ。それが米軍のMPでもね」


「米軍……ですか」


 トビアス運転手の目が虚ろげになった。


「彼らは何のために」


「私がまだ入社したてのころ、横須賀で暴動があったんだ。近くのホテルにいたけど、暴徒の一部が基地に入ってきてね、その鎮圧で動いたんだよ」


 老人もため息をついた。


「あの時の米兵たちは忘れられない。心ここに在らずという感じで、手当たり次第に殴ったり蹴ったり、発砲してたりしてたよ。日本人のデモ隊も怒り狂っていてね、あれは虚しい衝突だったよ」


 老人とトビアス運転手はお互いにため息をついた。

 老婦人がまあまあ、と声をかける。


「せっかくの日なんですから……そうそう、トビさん、ラジオでもかけて」


「かしこまりました、奥様」


 トビアス運転手はカーラジオをオンにした。

 

 ラジオはニュースをやっていた。

 首都圏の地方ニュースだったが、ほとんどが今日行う東京五輪開会式関連のニュースだった。


「旦那様、奥様」


 トビアス運転手はラジオの音量を少し小さくした。


「私達家族が、ここまで生きられたのもあなた方のおかげです。あの地獄から逃げて、こうして平穏に暮らしていられるのはあなた方のおかげです」


「トビさん、改まってそんな……」

 老婦人は少しうろたえた。


「いえ、世界中が混乱していた時、旦那様が手を差し伸べてくださらなかったら、私はこの国にいなかった。そして奥様の一声がなければ、家族はこの国で今こうやって平和に暮らしてはいなかったのです。そのことを家族誰一人片時も忘れたことはありません」


 少しの静けさ、ラジオのニュースは、この後開会式開催前の特番がはじまることを伝えていた。


「トビさん」

 

 老人が表情を変えずにきいた。


「この国は良い国かね」


「ええ、とても」


 トビアス運転手は即答した。そして続けた。


「もちろん、大変なこともありました。しかし、この国は良い国で、私はこの国の一員だと思っています」


「そうか。良かった」


 老人はそう頷いたとき、車は渋谷駅前を走り始めた。






 新宿区霞ヶ丘の国立競技場を降りると、老夫婦は式場の待合室に向かって廊下を歩き始めた。


「なあ」


「はい?」


 夫が言って、妻が尋ねた。


「トビさんは日本人だな」


 妻は、はい、とはっきり答えた。


「この国は随分と変わった」


「あれから60年近くなるんですね」


「そうだ、あの直後、世界は一変した」


「それから、みんな、色々と苦労しましたもんね」


「うん、まさか日本が世界最大の超大国になるなんて思わなかった。そうしなければ生きてはいけなかった」


「あなただって会社をあれだけ大きくしたじゃありませんか」


「もともと大きな会社だ、それにのっかったにすぎないよ」


「そんなこといって……。世界最大の企業にして、たくさんの難民を助けたのは誰ですか。日本に大量の移民を入れたのは誰ですか」


「会社はのっかった。難民を救わなければ世界の経済は崩壊して、ビジネスができなかった。日本に大量の移民を入れたのもビジネスのためだ。大量雇用だ。産業のためだ。汚染された大地に工場は建てられない。おかげで日本は多くの民族や人種が入った。国賊呼ばわりだ」


「あなたを救世主という人もたくさんいますよ……いつまでも頑固にならないでくださいな。今日はせっかくのハレの日なんですから……」





 1960年。1964年の夏季オリンピックの開催地が東京に決まった。

 1962年10月、キューバにおけるソ連ミサイル配備を発端とする、いわゆるキューバ危機から第3次世界大戦が勃発した。

 結果として、米ソをはじめ、中米、欧州の主要都市や軍事基地などが破壊された。特にキューバはアメリカの集中的な核攻撃を受け、全島民は消滅し、今でも草木が生えるほど土地は回復していない。

 2020年現在、キューバ島には慰霊碑があるのみで、21世紀に入ってからは、放射線量の低下もあり、毎年10月27日には第三次世界大戦の慰霊祭が行われている。


 第三次世界大戦は核の打ち合いだった。しかし、想定していたよりもはるかに両陣営の放った核攻撃はそれほどではなく、被害は想定していたよりはるかに少なかった。まだ世界の多くの国々は生きていた。

 世界は混沌とし、各地で紛争が勃発、あるいは再燃、激化した。第三次世界大戦後、崩壊した国家も多い。


 そのなかで、日本は一番被害が少ない、経済大国となった。日本は世界で唯一の超大国となったのだ。

 日本政府は、国の存続のため、これまでとは比較にならないほど積極的に国際社会に介入した。時には自衛隊を投入し、紛争解決に乗り出した。

 

 世界中に膨大に出来た難民も大きな問題となった。

 政府主導で、官民共同で、あるいは民間の独断で、様々な形で難民問題の解決に取り組んだ。

 そのひとつとして、日本への移民大幅緩和が行われた。


 この移民緩和政策は日本に多くの民族、人種を流入させる結果となった。多くが新法制度下による帰化、長期滞在者となり、様々な人種の日本人が増えた。

 日本国内では第三次世界大戦前から住んでいた日本人から混乱、反発が起こり、差別や憎悪犯罪が激増した。

 一方でこれらを保護し、大幅な労働人口の雇用を確保したなど、好意的な結果も大きい。

 この一連の日本への移民や難民問題を積極的に推進し、尽力した総合商社トップが、伝説的存在、あるいは日本の国粋を破壊した極悪として評価されているのはその代表的なケースだろう。

 また、今―――2020年においては、移民を受けれなかった場合、21世紀初頭には少子高齢化が顕著となり、労働人口も致命的な数字になっていただろう、という分析をするものも多い。

 


 そして、今日は2020年10月10日。

 1940年、1962年と出来なかった東京オリンピックがはじめて開催される。

 1962年から58年目、そして1960年のローマ夏季オリンピック以来、60年ぶりにオリンピックが開催されるのだ。


 


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