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 辺りはすでに暗くなっていた。帰り道に横切るスーパーからにぎやかな音が漏れていた。そんな音を聞く裏腹、僕の心臓はバクバクと鼓動を挙げていた。ただひたすらにペダルを漕いだこともある。でも、もっと違う意味で心臓をポンプする勢いが次第に強くなっていた。


 家に近づくにつれてそれは鳴りやまなかった。自分の中にいる蠅や虫たちが、僕の心臓に集って無作為に体当たりしているようにも思えた。


 おぞましかったのだ。


 そんな勢いを残したまま、僕は家への最後の角を曲がった。


 終わったと思った。


 数メートル先に見える自宅。玄関のドアは大方が木でできているが、その真ん中に強化ガラスでできた小さな小窓がある。そこがほんのりと明るく灯っていたのだ。


 今から逃げようか。そんなことも考えた。近くの公園で一夜を明かす、それぐらいは訳ない。だが、もっとできない理由を僕は知っている。あいつは、父は、死に物狂いで僕を追ってくる。あらゆる手段を使って、あらゆる執念を身に纏ったように、鬼のようにどこまでも追いかけてくる。鬼ごっこなんてよく言えたものだ。角が生え、上半身裸の怪奇と常軌を逸した狂気を身に纏った本物の羅刹が、後ろから襲ってくるのだ。死ぬって。


 時間が経てば経つほど、対価は身をもって味わう制裁へと変わる。最大限に膨れ上がった制裁を僕は知らない。でも、痛みは知っている。僕が以前に感じたもの。光景、匂い、空気、その記憶が「逃げちまえ」と促す。


 それでも行かなければならないのだ。最小限に抑えるためには今行くしかないのだ。


 このまま逃げてしまおうか。こんなに地面を踏みしめたことはない、それくらいゆっくりと出る、右足、左足の一投足が震えている。怖いのだ、と僕は思った。逃げちまえ――その救いの言葉に乗ってしまおうと気持ちが揺らぐのだ。


 そんなことは幾度となく思って来たし、味わって来た。


 でもきっと本当の意味でそれは違う。


 逃げよう。僕はまだ成人していない子どもだ。


 逃げたい。でも逃げることなんてたかが知れている。


 逃げるときに逃げた先のことなど考えるだろうか。答えはノーだ。逃げるのは、どうしようもなくなってどうでもよくなったときでいい。心の中でほんのちょっと心配している自分がいるのだ。僕と関わった人が自分ごときのことを気にかけてくれている姿を。ありえないのだけれど。それを慰めにして、また今日も数秒先の痛みを覚悟して居間に入るのだ。


 長く続けて常習化していることをきっぱりとやめるときの覚悟は、きっと毎日を積み重ねることよりも難しい。ふとそんな気がした。


 僕は自転車を自宅裏の道路沿いに置いた。父がいるのは恐らく居間だろう。離れているとはいえ、音を立てないようにひっそりとチェーンをかけた。どうして? わからない。なんとなく。玄関へと戻った。最後に殴られたのはいつだろうとか、一番父を怒らせたのはいつだったかとか、そんなことばかりを考えていた。これでも少しはましになるのだ。


 意を決し、小さな声でただいま、と呟き、自宅へと上がった。居間の電気はついていた。すぐそこにある椅子の上で、父はふんぞり返っているのだろう。


 進んだ。案の定そこには父がいた。


「どこに行ってた」

「学校の保護者会に出ろって言われた。だからこんな時間になった」


 自分でも怯えているのがわかった。声までは震えなかったが、膝辺りの震えが止まらないのだ。直立しようとすると、上半身が前後にぶれて、それを正そうと必死だったのは言うまでもない。それを必死に隠そうとする。隠そうとすればするほど、逆に意識してしまっているのか膝の揺れは止まらない。


 いつもこうなるのだ。特に父の逆鱗によく触れていた小五だったか小六あたりにかけては。わかってはいても反抗していたあのときの僕は、たいそう愚かだったと思う。大人になったのか、信念が曲がったのか。そもそも曲がるほどのまっすぐ伸びる信念などあったか。従順になった。それも間違いじゃないかもしれない。どちらにせよ、何も考えずに思ったことをそのまま態度に出していたあの頃と比べ、今頃になって自分の愚かさに気づいた。


 父は煙草を吸っていた。


 僕は無言でテーブルの上に乗っているボックスに手を伸ばした。


「いただきます」


 そう言って一本抜いた。隣にあったジッポの蓋を心地よく響かせて開け、流れでシュボッと火をつけた。先端に火をつけ、最初の煙をふかす。そして、再びフィルターに口を近づけた。


「旨いだろ」

「もう慣れましたね」


 父は自慢げにいうのだ。自分の息子が煙草を吸うことに心底満足しているようだった。


 なんとなくわかる。自分が好きなものを誰かと協調し合う。結構嬉しかったりする。煙草が悪いのではない。煙草を好いた父が悪いのではない。父が好きになったのが煙草であったというだけの話で、別に煙草以外の何かでもよかったはずだ。


 全然許せる。


 こんなもの。


 自分への危害など一つもないのだから。


 時計の秒針がチクチクと鳴る。


 僕は待っていた。次に来る父の言葉を。


 一口。


 二口。


 そして三口吸っても、その言葉は父の口から発されなかった。居間の丸い蛍光灯に向かって二つの煙が渦を巻く。ぼーっとしていた。


 いつかは、唐突に殴られた。いつかは、唐突に煙草を押し付けられた。父の行為が終わった後、彼が決まって言う言葉は「躾がなってない」。


 今日という日は、なんていい日なのだろう。その言葉を聞かずに済みそうだ。そう思ったか思わなかったか、鬼は僕の髪を鷲掴みにした。すぐに痛みを感じた。だが感じてはいけないのだ。それを表に出すと、父はいい気になって愚行を繰り返す。いつの間にか意識を遠くに飛ばす癖がついた。僕は生きるために痛みが遠のく術を身に着けた。


 歯で舌を噛むのだ。中和されるように、僕は違うことに意識が行く。


 ああこのまま死ねるかもしれない。


 明日は目覚めなくてもいい。


 五時に起きなくていい。朝食を作らなくていい。あんなに焦って地獄の二十分を堪えなくていい。なんて今日という日はいい日なのだと。


 意識が遠のきそうな最中、僕は車に乗せられたようだった。


 どこへ行くのだろう。


 今日は殴られなかった。


 腕に傷が増えなかった。なんていい日なのだ。


 なんていい日は、一度も来なかった。肉体的疲労が待っている。主に脚。


 いつも、そう思って眠るのだ。


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