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その後も、私が高校に入るまではずっと奇妙な交友とでも呼ぼうか、これが続いた。小六になるまでは、月一回、何か学校の行事があるとき以外は、毎回休むことなく土曜の朝は狩り出される。
中学では、部活に入らなかった。父に、「金がかかるからやめろ」と言われ、僕はそれを承諾した。特にやりたいこともなかった。小学校の同級生は皆同じ中学で、傑は陸上部、祐也はサッカー部、恵美は吹奏楽部に入った。入学式を過ぎ、いくらかクラスに馴染んできた後でも、彼らに誘われることがあった。
「長距離走って退屈なんだよ。歪、一緒に走ろうぜ」
「歪がサッカー部入ったらもっとモテると思うんだけどなー」
「この間、クラリネットの子が辞めちゃってさー。歪くん、音楽の授業のときなんでも器用にやるじゃん? それに吹部入ったら女の子いっぱいだよ?」
「お、そりゃいいな。俺もサッカー辞めて吹奏楽行こうかな」
「お前は病的に楽器下手糞だろ」
僕はいつも誘いを断っていた。なぜか。父に叱られるからだ。
もういつから始まったか覚えていない。多分、小六くらい。父さんはいつの間にか父になっていた。父が朝食を作ることはなくなった。夕飯のときに一緒にいないと怒られる。父より先に風呂に入ってはいけない。寝てもいけない。父が寝静まった後、僕はひっそりと居間に布団を敷いて、音を立てぬようにと寝るのだ。
朝起きるのもだ。僕が父より先に起きなくてはならない。父の弁当を作らなければならないからだ。少しでも起きるのが遅れると、問答無用でひっぱたかれる。いつかの母さんみたいに引っ張り起こされる。
要するに、部活などやっている暇も気力もないのだ。父が朝八時頃に出勤した後、僕は朝食、洗濯、食器洗い、風呂掃除を一気に済ませる。言わずもがな、朝食時は何があっても居間から席を立ってはならない。父が食事をし終えるまで僕はただずっと座っていなければならない。それも不満そうな顔や、ボーっとしていると、彼の逆鱗に触れる。「俺に早く食べろっつってんのか」勿論言っていない。「お前、働いてないくせに飯食わせてもらってんの当たり前だと思ってんのか?」思ってないけど……。「当然のようにのうのうと生きてんじゃねーよ」
心臓が締め付けられ、目頭が熱を帯びた。苛立ちから怒りを超え、喉から今にも夕食と一緒に吐き出そうな嘆きを押さえ、ちくっ、ちくっ、と小さな痛みが走る。動悸。抑える。父の言ったことは正しい。正論を矛にされたら、僕は何を盾にすればいい? 怒り。違う。どうして正論に対して僕が怒りを覚える? 嘆き。吐き出したところで相手の気分を害すだけ。
そうして虚しさだけが残る。天井を見る。白い。うん、今日も白いな。ちょっと口角を上げてみたりなんかしちゃって。
僕は、感情をコントロールする術を覚えた。
父が箸を運ぶ中、僕が朝食を食べても怒られる。だから、父が出勤した後にすべてを片付けなければならない。僕の学校が終わるのは十六時。家から学校までは自転車で四十分弱。父が帰ってくるのはだいたい十七時前から十七時にかけて。それ以降に帰ってくることもあるが、それ以前は一度もない。だから、朝のうちに全て片付けてしまいたいのだ。
僕の学校には朝読書という時間があって、それが八時四十分から始まる。そして、始業が九時。読書はどうでもいいとして、始業までに間に合わせるには家を八時二十分に出る必要がある。僕はその二十分を地獄の二十分だと思っている。
父を見送った後、僕は洗濯機をかける。そしてかけている間に高速で朝食を済ませる。五分。自分の食器を台所に持って行き、洗い物をして、拭いて食器棚に戻す。五分。その後風呂掃除。高速で洗って流して二分。そして、洗濯物を洗濯機から取り出して干す。五分。最後に歯ブラシを口に咥えながら制服に着替えて、トイレに行って、洗面所に行って口を流す。ここまでで三分。これが理想だった。
当然間に合うはずもない。朝食を抜こうとしたこともあったが、父さんの教えで、流しに捨てるなんてことは忍びなかった。絶対に後になって罪悪感が沁みる。
作らないという手もあったが、父一人だけの食事を作るのも難しい。なにより、身体が持たない。前に一度朝食を抜いたことがあったが、腹が減りすぎてめまいがした。
したがって、僕は始業に遅れる。部活なんて以ての外。遅刻当たり前常習犯だった。
誰もいない駐輪場に自転車を止めて、校舎内に入る。床が鳴る廊下を進みながら、自分の教室のドアに手をかけて引く。
「はい出ましたー! 遅刻の神、歪くんとーじょー!」
奥の窓際、後部の席を立った男子生徒。それ以外の人は皆、教室の後ろのドアに注目する。すなわち僕の姿を見ている。
いつもこうなのだ。ましてや僕の席は教卓の真ん前。なんて不運。
だがもう慣れた。
「いい加減ちゃんと始業守れよ」
何度教師からもらった言葉か。罪悪感はまだ残っているが、それを上回る、しょうがないという想いがいつも僕を苛む。寧ろもっと遅れて来てもいいんだぞ? というか、ちゃんと登校しているだけ大分ましな気がしてきた。
「すいません。昨日の夜、雑誌読んでたら寝坊しちゃいまして」
「でましたー! 歪くんエロ本読んでて寝坊しましたー!」
池津は椅子に右足を乗せて声高々にそう言った。その声に反応して、女子生徒がささやき始める。
うん。今日もいつも通りだ。なんて変わったことのない日常。もう一周回って誇らしいわ。
「もうそのネタ飽きた~。池津もっと面白いことやれよ」
クラスの女子の誰かがそんなことを言った。
「確かにー。正直おもしろいのって小笠原じゃん。池津ってそれに乗っかってるだけみたい」
「そ、そんなことないわ! 俺だって一発芸の一つや二つ……」
そんなクラスの会話を、僕は背中で聞く。大きな音を出す二人の声に耳を澄ませ、その周りの人間の小さな声も、少しは聞いていたりする。どんな状態か想像するのだ。声の聞こえる方向に座っている人は、今どういう状態で隣の席の人と話しているだろうか。背中に目ん玉でもつける練習でもするかのように、想像を膨らませる。最近のマイブームだった。
自分の話題が池津に移ったようで、心の中で溜息が出た。
「はいはい。池津の一発芸は面白くないから、見たい奴だけに休み時間にでもやってやれ。それより授業だ授業」
「なんすかそれー。俺の一発芸侮辱してんすかー?」
社会科の教師は池津の言葉を聞かず、僕らに背を向けた。多分なんとなくだが、先生は察してくれているのだろう。
黒板の四分の一は白い文字で埋まっていた。またそこに淡々と音を響かせながら線を増やしていく。下に行くにつれて、教師は膝を曲げ、腰を落とし、尻の細かい動きが強調されていく。
僕は背中で、池津の「ちぇえ」を聞き取った。厭味ったらしさ満載だなあ、おい。他の生徒は、すでにノートにペンを擦らせる音を響かせていた。
「ねえねえ」
右隣を見ると、菜月がこちらを向いていた。僕は、すぐに鞄から日本史の教科書とノートを探す作業を再開した。
「なに」
「ほんとにエロ本見てるの?」
「ああ」
「嘘でしょ?」
「ああ嘘」
「じゃあほんとに見てるんだ」
「どうだろう」
「もう、どっちなのよ」
カチカチっとシャーペンの音を響かせて、僕が左を見たときには、すでに菜月はノートに向かっていた。その横顔に少し見とれていた。学校で話す女子と言えば、彼女くらいだった。
隣の席の人とは仲良くなる傾向があるというのは本当のようだった。入学した当初、最初に話した池津がそう言っていた。
「隣の席の奴とは絶対に仲良くなれっから」
自慢げに言った池津の声は今でも覚えている。
当の池津は、隣の人どころかクラス全員の注目の的だった。学級委員も周りに促されて喜んで引き受けていた。多分、池津はそのことが何を意味するかに気づいていないのだろう。
ちょっと首を右後ろに捻ると、池津の姿があった。シャーペン片手に黒板と机上を交互に見ている。
僕の視線に気がついたのか、片目を素早く瞑った。僕は真顔で黒板に視線を戻した。
また鞄を漁ろうとする。これは癖だった。ノートは鞄の中に常備されている。いつも漁った後で、教科書が廊下にあるロッカーの中だということに気づかされる。
「どうせ教科書忘れたんでしょ」
独り言のように菜月は呟き、無言で僕の机の半分に、彼女の教科書が乗った。まあ、忘れてはないんだけど。
「ごめん」
「なにを今更。いつもでしょ」
元々隣の席の人と机がくっついている。僕と菜月の机の隙間がないせいで、自然と距離が近くなっている。教科書の橋渡しもスムーズだった。机と机の窪みに、教科書の背表紙が嵌まる。
教科書には彼女の字が書いてあった。余白に噴き出し。橙や青のマーカーで教科書の字面は彩られていた。そこで実感する。僕の教科書ではない、と。教科書を廊下に取りにいかないのは、自分の教科書よりも見ごたえがあるのも一つだ。
授業が終わると、無言で僕の視界から教科書がはけていった。何か言おうか、そう思ったが、教科書がいなくなってからだんだん時間が過ぎていき、今言えばまだ間に合う、とは思えず、頭で作った言葉は声にならないままだった。
次の授業の教科書を取りに行こうと席を立とうとすると、「ねえ」と菜月の声が聞こえた。振り返ると、「なんか言うことないの?」と彼女はやさーしく言った。
「ごめん。また借りちゃって」
「歪ってさ、ごめんしか言わないよね」
「そうかね」
「ありがとうって言ってるところ聞いたことない」
「ああ、ごめんごめん。教科書貸してくれてありがとうございました」
深、々、とお辞儀をした。
「いや、別にそういう言葉が欲しいんじゃないけどさ……なんか本当に大丈夫?」
「何が?」
「なんて言うか、いつも遅れてくるし、入学式とか参観日一人だったし」
「ああ、大丈夫大丈夫。親はちゃんといるから」
「なんか軽いんだよね。まあ別に教科書貸すぐらいならいつでもしてあげるけど」
「かたじけない」手を合わせる。
菜月はそう言残すと、廊下へと出て行った。