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 菜月の家に、父親はいない。離婚して出て行った。僕はそのことを中学一年の冬になって知った。定期的な参観日の後に行われる、親が集まるクラス会議みたいなものがあった。その存在こそ知っていたもの、別に参加するほどでもないかと思って気にも留めていなかった。だが、去年の冬、担任に言われたのだ。


「小笠原。お前、親が来ないんだったら、自分で保護者会に出ろ」と。


 この学校の規則では、保護者会長をそこで決めるのだそうだ。中学一年では学級委員の生徒の親が務めるのだが、次年からは公平に決める。その決める会議が来週なのだそうだ。当然、自分が不利になると野次を飛ばす親もいる。


「小笠原の家の事情は知っている。母親が別居してるんだろ? そのことでお前を責めるつもりもないし、保護者会長をお前んとこがやれとも言ってない。とにかく保護者会に出てもらわないと、お前ん家の事情が他の親御さんにわかってもらえないんだよ。生徒がいたら、そいつに任せるって訳にもいかないだろう?」

「じゃあ、俺が出たとしたら、やりたくない家の親は、こぞって子どもをその会に出席させようとするんじゃないですか?」


 大分ひねくれた返答だと自分でも思ったが、そう反論すると、「そういうのは後でいいから、とりあえず出るだけ出ろ。出てもらわなきゃ話にならん」そう言われ、その次の週にある保護者会に僕は出ることになった。


 その日は参観日も兼ねているので、給食の後の五限目には、数人の大人が後ろの壁に沿って立っていた。


 授業が終わり、帰りのホームルームも終わる。すると、クラスの生徒は皆部活へと急いだ。親と軽く口を交わす生徒も見られ、前のドアから遠目で廊下を覗くと、スリッパを引きずった大人がわんさかわんさか歩いていた。僕は自席に座ったまま待った。


「なんだ、小笠原いるじゃねえか。焦って損したよ」


 思い出したかのように僕の顔を見つけた担任はそう言った。僕が逃げると思ったのかもしれない。やられた。僕が逃げるのを前提で保護者会に出ろと声を掛けていたのだとしたら、癪に障る。どっちでもいいけど出てくれたらそれはそれで儲け、という考え方が気にくわないのだ。


 むかつく。


 その感情が見て取れたのか、担任は口元を綻ばせる。さらに苛立ちが加速するが、まあ僕も僕で逃げなかったわけだしと、自分で自分を宥める。


「まあ、菊池もいるから安心しろ」


 それは……安心できることなのか。そう思った。


 授業が終わってから思っていたが、僕の隣の席の菊池(きくち)()(つき)が帰るそぶりを見せなかった。いつもなら、「バイトあるからー」と言って颯爽と教室を出ていくはずだった。でも今隣に座っている。


 僕は、それを問い質す気にはなれなかった。それは僕に限ったことではないだろう。


「歪、帰らないの?」


 彼女の方から聞いて来た。


「ああなんかさ、この後の保護者会出ろって担任に言われてさ。ウチの親サボり癖が強いから入学してこのかた一回も出てないんだって」


 出ていないのではなく、出ないのだ。もっと言えば興味がない。頓着がない。それでいてあけすけ。そもそも知らないのだ。いつ保護者会があるのかということ自体。


「そうなんだ」


 その声がやけに余韻を残して、彼女の横顔と一緒に僕の頭をぐるぐると回転させていた。メリーゴウランドもコーヒーカップも、ひとたびすれば回ることをやめる。ぐるぐると回っていた馬から、コーヒーカップから、はしゃいでいた子どもが降りてゲートに向かう。まだ何も結論に至っていないというのに、僕の思考もゲートに導かれた。担任の「それでは……」という声によって。保護者会は始まった。



 単純明確に言うと、この会は二度と参加したくなかった。少なくとも、生徒の僕はそう思った。大人になったら理不尽でもやらなきゃいけないことがあるかもしれない。でもまだ僕は子どもだ。いじめはどこまで行っても正当化できないが、唯一妥協点があるとすれば、自らの手を汚しているところだ。SNSの不透明性を使ってリスクを何も背負わずに言いたいことを言っているわけではない。


 嫌いだった。遠回しというのが。ねちっこい僕の嫌いなナメクジのようでぞわぞわした。なんたって、自分が役員を避けるためなら、人を糾弾するに値する言葉をいくつも飛び交わせる。その矛先は、うねったとしても最終的には決まって菜月だった。


 最初こそ、様子を窺っている。だが、担任が、「決まらないのならくじにでもしましょうか」と言うと、「ちょっと待って」という声が上がる。そこからは、だんだんと他人への誹謗が強くなっていった。


 一年も過ごすと、大体の家の事情はわかるみたいだ。この家の生徒はこんな子、誰々さんの家はこんな仕事をしている。知れ渡ってしまうみたいだった。おいおい、何が保護者会に出なければ事情を知ってもらえないだ、担任よ。


 気の強そうな母親同士が言い合っていた。親たちは自分の子どもの席に座っていたため、誰が誰の親かわかったはず。だが、そこに意識が向かなかった。隣に座っていた菜月が、後ろを向かずにずっと俯いていたからだ。それを僕は、机に肘をついて眺めていた。


 やがて言い争っていた気の強い母親同士は、水掛け論になってなかなか結論に至らない腹いせだろう、まるでパチ屋で有り金溶かして台パンしてるおばさんのように、菜月のことを話題に挙げ始めた。


「菊池さんちはいいわよねえ。片親がいないってだけで役員免除されるんだから」


 ついには、そんなことを言った。まだ遠回しに言っていた方が、よかった。悪口を言われても名指しじゃなければ自分に対して言われているのではないかもしれないと言い聞かせられるからだ。僕だったら単刀直入に言ってくれた方が相手の顔がナメクジに見えなくていいのだが、彼女は違う。それは僕にだってわかる。まず僕がそう思うとかではなくて、確実にそう見えたから。菜月の机の上に、水滴が落ちていたのだ。


 母親の論争がここからハッピーエンドになるドラマの伏線に見えた? もしかしてお腹でも減ってよだれ垂らしてたの? ねえねえ、って菜月に聞く気にはなれなかった。


「えっと、そこまで保護者会長って大変なんですか? 別に食事会の幹事やるって訳でもないんでしょ? 名義ぐらいじゃないんですか?」


 僕はそんなことを口走っていた。誰に向けられた言葉だったのか伝わらなかったせいか、どの親も僕の言葉に戸惑っていたのが見受けられる。僕が、「あ、先生に」と手で示すと、皆そっちに視線が行った。急に振られた肝心の担任は、「え? 俺?」みたいな表情と動きだったが、別にお前のことはどうでもよかった。寧ろ、お前もあの親たちになんか言われろとすら思えた。


 たどたどしく、「まあ、そうですね。とりあえず決まっているのは、この保護者会を、仕切っていただくことぐらいですかね。あとは随時……」


「本当にそれだけなんですか?」

「後々めんどくさいこと頼まれたら敵いません」


 他の親たちからもそんな罵声が飛んでいた。いい気味だ、半ば騙して僕を出席させた報いだと思いつつも、罪悪感はあった。だが、誰かしら犠牲が出るのは仕方がない。うん。今回はそれが担任のせんせーってこった。


「というか、あの子は誰なんですか? 初めて見ますけど」


 誰かが言った。おそらく僕を指した言葉だろう。


「この子はですねえ……」と担任が話そうとすると、尋ねた親は、「ああ、もしかして小笠原さんの家? やっと来たのね。あの訳あり一家の子ども」


 僕の家は、巷で訳あり一家だと呼ばれていることを知る。


「奥さんが遊び人でねえ。旦那さんも昔は愛想よかったけど、今じゃ遊んでるって噂よ。どこで金儲けしてるんだか」


 その親の言い草が、僕は気に入らなかった。だが、別に的外れなことを言っている訳ではなかった。僕も薄々は気づいていた。朝八時頃には決まって家を出る父。なぜ朝は決まっているのに夜は決まっていないのか。朝は約束をしていて、夜はしていないからだ。薄々そんな気がしていた。どこで働いているのかも知らない。携帯番号も知らない。家には固定電話もないし、当然僕が持っているはずもない。父に聞くしか方法はないが、聞けば何が返ってくるか、僕には聡明に見える。体感したことがある僕が言うのだから、間違いない。


 金だけはいつも入っていた。食事の材料専用の口座があり、それは僕に預けられている。毎月不定期だが、決まって十数万のお金が振り込まれる。


 父がどうしていようとどうでもよかった。僕の居場所がありさえすれば。


「じゃあ僕がやりましょうか。保護者会長。誰かがやらなければならない訳ですし、別に生徒の僕でもいいでしょう? 他にやりたい人がいないんだったら、僕がやりますよ」


「そんな、子どもにやらせる訳にはいかないでしょ」と誰かが言った。その独り言のようにも取れる言葉が今の僕には油の中に水をぶっこむようなものだった。ぶわーっと蒸気が噴き出るように言葉が出ていた。


「じゃあなたがやってくれるんですか? やらせるつもりがない生徒に罵声を浴びせるのはあなたの趣味ですか? それともあれですか。自分が上手くいかないからって他人にやつあたりですか?」


 思ったことを口にしていた。とまらない。自分の父には言えないこと。思っていることをよく知りもしない母親にぶつける。なんだ、めっちゃブーメランじゃん。僕だって父に言えない腹いせに知らない人に八つ当たりしてる。


 しらん。僕は子どもだ。思春期反抗期真っ只中なのになにも文句も言わずに暗黙のルールを掻い潜りながらおそらくここに居る母親の誰よりも家事をこなしながらも傲慢にならずに健気に生きる僕のガキの頃以来の駄々なんだから一回くらい許せ。担任が割って入って来た。まあまあと。まあまあって何? 僕が言わなかったら、どうなっていた? 誰が役員を引き受けた? 誰が誹謗をやめた?

 僕には見えていた。一つ、二つ、三つと机に落ちる涙が。何も知らない僕に(かば)われる彼女もどうかしている。自分で言えばいいのに。


 言えないっつーの。


 曖昧に宥めて、物事を中断して、何ができる? わあ、素敵な仲良しグループができた。カーストができた。愚民はそこにいるだけ。何も口出ししない。


 誰かに自分のことを知って欲しいだなんて思わない。でもこれだけは言える。僕の日常は、どこの家族よりも充実しているはずだ。暗黙の了解がいくつもあって、それを掻い潜りながら朝のたった二十数分で家事の全てを平らげる。これ以上に充実した生活があってたまるか。


 誰よりも生きた心地がするよ。そんな言葉が僕の頭に形作られることを、きっと以前から、ずっと前から切望していた。


「あ、ウチ、やってもいいですよ。保護者会長」


 知りもしない誰かによって、僕の保護者会長という役目はなくなった。


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