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外に出ると、私と同い年か少し下ぐらいの男の子が立っていた。
「久しぶりだろうけど、遊んでやってくれ」
男性の言葉は、私に言っているようにも歪に言っているように取れた。
男性は、奥に停めてあった黒ワゴンに乗って去って行った。段々と音を小さくしていくエンジン音が奇妙なほどに意識され、また朝の淡い静けさが戻る。
久々に見た歪は、さほど変わっていなかった。髪は短髪と長髪の間くらいで、手入れが行き届いていないと思うのは癖毛のせいか。地味な黒のパンツに、森と同化してしまいそうなカーキ色のよれたシャツ。
この屋敷に来る客は、大体が富豪だ。劣っても金や財産を所有していることは明らか。故に、身だしなみの与える印象が、頗る上質。
彼は。客と比較対象にするのなら、もってこいのモデル。視覚から入った情報が、私にこう言う。
貧乏だ、と。
小さい頃はあまり思わなかったが、さまざまな人間と接してきて、いろんな情報を搾取してきた私は、今、彼のことを見下そうとしている。
だが、本当にそうなのかと思う。
お姉さま方は常々「私たちが男と遊んでやってるのよ」なんてことを言うが、私にはそんなお姉さま方が、自分とは違うのだろうと、聞くたびに違和を感じていた。お客様はお金を払って満足して帰られる。色恋に発展するわけでもない、一夜の同居人。彼らもまた、自分の欲望を発散させる、いわば趣味のために赴いている訳だった。
その関係性は歪だった。
ヒットアンドアウェイ。キャッチアンドリリース。どちらの心理も互いに相手に伝わっていないのに、関係性が築けている生産者と消費者。表向きの綺麗事同士が上手く噛み合ってビジネスに発展させる。
そんな自分の見解を、私は傍から眺めているだけだった。
「学校はどう?」
「楽しいよ」
「そう」
ブランコの長い鎖を揺らしながら、私は彼の通う学校を想像してみた。「楽しい」とはどんなものなのだろうか。彼と話すたびにいつもそんなことを考えた。彼のくれた「楽しい」の欠片を一つひとつ組み合わせて、学校という空想を創り上げていた。だから、私の思う「学校」とやらは、どうやら居心地がよさそうではないみたいだった。
「歪はさ、学校楽しいって言うけど、私はなんか働いているような感じに聞こえるな。なんか私とあんまり変わらないような気がする」
「楽しいなんて人それぞれだよ。何かと比較して少しでも心が和らいでいたら、それは楽しいってことなんだから」
歪の表情は、昔より硬くなった。
不愛想とか、無表情ではない。それは確かなのだが、心が笑っていない。久しぶりに会ってみると、それがより明確に感じられる。初めて会ったときのことを私は忘れられない。無邪気な男の子が私の手を取って、滑り台の向こう側へと連れて行ってくれた。シーソーの高さを興奮に変えてくれた。そして何より、しきたりから解放してくれたあのときの彼の言葉が、今でも忘れられない。
誰かに身を委ねることを覚えた。そのおかげで、繭や蓮にも同じ年齢相応の対等な言葉で話せるようになった。
私は少し硬かった自分が柔らかくなったように思える。スッとまっすぐに起立した身体を、前後に曲げることができなかったあのころとは変わり、今ではちゃんとお辞儀もできる。
彼は私とは逆だった。
「じゃあさ、私といるのと学校にいるの、どっちが楽しい?」
「比べられないかな。そもそも比較対象じゃないよ」
「じゃあ楽しくないんだ」
「楽しいよ」
表情一つ変えずにそう言う歪の顔は、私に疑念を浮かばせた。
「ほんとに? 顔が笑ってないよ」
「心で笑ってる」
「そんなのわからないよ」
「いや、割と真面目に。土曜って、どちらかというと、一週間生き抜いた僕への褒美だと思ってるから」
「どうして?」
「どうして?」
歪は聞き返してきた。そこで初めて歪はこちらを向いた。「どうしてかって言われると、えっと難しいな。なんだろう。僕が普通でいられるっていうか」と悩む顔をしていた。
「私は普通でいられていないように見えるけど」
「そうかな」
今日会って初めて歪が笑った。私はこの顔を見ていつも安心する。でもこの笑顔は、いつも見ている笑顔と違った。多分それを訝るようになってからだろう。歪のいろんな表情を抜き取るように頭で保存するようになったのは。
土曜だけの付き合いだが、話していくにつれて歪の表情を観察するようになった。昔はいろんな表情を見せていたのだが、ここ近年ではレパートリーも少なくなってしまった。でも昔から変わらない表情が一つだけある。
この目を三日月みたいに細くして笑う表情。
「なんかさ、慣れちゃうと疲れるって感情を忘れちゃうみたいでさ」
「わかる。繭とか蓮に『いつもこんなことやってて疲れないの?』って言われてもそうでもないって思うんだよね」
「うん、僕もそんな感じ。貴調は今の仕事どう? 社会的にはあんまり勧められるような仕事ではないみたいだけど」
「もう、慣れちゃったかな。私にはこれが生きる術だから」
「久しぶりに聞いたよそれ。生きる術」
私の生きる術。消費者がいなければ成り立たないビジネス。彼は、私の仕事を知っていながら普通に接してくれる。
巷では、印象の偏る仕事のようだ。繭から聞いたことがある。援助交際。性風俗。この手の類の仕事は、タブーで、真っ当な生き方ではないと。
ふと考えた。もし歪がここから私を連れ去ってくれるとしたら。私の生きる術は消滅する。そう思うのだが、もっと違うものが垣間見えている。何か違うものを手に入れることができそうな気がする。
繭はこの屋敷に来る前、「恋愛」というものをしていたそうだった。私が「恋愛って?」と聞くと、「人を好きになることだよ」と、無知な私に丁寧に教えてくれた。前兆だったり、それに陥ったときの作用副作用だったり。それを知っても、私にそんな感情を抱かせる人物はいなかった。強いて言うなら、歪。仕事をしているときにふと頭に歪の顔が出てきて、今何をしているのだろうと想像を巡らせられる存在。その点は合致していた。
「歪って恋愛したことある?」
「ん? そんなことしてる余裕はないかな」
「繭は学校に居るなら嫌でも恋愛するとか言ってたよ」
「じゃあ僕は、嫌なのかな」
「他の人はしてる?」
「友達でしてる人は知ってるよ」
「どんな感じ?」
「やけに聞いてくるね。気になる?」
気付くと前のめりになって歪の方へ向かっていた。やけに羞恥を感じてしまう。「なんでもない。ごめんごめん」と私は視線を逸らしたが、歪は「ううん。いいよ。僕が知ってる範囲でいいなら、貴調の知りたいこと教えてあげる」そう言って歪はブランコを降り、私の膝の前に来てしゃがんだ。
握っていた鎖から私の手ははがされ、歪の掌の上に乗った。
「手を握るとね、緊張しちゃうんだって。僕の友達は、彼女と手を繋ぐときにいつもそれで手が汗ばんできちゃうみたいで、よく僕の手で実験させられる」
「実験?」
「そう。その友達は僕と結構仲がいいから、僕の手を握って汗が出てこないように練習してるみたい」
歪はただ掌の上に置かれていた私の掌を、ゆっくりと握った。私の人差し指から薬指までの四本の指が、彼の四本の指と掌に包まれる。
「これが普通のつなぎ方で……」
それを解いて、今度は私の指と指の間に彼の指が絡まる。
「これが恋人の繋ぎ方なんだって。その理由が僕にはよくわからないけど」
彼の右手と私の左手は絡まって掌同士が合わさっていた。彼は左手でわからないという仕草をして少し俯く。私は、右手で掴んでいたブランコの鎖を放し、そっと彼の頬を触った。輪郭に沿うように上から触り、彼の顎の骨格が意識される。
ドクっと何かが鳴った。繭の顔が浮かぶ。
私は、座ったままお辞儀でもするように、そっと彼の顎を上げ、そっと近づいていった。からからに乾いた唇。乾燥していて皮膚がはがれそうだった。
時間にして二秒くらい。
口の中に舌は入れなかった。唇に触れた途端、絡まった右手が汗ばんだ。唇を離したときには、彼はもう俯いていなかった。そりゃそうだ。自分で上げたのだから。私の方をじっくりと見つめていた。
「手が汗ばんできちゃった」
「え、私も」
「じゃあおあいこだ」
また一つ欠片が、空想の、楽しい、を作った。
「大丈夫」
歪は、見たことのない表情で笑った。