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先程まで怒声を鳴らしていた母馬が、どなたかの家の奥さんと陽気におしゃべりをしている。先程までの威勢はどこへ消えたのだ。別に騎手に鞭を叩かれた訳でもないのだろうが、ゴールラインを超えたのだろう、安着したということを物語っているように思えた。皮肉はない。彼らの気持ちも十分理解できるのだ。
生徒の母親が一人もいなくなった頃、教室に残っていたのは僕と担任と机に伏せたままの菜月だった。
「せーんせーえー。こんなこと毎回やってるんですか? マジで教師って楽じゃないですね。生徒に教師になる夢持たせてくださいよー」
「うるさいわ。俺だって苦労してることがよくわかっただろ」
そんなときでさえ、僕は菜月のことが気になっていた。
「小笠原、菊池と一緒に帰ってやれ」
「それはいいですけど、これからもこんなこと続ける気ですか? 僕はもう二度とこんな会出ませんよ。身が持たないですからね」
僕がそう言うと、担任は教壇から駆け下りてきて、
「そんなこと言わねーで頼むよー。俺を助けると思って」
と僕の肩をねっとりと撫でおろしてきた。
「今の教師ってこんなこともするんですね」
「まあ自分の身のためだからな」
「いや生徒の身の方が大事でしょ」
「菊池の身は大事だが、小笠原の身は大事じゃなくなったな」
「は? 僕も大事でしょ。ちゃんと平等にしてくださいよ」
「わかってないようだから教えてやる。その年で、あんな怖い親にあんな大口叩く奴は大抵のことじゃ折れないの。ちゃんとよく覚えておけ」
それは、正論といえば正論だった。少なくとも僕よりは菜月の身が持たなそうだった。恫喝されてびっくりして泣いてしまった女の子の姿が、頭の中で想像された。
「あんなの新手のDVですよ。人間、みんなが強い訳じゃないんですから」
「お? お前ちゃんと今日の授業聞いてたんだな。DVちゃんと覚えてんじゃねーか」
「はぐらかさないでください。これからどうするつもりですか」
僕はまだ俯せ状態の菜月を見た。
「まあ確かになあ。問題になっても困るし……。次回からは菊池は外すしかないかな」
「お、頼もしいですね」
「まあこれも自分の身のためだ」
ていうか僕はまたでなきゃいけないのか? そう思ったが、今はそれで十分だった。そもそも僕が菜月のこんな姿を見るに堪えなかったのだ。たとえ僕だけが保護者会から逃げたとしても、多分家に帰ってから菜月のこの光景を思い出す他ない。菜月の身を心配しているように見せかけて、結局僕も自分のことしか考えていないのだ。自分が不利益を被るから、そういう理由で。そういう意味では、僕も担任と同じだった。
「まあいいや。遅いからもう帰れ」
時計の針は、五時を指していた。
自転車を付いて歩きながら、僕と菜月はあぜ道を歩いていた。あの後、担任が教室を出て行った数分間、彼女は自分の身体を微動だにしなかった。数分経って、鼻を啜りあげながら彼女は顔を起こした。後ろに一つ結ばれた髪。前髪の触角が濡れていて、形を崩していた。
「帰ろう!」
彼女は突然何か決意したようにそう言って席を立った。
「私の家ね、離婚したの。結構円満な家庭だったんだけど、突然ね。父親は今どこで何をしてるかもわからない。お母さんが教えてくれないの」
「へえ。大変だな」
「うん。まあこんなこと歪に言っても仕方ないんだけどね」
あぜ道の上を軽トラックが何度も行き来したようで、草が生えない乾いた土が、露出した二本の直線を作り、まっすぐと伸びていた。その左を菜月が、右を僕が歩いていた。少し大きな石がいくつも顔を出していて、自転車の籠をガタガタと揺らしながら歩いた。
右も左も田園風景。四角く区切られた田んぼが、いくつも格子状に広がっていた。奥に見える緑生い茂る山。それに続く真ん中を、僕ら二人は進んでいて、人気のない田舎道によって二人きりだということが強く意識された。
「歪って変な名前だと思わない?」僕は呟いた。
「珍しいとは思うけど、変だとは思わないよ。素敵な名前じゃない」
菜月はそう言うが、僕にはそう思えた節などなかった。
「名前って結構人生に関わってくるって言うじゃん? 僕の人生歪んでんのかな」
「そんなことないよ。まだまだこれからでしょ? 将来やりたいこととかないの?」
「特には」
やりたいことなど想像もつかないのだ。どちらかと言うと日常を生きることに必至すぎて、そっちに目が行かないのかもしれない。
「菜月は?」と聞いた。
「私? どうかなあ」
「部活やってないみたいだけど」
「まあバイトがあるし」
「ずっとバイトしながら人生終わるのは、ちょっと寂しくない?」
「まあ確かに」
そう言った。
徐に、「ねえ」と菜月は僕の前に立って、奥に見えていた山が隠れる。
「駆け落ちしない?」
それを聞いたとき、僕は恋愛の方を想像した。一緒にどこか遠くの方に行って、死に際が来たら一緒に死ぬという想像。だが、おそらく彼女が言いたいのは、そっちじゃないと思った。
「どっか行きたいところでもあるの?」
そう僕が聞くと、彼女は「うーん」と顎を手で触って考えているようだった。そして思いついたように口を開くと、「あの、世とか?」なんて言う。
「菜月にはまだ早いな」
「そんなことないよ。私結構頑張ってるもん」
「まあ、中学生でバイトしてるっていうしな。そういえば、バイトって何してんの?」
「秘密」
「いや、バイト先って隠すほどのものか? どうせスーパーのレジ打ちとかじゃないの?」
「いや……うん。なんて言うか、嘘つきたくないし……」
「え? なんて?」
「なんでもない。じゃあ私のバイト先の先輩の話、してあげるよ」
そう言って菜月は、僕を「こっち」と手招きして、すぐ横の田んぼの脇に座った。僕もそれを見て自転車のスタンドを下ろし、彼女の隣に座った。
「私が入るよりずっと前からいた先輩がいるんだけどね、最近よく話すの。すっごく綺麗で、大人びてて、私が入ってすぐのときもすごくお世話になった。何もわからない私に一から教えてくれたの。先輩ね、ほんとにいい人で、何でこんなところで働いてるんだろうって思うくらいできた人間なの。でね、その人と最近恋の話してて、私は結構話すんだけど、先輩全然自分の方のこと話してくれないの。だから、『先輩の話も聞かせてください』って言ったらつい一昨日だよ。やっと話してくれたの」
「おう、で?」
「え、それだけだけど」
「は? まだ話の導入じゃん。前振りじゃん。趣旨はどうした。落ちは?」
「そんなのないよ。男の子に言える訳ないじゃん」
彼女はそんな中途半端な話を自慢げに語っていた。顔を見ればわかった。誰かに憧れを抱くような、真っ直ぐな目。夏量が伝わってくる口調のスピード。よほど尊敬していて、その先輩の恋愛の話とやらも、相当な話なのだろう。学校での顔と比較すればよくわかった。
多分、僕が思っている以上にもっといい話なのだろう。内容を話さなかっただけに、気になってしまう。
「じゃあ、今度その話教えてよ。言いたくなったらでいいから」
僕がそう言った後、彼女は、「あ、ごめん。また明日!」そう言って元来た道を戻るように走って行った。唐突だったため、彼女の背中を追うように視線を移し、その先を見ると、ありふれた黒いワゴン車が一台止まっていた。そこに向かって菜月は走って行った。きっと母親が迎えに来てくれたのかもしれない。優しい母親なのだろうなと思った。
一人になって、僕は自転車のサドルに腰掛けた。「ん」
一人になると妙に冷静になる癖がある。頭がよく回るという意味ではリラックスするのだろう。他人行儀が消え、自問自答が始まる。風呂の湯船に浸かったときのような、給食後の生温かい空気の中、窓から差す光に誘われまどろみの中に落ちるときのような。途端に早く家に帰らなければと思い至った。
自転車に跨って、ガタガタと揺れる籠の音を聞きながら、僕はあぜ道の上をひた走った。家に父がいませんように。そう願って、願いを乗せてペダルを漕ぐスピードを速めていった。