父子対決
「雲行きが怪しくなってきたな...」
カインは空を見上げて呟いた。
太陽が灰色の雲に遮られて薄暗い…ルポワドが荒天になる日は少ないが、どうやら雨になりそうな気配だ。
「最後の試合だっていうのに…」
視線の先に佇む二人の騎士…
騎乗の父と子は対峙し、お互いの姿を睨んでいた。
アーレスのヘルムの羽飾りは取り外され、彼がこの一戦にどれほど真剣であるかを示している。
「母上の気持ちも複雑だろう…」
中央付近で見守るシャリナの姿を捉え、カインは訝しげに眉根を寄せた。
立場的に言えば公爵の勝利を願うべき場面だが、アーレスを我が子の様に思っているシャリナだけに「勝たせてあげたい」と思う気持ちもあるに違いない。
…閣下はお強い…ましてこの試合は母上の争奪戦だ。全力で撃ち倒そうとするだろう。
父が生きていればこんな事態にはならなかったと改めて思う。
「本当にそれで良かったのですか、父上?」
カインはユーリに問いかけた。
ユーリの本音がどこに在ったのか、今はもう知る由もない…
「幼い頃にお母様と交わした結婚の約束を、公爵様が今でも切望し続けていることをお父様は知っていたらしいわ。」
リオーネはそう言って父の決意を肯定したが、カインは納得できなかった。妻の幸せを願えばこその判断とはいえ、自分なら到底そんな選択は不可能だ…
…騎士としても人間としても偉大だった父上…もっと長く語り合いたかった。
「決勝戦を始める!」
口上役が声を張り上げた。
「青、フォルト・ド・パルティアーノ公爵閣下!
「赤、アーレス・ド・パルティアーノ卿!」
宣言が為されたと同時に、ポツリと雨が降り出し始める。
皆それを認識していたものの、誰一人目線を離さず、固唾を飲んで試合の開始を待ち構えていた。
雨足は早く、シャリナの頸にも雨が打ち付ける…侍女が雨避けの布をすすめたが、シャリナは首を横に振って辞退した。
「二人とも頑張って…」
怪我をしません様に…と、シャリナは願った。
フォルトの願いを受け入れたのはつい今しがた。
フォルトもアーレスも、もう『知人』ではなくなった。
「あなたが決めたからじゃないわ…」
シャリナはユーリに言った。
「私がそう決めたのよ…」
告げたそばから涙が溢れる…本当はユーリと過ごした幸せな日々が忘れられない…出来得ることならあの日に戻りたいと思ってしまう…
…前を向け、シャリナ。
それがユーリが最期に遺した言葉だった。
シャリナは泣いた。
彼の思いに応えねばならない…どんなに悲しくても...
幸いなことに、降りしきる雨に流され、
その涙が周囲に気付かれることはなかった。
…この涙を最後にするわ、ユーリ。
シャリナはそう誓った。
「父上…お覚悟を!」
「受けて立とうぞ...アーレス!」
運命の旗が振り下ろされた。
フォルトとアーレスが瞬時に駆け出す。
その速さは類い稀なもの…
疾風の如き勢いで互いに迫る。
ヘルムが防いでいるとはいえ、雨が視界を遮っていた。
「父上より先に当てねば負ける…」
アーレスは熟知していた。フォルトはランスを自在に操ることで有名な名手…それは黒騎士の敗北で明らかだ。カインほどの騎士があっさりと討ち取られる…やはり父は最強の騎士なのだ。
「ぬ..」
フォルトは唸った。
アーレスの乗馬技術は予想を遥かに上回っていた。まさに聞きしに勝る勢いだ…
「やりおる...」
これまでは手の内を隠していたに違いない。寸分違わず正確さで矛先が的当てを狙っている…まさに正々堂々、正面突破の姿勢だ。
「…おおっ!!」
会場に驚きの声が上がった。
同時に突き合ったフォルトとアーレスの上体が仰け反り、姿勢が大きく崩される。
落馬を免れたのは奇跡…駆け抜けざまかろうじて態勢を戻しながらゴールに至り、二人は互いに振り向き合った。
「両者引き分け…再戦!」
審判が興奮気味に判断を下した。
「…すごいよ、アーレス。」
リオーネは唖然とした。
予想もしなかった展開…背中がゾクゾクする…
「あるいは…もしかして…」
アーレスが跪き、母に愛を告げる姿が目に浮かぶ。
「どうしよう…シセル」
リオーネは救いを求める様にシセルを見上げた。
珍しく弱気を見せる妻に、シセルは小さく肩をすくめて見せる。
「さて、どうしたものかな…」
ランスを取り替えた二人は、雨が降りしきるなか、再び対峙した。
胸当ては互いに破損しており、代わりに腕の盾が装着される…
「次で勝負を決める。」
二人は雨に打たれているシャリナを同時に見やった。
運命の一騎打ち…二戦目
父と子の最後の勝負が始まった。
泥の飛沫を撒き散らしながら馬が疾走する…その姿は鬼神の如く、まるで一瞬の雷の様だ。
楽しいな…フォルト
フォルトの耳元で『漆黒の狼』が囁いた。
不敵な微笑みが脳裏をよぎる…
「…ああ、楽しいとも!」
フォルトも口角を上げた。
「戦いこそが騎士の誉れぞ!」
フォルトの一撃がアーレスの盾を貫いた。
アーレスの肩に激痛が走り、思わず上体を屈する…
手放したランスが地上へと落ちた。手綱を握ろうとしたが、それはすでに叶わなかった。滑る様に落馬する…地面に伏して泥が跳ね、雅な甲冑を黒く汚した…
「ああ、なんてみすぼらしい…」
耳元で罵る声がする…
「あなたはあの人に全然似ていない…赤い髪でさえなければ、少しは希望もあったのに…」
「痛い…髪をひっぱらないで…母上…」
…痛みを感じる…酷い痛みだ。
…それに、寒い。
「あなたなんて要らないわ。」
冷たい視線が全身を貫いていた。
瑠璃色の瞳を見る度、震えが止まらなかった…
「もう大丈夫…泣かなくて良いのよ。」
温もりを感じた。
声が聞こえる…優しい手が背を撫でる…
「あなたは今日から私の子…だからうんと甘えてね。」
抱かれる幸せを初めて知った…
母上の愛が嬉しかった…
「目を開けて…アーレス…」
促されるまま、アーレスはゆっくりと瞼を開いた。
見えたのは菫色の瞳…優しい眼差しが心配そうに見つめている…
「ああ、母上…」
アーレスは安堵して微笑んだ。シャリナだ…自分の髪をそっと撫でている…その暖かさに心が満たされる…
「頑張ったわね…フォルトを本気にさせるなんて…素晴らしいことだわ。」
子供に語りかけるようにシャリナが言った。
「痛むでしょう…怪我をしているわ…」
「怪我…?」
アーレスは目を見開いた。
右肩の痛み…父に突かれた槍傷…
アーレスは飛び起きた。上体を起こして状況を把握する…周囲の状況から見て、落馬して僅かな時間しか経っていないようだ…
「…婦人」
アーレスは叫んだ。
「ずぶ濡れではありませんか…」
「ええ、少し濡れてしまったけれど…
シャリナは雨が滴る額をハンカチで拭い、ついでにアーレスの前髪も拭いながら言った。
「私は大丈夫…それよりも、あなたの方が心配よ。」
大丈夫なものかとアーレスは思った。このままでは体が冷えきって、シャリナが病に罹ってしまう…
「大丈夫なものか!」
頭上からフォルトの声が聞こえた。
「冗談ではないぞ。すぐに城へ戻るのだ!」
「…でも、アーレスが怪我を…」
躊躇うシャリナにフォルトが眉根を寄せる…かがみ込んで傷を見遣ると、低い声でアーレスに言った。
「傷は浅い…立てるな?」
「…もちろんです。」
「私はシャリナを連れて城に戻る…後は黒騎士とそなたでこの場を収めよ。」
アーレスが頷いて見せると、フォルトは立ち上がってシャリナの腕を掴んだ。
「参ろう…」
促されたシャリナは素直に立ち上がり、フォルトに寄り添った。
「…濡れた服は重い…早く着替えたほうがよかろう。」
「貴方の着ている甲冑ほど重くはないわ。」
「何を言う...私とそなたでは鍛え方が違う。比較にならぬぞ。」
「確かにそうかも…」
微笑むシャリナが愛おしく、フォルトはすぐにでも抱きしめたいと思った。
晩餐も祝賀会も蹴り飛ばしたい心境だったが、そうもいかない...
…賭けは無効。アーレスはこれ以上無謀な主張をするまい。後はシャリナとの婚約を公に明言し、陛下に結婚の許しを戴くのみだ…
「フォルト…」
「何ぞ。」
「もっときちんと言わなくてはいけなかったのだけれど…」
シャリナはフォルトを見上げて言った。
「優勝おめでとうございます。とても素晴らしい試合でした。」
フォルトは口を曲げて笑った。
劇的なシーンを思い描いていたと言うのに…ずぶ濡れ騎士と貴婦人ではサマにならない…とんだ番狂せだ。
「こんな筈ではなかったのだが…」
「…まあ、見てフォルト…虹よ!」
シャリナが空を指し示して言った。
見上げた鈍色の空に、色鮮やかな虹が大きな弧を描いていた。
シャリナを幸せにしてやってくれ…フォルト
『狼』の気配を身近に感じる…きっとシャリナが心配で仕方がないのだろう。
…言われるまでもない。
フォルトは応えた。
「私が行くまで、首を長くして待っておれ。」
拍手喝采を浴びながらフォルトが退場した後、アーレスの傍にカインが歩み寄って来た。
立ち上がるアーレスを手助けすると、穏やかな口調で健闘を讃える。
「いい試合だった…歴史に残る名勝負だったよ。」
「そう見えていたかい?」
「ああ。アーレス・パルティアーノは強かった…閣下を再戦に持ち込むほどに…」
「初戦は私の度量を測られていた様に思う…その上で父上は攻撃の勢いを定めたんだろう。」
「君が最後まで手の内を見せなかったから、さしもの閣下も脅威を感じていたんじゃないか?」
「そうでもしなければ、とても太刀打ちできなかったさ…」
「なんだ…その物言いだと、初めから結末を知ってたみたいに聞こえるが...」
「そうではないよ。私は真剣だった…君の母上の件を持ち出せば、父上が本気で挑んで来るのは明らかだったし、それが目的ではあったんだ...」
「それはつまり...どういう意味だ?」
カインは尋ねた。そこが一番知りたい事実…アーレスの本音の部分だった。
「詳しいことはあの夜にもう告げただろう...二度は言わない。」
「...えっ」
カインは怯んだ。
…酔い潰れていたんじゃなかったのか⁉︎
「私の想いは誰にも理解してもらえないだろう...多分、夫人にもね。」
「アーレス...」
「良いんだ…父上は迷いを捨てたようだし、夫人をもう手離しはしない…これで夫人は私の本当の母上になる…それで満足だよ。」
アーレスは言いながら爽やかな笑顔を浮かべた。翳りはみじんも見当たらなかった。
かける言葉が見つからず、カインは空を見上げた。
七色の軌跡が空を彩る…
…まるで父上からの祝福のようだ…
もしそうなら、父上らしい…目を眇めながらカインは思った。
競技大会の終幕とともに、晩餐会に向けた準備が進められている…
大広間のテーブルには豪華な料理が並べられ、ゲストが集まり始めていた。
果実酒やビールは樽ごと…
会場は中庭にも設置され、今夜ばかりは騎士や兵士も祝杯に興じることが許される。
シャリナは与えられた部屋に戻って着替えをすませた。
今はリオーネとバレル、そしてセレンティアとともに春の間でくつろいでいる…
セレンはバレルと遊んでいて、バレルはとにかく大はしゃぎだった。目で追うシャリナも、口もとに手を当て嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「もうすぐおねむになるわね…」
シャリナがリオーネに向かって言った。
「あなたもそうだった…カインと二人で寝る前には大はしゃぎして、そのあとパタっと寝てしまうの。カインは私と寝室に行きたがったけど、リオンはいつもお父様が抱いて連れて行っていたのよ。」
「覚えてないなぁ…」
リオーネは首を捻った。
「無理ないわ。ほんの小さな頃だもの…」
シャリナが目を細めるのを見て、リオーネは少し切なくなった。
シャリナは公爵の求婚を受け入れた。今後はパルティアーノ公爵夫人になり、父と暮らしたペリエ城を出て、シュベール城で暮らすことになるのだ...
「お父様の言葉じゃないけど...」
リオーネは言った。
「幸せになって下さい、お母様...」
「リオーネ...」
「カインも私も、心からそう願っているわ...」
珍しくリオーネが瞳を潤ませるのを見て取ると、シャリナも思わず涙を浮かべた。リオーネの手をそっと握って微笑む。
「ありがとうリオーネ、頼りになる娘がいてくれて、本当に良かった...」
「こういう時、男性陣は全然役に立たないものね…」
「…そうね。」
シャリナはリオーネの姿に目を細めながら頷いた。
晩餐会用にあつらえた特別なドレス…フォルトからの贈り物で、彼に今夜着るよう命じられ、仕方なく袖を通している…
「…男爵夫人。」
扉の向こうから声が聞こえた。
「お着替えの準備が整いました。」
「…準備?」
シャリナは首を傾げる。晩餐会用のドレスならもう着ている。いったい何のことだろう…
「暁の間で王妃様がお待ちです。」
「エミリア様?」
シャリナは驚いて立ち上がった。
「御用向きは何かしら…」
疑問を感じている場合ではないと思い、シャリナはすぐに立ち上がった。廊下に出ると侍女達が居並んでいた…皆でお辞儀をし、シャリナを出迎える。
「ご案内いたします。奥方様。」
10話につづく