【乞食にもなれない】
上下セパレート、簡素な赤い袴。白い帯で袖の弛みをたくし上げ、ズボンの裾はリブになっているので、調節ができ、弛みもなく動きやすい。床に敷かれた布を両手で覆い、腰を突き上げて廊下を走るには問題のない格好だ。
物心がついたときから、この格好が私の一張羅だった。
骨身を惜しまず生きた。今となってはどうとでも言えるが、あの頃はそれが普通だと思っていた。周りの皆も同じようにして働いていたし、仕事が終われば寝床に戻ってくたくただった。愚痴をこぼしていたお姉さま方もいた。だから、皆、苦痛を感じ不満を持ちながらも働いているのだと思った。
仕事ばかりではない。座学もあった。入ってすぐの雇用者は、「敬語」を習った。お客様への対応、どうすればいいか、そうすれば喜んでいただけるか、また、どうすれば気分を損ねずにお世話をすることができるか。そこを中心に叩き込まれ、網羅した。
その結果、私は白袴になった。少し上の地位へと昇格したのだ。
私の周りの皆は、「ええいいなあ。給料上がりそう」と笑いながら言っていた。
私はそのとき、給料というものを知った。
蓮や繭からよく話を聞いた。私は物心がついたときからここにいたが、彼女らは比較的成長してからこの場所に来た。だから、噂で聞いた、外界のことも知っているのだと思った。
「え、貴調って給料もらってないの?」
「そもそも給料って何よ」
私がそんなことを言ったせいか、二人は目を丸くしていた。
「あんた、結構お姉さま方に評判いいから、給料高いのかと思ってた。もしかして借金とか?」
それを聞いてか、布団を敷いていた繭がこちらに忙しなく近づいてきた。
「噂で聞いたことある。借金ある人は、無理矢理ここにこさせられて働かされるんだって。だから、給料はその借金に当てられて手元に残らないんだって」
繭は、「はい、どいたどいた」と私と蓮が肘をついていた円卓を持ち上げ、部屋の角に持って行った。「何よ」と蓮は口を膨らませ、広くなった畳の上で、耳に手を当てて寝転がった。私はなぜか正座のままで、太ももの上に両手を置いている。
「ねえねえ。もっと貴調の話聞かせてよ」と、今度はまた違った急ぎ足でこちらに繭が駆けてきた。彼女も正座になって前のめりだった。
「いや、私の話は……蓮と繭は途中から入って来たよね?」
「うん、そうだよ。そういえば貴調はずっとここにいるんだっけ。じゃあ外のこと知らないのか」
「うん。だからちょっと気になって」
そう言うと、繭は蓮と同じように肩肘を立てて寝転がった。
私に外界の軽い一般常識程度の知識はあった。昔教わったのだ。
「私も蓮も、ここに来る前は女子高生だったのよ」
「あ、学校?」
「そうそう。学校行って勉強するの。だけど勉強なんて全然しなかったよねー。みんな恋愛ばっかだったね」
蓮と繭は目線を見合わせてそう言った。
「同じ学校から来たの?」
「そうそう。同じクラスだったしね」
「学校に通っていたのにこんなところなんで来たの? 結構大変 じゃない? 外の世界ではそれが普通?」
「まあ、高校とか大学卒業したらみんな働かなきゃなんないから、それがちょっと早くなっただけじゃない? 元々家が貧乏だったし、金なかったからしょうがなくって感じかな」
「私は好きでここに来たけどね」
蓮は、会話を遮るようにそう言った。
私が、「雑巾がけとか大変じゃない?」と聞くと、「ああ、それは嫌っちゃ嫌だけど、なんてったってねえ。ただでセックスできるし」
「え、あんたそんなこと考えてここ来たの?」と繭が目を驚かせていた。
「まあ、それなりに給料もらえるし? ここ敷居高いからいい男しか来ないし? 結構適当な感じでここに来たしねー」
そんな話を聞いていると、私は蓮が自分と妙に違った人間のように思えた。雑巾がけを快と考えるなら、セックスは不快だった。寧ろ、そういう苦痛を強いられることが仕事だと思っていただけに、蓮の発言は少々驚いた。
あれが楽しいのか。
確かに行為自体は奥深しいものがある。相手にもよるのだが、そこは否定できない。弱っているときに嘘だったとしても声を掛けてくれる人がいたら、ホイホイとそちらへ流れてしまうのも頷ける。ただ、いつ病気になってもおかしくないのだ。病気になれば捨てられる。おそらく、私は外のことを知らないので生きていけないだろう。その怯えと行為の後に戦うのだ。
私の居場所はここしかなかった。
蓮と繭が笑いあっていた。手の動きが妙に愛らしい。こういう姿を目の当たりにすると、どうしても私はほっとしてしまう。ああ、今日もいいことがあった。労働に耐えた甲斐があった。そうやって座敷に引かれた布団の上で眠って、朝になれば掃除が始まって、絶え間ない労働が待っている。
私には怯えがあった。いつここを追い出されるか、そんなことに怯えている横で、彼女ら二人はそんなことを考えず楽しそうに話していた。
蓮がこの大湊屋を去ったのは、それから数日もしなかった。検査で病気だと判明した蓮は、手厚い叱咤でここを追い出されていた。
病気になった者はすぐに追い出される。それが鉄則で、例外などなかった。地位の高いお姉さまでも、下位の者たちによって追い出されて行くところを何度もこの目で見た。
「ああなったら、もう死ぬしかないんだよ」
そんなことを誰かから聞いた。身体の中に無数の蛆が沸いたようにむず痒くなり、いったん安定期に入るものの、また酷い苦痛が始まる。それに耐えられない女郎は……
「自殺するのかな」
蓮が追い出されるところを一緒に目撃していた繭は、そう言った。
自分があんな姿になったときのことを考えると、とても怖くて仕方がなかった。
そんな大湊屋だが、土曜だけは定休日となり、誰もこの屋敷の床に音を立てず、いつもとは違った大そう静かな空間となる。市街に出ていく者、料理長だけはなぜかいるので、部屋に籠って眠る者もいた。様々だった。だから、私も誰かについていって市街に出ることもできた。でも、私の選択肢に市外に出るというものはなかった。最初からそうやって暮らしてきたし、一度も行ったことがないので、行きたいとも思わなかった。気にも留めなかった。
私は決まってすぐそこの公園に行く。
昔は一緒に遊んでくれる男の子が毎週来てくれていた。女傑と親しい間柄のようで、そう命令されれば、一緒に遊ぶ他なかった。
初めて会ったあの日。私は乗り気じゃなかった。
あの日と比べれば、私は変わってしまったのだろう。タメ口で繭たちと話すことができるようになり、お姉さまからも「なんか明るくなったね」なんて言われることも多くなった。加えて、それが純粋に嬉しかったりする。ただ働くために生まれてきたと思っていた私にとって、それは大きな意味を持つことだった。
だが、最近は不定期だった。公園に行くのも男の子と遊ぶのも。
もう二か月近く会っていない。
気づくとその間、いつも歪の顔を思い浮かべていた。
お客様の接待を終え、布団をかぶるたびに彼の姿は鮮明に思い出された。気づくと、土曜日までの日めくりが私の日課となっていた。今週の土曜は来るかな。あと三日だ。明日が終われば――そんなことを考えていざ土曜の朝を迎えると、女傑と親しい男性は、私の寝床に現れなかった。そんな土曜日を迎えるたびに、私はいつも以上に体を休めることができる。最近の土曜は、布団から出られない日だった。
消えかけた期待にお湯を注ぐように、私の心は温かくなっていった。
「貴調。行くぞ」
襖の向こうで男性に呼ばれる。静かな屋敷で声を上げるのは、あの人ぐらいしかいない。
私は布団を出た。土曜に布団から出るのは幾分久しいことだった。億劫だった、といえばそれまでだが、布団の中にいても温かくならなかった器が、徐々に加熱されていく感覚に陥る。
洗濯をして干してあった白袴を手に取る。毎日仕事を終えると、胸まで丈のある腹巻で寝るまでの間過ごすことが多い。先週の土曜は、一日中この腹巻姿だったが、私は久々に休暇時間にこの白袴を着た。
この袴を着ると、身が引き締まる。誰かと会うとき、敬語はしきたり。身だしなみは節義を堅持すること。節操を貫くように。こんなことを小さな頃から身に染みて覚えさせられれば、そうそう消える習慣ではない。まずそういう人間しかいない環境に置かれれば、嫌でも身に着く。きっと華やかな服を着たら、着心地が悪くなるに違いない。
私は腹巻の紐をほどいて、全身を露にする。鏡の前に立って自分自身の容貌を確認する。
私は女になれているのだろうか。
余計な肉は、日々を重ねるにつれて自然と落ちて行く。食事は番台に行けば、何も言わずとも決まったものが差し出される。それを食べ、朝起きて、屋敷の隅から隅まで掃除するとなればそれは当然の始末。身をもって体感してきた。
掃除機、というものを使わなくなったのも、そのせいだろうと思っていた。何年か前に一旦導入されたが、それを操っていた使用人の身体は、粗末なものへと衰退していった。以後、掃除機はこの屋敷から消えた。
「貴調! 行くぞ」
振り向くと障子の襖が開いていた。そこから覗く男性。私は身を露にしたまま、彼に聞く。
「私の身体に、粗悪な点はございませんか」
「ああ。俺が目にするにはもったいないくらいだ」
身だしなみとは、自身の身体まで管理することを含める。私はそう教わった。
いや。
私の身体が粗悪であれば、お客様もお姉さま方も躊躇なく私のことを見陰ってしまうだろう。だから、病気などに怯えていてはならない。視覚で見て取れない病気なぞに、私のこの身体を下劣に評価されてはならない。女傑に認めていただいたこの身体の評価を、そんなもののせいで落魄させてはならないのだ。汚らわしさに侵されてはならない。蝕まれて貧相な体になってはならない。あってはならないのだ。
私は白袴を着て、寝床を出た。そこに男性はおらず、先に行ったのだろうと思った。襖を閉めると、しんみりとした空気に触れた。
「回」という字を象ったように長く続いて回る廊下。その端々に連なる小部屋の障子、襖。吹き抜けになっている中央を手すりにつかまり身を乗り出して覗くと、番台が見えた。その後ろには、小さい頃の座学で見た、日本橋かと思うほどの幅の広い、階段。吹き抜けの天井から浅白く差す光。そこに男性は腰かけて煙草をふかしていた。
私は、その幅の広い階段の端を降りて、男性の背中に近づいた。
「すみません。遅くなりました」
そう言うと、男性は立ち上がり、番台の横まで行き、置いてある灰皿で火を消していた。
少し遠くなった背中がこちらを振り返る。
「似てるな、お前ら」
「え?」
「待っていていただきありがとうございました、とか言えないのか?」
男性は、また背中を見せて外への扉に向かっていった。私もと、小走りでその背中を追った。