炎の貴公子
「青、グスターニュ騎士団シセル・バージニアス子爵!」
「赤、カキューの騎士ワッツ・ルーベン!」
本戦が始まってすぐ、シセルは試合用に鍛えられた栗毛の雄馬に騎乗し、スタート地点に立っていた。
口上役がお互いの名を呼び、選手が誰であるかを告げる。
…対戦相手の実力が見えないというのは戦い難いものだ。
シセルは対戦相手と対峙しながら思った。
城門外で行われていた予選を勝ち抜いてきた者だけがこの舞台に立っている…ゆえに、眼前に対峙する相手は一角の「猛者」であり、油断は禁物だ。
「通常の競技大会であれば、噂や動向を多少なりと把握できるものなのだが…」
公爵閣下の祝賀祭という特殊な大会だけに、その機会も時間も得られなかった。ワッツ・ルーベンの武具は使い込まれたものに見える…おそらくは歴戦の騎士に違いない。
「…パパ!」
グスターニュ騎士や貴婦人の声援の中に我が子の声を聞き取ったシセルは視線を向けた。視野の先、すぐ横の観客席にリオーネとバレルの姿が見える…バレルは柵から上半身を乗り出して手を振っていた。リオーネがしっかり捕まえているものの、今にも転落しそうな勢いだ。
「あまり身を乗り出すな…」
シセルは思わず声に出して言った。
ヘルムの中で口角を上げ、バレルに向かって頷いて見せる。
「息子の期待に応えねばならないな…父としては。」
旗役が腕を上げる...緊張の瞬間。
シセルは身構え、ランスを握り直した。
「GO!」
号令とともに旗が振り下ろされる。
騎士は同時に馬を疾走させた。拍車をかけて速度を上げる...敵も猛然と迫って来ていた。シセルは目を眇め、狙いを一点に定めた…
“全ての相手が品行方正とは限らん。矛先が自分の何処を狙っているか見極めろ。“
ユーリの声が脳裏をかすめる…
成人を迎えたばかりの頃、幾度もその教えを享受した。勝ち続けた『漆黒の狼』…彼はその屈強な印象とは裏腹に、慎重かつ戦略的な戦士だった。
「もちろんです閣下!」
シセルは声を上げた。
さすがに敵の狙いも正確…だが!
駿次、右腕に衝撃が走った。
相手の矛先を肩先に受けたものの上手く受け流す…対して右手の応えは充分…すれ違いざまにワッツの姿勢が大きく崩れたのが見え、
シセルは勝利を確信した。
到達地点で馬を止め、改めて後ろを振り返る…
「勝者、バージニアス子爵!」
審判が青い旗を掲げて声を上げた。
対戦相手は落馬しており、地上で立ち上がっていた。怪我は無いように見受けられた。
「上手く落ちてくれた様だな。」
シセルは胸を撫で下ろした後、すぐにバレルがいる方向に視線を移した。観客の称賛と降り注ぐ貴婦人の袖には目もくれず、大きな瞳を輝かせて手を振っている我が子に向かって右腕を上げた。
「まずは一勝…これで面子は保てたな…」
『バルド戦役の英雄』は、称賛を受けながら会場を一周し、そのまま門を潜って退場した。
正騎士、従騎士、貴族、爵位ある者、地位無き者。
戦いは延々と続いた。
次々に勝敗が決まり、勝者がしだいに絞られていく。
会場は大いに盛り上がりを見せ、観客は常に大興奮だった。
一方、控える騎士達は極めて寡黙。
『競技』とはいえ馬上槍試合は擬似戦争であり、騎士は一命を懸けて闘う。先を丸めて保護されたランスも、勢い余って鎧を貫通させれば死に至る…
…カイン…大丈夫かな。
マリアナは不安に駆られていた。
漆黒の甲冑とヘルムに身を包んだカイン…
黒毛の馬に騎乗し、彼は対戦相手を見つめていた。
マリアナが馬上槍試合を見たのはこれが初めて…
あまりの過激さに圧倒されて、心臓の鼓動が早鐘を鳴らしていた。
…こんなに危険な競技だなんて知らなかった。
今は王妃がリュシアンの出場に猛反対した理由が理解できる...これはとんでもない競技だ…
「...マリアナ?」
エミリアがマリアナの顔を覗き込んで言った。
「顔色が悪いわ…少し刺激が強すぎるのではなくて?」
その言葉にリュシアンが横を向いて目を見張る。.確かにマリアナの顔は蒼白だった。
「いいえ、大丈夫です。少し寒いだけ…とても楽しいわ。」
「…まことか?」
「…ええ。」
「厚手のローブを持って参れ、早く!」
リュシアンは大声で叫んだ。侍女達が慌ただしく踵を返して動き始める…間を置かずリュシアンのマントがマリアナの肩に掛けられ、足元まですっぽりと覆われた。
「ありがとう、リュシアン。」
マリアナの微笑みにリュシアンが思わず赤面する...髪をクルクルと巻いた妃…なんと可愛いのだろう...
「ローブはまだか!遅いぞ!」
リュシアンの大声は、スタート位置に立つカインの耳にも届いていた。ヘルムの下でマリアナを垣間見ながら眉根を寄せる。マリアナは静かな森の中で生まれ育った姫君...こんな野蛮な競技を好む訳がない。
「大丈夫だろうか?」
マリアナにこれ以上不安を感じさせてはいけないと肝に銘じる。カインは対戦相手を見やった。サー・ベランシェは自分と同じく爵位を持った騎士であり、悪い噂も無いようだった。
「愛してる...マリアナ。」
カインは告げた。
ヘルムの中では、誰にもその声が届くことはなかった。
「青、東ルポワドグスターニュ公、カイン・ド・ブランピエール!」
カインの名が呼ばれると、貴婦人達の熱い声援が湧き上がった。
騎乗しているのはリオーネと同じ黒毛の雄馬。体躯が大きく槍試合に特化した頑丈な足回りが自慢だ。
「カイン様!」
「公爵様!」
うら若き乙女達が必死に呼びかけるもカインはそれをいっさい無視した。
視界の先に佇む騎士を睨み、精神を集中させる。ランスの先を正確に敵の的へと当て、勝利をマリアナへと捧げるのだ。
「…いざ。」
旗の合図とともに走り出し、カインは一気に拍車をかけた。手にしたランスはユーリが最後に使っていたもの...大切な父の形見だ。
使用を躊躇う自分に、シャリナは「是非使って」と望んだ。母にしてみれば、きっと父とともに戦って欲しかったに違いない。
「父上がいかに屈強であったか…このランスの重さが物語っている!」
直後、太く重厚なランスの先端が相手の胸部に衝突する。カインにも敵の先端が当たっていたが、カインは衝撃に合わせて仰向けになり、瞬時に起き上ると態勢を戻した。
青旗が上がり、カインが口角を上げる。
槍の先端は狙った位置に確実に当たっていた。ベランシェ伯爵は緩やかに落馬し、怪我を負うことなく、悔しそうに首を横に振るのだった。
「…見事だ、黒騎士。」
フォルトは唸った。
難なく勝利をおさめたカイン。
その乗馬技術と槍さばきは見事なものであり、称賛せざるを得なかった。
「『漆黒の狼』を彷彿とさせる勇猛さと力強さ…ユーリは素晴らしい嫡子を残したと言えよう。」
凱旋する黒騎士を目を眇めて見遣る...シャリナもさぞ喜んでいることだろう。
「…それに比べて、私はどうだ。」
遠目に息子アーレスを眺めて呟いた。離縁した妻をそのまま映した面貌と炎のような赤い髪...
「それ故に違和感を覚えた訳ではない。そなたはあまりに私と違いすぎたのだ…」
実母の愛を知らず不遇だったとは言え、シャリナの愛を一身に受けて育ったアーレス…。成長し、穏やかな性格となって自分のもとに帰ってきた時、息子に対して「羨望」を抱いた...切望しても得ることのできなかった愛を手に入れた息子への愚かしい『嫉妬』だった…
「このうえそなたはまだ私からシャリナを奪うと申すか?」
妻の侮蔑の言葉を思い出す…冷たい視線と争いの日々…そんなものは記憶から全て消し去りたかった。残りの半生をシャリナと共に生きたい...それがフォルトの切なる願いだった。
フォルトはシャリナに贈られた名入りのハンカチにキスをした。
貴婦人の『袖』は愛の告白を意味し、騎士がそれを受け取れば「成立」とみなされる。「もう袖ではなく…」とシャリナは告げたのは、すでにそれ以上の『間柄』であるということの暗示なのだ。
「シャリナ,,,そなたはもう私だけのものぞ...」
フォルトは呟いた。
「お互い勝ち残らねば一騎打ちは夢と消える...そなたの実力、とくと見せてもらおうぞ、アーレス。」
現れた麗しい騎士に貴婦人達が熱い眼差しを向ける,,,
悲鳴に似た声援は鳴り止まず、会場はけたたましい状況に陥った。
お目当ては将来のパルティアーノ公爵…炎の貴公子、アーレス・パルティアーノだった。貴婦人達が席の前方へと群がり、次々に袖を差し出す。
白い馬の背に乗るアーレスは、身につけた美しい装飾入りの甲冑も相まって、その場にいる全ての貴婦人の心を射抜いてしまった。騒動の収集がつかないため、試合がしばらく中断してしまうほどだった。
「うわぁ…」
リオーネは呆然としながら言った。
「凄まじい袖の数…カインとどっちが多いだろう…」
未だ独身の二人に対する期待値は絶大だった。そうでなくとも縁談は毎日のように舞い込んでいるし、外出すれば誘いが絶えない。美男なうえに『公爵』の地位まで所持しているのだから、当然と言えば当然だ...
「それなのに…ねぇ?」
はしゃぎ疲れて眠ってしまったバレルに向かって問いかける…あどけない寝顔が愛おしい…
「カインおじ様は妃殿下以外の異性に全く興味を示さない。かつてのお父様がそうだった様に、結婚については望み薄…きっと圧力をかけられたとしても、その決意を曲げたりはしないんだよ。」
...でも、アーレスは?
騒ぎに目を丸くしているシャリナを見遣る…なんとアーレスの意中の相手は自分の母…何とも複雑な気分だ。
「本当に素敵な騎士だわ。とても小さくて頼りなげだったあのアーレスが…」
シャリナは言った。
「どうか怪我をしませんように…頑張ってね、アーレス...」
胸の上で指を組みつつ、心配そうに見守る母の姿に、リオーネは少し安堵した。むろん微塵も疑ってはいないが、シャリナがアーレスを「我が子」以上と考えているはずもなく、たとえ後見の権利を彼が手にしたとしても、アーレスの望みが現実になろうわけがなかった。
…公爵様をあんなに怒らせちゃって…どうするつもりなのよ、アーレスは。
そんなリオーネの懸念をよそに、炎の貴公子はスタートの位置に着いた。ヘルムに覆われた表情を窺い知ることはできないが、グスターニュでの鬼気迫る様子を見れば、今の彼がどんな顔であるかは想像できる…
「大丈夫。あんなに腕を磨いたのだから心配要らないわ。」
「ええ、そうね。」
アーレスも馬上からシャリナを見つめていた。
魅惑的な菫色の瞳が自分を見つめている…少し心配顔で、胸の上に手を当てている…
「母上…」
喜びで胸が熱くなる。傍にシャリナがいるだけで、どんな強敵だろうと負ける気がしなかった。
「待っていてください...私は必ずや父上に勝ってお見せします。そして、その時こそ、私の真の希望を叶えて下さい。」
観客がようやく静かになり、アーレス・パルティアーノの闘いを皆が固唾を飲んで見守った。
アーレスは赤。白いランスを右手に、彼はその瞬間を待ち構えた。
「GO !」
旗が振り下ろされ、二人の騎士が同時に飛び出した。
「…速い!」
観ていたカインが口角を上げる。アーレスの勢いは凄まじかった。猛然と速度を上げながらランスの角度を定め、疾風の如き速さで相手に向かって突き入れる。交えたのは一瞬!勝負は刹那に決まった。
「…おお!」
会場がどよめきに包まれる…相手の体が宙を舞い、地上へと落下した。敵の矛先はアーレスに届かず、アーレスは全くの無傷だった。
「素晴らしい…やはり血筋は争えないものだ。」
カインの隣でシセルが唸った。
「鬼神と称された若い頃のパルティアーノ公爵を彷彿とさせる攻撃でした。」
「うん。非の打ち所がないね。」
カインも同意し、両腕を胸の上で組む。
「できれば公爵閣下にお手合わせ願いたいと思っていましたが、どうやら無理の様です。」
「…それは判らないぞ。勝負は時の運。父上もよくそう言っていたじゃないか。」
「あの閣下に申されても、信憑性に疑問が生じますよ。」
「それは否めないな。」
カインは白い歯を見せて笑った。
シセルがいつになく弱腰なのは、彼の先見性がそうさせているんだろう。
「アーレス様に負けるならば、父としての面子が潰れることはありませんし、リオンも理解してくれるでしょう。」
シセルは爽やかな笑顔で言った。この騎士は昔から欲がなく、子爵になったにも関わらず、相変わらずグスターニュ騎士団の長を務め続けているほどだった。
「リオンは幸せだ。まったく、本当に羨ましいよ。」
「...申し訳ありません。」
カインが肩をすくめたので、シセルはバツが悪そうに苦笑した。
…それにしても、アーレスは強い…俺も勝てるかどうかは怪しいな。
お互い勝ち進んではいるものの、相手は選べず未知数だった。
…まさに運のみぞ知ると言ったところか…
カインは眉を潜めて天を見上げた。
アーレスが頂点に立てば衝撃的な出来事が待ち受けている…未だに信じ難い話だが…
「いよいよ公爵閣下のご登場だ…」
客席はその話題で持ちきりとなった。
フォルトが槍試合に参戦するのは十年ぶりであり『華麗なる騎士』の勇姿が観られるとあって、注目が集まっていたのだ。
「対戦相手は誰だ…?」
「は…異国の騎士?」
「聞き慣れぬ名だぞ…」
勝ち上がって来た無銘の騎士に、人々は一斉に首を傾げて見せた。
『異国の騎士、サー・ファザム』
それが彼の名前だった。
8話につづく